第三十八話《水無月美生の過去》
※やや長いです
お時間が許す時にどうぞ
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傍から見たら、きっと愛されていた──
みおが生まれたのは、水無月家の三人兄姉の末っ子として。
自分で言うのもなんだけど、とにかく顔が可愛いと言われて育った。
「みおちゃんの笑顔は、天使みたいに可愛いね」
そう持て囃されて、毎日笑っていようと努めた。
そんな幼少期は、そこそこ自己肯定力の高い子供だったと思う。
兄姉は四つ離れたお兄ちゃんと、二つ離れたお姉ちゃん。
水無月家では、各々の役割が決まっていた。
小さいながらに自分の会社を持っているお父様はお兄ちゃんを、バレエ教室を立ち上げたお母様はお姉ちゃんを自分の後継者にしようと、それぞれの教育を施していた。
晴慈というお父様の名前から一文字取って、お兄ちゃんは大晴。
羽澄というお母様の名前から一文字取って、お姉ちゃんは未羽。
そんな名前の付け方からして、二人への期待は目に見えるものだった。
一方みおに付けられた名前は、【水無月みお】だった。
名前の由来は、二人が好きだった芸能人だかアナウンサーだかの名前から取ったものらしい。
平仮名の理由は、何も背負わずただ愛される為に生まれて来た子だから、とのこと。
これだけでも、もう分かるだろう。
みおは、両親にとってのペット枠だった。
それを辛いなんて言ったら、きっと鼻で笑われてしまうだろう。
お兄ちゃんは朝から晩まで勉強三昧で、お姉ちゃんは朝から晩まで厳しいレッスンを受けていた。
「なんでこんな問題も解けないんだ! 今からそんなんじゃ良い大学どころが、私立の小学校すら入れないだろ!」
「こんな簡単な基礎もできないの? 私の子なのに? できるまで晩御飯は抜きだから、ちゃんと練習しなさい!」
毎日毎日鋭い言葉が飛び交って、厳しく育てられている二人をずっと見て来た。
「お父様、みおちゃんもお兄ちゃんみたいに、お勉強したい」
「みおちゃんは勉強なんかしなくていいんだよ。こんなに可愛いのに勉強までできたら、他の子が可哀想だよ。ほら、お膝においで。一緒におやつを食べよう」
「お母様、みおちゃんもお姉ちゃんと一緒に、バレエやりたい」
「みおちゃんはそんなことしなくていいのよ? みおちゃんはみおちゃんのやりたいことを、自由にやってくれればいいの。それが私達の幸せなんだから」
お父様もお母様も、お兄ちゃんとお姉ちゃんに厳しい分、みおには嘘のように甘かった。
毎日可愛がられ、お兄ちゃん達に対する態度とはまるで違って優しかった。
末っ子というのは、どの家庭もそういうものなのかもしれない。
それでも、それをお兄ちゃんとお姉ちゃんが、快く思う筈が無かった。
それなのにみおときたら、両親がやらなくていいと言うのも聞かずに、好奇心だけで勉強もダンスも真似てやってみたのだった。
もしできるようになったら、みおも期待してもらえると思ったから。
そして幸か不幸か、何をやってもそれなりにできてしまった。
「この問題、みおちゃんが解いたのか!? こんなの幼稚園生が解けるレベルじゃないよ! すごいじゃないか! ……それに引き換えおまえは……また学年一位を逃したのか? どうせサボってゲームでもしてたんだろ! みおちゃんを少しは見習ったらどうなんだ!?」
「教えてないのに、見てるだけで覚えちゃったの? この歳で一曲全部踊れるなんて天才よ! ……あんたもこのくらいできてもらわないと困るのよねぇ。私がこんなに時間をかけて教えてるのに、二つも下の子に負けて恥ずかしくないの?」
みおの存在は、お兄ちゃん達にとってストレスでしか無かった。
毎日毎日親からの厳しい指導や期待に耐えながら、苦しんで来たに違いない。
だからきっと、二人は悪くない。
悪いのは、いつだって空気が読めないみおだった。
「おまえさぁ、余計なことすんなよ! 何もしなくていいんだから、何もせずにただ遊んでればいいだろ!? 目障りなんだよ!」
「あんたのせいで怒られるのよ! お願いだから邪魔しないでくれる!? お人形さんみたいに、ただ座って笑ってればいいじゃない!」
二人に嫌われたくないから、二人の言う通りにしようと思った。
何もしなくても愛されるなんて、素晴らしいことじゃないかと思われるかもしれない。
贅沢すぎる悩みだと。
それでも、思ってしまった。
(みおちゃんだって……期待されたいのに……)
何も託されないことが辛いなんて、口に出せば嫌味だと叱られてしまうと、分かっていながら──。
これがみおの、最初の社会。
誰もが最初に経験するであろう、家族と言う名の最初の世界。
両親を酷い親だと責めるには、優しく甘いその言動から、確証が足りなさ過ぎた。
そして毎日苦しそうなお兄ちゃんとお姉ちゃんの姿を見る度、暴力や虐待を受けた可哀想な子供のニュースを見る度、自分の贅沢すぎるちっぽけな悩みに嫌気が差した。
でも外の世界も、大差無かった。
仲良くしてくれるのは男の子ばっかりで、女の子達はいつも遠くからヒソヒソ話をしていた。
「ちょっと可愛いからって」
「ぶりっ子きもい」
「調子に乗りすぎ」
仲良くしたいのに、友達になりたいのに、みんなみたいに上手くできない。
人見知りで引っ込み思案で、なかなか自分から話しかけられないから、ひたすらニコニコしていただけなのに。
「みおちゃん、今日も可愛いね」
「みおちゃん、一緒に遊ぼ」
「みおちゃん、僕のお嫁さんになってよ」
いつも周りには男の子達がいて、勢いに気圧されながら一緒に遊んだ。
それを不幸だったとは思わない。
そんなことを口にすれば、より調子に乗りすぎだと嫌われてしまっただろう。
いつも、周りの視線を気にしていた。
皆の視線が怖かった。
みおのことをどう思ってるのか、どう見られてるのか、考えるだけで悪い妄想が膨らんで、恐怖が増していく。
みおを見つめる目がどんな目をしているか、それだけにいつも怯えていた。
いつも周りを気にして、誰かを怒らせないように努めた。
それでも、みおの考えが浅はかなせいか、怒らせまいとしていた言動や行動は、いつも空回って裏目って、誰かのストレスになっていた。
「お姉ちゃん、これ、みおちゃんが作ったの。あげるね」
コンクールで優勝を逃したお姉ちゃんに、折り紙で作った金メダルを渡した。
良かれと思ってしたこととは言え、憐れみのように感じたお姉ちゃんは、青筋を立ててそれを振り払った。
「馬鹿にしてんの!? 同情なんてされたくないわよ! 目障りなのよあんた!」
そう言うとお姉ちゃんは、みおの手を掴んで、部屋の押し入れに突っ込んだ。
「ここで大人しくしてなさい! 泣いたり声を上げたりしたら殺すわよ!」
そのまま扉を閉められて、狭い真っ暗闇の中に閉じ込められた。
──何も見えない。
寒くて、暗くて、壁からおばけが出てきそうで怖い。
──暗闇は苦手だ。
何も見ることができなければ、不安で仕方なくなってしまう。
どこに何があるか、誰がどこにいるのか確認できないと、自分の存在さえ見失う。
夜眠る時に目を瞑ることにすら怯えてしまうのに、こんな仕打ちは耐えられない。
怖くて堪らなくて、声を出して泣いてしまいそうになる。
でも言うことを聞かなきゃ、お姉ちゃんにもっと怒鳴られる。
お姉ちゃんに嫌われてしまう。
これ以上嫌われたくないし、みおのせいでイライラさせてしまいたくない。
