第四十二話《藤堂織の過去》
※やや長いです
お時間が許す時にどうぞ
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誰のことも、愛せなかった──
私の本名は、藤堂愛織。
愛を織り成すと書いて、あいり。
女の子らしい可愛い名前だと皆は言うし、私も客観的に見たらそう思う。
しかし、その可愛らしい名前が自分の持ち物であるということに対しては、不満と違和感を拭えなかった。
誰にも言ったことはないが、自分の名前が好きではなかった。
私にとって、『愛』はとても複雑で、難しい。
誰かを愛することも、ましてや自分を愛することなど、到底できなかった。
そして織り成すとは、いくつもの糸が絡み合っている様だ。
誰とも心から繋がれない自分には、自分の中だけで世界を完結させるしかない自分には、最も縁遠いものに思えた。
私はいつしか、その名前を呪いのように、最大級の皮肉のように感じていた。
私が生まれたのは、福岡県の外れの山奥。
寺院の家で、父は住職だった。
狭い田舎ということもあり、地元じゃ有名な寺だった。
兄弟構成は、兄、私、弟の三人兄弟。
藤堂家の家訓は、男は男らしく、女は女らしく。
幼少期から兄と弟は、寺院の後継ぎとなる為の僧侶の修行に勤しみ、そして私に与えられたのは、家事炊事等の、所謂花嫁修行だった。
兄と弟は父に、私は母にと、それぞれの教育を施された。
厳しい修行に勤しむ兄と弟は、毎日とても大変そうだった。
しかし、私は何故か、その姿をずっと羨ましく思っていた。
かっこいいと、自分もやりたいと、そんな憧れが消えなかった。
父のようになりたいと、その背中に憧憬をずっと抱いていたから。
それは俗に言う『お父さんみたいな人と結婚したい』と娘が言う感情とは、どこか違う気がしていた。
私もあぁなりたいと、あんなふうに生きたいと、そんなふうに思っていた。
しかしそれを父に告げても、いつも『おまえはダメだ』と突き放されてしまう。
その度に私は、決まって『なんで?』と聞いた。
「これは男の仕事だ。おまえは女の仕事をしていろ」
「なんで? なんでそれは男の仕事なの?」
「そういうものだからだ」
それを言われてしまうと、もう何も返すことはできなかった。
私が女であるということは事実であり、決して変えることのできない現実だからだ。
しかしその考えに、疑問は抱いても、決して反発を抱いたりはしなかった。
男は男らしく、女は女らしくという考えは、何より私の中にも、生まれつき根付いている思考だったから。
疑問を抱く部分があるとしたら、何故自分は女に生まれてきてしまったのだろう、という点だった。
──いや、正しくはそれも違う。
自分は女に生まれてきたのに、何故こんなふうに、男の生き方に憧れてしまっているんだろう、ということ。
何か自分は、周りの人達とは違うという違和感が、常にあった。
可愛いスカートを履くこと、私物でも赤やピンクの色のものを与えられること、プレゼントでおままごとセットやお人形を貰うことも、何故か喜べない自分がいた。
ズボンの方が動きやすいし、青や緑の方がかっこ良くて好きだし、兄達のおもちゃのミニカーでこっそり遊ぶ方が好きだった。
好みを聞かれる前に用意される度、自分も兄達と同じものがいい、と伝えても──
「愛織は女の子なんだから。こっちの方が似合ってるよ。それが普通よ」
そう母に言われ、それが普通なのだと教えられた。
自分の意志が通ることはなく、悶々としながらも、それらを受け入れていた。
ランドセルが赤いことも、坊主の兄達に対し、私は長い髪を結っていることも、どうしてかは分からないが、違和感と嫌な気持ちが拭えなかった。
「おまえはいいよな、女で」
日々の修行の愚痴を裏で零す兄弟達は、私に度々そう言った。
その度に、何度思ったことか。
そんなに嫌なら、変わって欲しい、と──。
親戚の集まりでは、同い年の従姉妹も言った。
「うちの弟も修行大変そうよ。良かったわね、私達女に生まれて来られて。超ラッキー!」
──そうか、女に生まれてきたことは、幸運なことだったんだ。
私も、そう思えたら良かったのに──。
ずっと心の中で燻っているこの感情は、誰に相談することもできず、燻り続けていた。
兄弟達のヒーローごっこに混ざろうとしても、彼らは父の真似をして『おまえは女だから』と言って、仲間に入れてもらえなかった。
「いい? 女の役目は、殿方を支えることなの。疲れて帰って来るお父さんやお兄ちゃん達を、私達は全力でサポートしてあげましょうね」
母はそう言って、家事炊事の一通りを私に教え込み、私は常にその手伝いをしてきた。
それを決して、男尊女卑だとは思わなかった。
その証拠に、私が仮に親だとしても、きっと我が子に同じ教育を施しただろう。
男の在るべき姿、女の在るべき姿というのは、私の中にも、両親と同じように宿っている。
それに女の在るべき姿だって、自分に誇りを持って行えば、ちゃんと素晴らしいものだと思う。
女らしい生き方は、ちゃんと世界にとって必要な役割で、それが間違っているとは思わない。
しかしどんな絵本を読んでも、漫画を読んでも、ヒーローはいつも男で、女はそれに恋をし支える役割だった。
どんなに強い女でも、王子様に出会って守られると、恋する乙女に変わってしまう。
『女の子は全員可愛くなりたいと思ってる』なんてフレーズも、まぁ一般的にはその通りなんだろう。
これが普通なんだと理解したし、私の固定概念とも一致していた。
しかしそれは全て、上手くは言えないが、『但し、自分だけは除く』というかんじだった。
私は、ヒーロー側になりたかった。
弱きを助け強きを挫く、そんなかっこいい人間になりたかったのだ。
それはあくまで物語の中だけの話だったとしても、毎日汗だくになりながら修行に勤しむ父と兄弟達を見て、自分もあんなふうになりたいと憧れてしまった。
それを陰で支える役割を強いられている自分が、とても惨めに思えてしまったのだ。
例え女でも、かっこよく生きることはできるだろう。
実際女の人でかっこいい人はたくさんいるし、『男勝り』なんて言葉があるくらいだ。
その人達は自分が女であることを誇りに思っていて、美しい美貌を余すことなくひけらかし、男達を誑かしていく。
しかしそのかっこ良さは、私の目指しているものとは、違うように感じた。
あくまで私は、『男の男らしさ』に憧れを持っていた。
しかしその違和感が決定的になったのは、テレビで初めて、宝塚の男優さんを見た時のことだ。
女優さんが男装をして、かっこいい台詞を言って、かっこいい男役を演じている。
恐らくそれは、私の憧れの形に、最も近いもののように思えるだろう。
しかし何故か、その時私が抱いたのは、嫌悪感だった──。
『女のくせに気持ち悪い』と、そう思ってしまったのだ。
悲しいことに、私のDNAには、両親の固定概念のようなものが、しっかり刷り込まれているのだ。
女のくせに男のように振る舞う人が、気持ち悪くて認められなかった。
その嫌悪の対象は、私が私の体で自分の生きたい生き方をした瞬間、真っ先に自分に向けられる。
つまり、私の存在は、私が最も忌避する人間の形をしていたのだ。
──もうお分かりだろう。
この性格で女に生まれてきた時点で、人生が詰んでいるのだ。
だからこそ自分の存在が理解できず、自分を好きになることなんて、到底できなかった。
自分が未知の怪物のように思えて、苦しかった。
解釈違いの器に入れられて、どうすることもできないまま、ただただ不満な毎日を過ごす他無かった。
寺院の家に生まれたこともあり、神様や仏様の存在は、昔から信じていた。
信じた上で、自分は神様の失敗作だ、とそう思って生きてきた。
神様や仏様に手を合わせる度に、『来世はきっと、男に生まれて来られますように』と、今世を見限るような祈り方しかできなかった。
決して兄弟達を、両親を憎む気にはなれなかった。
ありのままの自分を愛してもらえないと、家族を嫌いになりそうになる度、彼らは何一つ間違っていないのに、そんな感情を抱いてしまう自分の方が酷い人間なのだと、どんどん自己嫌悪に陥っていった。
どう考えても、異質は、私の方だ──。
そんなことを幼少期のうちに悟った私は、あまりものを喋らない子供になっていた。
おかしい子供だと、そう思われたくなかったから──。
決して、人が嫌いなわけじゃない。
好きだからこそ上手くできなくて、苦手意識が芽生えてしまったのだ。
話す度に自分の異質さを思い知らされて、その度に深く傷付くくらいなら、自ら孤立していようと思っただけ。
本当は皆と一緒にお喋りしていたいのに、同じ形をしていたいのに、そうではない現実を突き付けられてやむなく孤独になるくらいならと、最初から要らないフリをした。
一人でも平気な、自立した人間なんだと思えることが、ちっぽけな自尊心を保っていた。
人と話すことが苦手になり、遊ぶと言ったら体を動かすか、本を読むかをして過ごした。
その中でもよく読んだ本は、童話だった。
図書館に通って、グリム童話から日本昔話まで、たくさんの物語を読んだ。
人との会話で世界を広げられなかった私は、誰かが綴った物語から、世界を理解しようとした。
人と関わる上で、人の気持ちが分からないのは致命的だ、と──。
『自分がされて嫌なことは、人にもしないようにしましょう』という言葉がある。
しかし自分の感性が異質であると自覚している私は、その基準が全くアテにならなかった。
だから、正しさを基準にした。
人の気持ちが分からない私は、きっと優しい人間にはなれない。
ならばせめて、正しさを基準にしよう。
人によっての正解は様々でも、正しさは、法律や道徳によって定められている。
優しくなれないのなら、せめて、正しい人間で在りたいと願った──。
童話の教訓は、基本的に勧善懲悪だ。
良いお爺さんは正しいことをした結果幸せになり、悪いお爺さんは間違ったことをした結果不幸になる。
私は童話から、人間とはこう在るべきだ、という正しさを学んだ。
そして学校の休み時間は、教室でお喋りを楽しむ女子達よりも、外で走り回っている男子達に混ざって遊んでいた。
人と話すのが苦手でも、スポーツや遊びだったら、ルールさえ分かっていれば会話が無くとも楽しめる。
