第六十八話《夜明け》
葵瑞の話が終わり、全員が驚愕の表情を浮かべたていた。
言葉を失くして、必死に内容を整理することしかできない。
魂の葵瑞、HARU9の死の真相、何度も死を辿った、別の世界線──。
そして同じ時間を何度も繰り返し、その最後の砦として辿り着いたこの場所に、彼らは今立っていた。
「……長かったな、本当に。でも、ようやくここまで辿り着いた。今のおまえらなら、きっと大丈夫だ。そいつらのこと、絶対離すなよ」
葵瑞は彼らに背を向けて、鳥居に向かって歩き出す。
その背中を引き止めようと、海が必死に声を上げた。
「待ってよ! その鳥居を通ったら、あんたはどうなるの?」
「……さぁ? なんせ初めてだからな。だけど上手くいけば、無事成仏できるだろ」
まるで他人事のように、疲れ切った顔の葵瑞は、安堵に似たものを零した。
──無理もない。
ここに来るまで、何度も何度も絶望を目の当たりにしながら、それでも終わることのできない地獄を味わってきたのだから。
その葵瑞が、様々な結末を見送ってきた彼が、これが正しいと言うのなら、きっとそうなのかもしれない。
それでも──
海はこの結末を、仕方の無いことだと諦められなかった。
「なんで!? なんであんただけが、一人で消えなきゃいけないの!? あんたが終わらせるなって、あたし達に言ったんじゃない! あんたがいないと嫌よ!」
終わりを選んだ彼らを引き止めたくせに、自分は終わりを選ぶなんて、そんなの卑怯だ。
そんな子供染みた我儘を言う口振りで、それでも海は、必死に繋ぎ止めたかった。
ここまで希望を繋いでくれた彼を、諦めてしまいたくない。
「そうだ! 戻って来い! 俺達には、おまえが必要だ! 葵瑞!」
陽七星は初めて、葵瑞の名前を呼んだ。
メンバーの一人として、彼らに大切なことを気付かせ救ってくれた、一人の友人として。
初めて対等な存在として、彼を認める証として、その名を呼んだ。
「ちゃんと、優しくするから! もう意地悪なことなんて、絶対しないから! だからお願い!」
美生にとっては、少し違う。
喧嘩した弟に仲直りをせがむように、年上としての歩み寄りを見せようとする。
それが彼女の、信頼と責任の表れだった。
「このまま行かせるもんか! 何もできずに黙って見てるだけなんて、もう懲り懲り!」
大事な人の背中を見送ることしかできない苦しみは、勇為が一番分かっている。
あの日も、こんなふうに呼び続ければ良かった。
振り向くまで名前を呼んで、それでも止められないのなら、走って追いかければ良かったんだ──。
「他の方法を探すよ! 誰かの犠牲の上に成り立つハッピーエンドなんて、私達は望んでない!」
全てを背負って一人消えようとする葵瑞を、織は赦すことができなかった。
例えそれで救われることになったのだとしても、その先に待っているのは、無力感と罪悪感だけだ。
そして何より、大人として、目の前の子供を護らなければ、という使命感に駆られていた。
葵瑞を止めようと皆があらゆる言葉を尽くす中、伶は葵瑞の腕を掴んだ。
「下がってろ。初めてっつったろ? じゃあ、俺ら全員が通っても、どうなるか分かってねぇってこった。やってみる価値はあるだろ」
その提案は、自己犠牲の精神を持つ彼らしかった。
庇うように葵瑞の横に立って、その鳥居と向かい合う。
「面倒事はな、大人に任せとけばいいんだよ」
きっと彼も、大人にそう言って貰いたかったんだろう。
悲しみに暮れ、どうしていいのか分からないと一人で嘆いた時、こんなふうに、大人に助けて欲しかったのかもしれない。
そして伶は、わざと煽るようにして、右斜め下の葵瑞を上から見下ろした。
案の定カチンとした表情を見せた葵瑞が、同じように口端を上げて煽り返す。
「いいのか? 何が起きるか分からないぜ? おまえらが潜った先は、地獄に繋がってるかもよ?」
「上等だ。ここで何もできないこと以上の地獄が存在すんなら、是非お目にかかってみてぇもんだな」
不敵に笑う伶は、地獄に対してまで喧嘩を売っているようだった。