目を開けていても閉じていても変わらないような暗闇の中で、ただただじっと目を瞑って、扉が開くのを待っていた。
思わず口から出てしまいそうになる嗚咽を必死に噛み潰して、静かに、孤独に──。
そんな暗闇の中で、一冊の本を手に取った。
押入れに仕舞われていた、『月のうさぎ』というタイトルの絵本。
ようやく暗闇に目が慣れて来た頃、みおは寂しさを紛らわせる為に、その絵本を読んだ。
《──むかしむかし、ある山の奥に
さるときつねとうさぎが暮らしていました
ある日、山で遊んでいると
道で倒れているおじいさんを見つけました
お腹が空いているおじいさんの為に
三匹はそれぞれ食べ物を用意することにしました
さるは得意の木登りをして
木に成っているくだものを
きつねは得意の狩りで
川に泳いでいる魚を捕まえました
しかしこれといって取り柄のないうさぎは
一生懸命頑張っても
何も用意することができませんでした
そして何もできないことにガッカリしたうさぎは
ポロポロと涙を流して言いました
「私にはお役に立てる力がありません
だからせめて、私を食べてください」
そうしてうさぎはなんと
自ら焚き火の中に飛び込んだのです
これを見ていたおじいさんは
うさぎの優しさに感動しました
「自分を犠牲にしてまで
人の役に立とうとするなんて
なんと立派なうさぎだろう」
実はそのおじいさんは
天の神様だったのです
そしてそのうさぎの姿を皆のお手本にしようと
月にうさぎの魂を蘇らせたことから
月の模様はうさぎの形をしていると
言われるようになったのです──》
読み終わって、率直に、最悪の気分だった。
まず最初に、さるをお兄ちゃん、きつねをお姉ちゃん、うさぎをみおに当て嵌めながら読んでしまった時点で、自己嫌悪に陥っていた。
みおは、これといって取り柄のないうさぎ。
何も持ってなくて、何も差し出せるものがなくて、自ら火に飛び込んで身を捧げることでしか、自分の存在意義を示せなかった子。
そんなふうに言われてる気がして、でもそれがあながち間違ってなくて、余計に悲しくなった。
(みおちゃんもいつか、いい子にしてれば、月に住まわせてもらえるのかな……)
世界中の人が見上げる月に住むことができたのなら、きっとみんな、みおのことを認めてくれる。
みんなのお手本だって言われて、みんなの指針になって、きっとみんなに憧れられて──
「……」
そこまで妄想して、突然我に返った。
みおはこのうさぎのことを、『ずるい』と思ってしまっていた。
本当は神様の正体を知ってて、月に蘇らせてもらう為に、わざと食べ物を用意できなかったフリをして、火の中に飛び込むことを選んだんじゃないか、と──。
(……絶対そう……。じゃなきゃ、自分から死んじゃうなんてそんな馬鹿なこと、選んだりするハズないもん……)
勝手な自己解釈で急にうさぎが卑怯に見えて、思わず絵本を閉じた。
その時のみおには、まだ分からなかった。
自己犠牲も、自己嫌悪も、自己証明も、選ぶ権利は自分にあるのだと、そう勘違いしていたのだから──。
数時間経つと扉は開き、不機嫌そうなお姉ちゃんの視線が、赦しの合図だった。
自分は誰かによって生かされているのだと、人より弱い生き物なのだと、自分の立場を理解させられた。
それからは、何事もわざとできない振りをした。
勉強もダンスも、お兄ちゃんとお姉ちゃんよりできてはいけない。
同学年の子達と居る時も、何もできないドジっ子を演じた。
──するとどうだろう。
皆の態度が一変した。
あれだけみおをヨイショしていた両親も、みおが失敗する度、できないことがある度、猫撫で声で囁いた。
「みおちゃんは可愛いなぁ。おっちょこちょいなところも、構ってあげたくなるよね。ただでさえ顔が良いんだから、少しくらい隙が無いと」
「そうよ。これで何もかも完璧だったら、他の子達が可哀想だもの。みおちゃんは恵まれてるんだから、譲れるものは他の子に譲ってあげないとね」
家族からも、先生からも、同級生からもよく言われた、『恵まれてるんだから』という言葉。
それは褒め言葉としても、皮肉めいた言葉としても向けられていた。
どちらの意味も含まれる言葉だと知りながら、いつの間にか、自分でもそう言い聞かせるようになった。
──そうだ、みおは恵まれてるんだから、求められていないことをする必要なんてない。
みおが求められてる生き方は、こっちだ。
か弱い振りをして、弱い人間を演じて、強い人間に従って生きていくべきなんだ、と。
自分の人生は、強者の娯楽の為に有るのだ、と──。
それを自覚してからは、二人の邪魔をしまいと気を遣って過ごし、怒鳴られることも減っていった。
学校の男の子達の反応も変わっていった。
「みおちゃん、かばん持ってあげるよ」
「みおちゃん、にんじん食べてあげるね」
「みおちゃん、僕が守ってあげるからね」
憧れのような眼差しから、それは庇護欲に変わったようだった。
弱い者を守るということは、男の子からすると、とても誇らしいものらしい。
それでもやっぱり、女の子からの反応は変わらない。
「なにあれ、か弱いアピール?」
「できない振りしてバカみたい」
「お姫座気取りもいい加減にしてよね」
女の子からは何をやっても好いてもらえない気がして、悲しかった。
何をしても嫉妬の対象になって、何をしても友達ができなかった。
男の子達の好意が、迷惑だったとは言わない。
それでも、それも少し苦手だった。
こうしてあげる、ああしてあげると、なんでもやってくれると言うのは、何もしないでいいよと言う両親だけで充分だった。
誰かに、聞いて欲しかった。
『みおちゃんは、何がしたいの? 何が欲しいの?』と──。
聞いてくれたところで、上手く話せなかったかもしれない。
上手く伝えられなかったかもしれない。
それでも、これが貴方の幸せだろうと決めつけられることが、本当のみお自身を見てくれていないようで、悲しかった。
孤独とは無縁の生き方のようで、常に心は満たされない孤独でいっぱいだった。
欲しい物を全部持っているように見えて、実は何も手に残っていなかった。
小学三年生の時、両親に妹が欲しいと強請った。
いつも誰かに守られてばかりは嫌だ。
自分も守る対象が欲しい、と。
でも両親には断られて、それなら代わりにペットが飼いたいと言った。
本物のペットが居れば、自分はその枠から抜け出せるとでも思ったのだろう。
翌日お母様と一緒にペットショップに行って、いろんな動物を見た。
犬、猫、兎、鳥、いろんな小動物がいた。
みおはそこで、一匹の猫を選んだ。
ペットショップの中で、その子が一番可愛いと思ったから。
「みおちゃんに選ばれて、この子は幸せねぇ」
お母様にそう言われて、そうであって欲しいと願った。
みおに選ばれたこの子は、きっと幸運だ、と。
名前は【リリィ】と名付けた。
真っ白な毛並みが、とても美しかったから。
リリィを意味するユリの花言葉は『純潔、威厳、無垢』だと知って、そんな美しい人生を歩んで欲しい、という願いを込めた。
毎日一緒に居て、毎日お世話をした。
一緒に眠ったり、一日中膝の上に居たり。
家族はあまり興味を示さなかったけれど、みおにとってはその子が全てになった。
この子にとっても、美生が全てだ。
みおが居ないと生きていけなくて、みおが居ないと何もできない愛おしい子。
「もぉ〜。リリィはみおが居ないと、なんにもできないんだからぁ〜」
