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ロストユースに青を知る  作者: 志結
第四章
37/42

第三十六話《遊馬勇為の過去》

※やや長いです

お時間が許す時にどうぞ


.


あの人への愛が、全てだった──



初恋を、皆は何歳くらいで経験するのだろうか。

小学生だったり中学生だったりと、人それぞれだとは思う。

僕は、物心が着いた時。

二歳とかだった気がする。

最も厄介で、最も未来の無いその相手に、僕は恋をした。


彼女の名は【まあや】という。

僕の、母親にあたる人物だ。

普通赤ん坊が最初に喋る言葉と言えば、ママとかパパとかが一般的だろう。

でも僕はまだ物心が付く前の赤ん坊の時から、毎日毎日刷り込まれてきた。


「まあや、まあや。私の名前は、まあや」

「ま……や……」


それが僕が、最初に発した言葉らしい。

それどころか、自分の名前を認識するより先に、全ての言葉の中で最初に覚えた言葉もそれだったそうだ。

まあやの刷り込みは、見事に成功したのだ。


次の記憶は、まあやが父親に殴られている場面。

ちなみに、父の名前は知らない。

父はまあやに怒鳴り散らしては、気が済むまで殴りつけた。

僕の体は、考えるよりも先に動いた。

まあやの前に立ち塞がって、小さい手を広げて父から護ろうとしたのだ。


当然、二、三歳の子供だ。

そんなことをしたって、大人に勝てる筈が無い。

案の定その行動は父の神経を逆撫でし、僕はお腹を蹴られ動けなくなった。

更に機嫌を悪くした父は、その憂さを晴らすように、またまあやを殴りつけた。

僕は泣きながら、自分はなんてかっこ悪いのだろうと、情けないのだろうと唇を噛み締めた。

好きな人も護れない、弱い男だと。

でもまあやは、そんな僕の姿に感激していた。

まるで初めて、誰かに愛してもらえたかのように。

僕は、それが心地良かった。


しかしそんな日々は続き、僕らへの暴力は次第に増えていった。

どうしたらまあやを護れるのか、僕は必死に考えた。

父を殺そうと、何度も思った。

でもこの体格差では、どうやっても不可能だろう。

このまま大人になるのを待つようでは、その前にこちらが殺されてしまうかもしれない。

僕は良くても、まあやはダメだ。

僕は頭をフル回転させた。

そして辿り着いたのが、父の要求に応えた振りをすることだった。

いつものようにまあやを殴りつける父に、僕は──


「だいすき」


父の脚に抱き着き、満面の笑顔でそう言った。

すると父は急に機嫌を良くして、そうかそうかと頭を撫でてきた。

吐き気がしたけど、必死に我慢した。


「あっちでいっしょにあそぼ!」


気を良くした父は、まあやを置いて僕とブロック遊びをした。

そして満足した父親が眠ってから、僕はまあやの元へ走った。


「まあや、だいじょうぶ?」


背中を摩って、言葉を尽くした。


「うんうん、いたかったね、ないていいよ」


このやり方で、まあやへの暴行は最小限にできた。

世の中演技力なんだと、嘘で救える方法があるんだと知った。

力の無い自分は、今はそれで戦うしかないのだ、と──。


それから一年も経たないうちに、まあやは父と離婚をした。

どうやら、向こうが不倫をしていたらしい。

別に今更驚くようなことではなかった。

絵に描いたような、最低のクズ男だったのだから。


そして苗字が変わったその頃、僕はようやく自分のフルネームを認識した。

僕の名前は、古賀(こが)勇為。

まあやの旧姓に戻って、その名前を貰った。

生まれた時の名前は、未だに知らない。

でもこれが、僕の人生の始まり。

まあやと二人で生きていこうと誓ったあの日に、まあやの持ち物を譲り受けた名前だ。

僕はこの名前を、とても気に入っていた。

まあやの声で、名前を呼ばれるのが好きだった。


「ゆーい」