それを見た陽七星が、吹っ切ったように笑って、本来の自分を取り戻す。
「ははっ! そうだな! ここでおまえを行かせれば、俺達はまた失う。こんな時に子供を救えないようじゃ、おまえらが笑える世界なんてやって来ねぇだろ? 紛いなりにも大人やってんだ。おまえらにばっかいいカッコさせるかよ。ヒーローの座は、俺様に譲っとけ」
胸を張る陽七星の言葉には、彼自身が本来持つ自信が満ち溢れていた。
──あぁ、よかった。
今なら、もう一度、自分を好きになれそうだ──。
そんな想いで、葵瑞の腕を掴んだ。
「そういう話なら、僕を忘れてもらっちゃ困るなぁ。勇敢なナイトは、僕の専売特許だよ? 例えその先が地獄の底と繋がってても、僕らは怖くない。それよりもっと恐ろしいものを、痛いほど知ってるからね。それに、神様だって閻魔様だって、僕が口説き落としてあげる」
いつもの調子で和かな笑顔を浮かべる勇為も、負けじと彼らに並んで、葵瑞の腕を掴んだ。
──これが、彼の得意な戦い方だった。
真正面から殴りかかるのではなく、誘惑して、信頼させて、そして自分の意のままに動かす。
それは、葵瑞にも伶にも陽七星にもできないことだろうと、唯一無二の自分の強みに、自信を取り戻す。
彼らに遅れを取るわけにはいかないと、次は織が前に出て、葵瑞の腕を掴んだ。
彼女の魂は、彼女がこう在りたいと願う魂は、決して男子メンバーに美味しいところを譲ったりしない。
「葵瑞。これ以上、葵瑞一人に背負わせられない。葵瑞を護ることは、私達の誇りを護ること。私達が失った、死なせてしまった、子供の自分を護ることになる。全部葵瑞が、私達に教えてくれたことだよ。だから、任せて」
葵瑞の目を力強く見つめ、織は必死に訴えかけようとしていた。
どんなに言葉を尽くしても、伝えきれないことはある。
ましてや喋ることが苦手な彼女にとって、それは何よりも難しいことだろう。
だからこそ、こうして目を見て、肌に触れて、言葉では伝えきれない想いを補っていく。
「……美生だって! あんたは、美生達がなりたかった子供なの! 誇りを手放さないで、全身全霊で戦って、全身全霊で傷付いてる! それでも諦めないで、何度でも何度でも、自分と、世界と戦ってる! ……だけど、本当は大人に助けて欲しかったことも、知ってるから!」
葵瑞の腕を掴む美生の手は、震えていた。
──怖くない筈が無い。
この鳥居を潜った瞬間、そこに待っているのは死か地獄か、それよりももっと、恐ろしい何かかもしれないのだから。
それでも、ここで逃げるわけにはいかない。
怖くても、恐ろしくても、葵瑞を護る為に、己の誇りを護る為に、勇気を出してそこに立っていた。
そんな彼らの後に続くのを、一人躊躇っていたのは、海だ。
海は、迷っていた。
怖いからではない。
隣にいる、今にも消えてしまいそうな、うみなの手を握る。
──約束したのだ。
もう、一人にしない、と──。
「……馬鹿な奴ら。じゃあ、そいつらのことはもういいってのか? おまえらがここを潜って、そいつらをまた一人にさせて、路頭に迷わせて。さっきの誓いは、嘘だったのかよ」
呆れたような葵瑞の言葉に、彼らは消えかけている子供の彼らを見やった。
その手を離してしまったことに、今更後悔が込み上げてくる。
ここで自分が鳥居を潜ることになれば、彼らはどこにも行けずに一人ぼっちだ。
そんなことは、もうさせたくない。
それでも目の前で、一人全てを背負って消えようとする葵瑞のことを、このままみすみす行かせるわけにもいかない。
一体、どうすればいいのか。
葵瑞か、子供達か──。
答えの出ない問いに嘆き、それでも諦めきれない海は、力強く叫んでいた。
「どっちかなんて、選べるわけないじゃない! あんたは、子供のあたし達自身なのよ! あたし達と、この子達とも同じ! ここにいる全員の希望なの! ここであんたを行かせるあたし達なら、何も変わってない! それこそ約束を破ることになるわ! 誇りを、誓いを、ちゃんと護る為に! そして誰より、あの日の自分を護る為に! あたしは、何も諦めたくない!」