おままごとのように、お人形遊びのように、みおはその子を溺愛した。
そんな発想が、両親と全く同じそれだということに、この時のみおはまだ気付いていない。
口にしたその言葉は、どれほどの押し付けと、生き物としての敬意を削ぐものだったのか。
リリィのおかげで自己肯定感は少し上がったものの、相変わらず人付き合いに関しては上手くいかないことばかりだった。
皆が自分のことを嫌っているように思えたし、女の子達からの当たりも強くなった気がする。
みおができないキャラを演じることで、弱みを晒すことで、彼女達は自分の方が上だという意識が大きくなり、その反発を隠さずぶつけてくるようになった。
つまりは、舐められてしまったのだ。
最初は遠くでコソコソと悪口を言うだけだった子達も、わざと聞こえるように大きな声で言ってきたり、見えないところでぶつかられるようになったり、よく物が無くなるようにもなった。
どうやら主犯の子は、みおによく話しかけてくれる男の子のことが、好きだったらしい。
それで逆恨みを買ってしまったのだ。
ここでそのことを両親や先生に相談できれば、もう少しその子達の対応も変わったかもしれない。
たけど、怖かった。
そんなことをしてしまえば、より嫌われてしまう。
お兄ちゃん達のように、余計なことをするなと言われ、もう二度と仲良くしてもらえないかもしれない、と。
物を失くしても、膝を擦りむいて帰って来ても、『みおちゃんは本当にドジっ子だなぁ』と両親は笑っていた。
まさか自分の溺愛する娘がイジメに遭っているだなんて、夢にも思わなかったのだろう。
友達ができないとつい零してしまった時も、『みおちゃんが可愛すぎて、みんなが嫉妬してるだけだから気にしなくていい』と言われた。
たまたま不運が重なっただけで、別にイジメじゃない。
それをそうだと認めてしまったら、自分の中の何かが崩れてしまいそうで、怖かった。
きっと気にしすぎだと、本当にドジで失くしてしまっただけなのかもしれない、と──。
しかしそれは、被害妄想とは呼べなくなるほど、少しずつ決定的になっていった。
小学四年生の時、お母様のバレエ教室の発表会があった。
お姉ちゃんのように特別指導を受けたりはしなかったけれど、みおもなんだかんだお姉ちゃんに着いて行くうちに、一緒にバレエを習っていた。
もちろん、バレエの実力はお姉ちゃんがクラスで一番だった。
それなのに、お母様はみおをセンターにすると言ったのだ。
今思うと、それでお姉ちゃんにプレッシャーを与えようと思っていたのかもしれない。
そんなことしなくたって、お姉ちゃんはとっくに潰れかけていたのに──。
「発表会、出ないで」
その日の夜、部屋でお姉ちゃんは言った。
「足が痛いとか適当に嘘吐いてさ、出れないって言ってよ。別に、あんたにとってのバレエはただのお遊びでしょ? 私にとっては全てなの。それを軽い気持ちで奪わないで。あんたは恵まれてるんだから、要らないものは譲りなさいよ」
今思えば、当然だったと思う。
お姉ちゃんの苦しみは、みおなんかよりずっと大きかったから。
「分かった。みおちゃん、お母様にそう言ってくる」
お姉ちゃんの言う通りだ。
みおは恵まれてるんだから、人に譲って生きなくちゃ。
本当は発表会に出たかったけど、それでお姉ちゃんがラクになるなら、優しくしてくれるなら、全然それでいいと思った。
そのまま、バレエも辞めた。
自分に求められていないものだったから。
みおがやることで、人を傷付けてしまうものだったから。
中学校に上がって、初めて女の子の友達ができた。
違う小学校の子が居たこともあって、二人組の女の子が声をかけてくれたのだ。
名前は、沙耶香ちゃんと泉ちゃん。
休み時間や、給食の時間、放課後もその子達と一緒に過ごした。
家に遊びにも行かせてくれたりして、親友と呼べる仲になっていた。
みおは、ここぞとばかりに慎重になった。
小学校の時の反省を活かして、男の子と喋らないようにした。
また何か、誤解されるようなことが無いように。
男の子に話しかけられても、困ったように黙り込んだ。
実は男の子が苦手なんだと、二人に話した。
そうすると二人はみおを庇うように、近付いてくる男の子を追い払ってくれた。
「はい残念ー。みおは男子が苦手なんだってー」
「こんなに可愛いのに男の子と話せないとか、守ってあげたくなるぅ」
作戦は大成功だった。
弱く居れば、みんなみおに優しくしてくれる。
誰も妬んだり、僻んだりしない。
ある時沙耶香ちゃんが、自分の夢を語ってくれた。
「あたしね、将来ピアニストになりたいだ」
初めて人に夢を打ち明けてもらえて、本当に嬉しかった。
心から応援したいと、そう思えた。
「絶対なれるよ! みおちゃん、応援するね!」
浮かれてたんだと思う。
今まで恥ずかしくて誰にも言えなかった夢も、この子にだったら打ち明けてみたいと、舞い上がってしまった。
「あのね、みおちゃんの夢は、歌手になることなの。歌って踊れる人になりたくて……」
お姉ちゃんやお母様になんて、言える筈が無い。
言えばどんなを反応されるか、分かっていたから。
初めて自分の意志を告げた時、夢を口にした時、不思議と誇らしさが込み上げてきた。
そのことが、嬉しかった。
「そうなんだっ。みおなら絶対なれるよ! お互い頑張ろうね!」
本当に良い友達を持ったと思う。
天にも登る気分だった。
今度は夏休みが終わりに差し掛かった頃、泉ちゃんが言った。
「好きな人ができたの……」
彼女の言葉に、沙耶香ちゃんはハイテンションで食い付いた。
「え!? 誰誰!? ちょっと早く教えなさいよぉ!」
「三年生の……天堂先輩……」
「まじー!? 学校中のアイドルじゃん! ライバル多そうだけど大丈夫!?」
「しょうがないじゃん……好きになっちゃっだから……」
二人のやり取りが、とても微笑ましかった。
みおにとって、恋とはとても身近にあるようで、それでいて逆に遠すぎるものでもあった。
自分が好きだと自覚する前に、好意か悪意のどちらかを抱かれている。
告白されることは何度もあったけど、それに特別応えることも、何か進展することも無かった。
得るものより、失うものの方が怖かったから。
そんなみおにとって、誰かを本気で想って恋する友達の姿は、とても眩しかった。
「みおちゃん、応援するね! 頑張ってね!」
「ありがとうみお〜。持つべきものは親友だよ〜」
みおなりに、協力したいと思った。
天堂先輩とは、図書委員会の当番で一緒になることが多い。
今までまともに話したことは無かったけれど、友達の為に何かできることがある筈だ。
大好きな友達に必要とされたい。
みおと友達になって良かったって、そう思って欲しい。
──馬鹿みたい。
やめておけば良かったのに。
やっぱり浮かれてて、調子に乗ってしまったんだど思う。
余計なことはするなと、何もしなくていいんだと、言われた通りにしておけばいいんだと、散々言われてきたというのに──。
そして図書館の当番の時に、勇気を振り絞って、天堂先輩に話しかけた。
「あ……あの……」
家族以外の男の人と話すのは久しぶりで、しかも年上の先輩だ。
上手く言葉が出て来ず、自分から話しかけたものの吃ってしまう。
天堂先輩は初めは不思議そうな顔をしていたけれど、俯き黙り込むみおを見兼ねて、ノートに何かを書いて、そのままそれを差し出した。
【静かにしなきゃだから、筆談しよ?
