第七十七話《『 』》
潮の匂いが強くなって、海は目を覚ました。
何か、夢を見ていた気がする。
必死に記憶を辿ろうとするのに、どうやっても思い出せない。
そのもどかしさと不安は、大人になった今も変わらない。
何か大事なことを、忘れてしまってはいないか、と──。
「あ、海ちゃん起きた」
勇為に顔を覗き込まれ、海はまだ虚な瞼をごしごしと擦った。
目に映るのは、青く広がる海原と、船に揺られるメンバー達。
奇妙な出来事があったあの夏から、ちょうど一年が経った8月13日。
六人は再び、あの無人島を訪れていた。
一日休みを貰えるよう、前々からスケジュールを調整してもらっていたのだ。
島に着いてからは、それぞれ別行動をした。
各々懐かしさに想いを馳せるように、島を隅々まで歩き回ったり、波の音に耳を傾けたりと、思い思いの一日を過ごしていた。
海は最初に、神社の式守の元を訪れた。
彼女に祝詞を上げてもらい、仏様に手を合わせる。
海がこの島を訪れるのは、皆のように三度目ではなかった。
この神社で水子供養を依頼してからは、定期的に神社を訪れ、その度にこうして手を合わせていたのだ。
その後訪れたのは、やはり海岸だった。
穏やかな波が砂浜に打ち寄せて、そしてまた、海へと還っていく。
静寂とは程遠い場所なのに、何故か沈黙が心地良いと感じた。
海原をいくら眺めても、もうあの鳥居が姿を現すことはなかった。
何処かにいるかもしれない、うみなの影を見ることも。
そのことに寂しさを覚えながらも、彼女と会話をするように、わざと口に出してみる。
「綺麗だね」
返って来るのは、打ち寄せる波音だけ。
それでも、海は満足だった。
自分と会話をしている気分になって、心が高揚する。
忙しい日々の中で、こんな無為で優雅な時間を過ごすことは貴重だ。
そして砂浜から少し離れた岡に辿り着くと、あるものが姿を現した。
それは、黄色いポストだった。
島の人に許可を取り、少し前に海が設置したものだ。
青く澄む海を背にして、鮮やかな黄色がよく映える。
思い描いていた通りの美しさだ。
ポストの正面に立ち、海はポケットから、手紙を二通取り出した。
「これが例の?」
背後から突然声をかけられ、不意打ちに肩が跳ねる。
そこに居たのは、陽七星だった。
「びっくりしたー。脅かさないでよ」
「なんだよ。外した方がいいか?」
「……別にいいけど……」
まるで海以外の誰かがそこにいるかのような物言いに、海はたじろぎながら答えた。
一人で感傷に浸ろうと思っていたのだが、誰かに聞いてもらうのも悪くないかもしれない。
「手紙をね、書いてきたの。ひとつはうみなに。もうひとつは……」
口にしなくても、陽七星には分かった。
生まれて来られなかった、海の亡き子供に宛てたものだ、と──。
「……手紙を書いたのはいいんだけどね……宛名が書けなかったの。伝えたい言葉は確かにあるのに、それがなかったら、なんだか上手く届かない気がして……。宛名や宛先がない手紙を出すと、どうなるか知ってる?」
「……自分の元に返って来る?」
突然の質問に、陽七星は首を傾げながら答えた。
文句ひとつ言わず素直な陽七星の様子に、海は気を遣わせているようで、少し居心地が悪くなった。
「そう。まぁ、それもまたいいのかなって思ったんだけどね。でも、やっぱり、どうしても届けたくて。だから、本当に今更だけど、名前を付けることにしたの。その子の名前。ちゃんとあの子と向き合う為に、もう絶対に忘れたりしないように、その覚悟を形にしたくて。……おかしいかなぁ? 居ない人間に名前を付けるなんて……。ましてや、あたしのせいで死んじゃった子に……」
海の痛みを、陽七星が理解することは難しいだろう。