コミュニケーションの9割をお喋りで構築する特性の女子よりも、同じ時間や目的を共にすることでコミュニケーションを図る男子の方が、私の性格には合っていた。
休み時間にサッカーをして、放課後には野球をして、その後は近くの山でBB弾の撃ち合いをした。
背が高かったこともあり、何をやっても、同級生の男子に負けたりしなかった。
しかし小学校高学年くらいになると、今まで一緒に遊んでいた男子達に、突然避けられるようになった。
なんでも、女と一緒に遊んでると、他の男子に揶揄われるかららしい。
大人になった今なら、思春期男子の特有の照れだと、可愛く思えたかもしれない。
でもその時の私は、またか、とうんざりしていた。
自分が女であるせいで、諦めなければならない事がまた増えていく、と──。
それでも、変わらず遊んでくれる子もいた。
引っ込み思案で、消極的で、優しい男の子だった。
大勢でやる遊びは出来なくなってしまったけれど、キャッチボールをしたり1on1をしたり、二人で遊ぶ時間は楽しかった。
その数日後、その男の子がイジメに遭っていることを知った。
「あいつ男のくせに女と遊んでるんだぜ? もしかして好きなんじゃねーの?」
クラスのリーダー的存在の子を筆頭に、物を隠されたり、黒板に落書きされたり、それはとても気分の悪いものだった。
私は、イジメの首謀者に殴りかかった。
弱きを助け、強きを挫く。
正義を愛し、悪を憎む。
それが、私の信念だったから──。
しかし悪者と呼ばれたのは、私だけだった。
相手の子に怪我をさせ、両親と共に相手の家まで頭を下げに行った。
「女が男に暴力を振るうなんて、何を考えてるんだ。二度とこんなことするな」
父から叱られ、私は納得できずに悶々としていた。
勧善懲悪に、男も女も関係あるのか。
あっちが先に嫌がらせをしてきたのに、手を出した方が悪だなんて納得できない。
じゃあなんで桃太郎は、鬼を退治して、皆に英雄と呼ばれたのだろう。
それと一体、何が違うというのだろう。
現実は、物語のようにはいかない──。
そして私と仲良くしてくれていた男の子は、学校に来られなくなった。
この件は、さすがに堪えた。
今までは、自分さえ我慢すれば良かった。
生まれた時からずっと我慢を繰り返してきたこともあって、私はとても我慢強い自覚があった。
しかし今回は、自分が女であるせいで、人を傷付けてしまった。
優しくしてくれたのに、助けることもできなかった。
自分のせいで人が傷付くのは、さすがに耐えられなかった──。
それからは、休み時間は一人で本を読んで過ごした。
現実世界に理想の自分を見出せない私は、物語の世界に没頭した。
自分がこの物語の登場人物だったら、どんな名前で、どんな人間で、どんな冒険を繰り広げるのだろう。
そんな妄想に耽っている時間が、一番楽しかった。
私はそのキャラクターを生み出す度に違う名前を持ち、時には海賊、時には忍者、時にはエクソシストになって、世界の平和を守った。
物語の中でだったら、空想の中でだったら、なんにだってなれる。
マッチ売りの少女が一本一本マッチに火を灯すように、私はその幻想に夢中になった。
誰に声が届かなくとも、誰にも振り向いてもらえなくとも、その火に手を翳している間だけは、冷え切った心が少しだけ温度を取り戻した。
──私はきっと、何者かになりたかったんだと思う。
そしてそれは、女ではない自分として。
この現実世界は、私が女に生まれた時点で詰みで、クソゲーだ。
来世を待つ他ない。
そんな諦念と付き合っていく代わりに、妄想の世界に自分の居場所を作り、自分を護っていた。
いつしかその幻想こそが、現実とのギャップをより思い知らせ、自分を苦しめる要因になるとも知らないで──。
そして中学に上がる頃、目を逸せない現実が飛び込んでくる。
まずは当然ながら、制服のスカートを穿いて、毎日登校しなければならないこと。
毎朝制服に袖を通す度に、自分が女であるという現実を突き付けられる。
男子が着ている学ランが、やけにかっこ良く見えて憧れた。
そして訪れる、第二次性徴期による体の変化。
脱衣所で服を脱ぎ、鏡に映る自分を見る度、絶望していく。
胸が膨らみ、骨格は丸みを帯び、徐々に女の体に成っていく。
(……なにこれ……女みたい……)
そのわけの分からないワードが脳裏を過って、いよいよ自分が分からなくなる。
(女みたいって、なに? 当然のことなのに……なんでそんなふうに思うの?)
いつしか空想と現実の世界の区別が、だんだん付かなくなっていったのかもしれない。
(……気持ち悪い……)
ここで改めて、実感し直した。
──自分は、異質だと。
私は、男でも、女でもない。
しかし同時に、私の中には、男の私と、女の私の両方が存在する。
また、現実の自分と、その自分を俯瞰から見ている自分も。
自分が常に二人居る感覚で、心と体が別々に離れてしまっているようで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
鏡に映る自分を見つめながら、衝動的にハサミで髪を乱暴に切った。
せめてもの抵抗で、そこからはずっとショートカットだ。
今まで母に髪を切ってもらっていたのを断り、少ないお小遣いで、近所の美容院に通った。
そんな自分の体と心に嫌悪感を抱きながら、終わらない自問自答の日々を送っていた。
考えれば考えるほど頭がパンクしそうで、体を動かしていないと、この悶々とした思いを発散できなかった。
しかしある夜、ランニングをする為玄関を出ようとすると、父に止められてしまった。
「女がこんな時間に外を出歩くな。危ないだろ」
『兄弟達はいいのになんで?』とは、もう聞かなかった。
帰って来る答えは、もう分かっていたから──。
夜がダメなら朝にしようと、毎朝早起きをして、朝食前に10kmのランニングをするのが日課になった。
走るのは、楽しかった。
一人でもできる運動だったから。
夜が明けて、朝陽が昇り、これから始まる一日に胸を躍らせながら、新鮮な空気を感じる。
なんでもできそうな、何者にでもなれそうな気分になって、朝陽を見る度に希望に満ち溢れた。
そして決まって、黄昏に裏切られる──。
夜に飲み込まれていく落日に、希望の終わりを見る。
──あぁ、今日も何も成せなかったと、何者にもなれなかったと、そんな惨めな気分にさせられた。
期待があるから、絶望がある。
それなら、始めから期待なんかしなければいいと思うのに、朝陽は強制的にそれを促してくる。
そんな天国と地獄のような毎日を、私は懲りずに続けていた。
そしてその頃もう一つ、夢中になったのが音楽だ。
ヘッドホンで耳を塞いで爆音の音楽を流せば、周りの人の声を掻き消すことができる。
そうして、自分の世界に一人で浸ることができる。
掻き鳴らすギターの音を聞く度、心臓の鼓動を打つようなドラム音を聴く度、気持ちが高揚して、まだ知らない自分を知れるような感覚に陥る。
それは、本を読んで物語の世界に惹き込まれる感覚と似ていた。
知らないものを、この体で知っていく快感。
音楽を聴く度、自然と体が動いた。
体を揺らして、踵でリズムを刻んで、妄想の中で私は、何度もライブハウスに居た。
ロックバンドに憧れて、兄のアコギを勝手に借りて弾いた時には、かなり怒られてしまった。
それでももし、あのまま練習を続けていられたら、もしかしたら今も楽器を続けてて、バンドとして活動している未来もあったかもしれない。
そして歌は、私にとっては縁遠い憧れの対象だった。
歌詞の素晴らしさに、ボーカルの魂が込もった歌い方に、心底心酔した。
まるで、私が言葉にできないことを、代わりに叫んでくれているような気分になれた。
歌手に対して憧れはあったけど、私には無理だろうとすぐに諦めた。
伝えたいことは山ほどあっても、喋ることさえ苦手な私には、想いを乗せて上手く歌うことなんてできない。
それに、歌うこと自体も苦手だった。
特に学校の合唱の時間は地獄で、女子で固まってソプラノやアルトのパート練習していてもどこか楽しくなくて、皆で合わせて歌う時は、一人でこっそりテノールやバスのパートを歌っていた。
そんな時にもう一つ、新たに憧れを抱いたのがダンスだ。
テレビで歌って踊る男性ダンスボーカルユニットを見て、そのかっこ良さに憧れを抱いた。
──ダンスはいい。
音楽を聴いて、体が自然と動いてしまうその衝動を、ただ体が趣くままに表現すればいい。
ダンスをちゃんと習ったことなんか無かったのに、何故か思ったように体が動いた。
まるで生まれた時から、リズムの刻み方を体が知っていたように思えた。
家族の目を盗んで、見よう見まねでダンスの振り付けを覚えて練習した。
朝のランニング中に、人目につかないちょうどいい場所を見つけて、橋の下をステージに見立ててて踊った。
普通ダンスは大きな鏡を見ながら練習するものなのだが、自分の姿を見る度に理想とのギャップに苦しんでしまうこの頃の私には、鏡がない方が都合が良かった。
誰もいない大きな川を客席に見立てて、誰の視線を気にすることなく踊る。
スポットライトを浴びて、歓声を受ける自分を空想して、全身を使って表現する楽しさに、病みつきになった。
心と体が一致しなくて、頭の中がぐちゃぐちゃでも、リズムに乗って体を動かすことで、全身に血液と酸素が巡っていく。
そんなふうにして、この難儀な性格と、ぶつけようのない葛藤を昇華していった。
伝えたいことがあるのに、喋ることが苦手であるということは、致命的だと思っていた。
しかしそんな私にとって、ダンスは最善の自己表現の方法だった。
言葉で上手く伝えられない分、その想いを全身で表現できる喜びを感じた。
そうして少しずつ、自分の世界の居場所を広げていった。
自分の中にある、今にも消えてしまいそうな、ちっぽけな火が消えてしまわぬように。
薪を焚べるように、どこかしこから燃料となるものを調達しては、その種火を護り続けていた。
だって、誰も用意してくれない。
だから、自分で用意するしかないのだ──。
学校では、誰とも連まず極力一人で居た。
誰かと関わると、心が疲弊してしまうから。
──人は苦手だ。
話をしたところで、分かり合えるとは思えない。
自分の異質さを思い知って、辛くなるだけだ。