一年生の水無月みおちゃんだよね?】
大人っぽい気遣いに、ドラマや漫画に出てくる人みたいだと思った。
【そうです。当番で一緒になること多いですね】
【そうだね。
分からないことがあったらなんでも聞いて】
【ありがとうございます】
みおも返事を書いて、先輩の前にノートを差し出した。
数回やり取りをした後、見回りの先生が来たので、鍵を締めて下校することになった。
「じゃあね」
爽やかな笑顔で手を振ってくれる先輩は、本当に良い人だった。
きっと、泉ちゃんとお似合いに違いない。
そうして同じ当番になる度、何回かこのやり取りをした。
【先輩って今、彼女いますか?】
【いないよ】
ずっと聞きたかったことが聞けて、彼女が居ないと確認できて、心の底から安心した。
モテると噂の人だったから、そこがずっと気がかりだったのだ。
次こそ言うんだ。
友達が、先輩のこと好きみたいなんです、って──。
そんな、次に当番が重なった時だった。
図書室に行く前に、何故か校舎裏の庭に呼び出された。
「好きです。付き合ってください」
「……え……」
何故か先輩は、みおに告白をしてきた。
何故かとは言ったものの、今考えれば当然かもしれない。
みおがしてきたことを思い返せば、思わせ振りだと言われても仕方なかっただろう。
「ご……ごめんなさい……」
放課後で目撃者がいる中、学校で一番人気の先輩を振ってしまった。
その噂はすぐさま学校中に広がり、当然泉ちゃん達の耳に届くのにも、そう時間はかからなかった。
翌日学校に行くと、登校中から多くの人の視線を感じた。
「え、あの子が?」
「ねー。大人しそうなのによくやるよ」
注目されるのも、ヒソヒソ陰口を言われるのも、久しぶりで緊張した。
そして教室に入ると、全員がこちらを向いた。
その中でも、沙耶香ちゃんと泉ちゃんは、一段と怖い顔をしていた。
「あんたさぁ、天堂先輩に告ったんだって? いい度胸してんじゃん」
「……え……」
沙耶香ちゃんの言葉に、一瞬わけが分からなくなる。
──違うのに。
告白してきたのは、向こうなのに。
「……ち、ちがうのっ……。先輩の方から言ってきて……」
「嘘吐かないで! 先輩がそう言ってたんだから! なんでなの……? あたしが先輩のこと好きなの知ってて……なんでそんなことできるの!?」
泉ちゃんは、泣きながら怒りを露わにしていた。
無理もない。
もし本当にそうなのだとしたら、泉ちゃんの悲しみは並々ならぬものだろう。
こんなところでも、自己防衛より共感の方が勝ってしまう。
「サイッテー。友達裏切って男奪うとかさ。性格終わってんね」
「二度と話しかけないで! 絶対許さないから!」
大好きだった友達にそこまで言われて、何も言えなくなった。
そこからは、目に見えて嫌がらせが始まった。
無視とか、噂話とか、物が無くなるとか、そんな生温いものじゃない。
トイレに入れば上から水をかけられ、更衣室に入れば目を塞がれて、ロッカーに閉じ込められた。
痛かったし、冷たかったし、怖かった。
「中学生にもなって自分のことみおちゃんって、ぶりっ子やばすぎ」
「男に媚び売ることでしか生きていけないんじゃない? 援交とかやってんでしょ」
「てかさ、あんたみたいなのが歌手になるなんて、絶対無理だから」
「それなー。人に夢や希望を与える仕事なんて、あんたができるわけないじゃんね」
でもそれ以上に、大好きだった友達にそんなことをされているという事実が、とてつもなく悲しかった。
そんな時、お兄ちゃんに頼み事をされた。
お兄ちゃんの高校の先輩が、みおとデートしたいと言ってきたらしく、それに行って来いと言うのだ。
「……でもみおちゃん……初対面の人と上手く話せないし……」
俯きがちにそう言うと、お兄ちゃんは不機嫌そうに大きな溜息を吐いた。
「あのさぁ、おまえのせいで今までどれだけ迷惑してきたと思ってんだよ。たった一日付き合ってあげればいいだけの話じゃん、簡単だろ? 顔だけは良いんだからさ、ただ黙って笑ってろよ」
半ば脅されて、頷くしかなかった。
怖かったというより、お兄ちゃんの為になれることをしたかったんだと思う。
その先輩とのデートは、お兄ちゃんの言う通り、一日ニコニコしてやり過ごした。
幼い頃は『笑顔が天使のように可愛い』と持て囃され誇りを持てていたものも、『顔だけは良いんだから笑ってろ』と言われるなんて、皮肉が効いていると思う。
きっとこの人も、みおのことを好きなわけじゃない。
みおを隣に置いている自分のことを、好きな人なんだと思った。
──そうだった。
みおの人生は、強者にとっての娯楽でしかない。
娯楽でなければならない。
ペットのように、余裕のある家の象徴で無ければならない。
そしてみおにとってのペットであるリリィは、日々の疲れの余り、最早邪魔な存在に成り果ててしまった。
部屋に居ると、構って欲しそうに擦り寄って来るのが、心底うざったくて仕方なかった。
「あっちいってよ! みおちゃんのことなんか、なんにも知らないくせに!」
そんな元も子もない言葉をぶつけて、リリィから目を逸らした。
何も、何も見たくない。
剥き出しの悪意も、周りの視線から感じる憐れみも、全部見えないように消えて欲しい。
そんな日々が続いた、ある日。
「…………え…………」
家に帰ると、部屋でリリィが弱々しく横たわっていた。
まさかと思って触れてみると、この世のものとは思えないほど冷たかった。
「……リリィ……リリィ……」
どうして──
喉元までその言葉が出かかって、すぐに答えが分かる。
──当然だ。
誰も、ご飯をあげていない。
──いつから?
いつから食べてなかった?
家族は気付かなかった?
──何言ってるの。
この数年間、リリィのお世話をしていたのは、みおだけ。
そのみおがそれどころじゃなくなって、呼ぶ声を無視していたのだから、考えてみれば当然のことだった。
みおのせいだ。
みおが、殺した──。
「……ごめんね……ごめんね……!」
学校でのイジメが辛かったなんて、いっぱいいっぱいになってそれどころじゃなかったなんて、そんなのは命を放棄していい言い訳になんかならない。
この子はみおに選ばれて幸せだと、絶対幸せにしてあげるんだと、そう意気込んでいたのに。
みおの我儘でこの家に連れて来られて、みおの我儘で苦しみながら生涯を閉じた。
なんて、可哀想で不幸な子──。
両親に伝えて、翌日庭にリリィを埋めた。
二人とも、みおを責めなかった。
「仕方なかったのよ。みおちゃんは悪くないわ」
この人達は、みおが何をしても赦すのだろうか。
甘やかす対象だから、期待してないから、興味が無いから、叱ることすら面倒なのだろうか。
人からの視線に怯えていた筈だ。
人からどう見られているかということが、人生において最も恐怖していたことだった筈だ。
それなのに──
(誰か……みおちゃんを叱って……。みおちゃんが悪いんだって、最低なことをしたんだって罵って……)
両親が赦してくれても、赦してくれないのは自分自身だ。
今は、罰が欲しい。
とびっきりの罰が──。
自ら押し入れに篭って、暗闇に身を委ねた。
苦手な暗闇が、自虐を求める今の自分には、ご褒美のように思えた。
そして、ポケットからカッターナイフを取り出す。
今からしようとしている、行為の名前を知っていた。
──リストカット。
自傷行為という名の、自殺の手段のひとつだ。
死んでしまおうと、本気で思った。
この罪を償う為に、ひとつの命に報いる為に、差し出せる代償はこれしかない、と──。
不思議と、恐怖は感じなかった。
それでも体は硬直し、カッターを握った右手はガタガタと震えていた。
尖った刃の先端が白い肌に沈み、ゆっくりと引く。
一瞬間を置いて、赤い鮮血がじわっと滲み出た。
痛みよりも、興奮の方が大きかった。
傷口がドクドクと鼓動を打ち始めて、まるで心臓の在処が手首に変わってしまったかのような、そんな感覚に陥る。
しかし非力な少女の、しかも震えながらの力だ。
恐怖心から、勝手に体の防衛反応が働いたんだろう。
その刃は血管に届くこと無く、白い肌には赤い閃光のような裂け目が刻まれるだけだった。
──これでは死ねない。
しかしそれは嘆きから、歓びに変わった。
痛覚を超えて、体の奥から何かがじわじわと湧き上がってくる。
その感覚に酔いしれて、もう一回、更にもう一回と刻み込む。
(あぁ……良かった。みおちゃんは、ちゃんと悪い子だからね……)
痛みを感じることで、綺麗な肌を傷付けることで、償いをさせてもらえている気分になれた。
赦しを乞いながら、自分を痛めつけながら、みおは悪い子だって言い聞かせながら、その罰を受ける。
──罰は、心地良い。
ごめんなさいの言葉だけじゃ足りない。
自分で罰を課すことによって、それを執行することで、一時の安らぎを得られた。
その感覚に、あろうことか病みつきになった。
こうして手段と目的が入れ替わり、死ぬことを目的に始めたリストカットは、安らぎを得る為のものへと変化した。
できるだけ長袖の服を着て、傷の場所は、包帯の上からリストバンドを着けて隠した。
まるでお守りのように、秘密の拠り所のように、人の目からは決して触れられぬように。
しかしまやかしの安らぎはあくまで一時的なもので、自傷行為の後には決まって、罪悪感と侮蔑感が押し寄せる。
こんなことで、安心してしまっているのか。
罰を受けることでラクになろうとしているなんて、至極卑劣な考えではないか、と──。
自己嫌悪で動けなくなって、また罰が欲しくなって、さらに傷を増やしてしまう。
その繰り返しだった。
そして毎晩毎晩、リリィの夢を見た。
夢の中に出てくるリリィは、いつも部屋に横たわっている。
名前を呼んでその体に触れると、一瞬で体温を奪うような冷たさが肌を刺す。
毎晩毎晩、リリィは死んだ。
みおが殺した。
みおがご飯をあげ忘れたから。
みおが存在を鬱陶しがって、放置したから。
身勝手に命を迎えて、身勝手に捨てたから。
悪夢と呼ぶには身勝手すぎる夢に、毎晩魘されては飛び起きた。
その罪悪感から逃れる為に、リリィのお墓に手を合わせるのと同じ回数、手首の傷を増やした。
──ごめんね、ごめんね。
大丈夫だよ。
みおはちゃんと、不幸でいるからね。
あなたを殺してしまったこの世界で、幸せになんか絶対にならないからね、と──。
そんな誓いを毎晩毎晩噛み締め、手首に刻まれた赤の一本一本を目にする度、リリィへの誓いの証を感じ、安心した。
そうしているうちに、学校でのイジメの受け取り方も変わってきた。
(全部……全部みおちゃんが悪いの……)
髪を切られても、青アザができるほどの蹴りを喰らっても、何一つ抵抗することなく黙って涙を流した。
──神様、見ていますか?
