第五十三話《死への誘惑》
※鬱の描写があります
苦手な方はご注意ください
.
撮影スタジオの控室に、BLUE BIRTH+の六人はいた。
着替えもメイクも仕上がっているというのに、その形相は、死人のように青白かった。
──誰も、何も言葉を発さない。
各々の苦悩を抱えながらも、考えていることは皆、同じだった。
(……死にたい……)
自分の過去を知られ、それ故に、今の自分がどれほど醜悪な人間なのかを知られてしまった。
よりにもよって一番知られたくない、普段歪み合っている、信頼の欠片もないメンバーに。
憐れまれ、見下され、罵詈雑言をぶつけられてもおかしくない。
それだけでも耐えられないのに、誰がいつ、この秘密を漏らすか分からないというリスクにも脅かされている。
いつか世界中に知れ渡れば、自分達を愛してくれていたファン達も、騙されたと言って去っていくに違いない。
自分に価値を見出してくれた彼らの存在は、最も失望させたくない相手だったのに──。
しかし誰もそれをしないのは、その刃を向けた瞬間、自分にも向けられることを分かっているからだ。
それでも、そんな恐怖に一生脅かされながら生きるなんて、いくらなんでも苦しすぎる。
一度知ってしまえば、知らない自分には、二度と戻れない。
それは、永遠に戻らない。
その事実を一度可視化してしまえば、二度と見ないフリはできない。
情報の獲得は時に、代償が大きすぎる喪失を連れて来る。
そしてそれは、決して無かったことにはできない。
今まで彼らがしてきたように、見たくないものに蓋をして、何も考えずに笑うこともできない。
欲しいものを全て手に入れたつもりになって、築いてきた快適な毎日は、もう二度と戻らない。
記憶が消えてしまわない限り、あの日々に戻ることは、決してできないのだ。
これが、獲得と喪失の仕組みだ。
だからこそ今、彼らは自分達が引き起こした事実の重大さに気付き、地獄を見ているのだ。
全てを失ったのに、全てが終わったも同然なのに、無情にも朝は訪れ、日々は続いていく。
しかしその朝は、今までとはまるで違う。
清々しい筈の朝陽は、暗闇に紛れたいと願うこの体を容赦無く照らし、責め立てるように無情な時間の経過を知らせ、日常へと急かす。
美しかった筈の景色も、好きでリピートしていた音楽も、お気に入りの一冊の物語も、今はただのゴミ屑にしか見えない。
この世に存在する全ての素敵なものが、モノクロで、雑音で、紙切れに成り果ててしまった。
そして何をするにも、恐怖が付き纏う。
日常のルーティンでさえ、何をどう体を動かして行っていたのか、突然分からなくなってしまった。
まるで、脳を書き換えられてしまったような気分だ。
今まで、どうやって生きてきたんだっけ、と、そんなわけの分からない思考に陥る。
そしてその思考の行き着く先は、どんな導入と経路を辿ろうと、『死にたい』に着地する。
決して降りられない船の上で、呼吸の仕方さえ忘れて、逃れられない恐怖に晒され続けている。
完全なる、鬱状態だった。
『鬱病』『心の病気』『メンタルクリニック』なんて言葉があるくらいだから、こういうのは、心や精神の問題だと思っていた。
しかし、違う。
──鬱は、脳の病気だ。
本来の脳の機能が、正常に作動しないのだ。
何故そんな思考に陥るのか分からないのに、逃れられない漠然とした恐怖だけが、そこには確かに存在している。
そして五感が研ぎ澄まされ、もしくは遮断され、脳よりも先に、体が危険視号を出す。
物を見るだけで、音を聴くだけで、匂いを嗅ぐだけで、凄まじい恐怖が体を蝕み、脳の中身を全て支配してしまう。
体は防衛反応に走ろうとするのに、脳は真逆に、その恐怖からの脱却を促そうとする。
そしてこんがらがった末、行き着く思考の先に待つのが、『死にたい』という希死念慮だ。
それが何故か、という理由すら分からない。
今までの自分とは、何かがおかしいということは分かるのに、何故その思考に行き着くかということが、自分でも分からない。
何もかもが、分からないのだ。
自分のことが、自分の感情が、全く分からない。
何故、自ら死ぬ為に足を進めることさえできないのか、それさえも分からない。
こんなに『死にたい』と願い続けているのに、何故かまだ、死んでいない。
──当然だ。
何も行動に移していないのだから。
願うだけで、この体たらくな塊は、何も実行に移そうとしない。
それが防衛反応なのか、ただの根性無しに成り果ててしまったのか、それさえも分からない。