一人でも平気だと思えることが、自分は一人でも大丈夫な自立した人間だということが、相変わらず自尊心を保っていた。
それに、無口で群れない一匹狼の人間はかっこいいと、まさに中二病真っ只中の憧れ方をしていたからだ。
しかし厄介なのは、年頃の女子が教室の隅で一人でいるというのは、なかなか難しいということだった。
一人でいる男子はチラホラいても、一人でいる女子は、どうしても目立ってしまう。
「藤堂さん。お昼一人で食べてるの? うちらと一緒に食べない?」
「ねぇ、次の移動教室一緒に行こうよ。ほら、教科書持っていってあげるね」
女子というのは、基本群れたがる生き物だ。
きっとあの子達から見たら、私は誰の輪にも入れない、可哀想な子に映るんだろう。
仕方なく一人になってしまっていて、誰かの救いの手を今か今かと待っているに違いない、と──。
きっと一人でいる私を黙認するのは、まるでイジメを見て見ぬフリをするようにでも思えてしまうのだろう。
そんな自分が嫌で、きっと声をかけてくるに違いないと、思春期を拗らせバチバチに尖り切った私は、そう解釈していた。
──望んで一人で居るのに。
これ以上傷付きたくなくて、自分の形を変えたくなくて、これ以上自分に絶望したくなくて、自ら一人で居ることを選んでいるというのに。
しかしそれを、上手く言葉で説明することができなかった。
──それも当然だ。
自分ですら理解できないことを、誰かに理解してもらうことはできない。
逆に分かったフリをされるのも癪だ。
もし悩みを打ち明けて、『分かるよ、その気持ち。大丈夫、私はあなたの味方だよ』と憐れみの言葉をかけられる方が、もっと気に入らない。
私の積年の葛藤を、人生の全てを費やしてきた問題を、簡単に分かった気になるなよ、と──。
理解されたい気持ちと、理解されたくない気持ちの両方を飼っていて、誰かに想いを打ち明ける気にもなれなかった。
何を話しかけられても口を噤んでいる私の態度は、相当気分が悪かったと思う。
それでも私は、軽々しく彼女達と話をする気になれなかった。
かけられた言葉に適当に頷くことも、その場限りの仲のいいフリをすることも、自分の心を裏切るような気持ちに思えていたのだ。
中学生ともなれば、思春期で、子供から大人へと変化していく時期だろう。
社会性を学んで、己自身の気持ちよりコミュニティを重んじるようになり、空気を読んで自分の立ち位置を探す。
そんな皆が、嘘吐きに見えた。
周りの目ばかりを気にして、適当に言葉を消費して、その場限りの嘘を平気で吐いて、言葉を軽く扱っている人間を軽蔑していた。
私の信条は、有言実行。
言ったことは何がなんでも守り通すのが、その言葉を口にした人間の責任だと考えていた為、私はプライドを持って、あえて口を噤んでいたのだ。
私の言葉は、決して軽くない、と──。
無視し続ける私をようやく女子達が諦めてくれた頃、夢中になったのがネットの世界だ。
ネットの世界なら、藤堂愛織を知る者はいない。
名前も顔も知らない誰かと、繋がっていられる。
好きな漫画や小説、音楽やダンスの話。
学校や家で話す相手がいない分、チャットでメッセージのやりとりをすることに夢中になった。
そこでは男のフリして、違う名前を携えて、空想していた理想の自分を現実にできる気がした。
そもそも現実世界での方が自分を押さえつけている為、男のフリをしているここでの方が、ありのままの自分に近い気すらしていた。
毎晩一緒にゲームをしたり、好きな漫画の話をして盛り上がった。
毎日くだらない話をして、気付けばとても居心地の良い場所になっていた。
【どこ住みなん?】
【田舎だよ、九州】
【え、俺も九州! 福岡!】
【まじ? 同じなんだけど】
【すごい偶然!
じゃあオフ会できるじゃん! 会おうよ!】
ネットでよく話すようになった相手と会おうという話になった時、どうするべきか迷った。
男を偽っていた嘘がバレて、失望されてしまうんじゃないか、と──。
それでも、ようやくできた本心を話せる友達だ。
どんな人なのか、会ってみたいという興味が上回った。
電車で二、三駅のところで待ち合わせをして、遂に実際会う日が来た。
「……え、おまえって、女だったの?」
相手の男はさすがに最初は驚いたようだったが、素直に謝ると、彼はいつも通りに接してくれた。
共通の好きな漫画や音楽の話をしているうちに、あっという間に一日は過ぎてしまった。
「今日は楽しかった。また……会ってくれる?」
「もちろん。俺ら友達だろ?」
そう言って帰って行った彼は、その後も私を避けることなく、変わらず仲良くしてくれた。
──よかった、失望されなくて良かった。
女だから友達になれないなんて、そう言われなくて良かった。
本当に、いい奴だった。
ようやく自分がありのままでいられる相手ができたのだと、浮かれてしまっていた。
そして再び二人で会うことになり、カラオケで楽しく歌っていた時のこと。
「好きです! 付き合ってください!」
「…………え?」
友達からの信じられない一言に、私は言葉を失った。
「……ダメ?」
「いや、だって、男友達として仲良くなってくれたんじゃ……」
「初めはそうだったんだけどさ。女だって知ってから、なんか意識しちゃって。顔めちゃくちゃタイプだし、どんどん好きになってっちゃってさ」
これは普通の人なら、感動できるラブストーリーなのかもしれない。
『私もずっと好きだったんだ』と言って、両想いであることを確認して、付き合ってハッピーエンドを迎える展開なのかもしれない。
──しかし私が抱いたのは、嫌悪感と絶望だ。
「……ごめん……。付き合えない……」
「なんで? 俺のこと、男として見れない?」
「そういう問題じゃなくて……」
「なぁ……お願いだよ……。じゃあさ、一回だけでいいから……」
そう言って彼は、私の腕を押さえ付け迫って来た。
「……え……。……やめて! 離して!」
思いっきり力を入れるのに、びくともしない。
振り払えない恐怖に、一瞬にして青ざめた。
その時、タイミング良くフロントからの電話が鳴って、彼の力が緩んだ瞬間、力一杯突き飛ばした。
そのまま部屋を出て、ひたすら走って逃げた。
恐怖と、悔しさと、情けなさと、絶望の全てで、目からは涙が溢れていた。
友達に裏切られたという思い。
好意を裏切りだと捉えてしまう、自分の異質さ。
そして──
掴まれた腕がアザになって、くっきりと跡が残る。
──振り払えなかった。
男との力の差を見せつけられて、自分がいかに弱い女という立場であるかということを、身を持って分からされてしまった。
今まで、父の言うことに反発する気持ちが止まなかった。
女だからと様々なことを禁じて、意地悪をされているような気になっていたのだ。
父は、私のことが嫌いなのだと。
女である私のことが嫌いで、だからいつもあんな意地悪を言うのだ、と──。
──しかし、本当だった。
女でいることは、危ないのだ。
夜遅くに一人で出歩くことも、自分より遥かに力の強い男と、二人きりで密室に居ることも。
私は誰かを守る存在ではなく、守られる側の弱者だったのだ。
そのことを身を持って思い知らされて、これまで堪えていたものが一気に目から溢れ出す。
──嫌だ、泣きたくなんかないのに。
泣くなんて、それこそ女々しい。
『これだから女は』と、『都合が良い時だけ涙を武器に使って』と、そんなこと言われたくない。
そもそも泣いてる自分なんて、解釈違いだ。
でも、こっちだって、好きで泣いてるわけじゃない。
それでも自分の意志とは相反して、勝手に出てくる涙を、止める術が無かった。
結局泣いたまま帰宅した私を、家族は心配した。
私は感情がめちゃくゃになったまま、どうにもならない積年の嘆きを、初めて言葉にして両親に零した。
「私……男に生まれてきたかった……」
言ってから、すぐに後悔した。
そんなこと言ったところで、どうにもならないと分かってる。
困らせるだけだと、分かっている。
それでも、私もまだ子供だった。
親に駄々をこねて、何か救いを得られるのではという、僅かな甘えと期待があったのかもしれない。
ひとつ溜息を吐いた後、父はこう言った。
「育て方を間違えたな」
その瞬間、自分を保っていた何かが、一気に音を立てて崩れていくのが分かった。
苦しさと戦いながら、それでも手離せずに抱えていた消えない憧れや、小さな小さな自尊心。
それらがこの瞬間に、意味の無いものへと成り果てた──。
そのまま家を飛び出し、また走り続けた。
いつものランキングコースを辿り、そしていつもの橋へ。
しかし今日は、橋の下ではない。
私は、橋の上に立っていた。
手すりによじ登って、高い場所から川を見下ろす。
──昔、絵本で読んだことがある。
自分の体の色が周りとは違うことに嘆き悲しんだ、醜いアヒルの子。
その子は池に映る自分の姿を見る度に、どんなに絶望したことだろう。
親を憎んで、兄弟を憎んで、そして自分の存在を憎んだに違いない。
それでも、童話が用意してくれる結末は、いつだってハッピーエンドだ。
実はその子は白鳥の子供で、大人になり、その大きな翼で空を自由に羽ばたくのだ。
私の人生にも、誰か用意してくれないだろうか。
そんな、都合の良いハッピーエンドを──。
『育て方を間違えたな』
父の言葉が、頭の中で響いて離れない。
──あぁ、なんだ。
私が十数年抱えてきた葛藤は、答えの出ない自問自答は、こんな一言で投げ出してしまえるものだったんだ。
間違えたと、失敗作だと、そんなふうにして簡単に切り捨ててしまえるような、軽いものだったんだ──。
全てが馬鹿らしかった。
自分を通そうとすることに、なんの意味もない。
誰かに分かって欲しいと言葉を投げたところで、なんの意味もない。
現実の自分は、いつだって理想の形をしていない。
そんな自分を、愛せるわけがない──。
全てを終わりにしてしまおうかと、その一歩を踏み出そうとする。
しかしどうやっても、足に力が入らない。
おかしいなと思って足元を見ると、ガクガクと震えていた。
なんの震えか、しばらくは分からなかった。
そして正面から強い風が吹いた瞬間、マッチの小さな灯が揺れるように、体が宙に浮いた。
反射的に『助けて』と叫ぼうとして、声にならなかった。
そのまま橋の上に倒れ込んで、恐怖で足が竦んでいたと分かる。