みおにもっと、罰をください。
それらの罰を全部この身に受けたら、みおをお赦しください。
そしてその時には、リリィを生まれ変わらせてあげてください。
次こそはみおなんかとは違う、心優しい人に貰われてくれますように、と──。
枯れるまで涙を流して、うさぎみたいに目が赤くなっているのを見て、みおは月のうさぎの絵本のことを思い出した。
自ら火に飛び込んで、自己犠牲の美しさと尊さを説いた、あの物語。
(……そっか……。うさぎは、神様を想って優しい決断をしたんじゃない。打算があって、生まれ変わる為に賭けてみたわけでもない……。初めから、それ以外、選ばせてもらえなかったんだ……。自分はみんなの邪魔者なんだって、最初から知ってたから……)
うさぎは、自分の人生を選び取る権利すら、失ってしまっていたのだ。
それはきっと、みおも同じ──。
選択肢なんて、最初から与えられていなかった。
みおが悪い子だから、みんなの邪魔者だから、誰かに選んでもらえるまで、ただ暗闇の中で膝を抱えて待っていることしかできない。
一人じゃ寂しくて死んじゃうのに、それなのに死ぬことさえ赦されない、弱くて孤独なうさぎ。
そんなふうに思いながら、地獄のような日々を過ごしていた。
過度のストレスのせいか、暗闇に居座り続けたせいか、その頃みおの視力は、みるみるうちに落ちて行った。
世界がどんどんぼやけていって、いつの間にか眼鏡を掛けていないと、ちゃんと見えなくなってしまっていた。
何か道具に頼らないと生きていけない無力さと、二つの意味で見える世界が変わってしまったことに、不安とやり切れなさを覚えていた。
当然、眼鏡を壊されることも、一度や二度じゃなかった。
悪夢と、イジメと、リストカットの繰り返しの毎日から、半年が経った頃。
両親に連れて行かれたのは、近所のペットショップ。
「みおちゃんは悪くないよ。さ、次に飼う子を選んで」
その言葉は、欲しかった赦しの筈だ。
赦される為に、馬鹿な自傷行為を続けて来た筈だ。
悪くないよと証を貰って、ラクになりたかった筈だった。
それなのにいざそれを与えられると、何事も無かったかのように代わりを用意されると、自分の中の価値のようなものが分からなくなる。
頭の中が混乱して、正しさとは何なのか、誰が正しくて誰が間違いなのか、まるで分からなくなってしまう。
──みおの人生は、大抵こうだった。
心当たりの無い不本意なことで他人に妬みを向けられ、自覚している悪事は全て許されてしまうという、天邪鬼な環境の中に居た。
そうしているうちに、善悪の判断がつかなくなってしまった。
自分の中に存在した筈の、ラインが揺らいでしまう。
周りの視線や反応を一番に気にしてしまうみおにとって、そんな日々はどんどん価値観を歪めてしまった。
もう何が正解で、何が間違いなのか分からない。
その価値観を正しく教えてくれる筈の大人達は、両親を始め、みおの周りには何処にも居なかった。
その環境を憎むことでしか、この地獄を抜け出せない。
自分の中で、何かが弾ける音がした。
もう、こんなもの要らない。
自分の心なんて、要らない──。
そして自分を護る為に、ひとつの答えに行き着いた。
もう、何も考えないでいよう。
この環境を与えた大人達に、みおの価値観を歪めてしまった大人達に、全てをなすりつけてしまおう、と──。
そして誓った。
みおは絶対、あんな大人達のようにはならない、と──。
みおは動物ではなく、隣の花屋で観葉植物を選んだ。
小さな鉢植えの、可愛らしいサボテン。
植物だって、同じ命には変わりない。
それでも、少しだけ心が軽くなる気がした。
愛でる対象は欲しいながらも、手っ取り早く気軽に扱える。
そして花はすぐに枯れ、また新しいものが次々と用意された。
──そうか、枯れたらまた、次を作ればいいんだ。
なんだって代わりは効く。
だから、大丈夫。
みおは悪くない。
両親の言う『みおちゃんは悪くないよ』という刷り込みで、自分を洗脳した。
すると、愛猫が死ぬ夢も見なくなっていった。
こんなふうにして、命の重さを軽く考えられるようになったみおは、いつの日か、人間をもそんな消耗品のように扱うようになる──。
次第に理不尽なイジメに耐えているのも馬鹿らしくなって、適当な理由をつけて両親に転校したいと頼んだら、すぐさま転校手続きをしてくれて、いとも簡単にラクな人生が手に入った。
自傷行為をする必要も無くなり、ただ周りの声に合わせて、日々をやり過ごす毎日。
男の子とは、普通に話した。
何もしなくても、チヤホヤしてくれる男の子達。
笑顔で言葉を返すと、舞い上がったように喜んでくれる。
「みお分かんな〜い。これやってぇ?」
幼稚に見られたいわけではなかったから、流石にみおちゃん呼びの一人称はやめた。
萌え袖と上目遣いでか弱さを演出すれば、みんなみおの言うことを聞いてくれる。
欲しかったものは、こんなにも単純なものだった。
今まで無理していたのが馬鹿だったと思えるほど、生きることは、とても簡単なことだったと気付いた。
女の子には特別好かれはしなかったけど、もうそんなことはどうでも良かった。
教室である女の子に嫌味を言われた時、大袈裟に泣きながら、男の子達に助けを求めた。
するとその女の子は、男の子達からイジメを受けるようになった。
それはとても、爽快な気分だった。
──みおは、強くなくてもいい。
弱い自分を演じていれば、みおを大好きな人達が、勝手に助けてくれる。
みおは可愛いから、恵まれてるんだから、少しくらい嫉妬されても仕方ない。
だけどそんなことをすると、みおの周りの子達が黙ってないよ?
そんな傲慢な自意識を携えながら、日々を謳歌していった。
何かがあっても男の子達が守ってくれるし、イジメられるようなことがあれば、また転校したいと言えばいい。
そして学校一の美男子に告白されて、そのまま彼氏に依存していった。
初めての彼氏は、初めてのみおの為だけの存在は、それはそれは心地良くて溺れていった。
嫉妬する度に、ガチガチに束縛した。
気に入らないことがある度に、被害者面して泣き喚いた。
そして裏切られたような気持ちになると、突然興味が無くなって、別れを申し出た。
そうして、次へ。
またダメになったら、次へ。
──大丈夫、みおには、いつだって代わりが居るから。
愛せる時だけ愛して、相手に全部寄りかかって、気に入らなければ裏切られたと言って離れて行く。
いつだって自分の都合が良いことだけを求めて、弱さを押し出すことで、欲しいものを手にしていった。
真っ向から戦ったって、馬鹿を見るだけ。
好きなことだけ、好きなとこだけ。
周りも、そんなみおを望んでる──。
そして、高校一年生の時。
街を歩いているところをスカウトされて、モデルの事務所に所属することになった。
所属と言っても、雑誌の小さな仕事を振られるだけの契約モデルだったけど、それでも周りは芸能人だと持て囃してくれた。
両親も、みおにはピッタリだと言って喜んでくれた。
モデル業界はまさに女の世界というかんじで、上部だけの人間関係と、嫉妬や悪意に塗れた世界だった。
だけど、それはみおが今まで生きてきた世界と、なんら変わりなかった。
みおは可愛いから、恵まれてるんだから、少しくらい嫉妬されても仕方ない。
そんなふうに自分を励ましながら、なんとなく続けていた。
それでも一年が経つ頃には、すっかり飽きてしまった。
上下関係と忖度が全てのこの業界では、努力したところですぐに結果に繋がるとは思えなかった。
まぁ、いつでも辞めたくなったら次に乗り換えればいいと、そんな軽い気持ちでいた。
そんな事務所との契約を更新するか迷っていたところで、別事務所が主催の新人アーティストオーディションの報せを目にした。
モデル仲間の同期の子達がこぞって受けると話していた為、辞める理由に丁度良いと、みおもオーディションを受けることにした。
オーディションの応募用紙に名前を書き込む際、モデルの活動でも使っていた本名を書いた。
一次選考の書類審査に受かって、二次の実技審査を迎えた。
少し、緊張していた。
踊るのは、小学生の時以来だ。
お姉ちゃんに言われてそのままバレエを辞めた、あの時から踊っていない。
それでも、音楽に体を預けると、手足が軽やかに動いた。
体はちゃんと、憶えていたよと言うように──。
その時に、踊ることの楽しさを思い出した。
生まれた時からずっと傍にあって、幼い頃から遊び相手のように寄り添ってくれていたもの。
自分が手離していたものが、どれほどかけがえのないものだったのか、この時思い知らされた。
ブランクはあるとは言え、やれるだけのことはやった。
あとは結果を待つだけ。
祈っている自分の姿を俯瞰して見て、初めて本当に受かりたいんだ、という気持ちになった。
そして、結果発表の瞬間。
「68番、水無月みおさん」
およそ200人まで絞られる合格者中から名前を呼ばれ、喜びが込み上げる。
(選ばれるって……こんなに嬉しいことだったんだ……!)
