第五十六話《聲》
誰かの声がする。
ノイズ混じりの、小さな声だ。
『助けて』
耳元で聞こえたその声に、すぐに気付くことができたなら。
すぐに耳を傾けることができたなら──。
そう後悔するのは、これで最後にしたい。
足に力を入れて、精一杯走った。
今ならまだ、間に合うと。
今ならまだ、取り戻せる、と──。
暗い廊下を全力で駆け抜け、扉を開ける。
葵瑞の目前には、彼らがいた。
ワインを片手に、最期の時を迎えようとしている、その大人達が──。
「やめろーーーっ!!」
すぐさま駆け寄って、ワインをはたき落とすように、床に叩きつけた。
パリンと音を立てて、ガラスの破片と赤い液体が飛び散る。
その音は、彼らにとっては絶望だった。
──終われなかった。
それは地獄の苦しみが、永遠に続くことを意味していた。
「何やってんだよ! 死んだって、なにも変わんねぇだろうが!」
「……っ! うるせぇ! おまえに何が分かるんだよ! クソガキは黙ってろ!」
「クソガキはおまえらだ! 戦いもせずに逃げ出して、ただ傷付くのが怖いだけじゃねぇか!」
葵瑞に掴み掛かられて、陽七星は自害を邪魔された絶望で、胸倉を掴んで怒鳴り返す。
しかし、葵瑞は怯まない。
「全部自分達だけで勝手に決めて、遺された側のことなんて、これっぽっちも考えないでさ! おまえらを護ろうとしてる人間のことなんて、考えたことねぇだろ!」
葵瑞の叫びは、必死に何かを訴えかけていた。
彼らに対してなのか、それとも別の何かに向けてなのか──。
「苦しいのがおまえらだけだなんて、思い上がんな! だからおまえらは勝手なんだ! そっちの都合で勝手に決めた、しょうもない幻影に脅かされて、ちっぽけな自尊心を護る為だけに、あとのこと全部遺った人間に背負わせて……逃げてんじゃねぇよ! 好き勝手やって、勝手に自己嫌悪に陥って、無責任に居なくなるなんてさ! そんなんだから俺は……!」
そこまで叫ぶと、葵瑞は悔しさを噛み潰すように、陽七星の胸倉を掴む手をわなわなと震わせた。
ひとつ息を吐いて、ちゃんと言葉を届けようと、陽七星の瞳の奥を覗き込む。
「……俺は呼んだよ。何度も、何度もさぁ。おまえらは何回、俺らの声を無視すれば気が済むんだよ!」
この後に及んでも、正論を突き付けてくるそんな葵瑞の姿に、今度は海が開き直って応戦する。
そんなもの、彼らにはもう届かないと、皆知っている。
「何わけ分かんないこと言ってんのよ! なんにも知らないくせに! あんたみたいな、一度も傷付いたことのない純粋な子供に、地獄を見たことがないあんたに、何が分かるっていうの!? あたし達の邪魔しないで!」
今の彼らにとって、正論ほど傷を抉るものは無い。
だってそんなの、とっくに知っている。
分かっているのに選べないから、苦しいんだ。
頭では分かっていても、体がそれを拒む。
自分の体が自分のものに思えなくて、だから終わらせてしまう他無いのだ。
今欲しいのは、誰もが知っている、分かりやすい答えじゃない。
倫理や道徳に則った、そんな生優しい世界が定めたものなんかじゃない。
もっと醜くてドロドロした、人間の感情と欲望を満たす先に、存在する何かだ。
それが今の彼らにとっては、『死の美学』に直結しているのだ。
海の言葉に、葵瑞はショックを受けたように、悲しみの表情を浮かべた。
唇を噛んで、必死に憤りを抑えながら、小さく呟く。
それは彼らを責めるものでは無く、自分という存在を見誤っていることへの、憤りだ。
「……俺だって……そんな子供のままでいられたら、どんなに幸せだったか……!」
葵瑞の発言に、六人は怪訝そうな顔をした。
どう見たって子供の姿をしている葵瑞が、そんなことを何故言うのか、理解ができなかった。
重い沈黙が流れた後、葵瑞は陽七星から手を離し、机に置いてある、島のパンフレットを捲り出した。
そして最後のページの、青い鳥居の写真に、そっと手を翳して触れた。
「全員、もう一度これに触れてくれ」
「は? 何言ってんのよ」
「いいから」
それは以前触れたことで、過去の記憶を共有してしまい、痛い目を見たものだ。
恐怖と疑心暗鬼で足が竦んでいると、ふと、何かに背中を押された感覚があって、再び引き寄せられるように、それに触れてしまった。
──その瞬間、青い光が差し込む。
そうして流れ込んできたのは、葵瑞の記憶だった。




