第七十五話《火を熾す》
ある晴れた日曜日、織は美希と璃空の三人で、遊園地を訪れていた。
「ねぇ! 次はあれ! あれ乗りたい!」
「こら、走ったら危ないよ」
はしゃぐ璃空が手を離して、人混みの中を一人駆け出す。
そして案の定、足がもつれて転んでしまった。
「あぁもう、言わんこっちゃない」
美希が駆け寄ると、璃空はうつ伏せになったまま、必死に痛みを堪えていた。
「大丈夫?」
「……っ……泣かないっ……。男の子だから……」
今にも泣き出しそうに肩を震わせながら、それでも璃空は、自分に言い聞かせるようにぐっと耐えている。
そんないたいけな姿を見て、織も屈んで、手を差し伸べた。
「立てる?」
「……うん」
その手を借りずに、璃空は自分の力で立ち上がった。
強い子だなと思う反面、一種の寂しさのようなものが込み上げてくる。
人に助けを求めるのが苦手だった昔の自分を思い出して、そんな子供にはなって欲しくない、と心底思った。
「偉いね。自分の力で立てて。でも、男の子だって、泣きたい時は泣いてもいいんだよ」
「……でも、強くならなきゃダメだって言われた……」
両手の小さな拳を握り締めながら、璃空は不満げに俯いていた。
「誰に言われたの?」
「よしくんのママ……。パパがいない分、璃空くんが強くなって、ママを守ってあげなきゃいけないよって……」
その言葉に、複雑な感情を抱く。
璃空の友達の母親からしたら、母子家庭の一人息子としてあるべき姿の理想を、何気なく口にしただけかもしれない。
不幸だと勝手に決めつけて、手を差し伸べるという名目で、相手の意志もお構い無しに、自分の正義を押し付ける。
織が行っていた子供の連れ込み行為も、それとなんら変わりがなかったのだろう。
改めて自らに戒めを刻み、織は璃空の肩に優しく手を置いた。
「そっか、ママを守りたかったんだ。璃空はかっこいいね。でも、誰かに言われたからって、無理にそうしなきゃいけないわけじゃないんだよ。璃空がどうしたいかは、璃空が決めていいの」
まるで自分に言い聞かせるように、織は璃空の瞳に映る自分を見ていた。
例え善意から来る言葉だとしても、それを言われた子供からしたら、呪いのような強迫観念になってもおかしくない。
自ら生まれた意志ならともかく、誰かに生き方を強要される苦しみは、誰よりも知っている。
「これから先も、周りの人や、ママや私も、璃空にいろんなことを言うかもしれない。その中には、本当に璃空を大切に思ってる人も、ちゃんといる。でも、決めるのは璃空だよ。もしそれが誰かと違っていても、それは決して、その人達の気持ちを否定することじゃない。愛を受け取らないわけじゃない。だから璃空は、璃空がどうしたいかっていう心の声を、大事にして聞いてあげてね」
親や大人の身勝手な要求も、決して愛が全く無いというわけではないのだろう。
子供が傷付くことがないよう、正しい道を提示してやることも、愛情として間違っているわけではない筈だ。
しかしそれが本人の意志と違った時、真っ先に本人の意志を尊重できる人間で在りたいと思う。
もしそれで傷付くことがあったら、隣で一緒に傷付こう。
そしてどう向き合い乗り越えていくのかを、共に飽きるまで考えよう。
──きっと自分も、そうして欲しかったんだ思う。
両親に泣きついたあの夜、一緒に傷付いて欲しかったんだ、と──。
あの日欲しかった言葉を、今の自分が用意できたことに、織は報われる思いで心から安堵した。
「……分かった。痛いから、抱っこして」
「いい子」
自分の感情を正直に口にできた璃空の頭を撫でて、そのまま抱き抱える。
伝えたいことを言葉にできたことが、ちゃんと璃空に届いたんだと感じられたことが、心の底から嬉しかった。
彼女が熾した火は、ちゃんと、この子の中に灯っている。
幻想の世界に逃げ込まなくても、それを誰かに押し付けるようなこともしなくていい。
誰をも拒まない焚き火のように、それを必要とする者の心を、そっと静かに温める。
璃空は肩に顔を埋めて、そのまま織の髪に触れた。
「今の髪型、似合っててかっこいい!」
「そう? ありがと」
数日前、織は髪を切った。
元々ショート丈ではあったが、そこから更にバッサリと切り短髪にしたのだ。
「あいりちゃんみたいなかっこいい人がパパだったらいいのにー」