そのまま三次選考も合格することができ、残った六名で合宿審査が行われることになった。
その中には、昔テレビでよく見ていた、元天才の役の朝霧ひなも居た。
そしてもう一人要注意人物なのが、神楽坂海という人。
過去にアーティストとして活動していた経験が有り、その言動や行動からも、プライドの高さが醸し出されていた。
既にこの二人は、今までのオーディションの中でも頭角を表していて、圧倒的なカリスマ性があった。
この二人は合格するんだろうなと、皆思っていたと思う。
だとしたら、メンバーとして選ばれるのは、恐らく対極の役割の人物だろう。
やることは、いつもと同じ。
可愛さと幼さとあざとさを出しながら、ファンにとって守りたくなるような、か弱い女の子をアピールしよう。
そして気になるのは、もう一人。
「……ありがと。あなたは……遊馬勇為くん」
「勇為でいいよ」
同い年で喋り易そうな、背の低い男の子。
ザ・アイドルってかんじの笑顔で、一定数の女の子のファンが付きそうな人。
向こうから話しかけてくれたのもあって、きっとみおに好意を抱いてくれてるに違いないと、そう思った。
いつだって、みおは可愛いから。
男の子達はみんな、みおを選んでくれるんだから。
「勇為……は……本名なの?」
「本名だよ。そうじゃなきゃ、意味が無いんだ」
その時彼が目に宿した炎が、何を意味していたかは分からないまま、漠然と思った。
(……羨ましい……)
勇ましく在る為にと書いて、勇為。
今まで出会ったことの無い、珍しい唯一無二な名前。
シンプルに、芸能人っぽい。
語感も良くて、きっと素晴らしい願いが込められていて、キラキラしている名前だ。
「……いいなぁ、素敵な名前で羨ましい。みお、良くある名前だし、平仮名だから……」
「そうなの? じゃあ、芸名にすればいいじゃん。あの二人も話してたでしょ」
「でも……みお、自分のことみおって言うら……」
名前の由来にずっと不満はあったものの、実際他にどんな名前が良かったかなんて、考えたことが無かった。
なんとなく親に申し訳無く思う気持ちもあったし、長年呼ばれ慣れているのもあり、今更全く違う名前にするなんて違和感しかないと思った。
「そうなんだ。じゃあ読み方はそのままで、漢字を当て嵌めるとかは? それなら違和感ないでしょ?」
確かに、それなら喋る時も、特に意識しなくていいかもしれない。
「確かにそうだね。ありがとう、考えてみる。……難しいね、親に貰ったものを変えるのって」
勇為の口端が一瞬ピタッと固まったような気がして、緊張が走る。
余計なことを言ってしまったかもしれない。
実は自分の名前、好きじゃなかったのかな、と──。
「……親に貰ったものだからこそね。執着するかどうかは、本人次第だよ」
勇為が言った『執着』の意味は、その時は分からなかった。
名前を変えることは、執着を捨てることになるんだろうか。
まだ答えは分からなくても、その選択肢は確かに、この時胸に刻まれた。
合宿審査は、課題曲を歌いながらダンスを踊るという、まさにダンスボーカルのパフォーマンス審査の内容だ。
さすがに最終審査と言うだけあって、レッスンは共にハイレベルなものだった。
案の定女子チームは海がセンターに抜擢され、誰よりも目立っていた。
実力で海と張り合うのはリスキーだし、ここで前に出ようとしても意味が無い。
休憩中に、配信用のカメラが寄って来る。
チャンスだと思って、わざと涙を流した。
「みんなに着いて行けなくて……不安です……」
ファンを惹きつけるのも、きっと大事な要素。
こういう人間味を見せることで、応援したいという気持ちを駆り立てられる人はいる筈だ。
上手くいった気がしていた。
そんなある時。
ダンスレッスンの後、突然勇為の態度が一変した。
無視する勇為を引き止めようとしたら、強い力で振り払われたのだ。
「触んないでくれる?」
軽蔑したような冷たい眼差しを向けられて、怯んで息が止まる。
「……なんで急にっ……。ずっと仲良くしてくれてたじゃん……。みおがなんかしたなら言ってよ……。こんなのあんまりじゃん……」
今まで、普通に仲良く喋ってくれてたのに。
『みおちゃんみおちゃん』って、いつも気にかけて、声をかけてくれてたのに。
涙を出して、同情を誘う。
勇為だって男の子だ。
女の子の涙を見て、平気でいられる筈が無い。
それなのに、そんなみおの様さえも呆れたように、勇為は冷たく言い放った。
「分かんないよね。あんたみたいな人間には、一生さ」
──なんなのあれ。
まるで、みおが悪いみたいな言い方。
みおは悪くないのに。
みおは、間違ってなんかないのに──。
(……むかつく……むかつくむかつく……!)