この後に及んで、死ぬのが怖いと感じてしまったのだ。
脳はそう思っていなくても、本能的に体が恐怖に勝てなかったのだ。
──思わず笑ってしまう。
『助けて』なんて、まだ誰かに縋ろうとしていることが情けない。
この苦しい人生を、このまま続けていくこと以上に、怖いことがまだあるって言うのか、と──。
(……馬鹿みたい……)
馬鹿正直に親に本心をぶつけてしまったことも、それをなんとかしてくれるんじゃないかという甘えがあったことも、全部、馬鹿みたいだ。
──そうだ、今日を私の命日にしよう。
藤堂愛織は、今この瞬間に死んだ。
橋から飛び降りて、跡形もなく粉々に散ったのだ。
残った僅かな灯に、ふうっと息を吹きかけて、火の後始末をしてしまおう。
私の物語は、ここでおしまいだ。
これからは、心を偽って生きよう。
本当の自分を分厚い扉で閉じ込めて、鍵を掛けてしまおう。
もう二度と、息を吹き返すことがないように──。
そして誓った。
私は、絶対にあんな大人にはならない。
自分の都合を子供を押し付けて、思い通りにいかなければ、失敗だったと言って簡単に手を離すような、そんな無責任な大人には絶対にならない。
自分の心を護れるのは自分だけだと、誰の手にも触れられないように、今ここで封印してしまおう、と──。
それからしばらくの間、私は声が出なくなってしまった。
医者に診てもらっても体にどこも悪い部分は無く、心意的なものだろうと診断された。
──ちょうど良かった。
声なんて、無くていい。
私が言いたいことも、伝えたいものも、もう何も無いのだから──。
全てを諦め、自分に見切りをつけた私は、それからとてもラクな人生を手に入れた。
主体性を捨て、なんでも周りに合わせて、周りが望む自分の姿を演じてみせた。
そうしているうちに、今まで心に引っかかっていたもの達が、嘘のように消えていった。
失われていた声はだんだんと戻って来て、高校生になる頃には、今まで通り喋れるようになった。
高校の進学先には、父親に勧められた女子校を選んだ。
もう、反発する気さえ起きなかった。
寧ろ、ちょうど良いとさえ思った。
もう二度と、消した炎が灯ることがないように、と──。
最初から男がいない世界なら、男と比べて絶望することもない。
髪も伸ばして、メイクも覚えて、周りの女の子達となんら変わりないように溶け込んだ。
ガールズトークに笑って相槌を打って、可もなく不可もないまま、あまり記憶に残らない三年間の高校生活は、あっという間に過ぎていった。
高校三年生の夏、進路希望調査票を渡された。
周りは大学進学が多かったし、兄も大学に行っていたが、私には必要ないと父に言われた。
女はどうせすぐに結婚するから、だそうだ。
あくまで結婚するまでの短い社会人経験は、父が知り合いの会社の事務員として、既に話をつけていた。
──もう、何も感じなかった。
進路が決まって、これからの人生プランが決まって、私は社会人になるまでの半年間を、どう過ごそうか考えた。
就職してしまえば、きっとしばらくは仕事で忙しくなるだろう。
そんな時に街中で目にしたのが、ダンススクールの生徒募集の貼り紙だった。
結局あれから、中学の時のあの夜から、橋の下で踊ることは無くなってしまっていた。
テレビであの男性ユニットを偶然見かけても、再び憧れの対象になることは無かった。
しかし、折角新しく始めたことなのに、中途半端にやめてしまっていたことが、少しだけ心残りだった。
あと半年で無くなってしまう自由な時間で、その仄かな心残りを消化しようと考え、私はそのスクールに申し込んだ。
しかしそのスクールは、ただのダンススクールでは無かった。
ボーカルレッスンやダンスレッスンを現役のプロが指導してくれる、大手芸能事務所の所謂アクターズスクールだったのだ。
どうりでレッスン費が高いわけだと気付いた時には、既に申し込み用紙を郵送してしまっていた為、とりあえず一旦通ってみることにした。
家族や学校に内緒で、こっそりアルバイトをすればなんとかなる、と──。
そして、初めてのレッスンに参加した時、そのレベルの高さと生徒達の熱に驚かされた。
まだ小学生の子供達が、自分よりも若い学生達が、本気でプロを目指して真剣にレッスンに喰らい付いている。
その姿に、ひどく感銘を受けた。
そして初めて見る、壁全体の大きな鏡に映った、踊る自分の姿。
目の前で踊る先生の振り付けを必死に覚えて、周りの生徒達に負けじと、自分の持てる全ての力を振り絞って、喰らい付いていく。
その感覚は、初めての快感だった。
初めてチームを組んで、人とダンスを合わせて、そして見る者の心を動かすパフォーマンスを、全員で作り上げていく。
──消した筈の炎が、ポッと灯る音がした。
私の信条は、有言実行。
そしてまた、思い立ったら即行動。
心に灯った炎が消えてしまわぬうちに、次の燃料を用意しなければならない。
今やらなければ、きっと後悔する。
そんな後悔を抱えたまま、選択から逃げたダサい自分を抱えたまま、これから一生を過ごしていくなんて、そんなのはごめんだ──。
翌年一月、私は上京を決めた。
学校は既に自由登校になっていた為、後は卒業式に出さえすれば良かった。
両親に話すと、当然だが激怒した父に『親子の縁を切る』と言われた。
少なからず心は痛んだが、迷いはしなかった。
その日中に荷物を纏め、そのまま一人で東京に向かった。
初めての都会、初めての一人暮らし。
初めての、自由──。
どんな服を着ようが、どんなに帰りが遅くなろうが、文句を言われることは無い。
自分の意思の趣くまま、やりたいことをいつでもやりたい時にやれた。
既に18歳ということもあり、アパートの契約だって、自分だけの名義でできた。
親の許しを得なくても、なんでも自分の意志のままに行動できる大人という生き物は、なんて素晴らしいものなんだろうと、初めて本当の意味でも自由になれた気がした。
そして生活費を稼ぐ為にアルバイトをしながら、一人でダンサーとしての活動を開始した。
まずは、活動する為の名前を決めた。
自分の名前が好きではなかったこともあり、新しく付けることにしたが、今まで幾千と決めてきた空想上での名前では無く、あくまで自分の名前に近しいものから取りたいと考えた。
そして考え付いたのが、【SHIKI】だ。
愛織から愛を抜いて、織を訓読みから音読みにして【シキ】だ。
響きがかっこいいし、何より愛が分からない自分にとって、愛を取り除いて失くすことは、皮肉が効いていていいと思った。
【SHIKI】と実際に紙に書いてみて、その文字をじいっと見つめると、本名よりも自分の本当の形に馴染む気がした。
最初は呼ばれ慣れなかったけれど、その名を呼ばれる度に、新しい自分に生まれ変われた気がして、誇らしい気持ちになった。
事務所に所属などはせず完全にフリーである為、出場するイベントの手配や、音源や衣装の手配も全て自分一人で行った。
もちろん大変だったが、誰にも気を遣わず自分で自分の責任を取れることは、大きな喜びでもあった。
初めて出たイベントは、ライブハウスでのショーケース。
チケットノルマはあったが、上京してきたばかりでそんなツテがある筈も無く、バイト代から払うことになった。
やりたいことをやる為の投資だと思えば、全く苦だとは思わなかった。
小さなライブハウスとは言え、初めてステージに立って照明を浴びた時の感動は、相当のものだった。
あの橋の下から思い描いた景色が、何度も頭の中で妄想していた場所が、今、目の前にあるのだ、と──。
一番苦労したのは、仲間との交流だ。
イベントに出る度、共演者と苦手ながらもできるだけ話し、打ち上げや飲み会等にも積極的に参加した。
昔テレビで見て憧れた人達のような、グループでの活動がしたいと、そんな想いがあったからだ。
インストだけの音楽だけではなく、やはり歌詞がある歌入りの音楽で踊りたいという気持ちが強かった。
しかし自分は歌うことに向いていない為、メインボーカルではなくパフォーマーという立ち位置で、その歌をダンスで伝える役割を担いたい、と──。
同じくソロで活動している共演者に、グループを組まないかと話を持ちかけたりした。
しかし、なかなか上手くいかない。
一生懸命愛想良く、できるかぎり優しく謙虚に接した筈だったのに──。
とある歌手としてソロ活動をしていた男に、グループを組まないかと誘った時のことだ。
快くOKしてくれて、その為の話をしようと持ちかけられ、待ち合わせ場所に向かった。
そこは、明らかにラブホテルの前だった。
「え、俺に気があるから誘ったんでしょ?」
──まぁ、こんなかんじだ。
生まれ変わったつもりでいたのに、結局私は変われないままだった。
どこに行ったって、女であるという事実が足を引っ張る。
だからと言って、女の子ばかりの可愛いアイドルのような活動をしたいとは思えなかった。
そしてこんなことが、一度や二度じゃなかった。
パフォーマンスに惚れ込んだ男に声をかける度、同じようなことが起きてグループを組むまでに至らなかった。
皆、結局色恋のことしか考えていないのかもしれない。
そう思うと、虚しくなった。
その後も何人か声をかけて、一時的にグループを組んでみたりもしたが、一緒に踊っていても、何かしら熱量の差を感じずにはいられなかった。
練習に平気で遅れて来たり、練習を増やそうと言っても用事があると断られ、結局完成度の低いパフォーマンスにしかならなかった。
これは価値観の違いである為、決してそれを強要することはできないのだが、どうしても、遊び半分のような感覚で活動している人が多いと感じてしまった。
元々都会に生まれ実家暮らしで、いつ辞めても親に頼れるような人達と、全てを捨ててここで成功しなければもう後がない私の境遇とは、全く覚悟が違うのかもしれない、と──。
そんな落胆する想いから、私は仲間集めを諦め、結局そのままソロとして活動した。
相変わらずチケットノルマは実費のまま、経験代だと思って半年ほど活動を続けた。
活動をしながらも様々な事務所オーディションを受けたが、縁は繋がらなかった。
そしていくつ目かで申し込んだのが、紫波プロダクション主催の、ダンスボーカルユニットオーディションだ。
今まで受けたどのオーディションより、応募者も多く大規模なものだった。