その『死にたい』という欲望すらも、今の自分には選ばせてもらえないのだ。
何を選ぶこともできないまま、ただただ、地続きの『今』を生きている。
──いや、生かされている。
ただ、死んでいないだけ。
ただ、息がまだあるだけ──。
それなのに、その息さえも、上手くできなくなってしまう。
今までそんなことを意識なんかしたことないのに、呼吸の仕方さえも分からなくなってしまう。
生まれてからの二十数年、一体どうやって呼吸をしてきたんだっけと、そんなふうに考えてしまうのだ。
一生懸命息を吸おうとするのに、その度に肩が上がるばかりで、肝心の息は上手く肺に入っていかない。
それを何度も繰り返し、パンパンに膨れ上がった肺の空気を今度は外に出そうと試みるのに、体が震えて上手く吐き出せない。
震える唇からはもう何も出てこないのに、突如次の行程が分からなくなって、酸素を失くした体が戸惑い、喉が締まる。
そして酸欠になった体が悲鳴を上げ、突如思い出したように、再び必死に肩を上げる。
永遠に、その繰り返し──。
誰も、何も発さないのに、そんな思考の渦に囚われているということが、手に取るように分かる。
──だって、きっと、皆も自分と同じだから。
無意味に机の上をペタペタと触る陽七星も、マスクをして鼻と口を塞いでいる海も、乾いた喉を潤そうとしない勇為も、心は此処に無い。
両手で目を覆う美生も、音楽も流さないままヘッドホンをしている伶も、喉を押さえる手が、首を絞めてしまうんじゃないかと錯覚させられる織も、必死に頭の中の指令と戦っている。
死へと追いやろうとする脳みそと、それを防ごうと拒絶反応を起こす体。
そのちぐはぐで引き裂かれるような痛みに、体がバラバラになってしまいそうになる。
彼らは、最早屍も同然なのに、終わらせることさえできずに、惨めったらしく息をしているだけの、ただの肉の塊だ。
試合はとうに終わったというのに、もうコートに立つ資格すら無いのに、懺悔をすることしかできないロスタイムだけが、永遠と続いている。
まともな思考ができない頭で、漠然と、神頼みのように祈る。
──お願い、誰か。
誰か、終わりの鐘を鳴らして、と──。
美生の手首の傷は、昨日よりも深く濃くなっていた。
罰が心地良いと思えていたのは、本物の絶望を知らなかったからだと分かる。
それは何かを得る為の手段ではなく、本当に命を終わらせる為の手段へと、形を変えようとしていた。
痛みも、安らぎも、一時的に誤魔化す麻酔でしかない。
まやかしの快楽は一瞬で、その後には更に深い絶望が待っている。
絶望に疲れ切った、まともではない思考の中思う。
このまま、本当に死んでしまえたらいいのに、と──。
絶望や地獄なんて言葉では生ぬるい。
これは『死』だ。
心の死であり、魂の死だ。
それなのに、終わらせてはくれない。
死ぬほど大嫌いな自分を引き連れて、逃れられない恐怖に一生怯え続ける。
実際に死んでしまうこと以上に苦しい地獄があるのだと、彼らは自分の身を持って知ったのだった──。
「おつかれーっす」
最悪な雰囲気が充満する中扉が開かれ、葵瑞が姿を現す。
当然のことながら、誰も何も、反応しない。
日常的に行われていた無視とは違い、彼の登場を、誰も気に留めていない様子だ。
「感じ悪っ」
葵瑞がぼやく背後から、廊下にいた惇が焦ったように声をかける。
「あっ、葵瑞くんお疲れ様。来て早々で悪いんだけど、すぐ着替えてメイク室移動してもらえる? スタジオ今、葵瑞くん待ちだからさ」
「え、こいつらは?」
控室で項垂れるメンバー達を見て、葵瑞が問いかける。
惇は言い辛そうに、小声で葵瑞の耳元で囁いた。
「実は撮影にならなくてね。準備出来次第、すぐスタジオに入って欲しくて。じゃ、スタッフに伝えとくから」
慌ててスタジオへと走って行く惇の背中を見送って、葵瑞は大きく溜息を吐いた。
「……はぁ……。おまえら、何やってんだよ」
一番近くに座っている陽七星に向かって、葵瑞が言葉を投げかける。
その声に陽七星は、緊張したように肩をビクッと震わせ、力無く呟いた。
「……悪い……」
「……は?」
「……悪かった……」
らしくない陽七星の反応に、葵瑞は更に軽蔑し切った表情を浮かべた。
いつもなら意気揚々と、自分の正論を押し付けて、論破してくる筈なのに──。
「……」
弱り切った陽七星を一瞥して、葵瑞は面白くなさそうに舌打ちをしようとして、迷った末踏み留まった。
そして扉を閉め、メイク室へと向かった。