それからも勇為は、カメラが回っていないところでは、明らかにみおにだけ態度を変えた。
そんなことをする勇為の方が悪いんだって、みおも態度を変えた。
みおを選んでくれない人間なんて、正直言って、見る目が無い。
こんなに可愛いのに、こんなにみんなから愛されてるのに、そんなみおのことを傷付けるあんたの方が悪いんだって。
カメラが回っている表向きだけは仲良くして、それが終わると、お互い目も合わせずに離れた。
不満が収まらなくて、SNSの裏アカウントで勇為の悪口を呟くようにもなった。
他の人が勇為の悪口を言っている投稿を見ると、とても気分が良かった。
勇為から謝って来るまで、態度を改めるまで、絶対赦してなんかあげない。
そんなふうにみおも意地を張りながら、目の前のオーディションに向き合ってきた。
合宿が折り返しになった頃、レッスンが終わり食堂を出たところで、スタッフの声が聞こえてきた。
「あのみおって子、顔は抜群に可愛いんだけどなぁ。イマイチ本気が感じられないっていうか、勿体無いよね」
それはあくまで運営側の総評である為、受け止めるしかないのだけれど、その時は陰口のように聞こえてしまった。
(だって本気でやったら……みんなみおのこと嫌いになるじゃん……)
兄姉だって、友達だってそうだった。
欠点があるくらいの方が、弱い姿の方が愛される人生だったから。
こっちのやり方の方が効率が良いと自分に言い聞かせながらも、それでも胸がモヤモヤしていた。
「あんたさ、本気でやってないでしょ」
唐突に話しかけてきた海の言葉を、いつもなら軽く流せた筈だ。
それなのに気にしてしまったのは、先ほどの噂話を聞いてしまっていたからだろう。
「あんたみたいなのが周りにいるとさ、めちゃくちゃイライラすんのよね。真面目にやんなさいよ」
オーディションなんだから、別に他人のことなんか放っておけばいいのにと思う。
きっと海は、みおの為とかなんかじゃなく、本当にただ自分がイライラしていたんだろう。
自分が大事にしているものを、不躾に踏みつけられたように感じて。
カメラが回っていない場面で、変に取り繕う気は起きなかった。
「本気で……やっていいの?」
「何言ってんのよ、当たり前でしょ。受かりたくてやってんじゃないの?」
改めてもう一度、自分に問い直す。
本当に、受かりたいのかと。
大好きな歌とダンスで、歌手になりたいと思い描いた、遠い昔を思い出す。
「……受かりたい」
口にして初めて、それを実感した。
本当はずっと、本気になりたかった。
それが許されることなら、ずっと、そうしたいと願ってきたのだ──。
翌日のレッスンから、ひたすら我武者羅に喰らい付いていった。
己のリミッターを外して、限界を越える挑戦をしていく。
その快感に酔いしれた。
海は、より活き活きしていたように見えた。
ただ楽しそうに、気持ち良さそうに、音楽に体を預けて息をしているようだった。
──そうか。
きっと海にとっては、これが全てだったんだろう。
だから計算ばかりで、必死さに欠けるみおが近くにいることが、気に入らなかったんだ。
自分が誇りにしているものを馬鹿にされたような気持ちになって、居た堪れなかったんだろう。
みおがすぐに捨ててしまえたものを、海は大事に大事に抱えて護ろうとしていたんだ。
それに、追い着きたい。
できることなら、共に肩を並べて歩きたい。
許されるなら、みおも必死に戦って掴み取りたい。
そんな想いで、汗を流してメイクがぐちゃぐちゃになりながらも、目に光を宿して戦い抜いていった。
目の前の壁と向き合って。
燻っていた、自分自身と向き合って──。
そして合宿審査が終わり、合格が告げられた。
その時の達成感は、みおにとっては初めての感覚だった。
自らの手で掴み取る、獲得の体験。
それは今まで感じてきた何よりも、幸福だと思える瞬間だった。
デビューが決まって、みおが最初にやったこと。
「……あの……今更なんですけど……芸名に変えることってできますか?」
事務所の上層部や頼さんにもお願いして、デビューを期に名前を変えてもらうことにした。
勇為が提案してくれたように、漢字を当て嵌めることにしよう、と──。
それが【美生】だ。
美しく生きると書いて、美生。
そんな人間に成りたかった。
逆境にも負けないような、苦しい状況でも美しく在れるような。
そんな自分のことを、いつか誇りに思えるような、そんな存在に──。
そしてデビュー日に向けて、更に厳しいレッスンの日々が始まった。
レコーディングやダンスの振り入れに加えて、テレビやラジオの出演等のプロモーションにも追われ、忙しい日々となった。
そんな多忙な毎日に喰らい付いているうちに、デビュー日の初ステージは、あっという間に来てしまった。
ステージから見えるのは、苦手な暗闇を照らしてくれる、ピンクのサイリウム。
その光が瞳に映った時、こっちだよ、と手を引いてもらえるような気持ちになれた。
美生を導いてくれる、たくさんの光。
この光を、もっと増やしたい。
もっと多くの人に、美生の道を照らしてもらいたい。
みんなに、美生を選んでもらえるように──。
一番力を入れたのは、ブログやSNSの投稿。
お喋りがあまり得意じゃないのもあって、動画だと自分をどう見られているか不安な気持ちもあって、自撮りの写真と共に文章を綴った。
写真なら、最高の一瞬を切り取れる。
見て欲しい部分の美生だけを綺麗に切り取って、そのまま見てもらうことができる。
内容は、日記のようなその日あった出来事から、本当に些細なことまで。
大事にしたのは、投稿頻度。
毎日欠かさず、そして一日に何度も投稿した。
朝食の写真とおはようの挨拶から、撮影の待ち時間の呟き、一日の終わりには少し長めの日記まで。
そして逐一その反応やコメントもチェックし、いつ何時でもスマホから目が離せない生活になった。
目には見えない人の気持ちが、数字や言葉として可視化されるこの世界が、美生にとっては居心地の良い場所になった。
見えないものは、不安になるから。
こうしてちゃんと、見えるものに表してくれることで、ファンの気持ちを理解できている気になれた。
【MIOちゃん、今日もお疲れ様】
【MIOちゃん可愛い! 大好き!】
【MIOちゃん見てると元気出る!】
ファンからの応援コメントを見る度、温かい気持ちになれた。
「まーたファンに媚びてる。SNSやる暇あったら、ダンスの振りの一つでも練習すれば?」
海にはそう馬鹿にされたけど、美生だって何もせずにただチヤホヤされてるわけじゃない。
どんなに忙しくても投稿を忘れないことや、ブログに綴る文章を考える労力や、ファンの人達の反応を追って一人一人を覚えることだって、ちゃんと努力してやっていることなのだから。
美生が着実にファンを増やしているから、きっと僻みに違いないと、ただ聞き流していた。
自分のやり方は、間違っていない、と──。
そしてよりにもよって、勇為と二人で行うことになった仕事が、デビューCDに券が封入された握手会。
嫌いな相手と二人での仕事は嫌だったけれど、それ以上に、握手会に向けての不安の方が大きかった。
接近戦のイベントはこれが初めてだし、今まではファンの人は画面の向こうの存在でしかなかった。
SNSでイイネを押してくれる、コメントを送ってくれるだけの人達。
その人達が本当に実在するのか、目の前に現れてくれるのか不安になった。
目に見えないものは、安心できない──。
それに、実際に会ってみたらイメージと違ったと、幻滅されてしまわないかと考えると怖かった。
これまでのやり取りはあくまでネットの中だけで、実物の美生は、ファンの人達が思い描く理想の美生像と違いがあるかもしれない。
そして、もう一つ大きな懸念点があった。
左手首の、リストカットの傷跡。
今はリストバンドで隠しているけれど、毎回こんなことをしていれば、いつかファンにも勘付かれてしまうかもしれない。
そうなれば、美生を見る目は変わってしまうだろう。
今までのように、美生を愛してはくれなくなるかもしれない。
せっかく美生のことを選んで好きになってくれたのに、それを理由に離れて行って欲しくない。
そんな不安を消す為に、意を決して整形外科で施術を受けた。
傷が綺麗に消えてしまった手首を見て、その瞬間、心も一気に軽くなった。
ファンの人達に対する後ろめたさや罪悪感が、傷が消えたことにより、同じように昇華されていった。
そして思った。
(なんだ、こんなに簡単なことだったんだ! 今までずっと悩んでたのが馬鹿みたい!)