書類審査を通過し、二次選考での歌とダンスを披露し、狭き門の三次審査も通ることができた。
ここからは、初めての合宿審査だ。
合宿の様子は常にカメラが回り配信されており、それが何よりものプレッシャーだった。
最終選考に残ったのは、男女合わせて六人。
歌のレッスンは正直苦手だったけれど、歌自体は嫌いでは無い為、自分なりに精一杯取り組んだ。
本格的なボイストレーニングは、やればやるほど自分の声が出るようになって、楽しかった。
そして何より嬉しかったのが、周りのレベルが高かったこと。
当然のように皆歌もダンスも経験者で、狭きオーディションを潜り抜けてきただけあって、やはり上手い。
そして皆、ギラギラと野心に燃えているように見えた。
並々ならぬ想いで、このオーディションに懸けているのが分かった。
そんな環境で共にオーディションに挑めることが、まず嬉しかった。
「……ゼェ……ゼェ…ゼェ……」
──ただ一人、この男を除いては。
ダンスレッスンが始まってまだ三十分ほどしか経っていないというのに、肩で息をして項垂れている。
たったこれだけの時間踊っただけで、こんなに息が切れているようでは、二時間あまりのライブを完走できる筈が無い。
「……なんだよ……」
「……別に」
その男は、私の視線を感じて睨み付けてきた。
初対面の人と話すのは、相変わらず苦手だ。
「だったら見てんじゃねぇよ。うぜぇ」
初対面にも関わらず喧嘩腰なその男に、私は内心動揺した。
何かを言わなければと思って、言葉を探す。
『息切れしてるけど大丈夫?』とか、『苦しいなら一回休む?』とか、『ダンスやったことないの?』とか、『なんでオーディション受けようと思ったの?』とか、口から出す前に、様々な質問を思い浮かべてシュミレーションしてみる。
「……なんでここにいるの?」
「あぁ!?」
──いけない、途中を端折りすぎたかもしれない。
案の定その男は額に青筋を浮かべ、会話はそれっきりだった。
レッスン後に参加者のプロフィールを見て、先程の男が伶という名前だということを知った。
どうやら、自ら作詞作曲を手掛け、曲を生み出すことができる才能の持ち主らしい。
それは、自分には未知の世界の凄い才能だと思ったが、仮にメンバーとして共にステージに立つことになった場合は、厄介だと感じた。
ライブ終盤までスタミナが持つのか、ちゃんと皆と揃えて踊ることができるのか、と──。
何より、踊っていて楽しそうじゃない。
『なんでこんなことしてるんだろう』って、顔にそう書いてある。
そんな半端な覚悟の人と、一緒に踊るなんてごめんだ。
そして、何より気に入らなかったのは──
「腹の立つ女だな」
男だ女だと、グチグチ煩いのだ。
まるで自分が優位な立場から見下しているかのような物言いに、心底腹が立った。
「……口の悪い男」
売り言葉に買い言葉で、私もそんな返しをした。
こいつとは気が合わない。
心底気に入らない、と──。
まさかそんな伶と、いつか共に作品作りをすることになるとは、夢にも思わなかった。
そして私は、晴れてオーディションに合格した。
まさかの最終審査に残った六人全員合格ということで驚いたものの、それでも憧れていた場所に立てることが嬉しかった。
これからは、一人じゃない。
この仲間と共に、切磋琢磨しながら戦っていくのだと。
仲間ができたことが、一番嬉しかったかもしれない。
しかしそんな喜びも、一瞬にして掻き消された。
「いいか、最初に言っておく。俺はおまえら素人と馴れ合うつもりはない。表では最低限仕事はするが、対等だなんて勘違いするなよ。自分の立場をしっかり弁えるように」
合格後初めてのミーティングで、陽七星はそう言い放った。
それに噛み付くように、海が続く。
「なによ偉そうに。歌手としてのキャリアは全然ないくせに。ま、あたしだって表以外で、あんたと仲良しこよしする気なんかないわ。あんた達も、あたしの足引っ張んないようにしなさいよ」
オーディションの時から分かってはいたが、やはりこのグループは、歴の長いこの二人を中心に回っていくようだ。
「でもさぁ、裏でギスギスしてると、ファンにはその雰囲気伝わっちゃうんじゃないかなぁ。今の時代、芸能の世界に求められるのは、刺激より安心感だと思うし」
「誰に言ってやがる。俺様の演技力を舐めてんのか? そんなんパンピーに見破られる筈ねぇだろ。おまえらがヘマしねぇ限りな」
「ふーん、まぁいいよ。僕は僕で上手くやるし」
陽七星の圧に怯むことなく、小柄な勇為は堂々と自分の意見を持っていた。
「美生も……できれば仲良くやりたいかな……。これからはライブだけじゃなくて、いろんなメディアで喋ることになるんだろうし……」
「話聞いてた? 今は表と裏の使い分けのことを言ってるんだけど」
勇為に同意するように美生は言った筈なのに、勇為は突然手の平を返したらように冷笑を浮かべた。
「……そんな言い方しなくたっていいじゃん」
「分かりやすく説明してあげないとぉ、お花畑ちゃんには理解できないのかなーと思って」
「……むかつくっ!」
この二人も、何かと気が合わないようだ。
「とにかく、裏では『陽七星さん』だ。いいか、おまえもだ。ここでは年上だろうが関係ねぇからな」
「却下だ」
短い言葉で、今度は伶が反論する。
「なんだと? ど素人が俺様に意見してんじゃねぇよ」
「そんなことまで決められる筋合いはねぇよ。俺の常識は、年功序列だ。俺は俺の好きにやらせてもらう」
こんなかんじで、ようやくできた念願の仲間は、スタートから最悪の雰囲気だった。
そのことに悲しみを覚えながらも、デビューへの準備に取りかかった。
私は打ち合わせで、デビュー曲の振り付けを任せてもらえないかと打診した。
私達のデビューは、社運をかけた大規模プロジェクトの集大成だ。
当然、プロの振付師に依頼する予定だった筈だ。
「いいじゃないか。やってみてよ。まずは出来栄えを見てから、最終的にそれでいくかを考えよう」
大人達が反対する中、頼さんが庇うようにそう提案してくれた。
ここで結果を出せば、今後も任せてもらえるようになるかもしれない。
私は気合いを入れて、オーディション以上にそこに懸けた。
今まではソロでやってきた為、大人数のフォーメーションを組むのは至難の業だった。
改めて振り付けを一から勉強し直して、最低限の知識は頭に入れて挑んだ。
そしてフォーメーションを組むことは、何かと得意で、すぐに技術として身に着いた。
それはきっと、私が物事を俯瞰して見ることに長けていたからだ。
生まれながらに、自分のことをずっと俯瞰しているもう一人の自分が居て、昔はそいつと気が合わなくて決別することになったのだ。
そんな幼い頃から自然と培われてきた能力に助けられながら、私は六人組のフォーメーションを次々と考え組んでいった。
──とは言っても、まずは曲ができなければ始まらない。
曲作りは、伶が全て任されているのだ。
私はソワソワするのが抑えられなくて、何度も催促をしに行った。
「曲、できた?」
「ねぇ、まだ?」
「締め切り、間に合うの?」
打ち合わせで顔を合わせる度、伶に話しかけに行っては進捗を聞いた。
「ねぇ、そろそろ──」
「っっっせーんだよこのクソ女ぁ!! 黙って待ってろっつってんだろぉ!!」
いつも以上に額に青筋を浮かべて、クソデカボイスで叫んでいた。
会う度、伶は憔悴していた。
顔を青ざめて、死人みたいな顔で、呻くように頭を抱えていた。
曲を作るということは、そんなに大変なことなのだろうか。
──いや、大変なのは分かるにしても、どうしてそんなに苦しみながらやっているのだろう。
分娩室で一晩中戦う妊婦のように、生み出す度に命を削っているような、そんな創作の仕方だ。
そんなことでは、体がいくつあっても足りない。
──私は真逆だ。
振り付けを考える度、それを自らの体で表現する度、水を得た魚のように、生きる喜びを感じる。
新しい自分を知れる気がして、何度でも生まれ変われる気がして、楽しくて仕方がなかった。
──嫌なら、やめればいいのに。
そんなに苦しみながら、周りに当たり散らかしてまでやるくらいなら、こんな場所に来なければ良かったのに。
伶のことが、理解できなかった。
自分で選んでここに来た筈なのに、どうしてそんな、傷付いた顔をするんだろう、と──。
──と思ったのも束の間、曲を完成させた後の伶は、分かりやすく上機嫌だった。
ガラにも無く鼻歌なんかを歌って、自信に満ち溢れた様子だった。
そんな伶を見て私は、若干引いていた。
感情の振れ幅が大きすぎて、私だったら絶対疲れてしまうと、憐れに思った。
でも、伶が作り上げた曲は、本当にいいものだった。
完成したデモを初めて聴いた瞬間、振り付けのイメージが続々と湧いてきた。
直感で音にハマって、すぐに形になった。
早速翌日、出来上がったものを見せようと伶を呼び出すと、あんなに機嫌が良かった伶は、怪訝そうな顔をした。
「……は? いやいやいやいや、いくらなんでも早すぎねぇ!?」
そんなことを言われても、時間をかければいいというものでもないだろう。
いつも直感で振り付けを考える私にとっては、その反応の方が驚きだった。
そして実際に踊ってみせると、伶はなんか違うとイチャモンを付けたくせに、その指摘はとても曖昧で、全く具体性が無い。
(……めんどくさ……)
その翌日までに考えていったいくつかの案も、伶は何かと理由を付けて、首を縦に振らなかった。
最早それは、当てつけのように思えてしまっていた。
自分は数週間頭を抱え続けていたのに、短時間で完成させる私のやり方が気に入らないのだ、と──。
おまえももっと苦しめと、そんなふうに意地悪をされているようにさえ思えた。
「曲を作ってる伶は、なんか苦しそう」
嫌味を言うつもりは無かったのだが、不満に思っていたことが、つい口に出てしまった。
いつものようにブチ切れられるかと思ったら、伶は珍しく傷付いたように、言葉を無くして項垂れた。
「……おまえさぁ、今までずっと一人でやってきたん?」
「そうだけど」
「……はっ、だろうな。おまえが羨ましいよ。俺だって、一人のままだったらどんなにラクだったか……」
そう言って伶は、憐れむように鼻で笑った。
激昂された方が、まだマシだったかもしれない。
──何も知らないで。