──そう、答えが出ないなら、答えが出ないと口にするだけでも良かったんだ。
分からないことは、知らないことは、決して恥ではない。
知らないからこそ、人は学び、それぞれ知恵を振り絞り、それを寄せ集めることで問題に立ち向かっていく。
それがきっと、彼らが一人ではない意味なのだろうからーー。
「葵瑞、あんたは大人に絶望してるかもしれない。でもね、大人にだって護れるものがあるの。今のあたしは失ったものも多いけれど、あの頃より知ってることもたくさんある。嘘を吐くことも、無理に笑うことも、自分の心を裏切ることだったかもしれない。だけどね、その結果手にできたものだって、たくさんあるの。ステージからの景色も、スポットライトの眩しさも、誰かの声に手を振る感激も。たくさんの選択肢の中から、あたしが自分で選び取ってきたものだもん」
遠い昔を懐かしむように、これまでの軌跡を振り返るように、海は言葉を口にしていた。
後悔は尽きなくても、それでも、ちゃんとこの手に掴んできたものも、たくさんある。
「間違えもしたけど、それらはきっと、大人にならないと手にできないものだった。だから決して、遠回りなんかじゃなかったんだって。大事なことに気付ける為に、全部必要なものだったのよ。過去の傷も、こいつらとの出会いも、あんたとの出会いも、全部意味があることだったの」
──誰が言っていた。
喪失は獲得であり、獲得もまた喪失である、と──。
何かを失った時には、それと同時に何かを得ており、何かを得た時には、また同じように失っているものもある。
それは知識であったり、経験であったり、感情であったりと様々だ。
彼らが失ったものは、彼らを苦しめ絶望に陥れたが、決してそれが全てではない。
彼らが掴み取ってきたものは、選び取ってきたものは、確かに存在するのだ。
それはきっと、大人になった彼らにしか、獲得できなかったものだ。
「大人になることは決して、全てを捨てることじゃないんだって、あたしはあんたに伝えたいの。あんたが、昔のあたしが、大人になるのを怖がらなくていいように。安心して大人になれるように、誰よりあたし達が示していかなきゃ」
海はそっと、その手を差し伸べた。
今まで幾つもを掴み取ってきたその掌で、葵瑞のことも掴んでみせる、と──。
「もう誰も、一人にさせたりしない。葵瑞、約束させて。あんたを忘れたりしない。あんたを一人で行かせたりしない。あんたをもう、傷付けさせやしない」
「……」
葵瑞は目を見開いて、彼女の眼差しに吸い寄せられた。
それはまだ、この世の醜悪さを知らない、無垢な子供のものではない。
いくつもの挫折に、絶望に、地獄に打ちひしがれ、それでもその中に見える僅かな希望に縋って生きてきた、歴戦の戦士の目だ。
「……いや、これは違うかも。そうじゃないよね。傷付いたっていい。その傷も、あたしの一部だもん。あんたの傷だって、今のあんたの人生を造ってる。だから、傷だらけのあんたも愛してよ。傷だらけのあたし達も、愛してくれたようにさ」
先程の言葉を訂正するように、海は微笑んで、目を伏せた。
──ずっと、傷を恐れて生きてきた。
もう二度と傷付かないようにと、必死に弱い自分を護る為の術を身につけてきた。
だけど、大事なのは傷付かないことじゃない。
傷付いたっていい。
その傷さえも、彼らの一部なのだ。
それならば、愛していくしかない──。
海の力強い言葉に、葵瑞はふっと微笑んだ。
「……そっか、傷も俺か……そっか……」
しみじみと言葉を繰り返して、天を仰ぎ見て、深く息を吐く。
──ようやく、夜明けが訪れた。
靄のかかっていた心に、霧がかかって見えなくなっていた景色に、すうっと光が差していく。
昇りたての眩しい朝日が、雲ひとつ無い澄んだ空の青さを、より際立たせている。
空の色を写したような海原も、光の粒で深みを増して、キラキラと輝いている。
そうして、自分の青さを知る──。