いくら同じ傷を持つ同志だとは言え、男の陽七星に母親の堕胎の苦しみを分かってやることは、想像してみたところでしっくり来るものを見つけられないかもしれない。
それでも、陽七星は必死に想像した。
自分のせいで失ってしまったものを、再び忘れないようにと誓う、覚悟の想いを。
「……別におかしかねぇよ。戒名なんてのがあるくらいだ。で、なんだ?」
「え?」
「名前。教えろよ」
陽七星に問われて、海は迷うように俯く。
そして少しの沈黙の後、顔を上げ、笑って呟いた。
「しゆう。志を結ぶと書いて、志結」
その名を、初めて口にしてみた。
心の中で唱えることはあっても、文字にして書いてみることはあっても、こうして名前を呼ぶのは初めてだった。
「へぇ……いいんじゃねえか。なぁ、いい名前もらえてよかったな、志結」
幼な子に話しかけるように、陽七星は海の手の中の手紙に向けて、名前を呼んだ。
その名前を呼んでもらった瞬間、海は胸がいっぱいになって、自然と涙が溢れ出した。
止まらなくなって、手紙をぎゅっと抱き締める。
子供を抱くように、優しく、愛おしく──。
生きることを赦されなかった子供が、二度と姿を見ることができないその子供が、誰かに認識してもらえた気がして、確かに存在していたんだと思えて、嬉しくて堪らなかった。
──そう、そんなふうに、名前を呼んであげたかったんだ、と──。
「おいおい、泣くんじゃねぇよ。そんなんじゃ笑われるぞ」
陽七星はそう言って、海の背中をポンポンと優しく叩いた。
彼が優しくする為に人に触れるのは、これが初めてだった。
この掌は、この力は、誰かを傷付ける為のものじゃない。
これからは、護る為に使っていこう。
それがきっと、本当の強さだ──。
そんなことを、陽七星は考えていた。
背中を叩かれて、海は涙を拭った。
「笑われるぞ」なんて言っても、彼は決して、海を嗤いはしないだろう。
そう思えるくらいには、信頼という言葉に近い何かが生まれていた。
海はもう一度、手紙を見つめた。
【うみなへ】と書かれた手紙と、【志結へ】と書かれた二通の手紙。
うみなには、遅くなったけど、十年前のあの手紙の返事を。
そして志結には、初めましての挨拶の手紙を。
いつか、返事が貰えたら、なんてことを思ってみる。
叶わないと知っているからこそ、その想いを、大事に大事に抱えて生きていく。
──でももし、志結が生きてたら、どんな文章を綴るのだろう。
いつか読みたいと、そう思う。
手紙のような、一冊の本のような、彼女の目から見える、世界のことを知りたい、と──。
そんなことを思い描いて、天を仰いだ。
二通の手紙を重ねて、そっと願いをかける。
そして、届きますように、と心の中で唱えながら、ゆっくり投函した。
送り火を焚くように、遠くなる子供の背中を、そっと見守るように──。
「……届くかな?」
「……もう届いたさ」
陽七星の過去形の言葉に、海は安堵を浮かべた。
──本当にそうなのかもしれない。
過去の自分と話すことはできなくても、手紙を書くことはできる。
手紙を書くことはつまり、自分と対話をすることだ。
自分自身と向き合って、自分の心の声を聞いて、その想いを形にしようと文字にしたためる。
その時点で、既に想いは届いているのかもしれない。
だってうみなは、海自身なのだから──。
──彼女は、勝者でいなければならない。
未来に誓った想いを忘れない為に、この賭けに勝たなくてはならない。
忘れないと誓った自分に、敗北することのないよう勝利しなければならない。
最低な自分も引き連れて、痛みも苦しみも決して手離すことなく、この体に炎を宿し続けていく。