私には私の、孤独には孤独の苦しみがあるのに。
それなのに怒る気になれなかったのは、憐れみを浮かべている伶の言葉は、自分を傷付ける為に発したもののように思えたからだ。
──彼は、面倒臭い男だった。
人を皮肉るように毒を吐く時、決まって自分をも嘲笑うように痛みを喰らっているのだ。
まだ陽七星のように、相手を傷付ける目的だけで攻撃する方が、よっぽど分かりやすい。
傷付けられたのに、何故かこちらが悪いことをしたような、そんな気持ちになってしまう。
弱い者いじめをしているようで、自分が情けなく思えてしまうのだ。
「……伶って、ドMなの?」
「あぁ!?」
──おっと、また端折り過ぎてしまったかもしれない。
それでも落とし所を付けられなかった私は、そういうものだと思おうとした。
伶は傷付くのが好きで、自ら傷付きに行く人で、そういう趣味の人だと思うことにした。
そんな私の言葉に、いつもの調子で額に青筋を浮かべる姿に、何故かホッとしてしまう。
だからガラにも無く、フォローしようという気になったのかもしれない。
「ちゃんと楽しいよ、この曲」
欲しい言葉を貰えた子供のように、伶の目が一瞬だけ輝くのを見逃さなかった。
それを見て、確信した。
──伶も、一人なんだと。
さっきあんな言い方をしたから、てっきり誰かと一緒に曲を作ってるのかもしれない、という考えも過った。
だけど一人じゃない人が、こんな目はしないだろう。
誰かの言葉で安心したような、埋めたい孤独や寂しさを抱えているような目は──。
──人は苦手だ。
何を考えているか分からないし、何を伝えたらいいのかも分からない。
だけどそう思っているのは自分だけじゃないと思えることは、一人で寂しいと感じるのは、自分だけではないと思えるだけで、孤独は少し和らぐ。
戦っているのは自分だけではないと、そう勇気が湧いてくる。
「絶対売れさすぞ」
「当然」
試行錯誤の末出来上がった振り付けを、今度はメンバーに渡さなければならない。
しかし、これがまた、苦難の作業だった。
「おい、なんで俺様がセンターじゃねぇんだ」
大人の許可は出たものの、やはり一筋縄ではいかない。
「それはこっちの台詞よ。こんな奴とセンター割りなんて聞いてない。フォーメーション変更しなさいよ」
ダンスの振り以前に、まず曲始まりの立ち位置で揉めた。
「六人で偶数なんだから、二、二、二で左右対称にした方が、バランスいいでしょ」
「これだから素人は。肝心な一発目で、誰がメインのグループか分からせる必要があるだろ」
「だから、なんであんたがメインって前提なのよ。曲的にもあたしが主旋律なんだから、どう考えてもあたしがメインでしょ」
「は? 主旋は俺の音だ。おまえがハモリだろうが」
「何言ってんのよ。あんたが下ハモよ」
陽七星と海の言い合いは決着が付かず、なかなかリハを進めることができない。
「伶、あたしの方が主旋よね?」
「いいや俺だろ」
「どっちも主旋のつもりで作ってる。決めんのは聴く側だ。だからフェアにセンター割りでいいだろ。その方が先入観無しに、歌唱力とパフォーマンスの差で決まる」
助け舟を出してくれたのか、面倒だっただけかは分からないが、伶の提案に二人は乗った。
それでも振り写しを進めていく度、ここはもっとこうしろだとか、この方がいいだとかやいやい言われて、なかなか思うようには進まなかった。
「この調子じゃあ、今日中に最後まで行くのは無理そうだなー」
「やっぱり、外部の人に依頼した方が良かったんじゃないかなぁ……」
「いやいや、あの二人だったら誰にでも噛み付くでしょ」
「別に勇為に言ってないじゃん。いちいち突っかかって来ないでよ」
「だったら一人でぶつぶつ言うのやめたら? 誰にも相手にされないから、親切心で拾ってあげてるんだけど?」
「……っ……むかつく!」
勇為と美生もこの調子で、振り写しは結局その日だけでは終わらず、日を跨ぐことになった。
今までは、自分一人さえ納得すれば、それで決定できた。
振り付けだって、当日や本番直前に、自分のフィーリングで自由に変えることができた。
しかしグループでやっていく以上、想いや意見を擦り合わせながら作っていかなければならない。
グループでやりたいと自分で望んだ以上仕方の無いことなのだが、自分にもプライドがある為、なかなか落とし所を付けられず大変だった。
一人でいることも、誰かといることも、難しい──。
そんな大変な振り写しが終わり、デビューに向けて、様々なメディアに出ていくことになった。
たくさんのカメラを向けられることや、雑誌等で自分のことを話すのは相変わらず苦手だったけれど、それでも楽しい日々を過ごしていた。
そしてひとつ気になったのは、衣装のこと。
用意されていた衣装が、可愛らしいスカートだったのだ。
今までは、衣装も自分の好きなものを身に付けることができた。
しかしこれからは、そうもいかない。
「……あの、すみません。衣装を他のものに変えていただくことは可能ですか?」
スタイリストさんにそう言うと、その時は嫌な顔をすることなく、予備のズボンに変えてくれた。
しかしそれも度々重なると、グループとしてのコンセプトでスタイリングしているのだから、毎回変えるわけにはいかないと言われてしまった。
私は上手く伝えられる自信が無いまま、頼さんに相談した。
ダンスが踊り辛いとか、性に合ってなくて苦手だとか、そんな適当な理由を付けて。
「そうなんだ。まぁでも確かに、今のご時世ジェンダーレスが主流だしな。俺から上に話しておくよ。これからも、そういうことは遠慮なく言って」
優しくて頼りになる頼さんは、理想的な大人の男で、仄かに憧れていた。
こんなふうに、自分の要望を文句ひとつ言うことなく聞いてくれる大人は、初めてだった。
「織の作ってくれたダンス、めちゃくちゃ良いかんじじゃん。おまえに任せて良かったよ。俺の目に狂いはなかったな」
その言葉が、心底嬉しかった。
『おまえに任せて良かった』と、そんなふうに言われたことも初めてだったから。
誰かに認めてもらえることは、心から嬉しい。
この人に認め続けてもらえるような、そんな仕事をこれからもしたいと思った。
そしていよいよ、待ちに待ったデビューライブが訪れた。
朝早くに会場入りして場当たりをした時点で、会場の大きさとステージの広さに圧倒されていた。
今まで立ったことがあるのは、数十人しか入れないような小さなライブハウスだ。
これから何千人という人達の前でパフォーマンスするということに、緊張と動揺を隠せなかった。
本番五分前になって、皆で舞台袖に移動する。
私が昔憧れていたグループの舞台裏の映像では、こんな時にメンバー全員で、円陣を組んで気合いを入れていた。
誰かがやろうと言い出すんじゃないかとソワソワしてみたものの、皆自分のことに精一杯で、そんな雰囲気ではなかった。
私と同じように、緊張と動揺を抱えながら、それでもこれから始まる新しい舞台への興奮と期待に、胸を躍らせているようだった。
必死にそれを飼い慣らそうと、自分自身と会話をするように、長く息を吐く。
ここで、気付く。
──あぁ、この人達も、一人だったんだ。
ずっと一人でやってきたから、こんな時、自分で自分の感情を飼い慣らす方法しか知らない。
誰かと声を掛け合って、互いを鼓舞するようなやり方は、知らない寂しい人間なのだ、と──。
私と同じだと、そう思った。
信じられるのは自分だけで、選りすぐりの孤独を携えて、その瞬間を待っている。
それも少し、昔見たヒーローのように思えた。
そうして、一歩を飛び出したその先待っていたのは、眩しすぎるスポットライトの光と、割れんばかりの客席の歓声。
まるで宇宙にでも来てしまったかのような、未知の空間だ。
そしてイントロが流れて、その喜びを体全体で表現するように、力の限り踊った。
この楽しさを、喜びを、幸せを浴びる為に、息をしてきたんだと思えるほどに──。
私の目指してた場所は、ここにあったんだ。
この場所に立つ為に、ここまで生きてきたんだ、と──。
そう思えるようなステージだった。
メンバー達と視線が交わることは無くても、同じ方向を向いている。
それはとても頼もしく、自分が思い描き、憧れていた理想の世界でもあった。
「SHIKIです。今日は楽しんでいってください」
私の言葉に、歓声を上げて客席が応えてくれる。
一度にたくさんの人と会話をしている気になれて、戸惑いながらも喜びを覚えた。
「SHIKIー!」
「SHIKIちゃーん!」
私のメンバーカラーである黄色のサイリウムを振って、生まれ変わった私の名を呼んでくれる。
蝋燭に灯した火の光のように、あの頃思い描いていた世界へと、導いてくれる。
──ずっと、何者かになりたかった。
誰かの生きる理由になりたかった。
私が数々の物語に、音楽に、ダンスに助けられたように、それらによって居場所を見つけられたように、今度は私が、誰かの導になりたかった。
それを叶えられるのは、この世界しかない。
ダンスという武器を携えて、ステージから皆を見渡して、いつか誰かの希望となろう。
たくさん遠回りもしたけれど、これが私の求めていた場所だ。
そんな幸せに、酔いしれた──。
そんな幸せ絶頂期のデビュー直後、ひとつ事件が起きた。
体調不良だった伶が、ライブ中にステージから転落したのだ。
幸い大きな怪我では無かったが、転落の瞬間ファンの悲鳴が上がり、その恐怖と不安の余韻は、終演後まで続いていた。
伶のファンは泣き出し、他のファン達も、これまでのせっかくの楽しい時間が掻き消されてしまったように、皆笑顔が消えてしまっていた。
プロとして、こんな失態は赦されない──。
伶には、体調管理や体力作り等について、常々煩く言ってきた。
理性を無視して感情だけで動く伶は、自分の体に無頓着だ。
私達にとってこの体は大事な商品なのに、伶はそれを大事に扱おうとしない。
自らを傷付けるように、まるでそれこそが、本当の目的だとでも言うように──。
終演後に医務室を訪れると、足に包帯を巻いた伶は、何故か一人で笑っていた。
その姿に、思わず開いた口が塞がらなくなる。
しかしそれは、すぐさま怒りに変わった。
(何ヘラヘラしてるの? 自業自得で怪我して、ファンに迷惑かけたっていうのに、なんでそんなふうに笑っていられるの?)
