第六十四話《ふたつのアイ》
人の心の中を、覗き見ることはできない
だからこそ人は言葉を駆使し、会話で相手のことを知ろうとする。
相手が何を求めているのか、どんな言葉が欲しいのか──。
しかし中には、自分のことなのに、自分のことをよく知らない人間もいる。
自分でも知らないことを、人に説明することはできない。
それ故に、人との擦れ違いに繋がることもまちまちだ。
彼女の人生が、まさにそうだった。
「本当はずっと、ありのままでいたかった!!」
最後の鳥居を潜り、還って来たばかりのその声で、織はあいりに向かって叫んだ。
素顔のあいりが顔を覗かせ、その後二人は見つめ合ったまま、ただただ沈黙していた。
何を話せばいいのか、何を伝えればいいのか、慎重に言葉を探すのに、なかなか見つけられない。
「……楽しそうだったね」
先に口を開いたあいりの言葉に、織は聞き返すように目を見開く。
「私を忘れてる織は、楽しそうだった」
「……ご、ごめん……」
直球に皮肉を言われて、織は反射的に謝った。
──恨まれているのは当然だ。
心を麻痺させて、あいりを忘れ去って、そうして、なりたくない最低な大人へと成り果てた。
「……あ、ごめん、違う。嫌な意味じゃなくて。……そりゃあ、忘れられて寂しかったけど……ちょっとだけ、嬉しかった。毎日楽しそうな、織を見れて」
あいりも同じように、思いを伝える言葉を、上手く探せない自分に狼狽えていた。
彼らにとって、言葉を駆使することは、最も難しい。
それは決して、言葉を雑に扱っているからではない。
言葉を大切にし過ぎるあまり、不用意に扱えなくなってしまったのだ。
誰よりも、言葉の重みを知っているから──。
本心を打ち明けた結果、人に奇妙がられた経験から、それが意味を成さないことも知っている。
それでも、今向かい合っている相手は、自分自身だ。
偽ることはできないと、本音で話さなければ意味がないと、腹を括らなければならない。
──できることなら、上手く伝えたい。
取り繕ったような嘘やお世辞ではなく、彼女自身が感じた、そのままの想いを。
慎重に言葉を探しながら、ゆっくりと、ゆっくりと、織り成すように紡ぐ。
「自分を変えるのって、簡単なことじゃないし、すごく勇気がいることだと思う。だから、織はすごいよ。自分を変えて、夢に向かって、ストイックに努力して。欲しいものを、自分の力で手に入れた。誰かの助けを待つんじゃなくて、文句を言って他人に任せるんじゃなくて、自分の力を信じて、必死に突き進んだ。すごく、かっこいい」
織の心に、そっと風が吹き抜ける。
──ずっと、その言葉が似合う人間になりたかった。
織が憧れを抱いていた『かっこいい』は、いつも自分とは、遠くかけ離れた姿をしていたから。
それは生まれながらにして仕方の無いことなのだと、自分には相応しい称号ではないのだと、諦めるしかないと思っていた。
それでも、彼女はちゃんと見てくれていた。
自分自身でも気付けないような、自分のことを。
織が知らない織のことを、あいりは教えてくれていた。
不変であることは、美しいことかもしれない。
織自身も、変わらないでいたかった。
それでも、変わることを恐れなかったからこそ、彼女は夢を掴み取ることができたのだ。
「……ごめんね、上手く言えなくて。ちゃんと、伝わってる?」
織の顔色を伺うように、あいりが心配そうに顔を覗き込む。
それは、相手を怒らせてしまったのではないかという心配ではなく、自分の言葉が、正しく相手に届いたのかという不安だった。
あいりの言葉の意図を汲み取って、織は目の前の、その小さな体を抱き締めた。
「……ちゃんと、ちゃんと伝わってるよ。教えてくれて、ありがとう。……そうだよね。本当は、ありのままでいたかったよね……。苦しかったと思うけど、でも、ありのままでいようとしたあいりは、逃げずに自分と戦ってたあいりは、誰よりもかっこいいよ。私、この頃のあいりが一番好き。私ももう一度、あなたみたいになりたい」
我が子を抱き締めるように、織は思った。
──この子を護りたい。