それが叶えば、もう一度、自分のことを愛せるような気がする。
もう一度、自分を誇りに思えるように、諦めないと誓おう。
この手に再び奇跡が宿るまで、挑み続けていこう──。
海は自分の掌を見つめ、その皺を数えるように、これまでのことを想った。
一見傷のように見えるそれらは、海が刻んできた、歴史の数々だ。
勲章のように、年輪のように、これからの人生を彩る宝となってくれることだろう。
──子供の頃、思ったことがある。
容赦なく降り注ぐ不幸の連続に、できることなら誰か代わって欲しい、と──。
焦がれれば焦がれるほどに、隣の芝生は青く、自らの掌に残るものは、ちっぽけに見える。
でも今は、どんなに大金を積まれたって願い下げだ。
彼女は彼女の人生を、愛している。
幸福も不幸も、その青さも含め、全てが彼女だけの大切な物語だ。
それが快楽でも悲痛でも、誰にも譲ってなんかやらない。
この全てを、手離してなんかやらない。
痛み、情熱、幸福、死の恐怖、生の喜び。
または死の安堵、生の苦痛。
その全てが、彼女が彼女で在り続けたからこそ、獲得できたものだ。
喪失も、獲得も、彼女の物語を彩る大切なピースだ。
この体に宿ったものと、失ったものでさえ、何一つ取り零さない為に、忘れないように心に刻んでいく──。
怖いのは、傷付くことじゃない。
傷も自分自身なんだと、いつか誰かに伝えた気がする。
傷だらけのこの体を、全身全霊で愛してみせる。
そうしたら、いつか──。
もう一度、誇れる自分になれたのなら──。
(いつかまた、逢いに行くからね!)
その為には、まず、知ることからだ。
自分を知ること、相手を知ること、絶望の正体を知ること、希望の仕組みを知ること。
人々は、それに名前を付け、顔を見て知ろうとすることで、上手く付き合っていける。
考え続けることで、感じ続けることで、見つめ続けることで、それを識る──。
そして──
隣には、風が吹き抜ける中、遠い地平線を見つめる陽七星の姿。
その頼もしさに、勇気が湧き上がって来る。
今の彼女は、一人ではない。
共に傷だらけになってくれる、仲間がいる。
傷だらけのままで、それでも想いを叫ばずにはいられない、孤独な人間の集まり。
各々の誇りを護る為、同じ御旗を掲げた、そんな大切な仲間ができたのだ。
生まれた時はただの石ころでも、傷を付ければ付けるほど輝く、ダイヤモンドのように。
その傷を勲章として掲げ、魂の限り、謳い続けていこう──。
──これは彼らの、魂の再生を誓う物語。
決して消えてしまわぬように、自分自身に挑戦状を叩きつけるように、生き続けることを選んだ、ハッピーエンドの向こう側の物語だ──。
「おーい! 二人とも遅いよ!」
あの青い鳥居の前で、四人は彼らを待っていた。
それぞれが、それぞれ選りすぐりの孤独を持ち寄って。
「そんなに遅れてもねぇだろうが。……あー、それにしてもあちーなぁ。なんかつめてぇもんでも飲もうぜ。冷えたラムネとか売ってねぇの?」
「何よ、急に子供みたいなこと言って」
「夏と言えば、キンキンに冷えたラムネだろ」
「あ、そう言えば今日、僕の地元で縁日があるらしいよ。屋台も出るから、そこだったら飲めるんじゃない?」
「まじか。よし、じゃあさっさと戻って行こうぜ。こいつの地元集合な」
「放課後俺んち集合な、みたいなノリで言うね?」
「いいじゃない、遅れた青春を取り戻せば。夏休みもあとちょっとで終わっちゃうんだし」
「じゃあ、夏の思い出に秘密基地でも作っちゃう? 伶くん、アドバイスちょうだい!」
「えー、どうすっかなぁ。宿題写させてくれるっつーなら、考えてやってもいいぜ」
「あははっ。夏休みの宿題、最終日まで手付けないタイプだ。めちゃくちゃ伶っぽい」