伶の自己管理の疎かさに、ファンに対しての不誠実さに、心底腹が立った。
それを包み隠すことなくぶつけると、伶はいつもの諦念の表情を覗かせた。
まるで私が間違っているとでも言うようで、更に腹が立った。
伶の考えていることが、全く理解できなかった。
共に創作をするようになって、少しは分かり合えた気がしていたのに──。
そして、あっという間に月日は過ぎ、活動は順調のまま年末を迎えた。
一年の活動が実り、私達BLUE BIRTHは、映えあるレコード大賞で最優秀新人賞を獲ることができた。
こんな風に表彰されるのは初めての経験で、私達の存在が世に認められた証を貰えた気がして、本当に嬉しかった。
そしてもうひとつ、淡い期待があったのだ。
日本中の誰もが知っている大きな賞を獲ったことで、家族にも認めてもらえるんじゃないか、と──。
ダンスや芸能のことは全く分からない父も、賞を取って世間が評してくれている姿を見れば、これは凄いことなんじゃないかと、そう思ってくれるかもしれない。
そんなふうに考えて、期待してしまった。
緊張しながらも胸を張って授賞式に参列し、その後の打ち上げでは、不慣れながらも関係者やスタッフとたくさん話をした。
おめでとうと言われる度、私達の作品が褒められる度、ちっぽけだった自分の存在が、とても誇らしいものに思えたのだ。
送り迎えをしてくれる筈のマネージャーが、間違って飲酒してしまい、そう距離も遠くなかった為、私は家までの道を歩くことにした。
一人で歩くのも、走るのも好きだ。
自分自身と対話してる気分になって、自分の調律をするようで、心が穏やかになっていく。
そんなふうに一人で気ままに行きたかったのに、その後を伶が着いて来る。
送りを頼まれて心底面倒臭そうに、それでもお節介を焼く伶は相変わらずだった。
──嫌だと思うなら、断ればいいのに。
しかし今日は、そんなお節介も許せるくらい気分が良かった。
こんな最高な夜は、誰かと話しながら歩くのも、悪くないかもしれない。
そんなふうに気分良く話していたのに、やはり伶はいつものように水を差す。
「おまえにも人の心があったんだな。……初めて振り付けした時、思い入れの欠片も無いって、涼しい顔してたからさ」
伶の言葉に、初めてデビュー曲の振り付けを見せた日を思い出し、やけにつっかかってきた理由が分かる。
──そうか。
伶は思い入れが強すぎるから、0から1を生み出すにも、苦しくて仕方が無いのだ。
思い入れとは、言わば執着だ。
その執着が足枷となって、伶を苦しめているのだと分かる。
私は、創作は楽しく在るべきだと考えている為、そんなものに囚われるなんて、馬鹿みたいだと思っていた。
でも、だからこそ、伶の曲は人の心を打つのかもしれない。
何かに執着して、苦しみながら傷付いて、その中から生み出したものだからこそ、同じような傷を持つ人達に刺さるのだろう。
今はまだ稀薄でも、いつの日かこのグループにも、そんな思い入れが持てたらいい。
執着して、かけがえのない場所になって、時にそのしがらみに苦しみながらも、それを昇華できるような作品を生み出せたらいい。
引っかかっていた謎が解けて、再び上機嫌になれた。
こんなふうに互いに答え合わせをしながら、誰かと物作りをするのも悪くない。
「あ、コンビニ寄っていい? 明日のご飯買いたくて」
「はぁ? おまえコンビニ飯なんか食ってんのかよ」
「……上京してからずっとそうだけど?」
またもや水を差すように、伶が怪訝な表情を浮かべる。
そして難しい顔で考え込んだかと思えば、再び面倒臭そうな顔をしたりと、百面相をしていた。
なんなんだと思って呆れていると、伶はバツが悪そうに背中を向けた。
「おい、ちょっと付き合え」
「なに? こっち遠回りなんだけど」
家とは違う方向に歩き出す伶に、今度は私が怪訝な表情を浮かべながら、渋々着いて行く。
しばらく歩いてから、とあるマンションの前で足を止めると、伶は『ちょっとそこで待ってろ』と言って、その建物の中に消えていった。
伶の自宅なのだろうか。
なんの説明も無いまま寒空の下で、夜空を見上げ満点の星を見つめる。
東京は星が見えない街だなんて聞いていたけれど、大嘘だ。
もちろん、地元の山奥から見る景色には敵わなくても、ちゃんとこうして狭い空にも、ちゃんと輝きを放っている。
きっと、東京の人は目が回るほど忙しくて、星なんかゆっくり見上げる時間が無い、という意味なのだろう。
確かに上京してから、こんなに落ち着いた無垢な時間を味わうことも、今までなかったかもしれない。
何かしなければという焦燥感に駆られて、いつしかこんなふうに、空を見上げ物思いに耽ることも無くなっていたのだ。
ふと、この空が繋がっている地元のことを想う。
いつか家族とまた話ができるようなことがあれば、その時はちゃんと言えるかもしれない。
今まで育ててくれて、ありがとう、と──。
勲章を携えて、世間から認められて、世に出しても恥ずかしくない大人になったよと、心から言えるかもしれない。
浮かれていたせいで、感動の再会なんかを妄想したりして、自分が可笑しくなってしまった。
それほどに、いい夜だった──。
「ほらよ」
戻って来た伶から手渡されたのは、いくつかのタッパーが入ったビニール袋だった。
「なにこれ」
「この仕事は体が資本だろ。今が勝負時だってのに、栄養偏って体壊したりしたら台無しだろ。ちったぁプロとして、自分の体に気ぃ遣え」
「伶がそれ言う? 体力無いくせに根性だけで無理して、すーぐ倒れるくせに」
「うっせ。俺は筋トレより、美味い飯で体を労ってんだよ」
相変わらず、お節介な母親のような言い草だ。
伶と話してると、たまに自分が幼い子供のように思えて、居心地が悪くなる。
「説教は分かったけど、で、これはなに?」
「だから、飯だよ」
「飯? ……貰い物?」
「……作った」
「誰が」
「……俺」
その言葉に、思わず私は、口を開けたままポカンと固まってしまった。
まさかの出来事に、ツッコミどころが多すぎて、頭が追いつかない。
「……え、伶が? 料理できんの? そのかんじで?」
「わりぃかよ」
耳を真っ赤にして、ぶっきらぼうに言い放つ伶に、私は思わず声を出して笑ってしまった。
亭主関白な父を持つ家庭環境から、男が料理するという事実だけでも驚きなのに、まさか伶のようなガサツな態度の男が料理をしているなんて、想像してみたらやはり可笑しかった。
「笑うんじゃねぇよ」
「ごめん、なんかおかしくて。意外すぎて」
「うっせぇ。曲作りの気分転換でよく作るんだよ。……あぁもう……いらねぇならいい」
「ごめんて。いるいる」
拗ねたような口振りがまるで子供のようだと思い、それをあしらう自分に得意気になる。
いつもの子供扱いされてる仕返しだと思えば、これくらいの悪戯は許されるだろう。
「ありがとう。ここでいいよ。その辺でタクシー拾う」
「あぁ!? じゃあハナっからそうしとけよ」
「いいじゃん。遠回りしたおかげで、いいもの見られたしね」
「なんだよ」
「こっちの話」
「あそ。もうさっさと行けよ。じゃあな」
いい事をしている自分が恥ずかしくなったかのように、突然突き放すようにして、いつもの無愛想な調子に戻る。
それでもなかなか家に入ろうとせず、私がタクシーに乗り込むまで遠くから見守る姿には、やはり伶らしさを感じた。
私は自宅に帰って、すぐさまタッパーの中身を電子レンジで温めた。
お皿に移し替えて、礼儀正しく手を合わせる。
「……いただきます」
手の込んだ煮物と温かいスープは、とても優しい味をしていた。
久しぶりに食べる手料理に、心まで温かくなる。
キッチンに立っている伶を思い浮かべて、具材に対しても一人でキレ散らかしているんじゃないかと、勝手に想像して笑ってしまった。
自分も変わり者だという自覚はあるが、伶もつくづくおかしな人だと思う。
人に優しくできる人間の筈なのに、世話を焼いたその後には、決まって自己嫌悪に陥っている。
自分には、そんなことをする資格なんか、無いとでも言うように──。
もっと胸を張って、誇らし気に笑っていたらいいのに。
私がダンスに出会ったことで、自分を誇らしく思えたように。
遠回りもしたけれど、今こうして自分自身を、ようやく好きだと思えたように。
全てのことに意味はあるのだと、そう前向きに捉えられたように。
時には遠回りも、悪くないかもしれない。
こうして伶の手料理が食べられたように、意外な特技を知れたように。
ずっと遠回りをしてきた私の人生が、いつかあのステージに繋がったように。
遠回りしたからこそ、見える景色もあると、知ったのだから──。
──普通なら、これでハッピーエンドだ。
幼い頃から幾重に折り重なった葛藤を抱き、自分を好きになれなかった一人の子供が、ダンスという自己表現に出会い夢を叶え、大勢の人に認められる結果を残したことで、自分を愛することに成功した。
もしもこれが御伽話なら、めでたしめでたし、で物語は締め括られるだろう。
しかし、一度栄光を掴むことはできても、その座に居座り続けることは難しい。
結果とは、努力を続けた末のあくまで副産物であると、気付けないのなら尚のこと──。
二年目以降は何かの賞を受賞することは無く、モチベーションにしていたダンス動画の再生数も、次第に落ちていった。
そして私が一番頭を悩ませたのは、ファンの声だった。
しかしそれは、所謂アンチによる消極的な声では無い。
ブルバのファンで、私を好きでいてくれるファンの、好意的な声だったのだ。
【SHIKIちゃんのビジュアルがドストライクすぎてファンになった! 短髪が多いけど、長い髪も絶対似合うと思う!】
【クールビューティー系だからなのかパンツスタイルが多いけど、スカート履いてる姿も見てみたい!】
ファンの声が自信になっていた私は、いつからかエゴサがやめられなくなっていた。
SNSでの書き込みを見て、胸がきゅっと締め付けられる。
──ありがたい声の筈だ。
私を好いてくれている人の声だ。
憧れの人のいろんな姿を見たいと望むのは、至極普通のことで、幸せなことなのに。
それを快く思えない自分がいた。
自分のことを嫌いだという人に何を言われても、万人に好かれるのは無理だから仕方がないと、諦めがついたかもしれない。
しかし自分のファンの声を無視するということは、その人達に対する裏切りなんじゃないかと思えてしまって、苦しかった。
望まれていることをしたくないと思ってしまうのは、望まれないことをしたいと思ってしまうのは、酷いことをしているようで苦しい。
彼らの意に応えられないことが、辛かった。
不自由な家の中で、自分の好きの感情に、素直に生きられなかったあの頃を思い出す。
傷付くと分かっているのにエゴサはやめられないまま、理想と現実のギャップに苦しんだ。
女の体として生きている自分と、男のようにかっこいい自分で在りたいと願う自分。
どっちも紛れもなく、自分の中に息づいているものだったのだから。