そこに見たのは、新しい世界だ。
考え方ひとつで、心の持ち方ひとつで、見える世界はこんなにも変わってくるのだ。
「……ありがとう。その言葉で、俺は充分救われた。でも、俺はやっぱり、おまえらには、そいつらの傍にいて欲しい。もうそいつらを、離さないでやってくれ」
「……葵瑞……!」
葵瑞は美生の手首を、そっと優しく掴んだ。
包帯の上から傷に触れて、それを愛でるように慈しむ。
「自分を、大切にしろよ。あいつを悲しませることをするな」
そして手を離し、全員の手を振り解いた葵瑞は、そうっと鳥居を潜った。
「葵瑞!!」
必死に手を伸ばすも、もう届かなかった。
鳥居の向こう側にいる葵瑞の体は消えかかり、最後の別れの時を迎えようとしていた。
振り返った葵瑞は、涙でぐちゃぐちゃになった彼らを、呆れたように見つめていた。
『しっかりしろよ、大人なんだから』と、心の中で笑う。
憐れで、未熟で、傷だらけの、愛おしい大人達。
──大丈夫、これでいい。
無意識に、そう自分に言い聞かせる。
何度も何度も繰り返して、ようやくハッピーエンドに辿り着いた筈なのに。
それなのに、何かが心を引き止める。
「……あれ……?」
ふと、頬が濡れていることに気付く。
不思議そうにそれに触れて、そして、悟る。
(あぁ、そうか……。俺、寂しいんだ……)
なんの思い入れも無かった、他人の筈の彼ら。
このループを終わらせる為に、仕方なく護ってきただけの彼ら。
それでも、彼らの持つ傷は、葵瑞のそれと、とてもよく似ていた。
傷を抱え、間違いを犯し、それでもここまで必死に生き続けてきた、まるで子供のような大人達。
長い時間を共にするうちに、いつの間にか、情のようなものが湧いてしまっていたのかもしれない。
別れの寂しさから、ある想いが込み上げてくる。
──あぁ、きっと、彼らもこんな気持ちだったんだ。
未来に向けて手紙を綴るように、いつか消えてしまう想いを形にしたいと願うように、それを託した。
その言葉を口にすれば、また、呪いをかけてしまうと知っている。
それでも──
葵瑞は優しく笑って、最後の言葉を口にした。
「忘れないで。憶えていて──」
「葵瑞!!!」
その声は届かず、青い光に包まれて、扉が閉まった。
彼の名前を呼んだ余韻だけがその場に残り、辺りは沈黙に包まれる。
聞こえるのは、引き寄せる波の音だけ。
「…………え……? あたし……なんで……泣いてるの……?」
涙でぐちゃぐちゃになっている頬を、不思議そうに、海は触った。
何も分からないのに、それでも涙は、まだ止まることなく溢れ出てくる。
「……どこだ……ここ……。俺……ここで何して……」
何かに手を伸ばして、空を切った掌が、虚しくただぶら下がっている。
陽七星はその掌を見つめたまま、呆然とその場に立ち尽くした。
辺りを見渡せば、同じように立ち尽くしているメンバー達と、目の前に聳える青い鳥居。
一体なんの為に、何故こんな所にいるのか、全く分からない。
熱い涙が頬を伝った感覚と衝動だけが、こびれ付いて、まだそこに残っていた。
「……これは……なんだ……?」
地平線の上には太陽が昇り、夜明けを知らせる。
空は白から青へ、海は黒から青へと変わり、本来の色を取り戻した世界が、一日の始まりを告げる。
希望に満ちた筈の夜明けは、何故か、言い表せない虚無感に満ちていた──。
長い放心状態を経て、わけも分からないまま東京へと戻って来た彼らは、事務所の社長室を訪れた。
「……お。どうした、全員揃って珍しい」
疲れ切った顔の彼らを、頼人はいつもの調子で出迎えた。
その言葉に、何か違和感を感じる。
思わず、陽七星がボソっと呟いた。
「……全員?」
「ん? 全員だろ? 1、2、3、4、5、6……。ほら、6人全員いるだろ」
そこにいる誰もが、言い表せない違和感を覚えた。
──何かが、違っている。
確かにそう思うのに、何がおかしいかまでは分からず、ただただ困窮する。
──彼らは葵瑞のことを、綺麗に忘れ去ってしまった──