「ねー! こんなイケメンパパ、どこ探してもいないよね!」
「ねー!」
何気ない璃空と美希の言葉に、つい得意気になって心が躍る。
今の自分は、結構、いや、かなり好きだ──。
「やっぱり自分で歩く! 三人で手繋ご!」
「もー。抱っこしてって言ったばっかなのにこの子はぁ」
「いいじゃん、三人で歩こ。はい、手繋いで」
躊躇いなく自分の意見を言う璃空に、あぁ、よかったと安堵が零れる。
子供が遠慮なく我儘を言えるのは、自分が愛されているという絶対的な自信がある証拠だ。
いつまでも甘えてもらえるような、そんな大人でありたいと思う。
繋いだ掌から、熱が伝わる。
子供らしい、愛に溢れた温もりだ。
──この二人が好きだ。
この家族が大好きだ。
傍から見たら歪そうに映るかもしれないが、この感情は、嘘じゃない。
(大丈夫。ちゃんと、愛せてる)
──彼らだけじゃない。
この世界に溢れる、数々の物語や音楽。
その全てを、彼女は愛している。
たった一文で救われて、たった一音で、心臓の在処を思い出す。
そこまで深く作品と関われる自分の感性が、感受性が、今はとても誇らしい。
当然、その高い感受性故に、苦しめられることもある。
些細な一言で傷付いたり、勝手な妄想や葛藤のせいで、息ができなくなるほど落ちたりもする。
しかしそれを無理矢理断絶した結果が、昔の自分だ。
苦しみに耐えられないあまり、容易にラクになろうと麻痺させた結果、それらの作品を好きだと思える感情さえ手離してしまった。
──今になってみて、思う。
こんなものを、手離そうとしていたのか。
こんなに素晴らしいものを、人生の何にも変え難いものを、消そうとしまっていただなんて、なんて勿体無い、と──。
ほんの些細なことで地獄を見て、ほんの些細なことで、天にも昇った気持ちになる。
人生の息苦しさは変わらなくとも、作品に出会う度に、少しだけ、息がしやすくなる。
そんな毎日の振れ幅に疲れもするけれど、その疲労感さえ、今は生きている証に思える。
心臓が、ちゃんと動いている証拠だと思える。
この感情を、心を、失くしてしまわないよう、大切にしていこう。
そんなふうに考えていた。
「今度さ、幼稚園で発表会があるの! ママとあいりちゃんで、一緒に見に来てよ!」
「えー、でもあいり、仕事で忙しいよ? それにほら、そーゆーのって、パパとママの夫婦で来てるところがほとんどなんじゃない?」
「関係ないよ! パパとママじゃなくてもいいじゃん! 僕は、ママとあいりちゃんに見て欲しいの!」
璃空の言葉に、積年の葛藤が、少しだけ軽くなる。
男にも女にもなれない自分は、気持ち悪い存在だと思っていた。
だけど、どちらか決めなくたっていい。
答えが出ないのなら、答えが出ないのだと、そう口にしても良かったのだ、と──。
いっそ、【藤堂織】というジャンルを作ったっていい。
いつか、『ブルバのSHIKIみたいになりたい』と思ってくれる人が、一人でも居てくれたなら。
夜道を照らす灯のように、誰かの道標になれたのなら──。
もし居なかったとしても、あの夜、橋の上に立ったあいりを救う希望にはなれる筈だ。
大丈夫、ここに居るよと、安心して大人になっていいんだよと、そう伝えることができたのなら──。
あなたの未来は、例え遠回りをしても、ちゃんと、ここに続いているよと、そう伝えたい。
「午前中だったら、わりとスケジュール空いてるとこもあるかも。都合付けられたら、発表会見に行きたいな」
「ホント!? やったー!」
「じゃあ、あいりとデート気分で行っちゃおっかな! 腕とか組んじゃってさ!」
「どうしよ、スーツとか着てった方がいいかなぁ?」
「ちょっと、そんなんしたらイケメン過ぎて先生達メロメロになっちゃうよ! 発表会どころじゃなくなっちゃう!」
「あはは! メロメロになっちゃう!」
自分の声に耳を傾け、自分の現在地を確認する。
私は、ちゃんと、ここにいる──。
──ずっと、何者かになりたかった。
その為に、この体で表現し続けて来た。
だけど、なれなくたっていい。
何者にもなれなくたって、我が物顔で生きてやる。
そう思えたら、何も怖くない。
三人の笑い声が響く空の下、織は幸せを噛み締め、小さな歩幅を合わせて歩き出した。
まだ見ぬ自分との出会いに、そっと胸を躍らせて──。