そうして、考えても考えても解決策が出なかった私は、ひとつの答えに辿り着く。
(きっと、努力が足りないんだ。もっともっと努力すれば、きっとみんな分かってくれる。努力は、必ず報われる。何よりも、私自身がそれを証明したんだから……)
──大丈夫、我慢することには慣れてる。
最終兵器は、最後まで取っておかないと意味が無い。
私のマッチは、暖を取る為の火は、まだ残ってる。
灰になるのを恐れて、夢から覚めた後、それがゴミ屑に変わり果ててしまうことに怯えたまま。
使い時を見つけられずに、ここぞという時のとっておきとして、懐に仕舞ったままでいる。
──その代わりに、自分の身を削り続けているとも知らないで。
燈ったその灯は、今にも消えそうなんだと、気付けないままでいた──。
そんな葛藤と戦っている最中、その再会は突然訪れた。
「愛織?」
もうここ何年も呼ばれていない名前を街中で呼ばれ、その声に振り返る。
そこにいたのは、従姉妹の美希だった。
そしてその隣には、手を繋いでいる小さな男の子の姿もあった。
「うそ、ホントに愛織? 東京で偶然会えるなんて嘘みたい!」
久々の身内との再会に心底驚きを隠せないまま、美希はすぐにその子を紹介してくれた。
「私の子供なの。璃空、愛織おねーちゃんだよ」
まだ幼い三歳の璃空は、私を見てニコッと愛想良く笑った。
素直に、可愛いと思った。
そのまま美希の住んでいるアパートにお邪魔し、何故東京にいるのかの経緯を聞いた。
どうやら私が上京してすぐに、親に内緒で付き合っていた東京の彼氏の元に、転がり込んだのだという。
そして璃空の妊娠が発覚し彼氏に伝えると、結婚する気はないと言って、家を追い出されてしまったそうだ。
反対を押し切って飛び出してきてしまった為、家族に頼ることもできず、ここまでたった一人で璃空を育ててきたのだ、と──。
その苦労は、半端なものではないだろう。
都内で一人で暮らすことだけで大変なのに、出産し子供一人を養っていくことの大変さは、経験したことがなくても容易に想像できた。
「実は私ね、愛織に影響されたの。愛織が家を飛び出して、夢の為に東京に行った時、あ、そんなこと考えもつかなかったなって。彼のことは親に話たんだけど反対されてて、じゃあ諦めるしかないなって思い込んでて。でも愛織の姿を見て、私も自分の好きの感情に、素直に生きたいって思ったの。もちろん大変だったけど、後悔なんてしてない。あの時行動しなかったら、この子に会えてないんだもん。私の唯一の宝物。だからありがとう、愛織。私に勇気をくれて。私を璃空を出会わせてくれて」
その言葉は、地元に何もかも置いて来たと思っていた私にとって、これ以上とない賛辞だった。
一族の恥だと罵られもしたけれど、それを希望としてくれた人が、確かにいたのだ。
「それに、テレビでずっと愛織の活躍見てたよ。凄いオーディションに合格してデビューして、最優秀新人賞まで獲っちゃってさ。今じゃ日本中が知ってる有名人だし、藤堂家の誇りだよ。本当によく頑張ったね」
美希の言葉に、思わず目が潤む。
自分の頑張りを認めてくれる人は、こんな身近にもいてくれたのだと。
いつか本当に、両親もそう言ってくれる日が来るかもしれない、と──。
「抱っこしてあげて。愛織の甥っ子だよ」
そう言われて恐る恐る抱き締めた璃空は、本当に小さく温かかった。
少し力を入れれば壊れてしまいそうなほど、か弱く脆い存在。
それでも確かに、生きている温もりを、しかと感じた。
私は、我が子を抱いたかのように感激してしまった。
しかしそれは、自分がお腹を痛めて産んだ感覚ではなく、産声を聞いて分娩室に飛び込んだ父親のような、そんな奇妙な感覚だった。
こうして度々、忙しい合間を縫って美希を手伝うようになった。
代わりに保育園に璃空をお迎えに行ったり、オフの日に三人で遊びに行ったり。
美希の看護師の仕事が夜勤の時は、璃空を一晩預かることもあった。
それは全て初めての経験で、初めての感覚だった。
璃空の笑顔を見る度、もっと美味しいご飯をお腹いっぱい食べさせてあげたい、もっと楽しい場所に連れて行ってあげたいと、仕事にも張り合いが出た。
自分の為だけに頑張って来た仕事が、人生が、大切な人を養う為のものへと変わっていったのだ。
それは、生まれつき私が憧れた、理想の父親像だった。
子を持つと人は変わると聞くが、本当に変わったと思う。
必然的に、大人としての使命感のようなものが湧き上がって来て、街中で他所の子供を見た時も、微笑ましく見守るようになった。
──そんな時だ。
仕事帰りの夜六時頃、薄暗くなった公園で、一人で遊んでいる子供を見つけた。
近くに親らしき大人の姿は見当たらず、迷った結果、思わず声をかけた。
「ボク、一人なの? お母さんは?」
すると、振り返ったその頬は、赤く腫れ上がっていた。
手足にも、痣ようなものが無数にできている。
もしかしたら、虐待されているのかもしれない。
「おかあさん、じゃまだからよるまでかえってくるなって」
所謂放置子というやつだろうと、心底不便に思った。
親から暴力を受け、親の許可が無いと、家に帰ることも許されない。
顔も見たことのないその子の親に対して、憎しみが湧き上がる。
このまま誘拐なんてされたら、どうするつもりなのだろう。
その子をそのまま一人にしておくわけにもいかず、私は交番に連れて行った。
体に傷があることも説明し、虐待の可能性もあると話し、そのままお巡りさんに引き渡した。
その子のことが心配で仕方がなかったけれど、関係者でもないただの通りすがりにできることは、せいぜいここまでだった。
あの子がどうなったのか、もしかして余計なことをしてしまったんじゃないかと、考えない日はなかった。
しかし、そんなある日──
「おねーちゃん!」
散歩しているところで、子供の声に呼び止められ振り返ると、そこにはあの時の男がいた。
「やっぱりおねーちゃんだ! あのね、いまボク、しせつでくらしてるんだ!」
話を聞くと、どうやら虐待は本当だったらしく、彼は今、孤児院のような施設で生活しているとのことだった。
孤児院にいい印象が無かった為、やはり余計なことをしてしまったのではないか、と後悔した。
子供から親を奪って、寂しい想いをさせてしまっているのではないか、と──。
「しせつのひとみんなやさしいし、ともだちもたくさんできて、すごくたのしいんだ! たすけてくれてありがとう! おねぇちゃんは、ボクのヒーローだよ!」
その言葉に、眠っていた何かが、胸に灯る。
決して自分に与えられることは無いと思っていた、栄光と称賛の名誉だ。
──弱きを助け、強きを挫く。
そんなヒーローのような存在になりたいと、ずっと憧れていたのだ。
この日ほど、自分を誇らしく思えた日はない。
私はその快感を忘れられず、あろうことかそんな機会を、自ら探しに行くようになってしまった。
「ボク、一人なの?」
芸能人のSHIKIだと分からないように変装をして、今日も一人ぼっちの子供に声をかける。
「どうしたい? 家に帰りたい?」
救いようのない大人は、子供を持つ資格のない最低な親は、この世にごまんといる。
自分の都合で勝手に生み出したくせに、弱くて一人で生きていけないことを人質に取って、一人の人生を身勝手に支配する。
親が子を選べないなんて、不平等だ。
だから、選ばせてやる。
弱い者に手を差し伸べて、力を授けるように。
君は親に捨てられるんじゃない、君が親を捨てるんだ、と──。
答えがYESなら、一時的にそこから連れ去り、その出来事を親に伝えさせる。
まともな親なら、誘拐未遂に遭ったという危機感で、これまでの行いを悔い改めるだろう。
しかしNOの場合は、そのまま警察へ連れて行き、別離を助長した。
毎度違う姿で、毎度違う名前で。
名前をたくさん持つのには慣れてる。
これまで幾度となく、自分ではない自分を創り上げてきたのだから──。
私を突き動かしていたのは、間違った正義と使命感だった。
正しさだけでは、救えないこともある。
例えやっていることが悪だとしても、誰かがやらなければならない。
──大丈夫、嫌われることには慣れてる。
ダークヒーローにでもなった気分になって、一瞬の快楽に酔いしれたいが為だけに、そんな犯罪紛いなことを続けていた。
──これが、手段と目的が入れ替わったいい例だ。
弱い者を助ける為じゃない。
弱い者を助けてる自分を、ヒーローのようだと思いたいが為に──。
昔読んだハーメルンの笛吹きの物語は、最後にこう締め括られる。
【嘘吐きの大人がいない子供だけの世界で、子供達は幸せに暮らしましたとさ】
可哀想な弱き子供達を、私が導いてあげよう、と──。
それなのに──
私がしていたことは、決して正義なんかじゃない。
自分が正しいと思いたいが為に、間違った正義を押し付けて、子供を危険に晒し利用しているだけ。
その後自分が、その子の人生の責任を取るわけでもないのに、自分本位な快楽に身を任せた、最低な人間だ。
いつか子供があの選択を悔やんだ時に、もう取り戻すことができないと気付き絶望した時に、手を差し伸べてやる気もないくせに。
──あの日、誓った筈なのに。
絶望して泣いたあの夜、橋の上に立つほどまでに傷付いたあの夜、ならないと誓ったのに。
自分の都合を子供を押し付けて、責任も取らず、簡単に手を離すような大人に絶対なるもんかと、そう誓った筈なのに──。
そして葵瑞に対しても、同じことをしてしまった。
子供だからと、一人では何もできない未熟な存在だからと、見下し嘲笑ってきた。
男のくせにと、自分が最も言われたくない言い方をして、価値観を押し付け無視してきた。
大人と子供の狭間で、理想と現実の狭間で、様々な葛藤と孤独に戦ってきた、あの頃の私そのものだったのに。
あの輝きを、あの気高さを、誰よりも手離したくなかった筈なのに──。
人生は、決まってハッピーエンドで締め括られて終わる、童話の物語とは違う。
私達は、めでたしめでたし、のその先を知らない。
王子様と結ばれたシンデレラも、努力を続けたことで兎に勝利した亀も、幸せは一瞬だけで、その後悲惨な人生を歩んだかもしれない。
それなのに私達は、人生の切り取った一部を見ただけで、彼らは正しく幸せだったと決めつける。
今の私達が、世間からは人気絶頂で順風満帆な人生を送っている、人生の成功者だと思われているように──。
そんなものは、一部でしかないのに。
マッチに灯った炎が見せた幻想のように、それはあくまで幻想でしか無かったのに。
これまで経験してきた悲惨な過去も、裏で行っている間違いも、何ひとつ知らないままなのに──。
そしてこれから辿る未来は、過去以上の絶望に違いない。
あの日の誓いを忘れて、なりたくなかった大人の姿に成り果てて、これからどうやって生きていけばいいのだろう。
目の前が、真っ暗になった。
声にならない声が、誰に届くこともなく、静かに暗闇に落ちて行った──。