人間は、本当に馬鹿な生き物だと思う。
視界から消えてしまえば、無いのと同じだ。
脳が勝手に勘違いして、あたかも最初からそんなものは無かったんだと錯覚してしまう。
見たくないものは、消してしまえばいい。
目に触れないようにすれば、心の平穏を保っていられる。
美生が思い描く理想の世界が、いとも簡単に手に入る。
そんなふうに、傷だらけの自分を忘れていったんだろう──。
そして、握手会当日。
会場に入ってまず、ファンの人が並んでいる待機列をこっそり見に行った。
誰も居なかったらどうしようと、そんな不安を抱えながら。
外には長い二つの列ができていて、その一つの方にしか目が行かなかった。
目に飛び込んで来たのは、ピンクのグッズを身に纏ったファンの人達。
美生に会えるのを心待ちにしながら、ソワソワしながら、今か今かとその時を待っている。
その様子を見て、心がじわっと温かくなるのを感じた。
控え室でやたらと勇為の視線を感じたけれど、会話も無いまま、ただスマホに齧り付いてSNSをチェックする。
まだかな、まだかなと、目の前でお話できるその時を待ちながら。
惇さんが勇為に顔色が悪いと声をかけると、勇為はいつものように美生を揶揄った。
鬱陶しさを感じながらも、今日だけは不思議と穏やかな気持ちになれた。
だって美生には、こんなにもたくさんの味方が居てくれるのだから。
「お二人とも、こちらにサインをお願いできますか?」
色紙を渡されて、勇為が書き込んだ隣に美生もサインをする。
MIOというサインの下に、【水無月美生】と名前を添えた。
「名前、いいじゃん」
唐突な勇為の言葉に、聞き間違えなんじゃないかと、つい耳を疑ってしまう。
勇為は何か言いたげな表情をしながら、頬杖をついてこちらを見ていた。
何かに期待したそうに、何かに絶望したそうに──。
忘れてしまっていたけれど、みおという名前を漢字に当て嵌めるというのは、勇為の案だった。
今は、この名前が誇らしい。
美しく在ろうと、生まれ変わろうと決意した美生が、覚悟を形にした名前だ。
気分が良い今なら、お礼が言える気がする。
ありがとうと口にしようとした瞬間、勇為はいつもの口振りで被せた。
「ま、せいぜい名前負けしないように頑張ってよね」
「……いつも一言多いんだから。分かってるもん」
そんな憎まれ口は、いつだって口からすっと出てしまえるのに。
それでも、勇為もいつもより、少しだけ機嫌が良かった。
この握手会を機に、彼の何かが変わればいいのに。
それを勇為本人も期待しているのではないかと、そんな予感さえしていた。
そして待ちに待った握手会が始まって、大勢のファンの人と触れ合った。
「MIOちゃん、ずっと会いたかったよ!」
「いつもブログ読んでます! これからも応援させてください!」
「MIOちゃんが一番可愛いよ! もっと自信持って! 一生ファンでいるからね!」
たくさんの人達の言葉で、美生が認められていく。
こんなに凄い六人の中で、美生を選んでくれている。
そのことが、凄く嬉しい──。
一生懸命何かに打ち込んで、努力して、頑張る姿を認めてくれる人がいる。
もうわざと、弱い振りをしなくてもいい。
美生が頑張ることで、誰かを傷付けてしまうことに怯えなくてもいい。
ありのままの姿が許されなかった美生にとって、この人達は希望だ。
そのままでいいんだよと、そのままの美生が美しいんだよと、そう言ってくれる人達だ。
美生が主役で、美生が一番になってもいい。
だって美生を一番にしてくれる人達が、こんなに居てくれるんだから。
そんな自分を、誇りに思えた。
美生が美生を好きでいられる為に、美生が美生を認めてあげる為に、この人達を全力で愛していこう。
この人達に、全力で人生を注いでいこう、と。
愛していれば、必ず愛で返してくれるに違いない、と──。
──普通なら、これでハッピーエンドだ。
弱く在ることを強いられた一人の少女が、ありのままの自分で居られる場所を見つけ、大勢の人達に愛され使命を与えてもらうことで、積年の想いは報われた。
もしもこれが御伽話なら、めでたしめでたし、で物語は締め括られるだろう。
ただ残酷なことに、人の気持ちは移ろっていく。
目に見えるものですら変わっていくのだから、目に見えないものなんて尚更だ。
それでも、一度期待してしまえば、それが失われた時のダメージは大きい。
活動を続けていくにつれて、SNSのフォロワーやブログの愛読者も順調に増えていったけれど、どうしても離れて行く人達に目が行ってしまった。
いつもコメントしてくれていた人達が、今日は一度もしてくれていない。
学校や仕事で忙しいのかなと思ったけれど、その人のアカウントを覗きに行くと、日常のことは普通に投稿していた。
──もう美生に、飽きてしまったんだろうか。
美生はこんなに大好きなのに、もう好きじゃなくなってしまったんだろうか。
何が悪かったのかなと不安になって、でもそれを知る由もなくて、考えれば考えるほど不安になっていった。
そんな不安に駆られている最中、あるライブでのことだ。
いつものように、ステージから客席を見ていた。
ピンクのサイリウムを振ってくれる、美生のことが大好きな人達。
「UMIちゃーん! 可愛いよー!」
聞き覚えのある声がして、そちらに視線を向ける。
──目を疑った。
その人は、デビューの時から、ずっと美生のファンでいてくれた人だった。
美生は、美生のファンの人の顔を、できる限り覚えていた。
覚えていれば、向こうも喜んでくれるから。
SNSでアカウントを認知して、握手会で名前と顔を擦り合わせて、そんな努力の末、しっかりと頭に入れていた。
『一生ファンでいるからね!』
最初の握手会の時、そう言ってくれていたのに──。
(……嘘吐き……!)
裏切られた気持ちになって、心底絶望した。
純粋にその言葉を信じていた自分が、馬鹿らしくなる。
そのショックは想像以上に大きく、暫く立ち直れなかった。
こんなことなら、ファンの人達の為に全力になるんじゃなかった。
こっちが人生の全部を捧げたって、ファンは一生好きでいてくれるわけじゃない。
一時の感情で信じた美生が、大馬鹿者だったんだ──。
そんなふうに心を閉じかけたその頃、TVの露出が増え始めていたこともあり、SNSにはアンチコメントが目立つようになった。
【こいつよく見るとブサイクじゃね?】
【「私可愛いでしょ?」感が鼻につく】
【男に媚びてんのまじでやめて欲しい】
──何も知らないくせに。
美生の努力や頑張りを、なんにも知らないくせに。
【シンプルに嫌い、死ね】
直接的なその単語に、弱っていたこともあり相当なダメージを受けた。
なんで見ず知らずの人に、そこまで言われなきゃいけないんだろう。
(美生が居ることで……何かあんたに迷惑かけた?)
『死ね』なんてそんな酷い言葉、誰だろうと向けていい筈が無い。
そんなふうに怒りが込み上げて来た時、あるファンの人が、そのアンチコメントに反論をし出した。
でもそれも正直幼稚な内容で、双方共に子供の喧嘩のようなやり取りになっていた。
それでも、嬉しかった。
美生を庇って、守ってくれることが。
その勇気ある行動が、嬉しかった。
しかし、所詮一対一の喧嘩。
勝負がつくことは無く、アンチコメントは日に日にエスカレートしていった。
匿名で、しかも自分は安全なところから、好きに人を攻撃できる。
それで日々のストレスを解消しているのかもしれないと思うと、憐れだった。
そんなしょうもない人達に、消費されるような美生でいたくない。
仕返しのつもりで、その人の過去の投稿を全て調べ上げ、綿密に個人情報を探った。
その中で、写真にうっかり写り込んでいる、学生手帳の学校名と名前を見つけた。
探偵の調査で証拠を掴んだ時のような達成感と共に、その個人情報を裏アカウントから晒した。
するとそれは瞬く間に拡散され、最後にはその人物からの謝罪投稿があった。
【誹謗中傷のコメントをしてすみませんでした。お願いですから、学校に連絡するのはもうやめてください】
その時の感情は、優越感の他無かった。
みんなが、美生のアンチを成敗するのに協力してくれたんだ。
美生が全部をやらなくても、美生の味方をして守ってくれる人は、たくさんいるんだ。
そんな驕りと間違った慢心が、美生の心を満たした。
美生はみんなのお姫様なんだから、美生が直々手を下す必要は無い。
ちょっとの後押しと演出だけで、みんなが勝手に動いて裁いてくれる。
そう思ったら、心が軽くなった。
(美生は、みんなに愛されてるもん。美生を選ばないあんたが悪いんだから……!)
美生が見るからに強い女の子だったら、こうはいかなかっただろう。
海みたいに、自信過剰でプライドを振り翳してるような人間だったなら、ファンはここまで庇ってはくれなかっただろう。
美生が可愛いから、か弱いから、みんな放っておけずに使命感に駆り立てられたんだろう。
【アンチざまぁw
喧嘩売る相手間違えたのが悪い】
【MIOは俺達が守る!】
【MIOの役に立てるのが俺達の生きる意味!】
みんなが、美生を守ってくれる。
愛されるのは、心地良い──。
それなのに──
美生がしてきたことは、美生がされて傷付いたことばかりだった。
弱さを強いられた時の苦しさを痛いほど知っていた筈だったのに、それを盾にして、人の人生をめちゃくちゃにした。
自分は安全なところから見下ろして、自分の敵になる人を容赦無く吊し上げてきた。
虐められた時の辛さも、心無い言葉を受けた時の苦しみも、この身をもって経験してきた筈だったのに。
自分がより愛される為に、誰かの人生を踏み台にした──。
しかも、自分が受けたその苦しみを知っていながら、葵瑞に対して『弱くいろ』だなんて。
まだあんな子供に、自分の間違った愛情の在り方を押し付けて、あたかもそれが正しいかのように振る舞ってきた。
それはかつて、自分が絶望した両親と同じように──。
自分の言動に、行動に、吐き気がする。
恥ずかしくて情けなくて、赦せなくて。
自分を正当化する為にやってきた全てのことに、目を向けていられない。
誓いを忘れてしまっていたことと、自分が嫌というほど、最低な人間になってしまっていたこと。
この地獄に、終わりが無いということ──。