『ゆい』でも『ゆうり』でもなく、『ゆうい』というあまり聞かない珍しい名前を、まあやは『ゆーい』と甘い声で呼んだ。

まあやとお揃いみたいな語感の名前で、僕はとても誇らしかった。


しかし、まあやはあの日から変わってしまった。

明らかなDV男のその行為を、それでも愛してくれているからと、私にはあの人しかいないからと

許してしまっていたまあやは、この事実に耐えられなかった。

何故、自分は選ばれなかったのか。

何故、他の女のところに行ってしまったのか。

そして当然ながら、まあやはあの男を憎んだ。


「いい? ゆーいは、あの人みたいになっちゃダメよ?」


それが日々の口癖になった。


「うん、ぜったいならないよ。ぼくはまあやの、りそうのおうじさまだもん」


まあやに抱き締められて、僕は有頂天だった。


僕が手にしていたのは、まあやがよく読み聞かせをしてくれた、白雪姫の絵本。

死んでしまったお姫様を、キスで生き返らせた王子様が、二人で幸せにハッピーエンドを迎える物語。

それが僕にとっての愛の形で、その王子様こそが僕の理想の姿だった。

父に捨てられた可哀想なまあやを、僕が救ってあげなくちゃ、と──。


「ありがとう。愛してるわ、ゆーい。私の神様」


僕はまあやにとって、子供で、息子で、彼氏で、旦那で、世界で、神様だった。

決して比喩表現ではなく、まあやには僕しかいなかった。

僕が全てだった。

好きな人が、私には貴方しかいないと、神様のように扱ってくれる。

こんなに誇らしいことはなかった。

これ以上の優越感と自尊心を満たすものを、僕は他に知らない。


でもそれに驕ることなく、僕は誠心誠意まあやに尽くした。

そんな健全とはかけ離れた不純な母子関係から、僕は自己肯定力の高い子供に育っていった。

まあやが求める度、自分の役割を変えた。

まあやが彼女モードでいたい時はエスコートし、母親モードの時は素直で純粋無垢な子供を演じた。

家の冷蔵庫が壊れた時は近所の電気屋さんに駆け込み、事情を話して訪問修理の依頼も幼稚園児にして熟してみせた。

当時テレビでは、朝霧ひなという天才子役と持て囃された子供が活躍していたけれど、彼の仕事としてのお芝居とはまた違う、僕は生まれながらにして名俳優だったと言えよう。


役割だけでなく、メンタルサポートも見事なものだった。

まあやが『私はダメだ』とメンヘラ期に陥れば、『そんなことないよ、まあやは世界で一番素敵な僕の彼女だよ』と頭を撫で、『あの男のせいで』と恨み辛みを吐けば、『辛かったね。でももう大丈夫。僕はまあやを一人にしたりしないよ』と抱き締めた。

上手くやれる自信はあった。

体格こそ同学年の子達より小さかったけど、過酷な環境の中必死に思考を凝らし生きて来た僕は、人心掌握と上手く立ち回ることに誰よりも長けていた。


──無理もない。

常に激ヤバメンヘラ人間の相手をして、上手く掌の上で転がし導いているのだ。

そんなことができる器用な小学生は、この世に僕くらいだろうと自負していた。

命を懸けて、愛する姫を護る王子様で在りたいと、この命に代えてもまあやを護り、そして愛し抜く覚悟を持っていた。

勇ましく、勇敢である為に。

それはもちろん、全ては愛するたった一人の為に──。



しかしそんなある日、小学一年生のバレンタインの時だ。

人心掌握の達人で、常に優しく笑顔を絶やさない僕は、当然同年代の子供にもモテた。

クラスの女の子から、同学年の女の子から、それだけには留まらず学年が違う女の子達からもチョコレートを貰い、その数は数十個になった。


「ゆーい……なぁに? これ……」


紙袋いっぱいに入ったチョコを見て、まあやは顔色を変えた。

そして貰ったんだと言うと、まあやは発狂し取り乱していた。


「……なんで……? どうして!? どうして私以外からの愛なんて受け取って来るの!? そんなの浮気と一緒じゃない! なんで、なんで私を苦しめるようなことができるの!? 私のこと、愛してるんじゃないの!?」


