第四十五話《傷と物語》
あの島から帰って来て、三日が経った。
海は止まらない吐き気を必死に堪えながら、レコーディングブースにいた。
スケジュールがパンパンに詰まっている中で、体調不良を理由に何日も休むわけにはいかないと、そんなプロ意識で動かない体をなんとか引き摺って、そこに立っていた。
しかし歌っている最中も、その視線の先には、常にうみなの姿があった。
こちらを睨み付けながら吐いた呪詛が、ヘッドホンを突き破って聞こえてくる。
緊張で喉は張り付き、歌どころか、まともに声を出すこともままならなかった。
「ストップストップ。……はぁ……今日はやめて、後日録り直そう。こんなんじゃ話にならない。まったく、プロがそれじゃ困るんだよね」
「……すみません……」
ディレクターから厳しい叱咤を受けて、海はブースを後にした。
ショックで歩くこともできず、そのまま廊下に膝を抱えて座り込む。
──言われたことは最もだ。
こんなの、プロとして赦されない。
それでも今は、自分の体が自分のもののように思えなかった。
「あれ、海じゃん。どした? こんなとこで座り込んで」
聞き慣れた声にゆっくり顔を上げると、そこには蒼と翠の姿があった。
「腹の調子悪いん? 拾い食いでもした?」
「おまえじゃないんだから……。海、大丈夫?」
いつもの調子の二人の掛け合いも、今は相手している場合ではなかった。
「……私……もう歌えないです……。歌手、辞めたい……」
「「え、なんで!?」」
弱音を零す海の言葉に、二人の驚いた声はシンクロしていた。
「らしくねぇこと言うなよ! いつもの自信はどうした?」
「そうだよ! 昔からずっと、あんなに頑張ってたじゃん!」
この二人は、昔の海を知っている。
中学生の頃の、親やメンバーと上手くいかず、もがき苦しんでいた海を知っているのだ。
今の海が忘れた姿を、理不尽と戦いながらも、それでも諦められずに泣いていた若く未熟な時代を、彼らは近くで見てきた。
海が馬鹿らしいと嘲笑った、過去の自分を知られているという事実に、更なる絶望が押し寄せる。
「……私って、昔とどう変わりました? 蒼さんと翠さんと出会った頃の私と、今の私、何が違いますか?」
それは疑問ではなく、自虐だった。
変わってしまった愚かな自分に、その現実を突きつけて、罰を与えてもらおう、という──。
海の様子が明らかにおかしいと、二人は言葉を探すようにして、顔を見合わせた。
「……いや、昔のおまえはなんつーか、今より苦しそうだったけど、でも必死に抗って戦ってたじゃん。そんなとこがカッケーなって、俺ら応援してたからさ」
「そうそう。でも、かっこいいのは今も変わってないよ。努力家でストイックで、夢に向かって我武者羅に頑張ってる海は、今もかっこいいよ」
罰を貰おうとしたのに、二人から返って来た言葉は、信じられないほど温かかった。
しかし今は、そんな言葉すら逆効果だ。
こんな醜い自分を褒められたのが恥ずかしくなって、更に自分を傷付けたくなった。
「……とても大切なことを……大切な人を……忘れてしまっていたんです……。絶対に忘れちゃいけなかったのに……。他の誰が忘れても……私だけは、覚えてなきゃいけなかったのに……忘れて、ヘラヘラ笑ってた……。あの頃の私が一番軽蔑してた……最低な大人になって……こんなの……赦されない……」
罪を自白して、最低だと罵られたかった。
ラクになりたかったわけじゃない。
その方が、目の前に浮かぶ、うみなが満足すると思ったからだ。
自分が不幸になる姿を、誰よりも望んでいる気がしたから──。
「……分かるよ」
沈黙を打ち破ったのは、切なげな翠の声だった。
その共感を意味する言葉に、海は頭に血が上って激昂した。
「変な同情はやめてください! 分かるわけない! あんた達みたいに生まれた時から二人ずっと一緒で、孤独なんか無縁なあったかい家庭に生まれて、クソな過去を経験してきた私の気持ちなんて!」
想いが止まらなくなって、口から罵詈雑言が次々と飛び出していく。