この子の心を、想いを、忘れずに護り続けていきたい、と──。
それは一時の使命感や責任感ではなく、彼女がこれから、一生を懸けて費やしていくべきことだ。
髪を撫でると、あいりはくすぐったそうに、微かに笑った。
その姿に、心が温かい熱を帯びる。
──自分は、愛を知らない人間だと思っていた。
愛織なんて名前を貰っておきながら、誰とも愛を築くことができない、寂しい人間だと。
でも、今は思う。
これが愛じゃなかったら、他になんと呼べば良いのだろう、と──。
「ありがとう、あいり。私に愛を教えてくれて。あなたを愛する為に、私自身を愛する為に、ずっと、忘れないでいるからね」
誰かを愛するということは、きっと、まずは自分を愛することから始まるのだろう。
自分を愛せない人間が、他人に愛を渡すことなどできやしない。
それを知ったことで、彼女はこれから、より強くなれるだろう。
髪を撫でられたまま、あいりは織の顔を見上げた。
そしてもうひとつ、大切なことを教えてくれる。
「愛ってさ、人と人の間だけで成立するものじゃないよ。音楽だって、ダンスだって、物語だって、何かを好きになって、夢中になれるってことは、それは愛だよ。この世界に溢れるたくさんの作品は、誰かが生み出した愛の結晶だもん。それを素晴らしいって思える感性は、織が持ってるその感受性は、愛を受け取れてる証拠だよ。織はちゃんと、この世界を愛せてたよ。織はちゃんと、愛を知ってる人だよ」
はにかむあいりの言葉に、織は息を呑んで目頭を熱くした。
そして頬を伝う涙を、女々しいと拭うようなことは、もうしなかった。
──だってこれは、心が動いた証だ。
彼女の心臓が、ちゃんと動いているという証拠だ──。
自分でも見えていなかった答えを貰えて、欲しいものは、既に手にしていたことに気付かされる。
それはまるで、昔読んだ『オズの魔法使い』の物語のようだ。
頭脳を欲しがったカカシも、心臓を欲しがったブリキの木こりも、勇気を欲しがったライオンも、彼らが探していたものは、その旅で見つけようとしていたものは、既に最初から手にしていたものだったと気付かされる。
子供の頃は、なんだ、じゃあその旅は無駄足だったんじゃないかと、なんて地味でパッとしない結末なんだろうと、そう思っていた。
──しかし、今は違う。
彼らに足りないのは、自信だけだったのだ。
その旅を終えたことで、同じ目的を持つ仲間達と出会い奮闘したことで、ようやくそれを手にし、気付くことができたのだ。
だからその旅は決して、無駄なんかじゃない。
決して、遠回りなんかじゃない。
導かれるべくして、導かれた道だったんだと分かる。
誰も愛せないのは、自分の心が歪だからなんだと、そう思ってきた。
本当は人と繋がっていたいのに、それが上手くできないあまり、いつの間にか人が苦手になってしまっていた。
──でも、そんな愛の受け取り方もあるんだ。
好きな音楽、好きな物語、好きなダンスに心が躍ったのは、それはちゃんと、愛せていた証拠なんだ。
そして何より、自らも作品を生み出すことで、誰かに愛を渡せていたということなんだろう。
ようやく辿り着けた答えに、今までの人生が報われたようで、心臓が熱を帯びる。
織の涙を見て、あいりが嬉しそうに、はしゃいだ声を上げる。
「ほら、今も。私の愛が届いたんでしょ?」
リレーで一等賞を貰った子供のように、あいりは胸を張って、誇らしげに笑った。
自分の言葉で誰かの心を震わせることができるのなら、それは素晴らしいことじゃないかと思う。
自分の言葉に、価値があると思える。
「……届いたよ。確かに受け取った。今度は、私の番。これからは私が、あいりに愛を伝えていくからね」
言葉の一つ一つをぎゅっと噛み締めるように、織はもう一度、あいりを強く抱き締めた。
誰よりも、この子にとってのヒーローで在りたい。
万人に愛されることはできなくても、万人を愛することはできなくても、彼女にとっての、唯一無二のヒーローで在ろう、と──。
もう何も、恐れることはない。
織は織自身を、味方に着けたのだから──。




