第五十二話《夢》
太陽と月が入れ替わって、昼から夜へと変わるように、決して踏み入ることのできない領域というものは、確かに存在する。
どんな超人であっても、時間に抗うことはできない。
決して超えることのできない、飛び越えることも戻ることもできない、定められたライン。
彼にとっては、この時間がそうだった。
時計の針が八時を差し、それを知らせるようにアラームが鳴る。
「はい、じゃあ今日はここまで。明日までにきっちり仕上げてきてね」
レッスンを終えた葵瑞は、ロッカールームで汗を拭き、制服に着替えた。
プロとしてデビューしたとはいえ、まだ13歳の中学生だ。
仕事もレッスンも、夜八時になった瞬間に打ち切られ、そこから先は関与することができない世界が待つ。
どんなに努力しようとも、どんなに歌やダンスが上手くなろうとも、その現実だけは変えることができない。
「おっ。レッスンお疲れー」
事務所の廊下で、出先から帰った頼人と偶然出くわした。
「どう? 仕事は慣れた? 困ったことがあったら、遠慮なく言ってね」
頼人の言葉に、葵瑞は明らかに怪訝そうな顔をした。
正直、困ったことだらけだ。
しかしそれを口にしたところで、どうにかなるとも思えなかった。
「まぁ、そんなこと言われても困ったことだらけだよね。ごめんな、難しい奴らばっかで」
心の声が聞こえたのかと思って、葵瑞はさらに怪訝そうな顔をした。
この男も、本当に得体が知れない。
「別に。たいしたことないですけど……」
幼稚な大人の嫌がらせなど、さして問題ではない。
そんなことよりも、葵瑞には気に掛かっているこのがあった。
「……俺で良かったんですかね」
それこそ、言ったところでどうなるわけでもない。
そんなことを口にしてしまったことを、葵瑞はすぐさま後悔した。
酷な今の状況で、まだ13歳の子供が一人で背負える筈もなく、不安になるのは至極当然のことなのだが──。
「当たり前じゃないか。おまえじゃなきゃダメなんだ」
子供を諭すように、安心させるように、頼人はできるだけ優しい声で返した。
「じゃあ、なんで俺だったんです?」
「ん? 説明しなかったっけ。去年の発表会の映像を見て──」
「そうじゃなくて。……そんなことで、本当に俺をスカウトしに来たんですか?」
肚の内を探り合うように、葵瑞は慎重にもう一度問うた。
すると頼人も、警戒するように葵瑞をじいっと見据えた。
目を細めて、何かを伺っている。
「……夢を見たんだ」
「……は?」
突拍子も無いその発言に、葵瑞は思わず眉を顰めた。
凄むように、威嚇するように、牽制するように、頼人はじっくりと葵瑞を観察する。
そうして二人の間に重い沈黙が流れると、頼人は分かりやすく口調を変えて、いつもの調子で軽口を叩いた。
「君のこと、夢で見ちゃったんだよねー! 髪が白くて、青い瞳で、それはもう天使と見間違えるほどの美少年で! そこで勘付いたんだよね! この子が、俺の子供達を助けてくれる逸材だって! これは神様のお告げだって、ピーンと来ちゃったんだー!」
「……あのなぁ、俺は真面目に──」
「ま、そんなわけだから。次こそは、よろしく頼むよ」
声色は穏やかなのに、その目は一切笑っていなかった。
緊張が走って、額を一筋の汗が伝う。
「じゃあ、帰り道気をつけて。今度寮に差し入れでも持っていくよー」
そう言って手を振りながら、頼人は社長室へと消えていった。
(次こそ……ねぇ……)
──まさか、と、ひとつの疑念が浮かび上がる。
得体の知れない恐怖を覚えながら、葵瑞は踵を返した。
頼人の正体が何であれ、やることは変わらない。
(今度こそ、間違えない……)
その青い瞳に、強い光を灯して──。