「やったんだけど家に忘れましたって言って、登校初日から先生に怒られるやつ」
「おまえらなぁ……。好き勝手言いやがって」
──もし子供の頃の彼らが出会っていたら、こんなふうに、肩を寄せ合い歩く夏があったかもしれない。
かけがえない、青春の一ページのように──。
「とにかく縁日だ。あの瓶でラムネを飲まなきゃ、夏は終われねぇ」
「夏祭りと言ったら、やっぱかき氷でしょ。あたしはブルーハワイ一択!」
「僕はわたあめがいいな! 一番派手で、一番カラフルなやつにする!」
「美生はりんご飴食べたい。あれをおっきい口開けて食べるのが憧れだったの」
「俺はたこ焼きだな。家庭料理では出せねぇ、あの屋台特有の味がいいよな」
「私はお面が欲しい。キャラクターのやつ、頭に被って歩きたい」
「めちゃくちゃ目立つな?」
「そう? 逆に変装になっていいんじゃない?」
子供のようにはしゃぎながら、彼らは肩を並べて歩いて行く。
ふと声が聞こえた気がして、海は一人振り返った。
静かに笑って、小さく手を振る。
その向こうで、白い影が六つ、小さな体で大きく腕を振った。
「またね」と、そう伝えるように──。
まだ残暑が厳しい、9月1日。
撮影が終わり、次のダンスレッスンまで、六人は事務所の談話室で待機していた。
そんな彼らの元に、勢い良く扉を開けた頼人が、ハイテンションで声を上げる。
「みんなお疲れー! 夏バテしてない!? 今年の夏は特に暑いからねぇ!」
──確かあの夏も、今日みたいに暑かった。
何故か、そう思った──。
「突然だけど、ブルバの新メンバーを紹介します!」
彼らの前に現れる、一人の少年。
白みがかった髪に、澄んだ青い瞳。
「ただいま」
その言葉に、抜け落ちていた記憶の欠片達が、一瞬にして蘇る。
頭が理解するよりも先に、涙が溢れ出した。
「葵瑞!!」
即座に駆け寄って、海は葵瑞を抱き締めた。
皆も葵瑞を囲んで、口々に名前を呼ぶ。
「……ごめんね……。忘れちゃって……ごめんね……!」
もう離さないと、ぎゅっと力を込める。
彼が安心して大人になる未来を選べるように、護っていくと約束したのだから──。
泣きじゃくる海を、葵瑞は抱き返した。
「忘れたっていいんだよ。また、思い出してくれるならさ」
──忘れてしまうのは、仕方の無いこと。
それは心を護る為の防衛本能であり、彼らが生き続ける為には、必要だったことだ。
しかし、例え記憶が消えても、心を失くしてしまっても、この体に宿ったものは消えない。
傷も、経験も、熱も、決意も、全てこの心臓に刻まれている。
そして彼らは終わりを拒み、生き続けることを選んだ。
彼らが命を繋いだからこそ、それは未来に希望を残した。
タイムカプセルのように、古い宝箱のように、時を超えていつか蓋を開けた時、ちゃんと、彼らの元に還ることができる。
正しく生きられなくても、夜は明ける。
勝利を手にできなくとも、夜は明ける。
生きてさえいれば、希望は繋げる──。
だから、忘れることを、恐れなくてもいいんだ。
大人になることは、全てを失うことではない。
だから、忘れてしまった自分自身のことも、いつか愛してあげられたらいいと願う。
よく頑張ったねと、ここまでよく生きてきたねと、もう大丈夫だよと、頭を撫でて、安心させてあげたい。
それは決して、間違いなんかじゃなかったのだから──。
──彼らは、知っている。
あの頃の自分を幸福にする方法を。
今の自分を幸福にする方法を。
自分を思い知ったから、識っている──。
だから、またいつでも思い出せる筈。
この心臓に刻まれた、青の時代の記憶を──。
最終話《『おかえり』》
END




