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ロストユースに青を知る  作者: 志結
第五章
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第五十話《思い識る》


誰に会うこともできないまま、織は自室で一人閉じ籠っていた。

──あの日から、声が出ない。

喉の奥に大きな塊が張り付いているような感覚で、息をすることさえ苦しい。


『なんで?』


──振り返らなくても、声だけで分かる。

子供の頃の、自分の口癖だったからだ。


──なんでお兄ちゃん達と同じじゃいけないの?

なんで私だけ、ご飯のお手伝いをしなきゃいけないの?

なんで、なんでと、いつも不平不満を零していたのだから──。


『ねぇ、なんで無視するの? なんで私のこと、忘れちゃったの? ねぇ、なんで?』


その問いに答えようと口を開いても、何も言えなかった。

声が出ないことを抜きにしても、言葉を発することに、強い恐怖を感じていた。


目前に浮かぶ影から逃げるように、布団を深く被り直す。

冷え切った足は、自分の体の一部とは思えなかった。


織は、言葉の価値を重く捉えている自覚があった。

適当に嘘を吐いて取り繕って、思ってもいないことをベラベラ話して、発言の責任も全く守ろうとしない、軽い人間が大嫌いだった。

それなのに、今の自分の言葉は、誰よりも軽く薄っぺらい。

あの日泣いた夜を忘れて、橋の上の恐怖を忘れて、たったひとつの誓いさえ、ものの見事に忘れ去った。

そんな人間の言葉を、誰が信用できるだろう。

目の前に浮かぶその子供に、何か言葉をかけられたとして、なんの価値も無くなった自分の言葉で、一体何が救えるというのだろう。

気休めだけの言葉は傷付くだけだと、誰よりも知っている──。


苦しいと言えたら、ラクになる人もいるかもしれない。

誰かに愚痴を零して、弱音を吐いて慰めてもらったら、心が軽くなる人もきっといるだろう。

しかし、織の場合は逆効果だ。

弱みを他人に晒したという事実で、惨めで情けなくて、死にたくなる──。


幼少期から、様々な葛藤を一人きりで抱え込むしかなかった織は、人に頼ることが不得手だった。

自分しか信じられる者がおらず、自分の問題は自分で解決するしかなかった。

その為、どうしようもない解決できない問題にぶち当たった時、最悪の『死』という選択を選ばすに生きていく為には、忘れるしかなかったのだ──。



酷い頭痛を感じて、鎮痛剤に手を伸ばす。

慣れたようにそれを口に含もうとして、織は手を止めた。

今まで何度、こんなふうに、痛みを麻痺させてきのだろう──。

考えて考えて考えて、我慢して我慢して我慢して、そんなことに疲れ果ててしまう前に、小さな錠剤を口に放り込んでしまえば、事は済む。

しかし、痛みを薬で誤魔化したって、根本的には何も解決しない。


──考えないことは、とてもラクだ。

思考を手放し心を麻痺させてしまえば、本物の心は分厚い鎧で覆ってしまえば、息のしやすい世界が、いとも簡単に手に入る。

しかしそれは、一瞬のまやかしだ。

濫用すれば、いずれ効果は薄れていき、それ無しでは生きられなくなってしまう。

そして依存し、気付いた時にはもう手遅れで、身を裂くような離脱症状に苦しめられることとなる。

オーバードーズに陥り、死ぬこと以上の地獄に蝕まれるのだ。


──これが、報いというやつか。

今のこの苦しみこそが、現実から逃れる為に容易にラクになろうとした、憐れな過去の自分の報いだ──。


昔読んだ本で、『過去の自分に復讐される』という表現があったことを、よく覚えている。

その時はイマイチ理解できなかったが、今なら痛いほど分かる。

過去の自分の発言と行動、叫びや嘆き、憂いや憤り。

今の自分の姿は、それらと全て矛盾していると、全てを裏切るものだと、知っている。

死んでもなるものかと誓った醜悪な大人の姿で、あろうことか、その子供時代を嘲笑っていたのだ。

そのことに気付いた時、自分がどれほど浅ましく劣悪な人間かを思い知らされ、そこには死にたいほどの絶望しか待っていない。


──自分だけは、忘れてはいけなかったのに。

他の誰が忘れても、自分だけは、あの頃の自分を見捨ててはならなかったのに。

この絶望の正体は、自己嫌悪だ。

そう言ってしまえば軽く聞こえてしまうが、生きていく上で、自己肯定ほど大切なことはない。

永い人生の中で、自分とは、一生付き合っていかなければならないのだから。

どんなに絶望し憎んでも、そこから逃げることはできない。

釈放されることのない自己嫌悪に、一生付き纏われながら、それでも人生を続けていくしかない。


──あぁ、自分を思い知るということは、なんて苦しく、残酷なことなのだろう──。



アラームが鳴って、時間の経過の早さに驚く。

眠ろうと横になったものの、頭の中をぐるぐると回る思考が止んでくれることはなく、あっという間に空は白んで、朝が訪れていた。

こんな状態でも、陽は昇り、朝は訪れる。

その当たり前のことにすら、憤りを感じてしまった。


仕事に行かなければならない。

鎮痛剤を飲むことさえできないまま、償いのように痛みを甘んじて受ける。

織はフラフラになりながらも立ち上がり、シャワーを浴びようと、脱衣所に向かった。

服を脱いで、ぼんやりと鏡を覗き込む。

そこに映っているのは、醜く憐れな自分の姿だ。


(……気持ち悪い……)


形を変えていく姿に絶望したあの日のように、織は心底嫌悪を感じた。

そして、洗面台に置いてあるハサミを振り翳し、力一杯鏡を殴りつけた。

自分の体を傷付けるように、ヒビの入った鏡の中の自分を、容赦無く痛めつける。

音を立てて粉々に散らばったガラスの破片は、織の崩壊した心そのものだった。


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