第1話 断罪、代行されました
夕暮れの鐘が七つ鳴る頃、王立リュミナス学園の大広間はシャンデリアの光と花の香りに満ちていた。
卒業パーティー。
六年間の学園生活の締めくくりに相応しい、華やかな夜の幕開け。
——のはずだった。
「ノエル・ブランシェ」
壇上から降りてきた声に、大広間が静まる。
第一王子オーギュスト殿下。金の髪に翠の瞳。絵に描いたような王子様が、私の名前を呼んでいる。
呼ばれることはわかっていた。
六年前——十二歳の入学初日に、全部思い出したのだから。
この世界が「ゲーム」であること。私が「悪役令嬢」であること。そして今夜、この場所で、あの人が私を断罪すること。
だから準備してきた。六年間、ずっと。
「壇上に上がりなさい」
殿下の声には、正義の響きがある。本人もそう信じている声だ。
周囲の視線が私に集まる。憐れみ、好奇心、少しの愉悦。この学園で六年間、私はどの派閥にも属さず、ひたすら目立たないように過ごしてきた。そんな「地味な令嬢」が壇上に呼ばれる理由を、彼らはまだ知らない。
スカートの裾を軽く持ち上げて、壇上への階段を上がる。
背筋は伸ばしたまま。足取りは乱さない。——前世の接客業で鍛えた「笑顔の鎧」が、今夜ほど役に立つ日はない。
壇上に立つと、殿下の隣に一人の少女がいた。
聖女リュミエール様。
銀の髪、薄紫の瞳。この世界で最も美しく、最も慈悲深いとされる女性。その瞳が、今はうっすらと涙で潤んでいる。
完璧な演技だ、と思った。
ゲームの記憶が正しければ、この涙は「被害者」のポーズ。聖女様が私に嫌がらせをされたという「証拠」が並べられ、殿下が正義の断罪を下す。——台本通りの展開。
ただし、私は一度も嫌がらせなどしていない。
「ブランシェ嬢。お前は聖女リュミエールに対し、度重なる嫌がらせを——」
殿下が告発の文面を読み上げ始める。
私は静かに聞いていた。どうせ覚えのない罪だ。心を乱す必要はない。断罪されたら速やかに退場し、明日の朝には自立宣言書を提出する。その後の予定は全部決まっている。
——はずだった。
「待たれよ」
低い声が、大広間の空気を断ち切った。
振り向いたのは私だけではない。殿下も、聖女様も、会場の全員が声の主を探した。
大広間の右翼側、壁際に立っていた黒い軍服の男が一歩前に出る。
長身。黒髪。鉄のように硬い表情。
——あ、と思った。
ゲームの記憶の片隅に、その顔があった。
攻略対象の一人。確か「寡黙な騎士」。名前は……カシウス、だったか。ゲームでは台詞が少なくて印象が薄い人だった。
その人が今、軍靴の音を響かせながら壇上に向かって歩いてくる。
「近衛騎士団長、カシウス・ヴァランティーヌ」
名乗りは短く、声は低い。壇上の殿下に向けて、革装丁の書類束を差し出した。
「殿下。その告発には複数の事実誤認があります」
大広間がざわめく。
「第一に、聖女様への嫌がらせがあったとされる日時のうち三件について、ブランシェ嬢には明確な不在証明がございます。該当日、彼女は学園の会計室で決算業務に従事しており、担当教官の署名入り出席簿がこちらに」
書類が一枚、殿下の前に置かれる。
「第二に、告発の根拠となった目撃証言の四件すべてが、聖女様の侍女または取り巻きの令嬢によるものです。独立した第三者の証言が一件も含まれておりません」
もう一枚。
「第三に——」
騎士団長は淡々と続けた。声に感情はない。私を助けようとしているようにも見えなかった。
実際、彼は一度も私の方を見なかった。
視線はまっすぐ殿下と聖女様にだけ向けられている。まるで私の存在は、この証明作業における変数の一つに過ぎないかのように。
三つ目の矛盾が示された時、殿下の顔から血の気が引くのが見えた。
翠の瞳が揺れている。「正義の断罪」が、足元から崩れていく音がする。
聖女様は——さすがだと思う——涙を拭いて、静かに微笑んだ。
「まあ、騎士団長様。証拠の整理に不備がありましたのね。それは申し訳ございません」
謝罪の形を取りながら、「告発は撤回しない」という意思表示。不備を認めることで、自分の立場へのダメージを最小限に抑えている。
大広間は混乱していた。殿下は口を開きかけては閉じ、聖女様の袖を掴もうとして思い直し、そしてもう一度、私を見た。
——あの目だ。
「間違えた」と気づいた人間の、しかし「間違えた」とは絶対に言いたくない人間の目。
私はその視線を受けて、ようやく自分の状況を理解した。
断罪されなかった。
冤罪が、晴れた。
六年間準備してきた「断罪後の人生」の、前提そのものがなくなった。
不思議な話だけれど、安堵はなかった。
どちらかといえば——
「……困りましたわ」
口をついて出た言葉は、それだった。
我ながらおかしな台詞だと思う。冤罪を晴らしてもらって、最初の一言が「困った」。
でも本音だった。断罪されることを前提に、全部組み立ててきたのだ。資金も、物件も、レシピも、独立の手続きも。
壇上の空気が固まったのがわかった。
殿下も、聖女様も、会場の令嬢たちも、きっと私が泣くか、怒るか、跪いて感謝するか——そのどれかを期待していた。
けれど私の口から出たのは「困りましたわ」。
そして、あの騎士団長が——初めて、私を見た。
正確に言えば、それまでずっと私の方を向いていなかった紺碧の目が、ほんの一瞬だけこちらに動いた。
書類を片付ける手が、半拍だけ止まる。
視線が合った時間は、まばたき一つ分にも満たなかったと思う。
何を考えているのか、鉄の表情からは読み取れない。次の瞬間にはもう彼は書類を束ね直し、殿下に一礼して壇上を下りていた。
取り残されたのは、殿下と聖女様と、私。
殿下が何か言おうとしていた。けれど言葉が形にならないまま、会場の楽団がぎこちない合図で演奏を再開する。パーティーは、体裁だけを取り繕って続くらしい。
私は誰にも声をかけられないまま、壇上を降りた。
大広間の扉を押して、回廊に出る。窓の外はすっかり夜で、冷たい風が頬を撫でた。
足が勝手に早くなる。ヒールの音が石畳に響く。
——断罪されなかった。
それでも。
私が六年間積み上げてきたものは、無駄にはならない。断罪が起きようが起きまいが、あの場所で生きていく準備は整っているのだから。
自立宣言の書類は、寮の机の二重底に入っている。
路地裏のあの空き物件の鍵は、教科書の間に挟んだまま。
カヴァ豆の焙煎ノートは、六年分の試行錯誤でもうぼろぼろだ。
——断罪されてもされなくても、私の答えは同じだった。
回廊の窓から月が見えた。冬の月は冷たくて、清潔で、余計なものがない。
「よかった」とは、まだ思えない。
「困った」は、もう過ぎた。
残ったのは、ただ一つの確信。
私はもう、誰かの台本の上には立たない。
足を止める。呼吸を整える。冷えた指先を、スカートのポケットの中で握りしめる。
明日の朝、いちばんに市民管理局へ行こう。
——そこから先は、私の物語だ。