今更不幸自慢をしたところで、取り戻せるものなど何も無いというのに、感情のコントロールが上手くできない。
「人の悪意に触れたことなんかなくて、突然幸せを奪われる苦しみなんか経験したことなくて、ずっと幸せで普通の人生を送ってきた二人に、私の痛みなんか分かるはずない!」
お世話になってきた先輩が、折角寄り添ってくれているにも関わらず、海のそれはもう止められなかった。
自分を傷付ける筈の言葉だったのに、二人が傷付いてるのが分かった。
そうしてまた、自分の最低な過ちを増やしていく──。
「今の海の気持ち、全部分かってやるのは、確かに不可能だ。でも、幸せを奪われる苦しみなら、知ってるつもり。……実はさ、俺達本当は、双子じゃないんだよ」
突然の蒼の告白に、驚いて思わず顔を上げる。
瓜二つの二人の顔は、どう見ても双子そのものだ。
「……は? ふざけないでください! そんなそっくりな顔してそんな嘘……さすがに嘘だって分かりますよ! 慰めるだけの同情なんて──」
「本当だよ。三つ子なんだ。妹は生まれた時から病気で、十二歳までしか生きられなかった」
海の言葉を遮った翠は、辛そうに俯いていた。
口にするだけで苦しい事実なのだと、冗談で言っていいことではないと分かる。
こんな嘘、吐く筈が無い。
「昨日まで続いてた幸せが、突然プツッと失われてさ。毎日辛くて、苦しかった。それと同時に、あいつが死んでからも、時間は止まることなく普通に進んでいくのが、すごく怖かったんだ。俺達にとっては人生を揺るがす出来事でも、世界はなんてことないように、俺らを置いて行く。この悲しみが、寂しさが、苦しさが、時が経つにつれて少しずつ薄れていって、いつか消えてしまったらどうしようって、ずっと不安だったんだ」
いつになく神妙な面持ちの蒼の話は、海の知らない物語だった。
大切な兄妹を失った悲しみを抱えて生きている人だとは、普段の明るく元気な姿からは想像できない。
「でも、それを忘れられずにいたのは、翠がいてくれたからだ。到底一人で抱えきれることじゃなかったけど、こいつがいたから、俺は妹を忘れずにいられた。それに、翠だけじゃない。晟斗と燈夜だってそうだ。俺達は、元は五人で音楽を始めたんだ。そして四人になった今も、あいつに向けて歌ってる。あの日までの喜びや楽しさを忘れないように、あの日からの悲しみや寂しさが、いつまでも薄れて消えないように。俺達は、その覚悟を歌い続けてるんだよ」
蒼の言葉に、隣で聞いていた翠の目が、少しだけ潤んだ。
それが悲しみなのか、感激なのか、どんな感情からなのかまでは分からない。
それでもその様子から、今の話が事実であることは間違いないだろう。
そんな蒼の言葉に、今度は翠が続けた。
「海はさ、苦しいことがあった時、一人で抱えるしかなかったんだろ? 記憶ってさ、誰かに話さないと、定着しなくて消えていっちゃうんだって。だから、仕方なかったんじゃないかなぁ。それにさ、忘れてたってことは、思い出したってことだろ? だからこれからは、たくさんその話をしよう。俺達でよかったら、いつでも待ってるからさ」
翠の優しい言葉に、これ以上泣くまいと、口をきゅっと引き結ぶ。
それでも涙は止められず、ポロポロと溢れ出して頬を伝った。
「ったく、泣くんじゃねぇよ。せっかくの美人が台無しだぜ?」
頭をくしゃっと撫でる蒼の手は、本当の兄のようだった。
この時の蒼も無意識に、海を妹のようだと感じていたに違いない。
「またゆっくり話そうぜ。今日は帰ってもう寝ちまいな。じゃあなー」
これ以上泣いている姿を見られたくないという海の気持ちを汲んで、二人は手を振ってその場から去って行った。
その笑顔は、いつも通りの明るい二人の姿だ。
いくら明るく見えても、傷の無い少年時代を送ってきた人間なんて、いないのかもしれない。
──聞いてみたくなった。
彼らはどうやってその傷を乗り越え、今、笑っていられるのか。
彼らには、彼らの物語がある。
しかしそれは、また別のお話だ──。