その様子に一瞬驚きもしたけれど、考えてみれば当然のことだった。

──あぁそうか、愛する人が他人から愛の塊を貰うなんて、嫌に決まってる。

僕としたことが、しくじった。

そもそもバレンタインデーという文化を今日まで知らなかったのだから、そのチョコに込められた想いや意図なんかも知る由が無かったのだ。

僕が甘かった。

まあやと僕がこれまで築いてきた愛に、初めて綻びが見えた瞬間だった。


そこで僕は、橋の上から川に、そのチョコを全部捨ててみせた。

まあやへの愛を証明するように。

まるで、踏み絵でもするかのように。

アイドルがステージの上から、ファンサービスとしてのパフォーマンスをするように。


まあやはその行動に、酷く感激していた。


「疑ってごめんね。私にはゆーいだけ。お願い、捨てないで。あの人みたいにならないで」


──僕は大馬鹿者だ。

こんなにも僕だけを愛してくれている人が居るのに、その想いを蔑ろにするようなことをしてしまった。

ここで新たに覚悟をし直した。

中途半端な、子供のお遊び感覚じゃダメだ。

もっと本気で、覚悟を持って完璧な男を演じなければ。

もう、間違えない──。


「ううん、まあやがヤキモチしてくれてうれしかったよ。そんなにもボクを、愛してくれてありがとう。ボクにも、まあやだけだよ」

「ありがとう。愛してるわ、ゆーい」

「ボクも愛してるよ、まあや」


愛という言葉を使えば、大人になれるような気がしていたんだろうか。

その儀式染みたまじないは、その名の通り呪いの他無かった。

しかしそれは毒のようで、極上の甘い蜜のようで、薬のように優しかった。

ただ、普通の子供ではいられなかった──。


それからは、更に上手くやった。

学校では女の子に優しくしたけれど、まあやが迎えに来て姿が見えた瞬間、完全に無視をした。

それが、愛する者への礼儀だと思ったから。

不安になって僕の愛を確かめたがるまあやの為に、目の前で女の子を振るというパフォーマンスもやってみせた。


「ごめんね。僕、好きな人がいるんだ。ずっとずっと、一人の人を愛してるんだ」


まあやは、泣いて喜んでくれた。

相手の女の子には申し訳無かったけれど、こんなことで良ければいつでもやろうと思った。


周りに歪な関係を変な目で見られることもあったけれど、その時には子供らしく振る舞って誤魔化した。


「お母さんのこと大好きなのね」

「うん、だーいすき♡」


ここぞとばかりに純粋無垢な子供の振りでアピールをし、不審がられることは特段無かった。


それでも、思い悩むこともあった。

家で一人で留守番をしている時、窓の外を見ると雨が降っていた。

もうすぐ、まあやが仕事から帰って来る時間だ。

僕は大急ぎで玄関の傘を二本持って、まあやの職場へと走った。

ちょうどビルから出て来るところのまあやに傘を手渡して、一緒に家までの道を歩く。


──雨は苦手だ。

いつもは手を繋いで、もっとくっついていられるのに。

傘を差すと、その分の距離が離れる。

隣を歩いていても、まあやの存在がとても遠く感じる。

決して踏み入ることのできない、各々のパーソナルスペースの壁を、思い知らされてしまう。


向かいから歩いて来るカップルが、ひとつの傘を二人で分け合っている。

相合傘というやつだ。

僕はそれに、ひどく憧れがあった。

ひとつの傘の下、背が高い男の方が傘の柄を持ち

、彼女が濡れないようにと肩を抱き寄せる。

まあやより背が低い今の僕がそれを真似れば、どんなに背伸びをしてもまあやを屈ませてしまう。

そしてまあやに傘を持たせるなんてこと、かっこ悪くてさせられやしない。

まあやは、お姫様なんだから。

早く大人になりたかった。

いつか僕が大人になって、まあやより背が伸びたら、同じ傘に入ってその憧れを実現するんだと。


「まあや、足元気を付けて」


僕らの家は、長い階段を登った丘の上にあった。

いつもその階段を、僕がまあやの手を取り、エスコートをしながら登る。

この場所が好きだった。

ここをまあやと通る度、自分が本物の王子様になったように思えた。

まあやにとって僕は、必要不可欠な存在である、と──。

最後の一段を登り切って、丘の上から街を見渡す。

この世界の全てがそこにある気がして、それを手中に収めたような万能感に酔いしれた。

この世界は、僕とまあやの為に在る、と──。


そんな悦に浸りながら、日々の困難にも立ち向かっていった。

いや、困難だなんて思ったことは無い。

好きな人の為に尽くせること、これ以上に幸せなことなど無かった。

まあやの要求に応えメンタルを維持しながら、まあやが社会的に困らないよう、ご近所付き合い等も僕が率先してやっていた。

全ては、僕とまあやの幸せな生活を護る為に──。


上手くやってこれた自信はあった。

自分が聡い自信も。

ただ、あの時だけは、どうしていいのか分からなくなった。

十二歳になった頃、ある日朝起きたら、喉に違和感があった。

ガラガラしていて、風邪を引いたのかと思った。

しかしそんなことが数回起こり、保健の先生の話で、それが声変わりの前兆なのだと知る。

僕は、嬉しかった。

これでまた一歩、大人に近づける。

まあやを護れる男に近づいたんだと、嬉しくなった。

しかし、まあやは違っていた。


「……なに? その声」

「え?」


少しずつ、僕の声がワントーン低くなり始めた頃、まあやは声変わりに気付いた。


「あなた……大人になってしまうの……? 大人になって自立して、あの人みたいにあたしを捨てて出ていくの? ……嫌……そんなの嫌よ!」


これにはさすがに、あんまりだと思った。

子供の成長は、一般的には喜ぶべきものだとされている筈なのに。

それでも僕は、急いでそれを偽ろうとした。


「そんなわけないよ。これはちょっと風邪っぽいだけで……。僕はずっと、まあやの傍にいるよ。だから安心して」

「そういえば、背も最近伸びてるし、顔つきもなんだかあの人に似てきて……。嫌! そんなの耐えられない!」

「大丈夫だよ、僕はあの人みたいには絶対ならない。大人になんかならないよ」


それでも発狂は収まらず、まあやは僕の目の前でカッターを握り手首に当てた。

所謂、リストカットというやつだ。


「やだ! 痛い! 苦しい! 死んでやる! 死んでやる!」

「ねぇ……やめてよ……! お願いだから……!」


これ以上の、絶望と屈辱は無かった。

大切で大切で愛してやまない人が、死に至ろうとする行為をしているのだ。

何もできない、僕の目の前で。

おまえのせいで死にたいのだと、おまえの存在のせいで死にたいほど苦しいのだと、見せつけられているのだ。


「ごめん……ごめん……!」


──まあやは可哀想だ。

そりゃあそうだ。

自分の目の前にいる人間が、日に日に憎き相手に似ていくのだ。

その悲しみが、苦しみが、痛いほど分かる。

まあやの怒りや嘆きは、当然のものだった。

問題は、まあやを苦しめているそれが、僕の存在だということ。

同情よりも、自分への憎しみの方が大きかった。



それからの僕は、かなり可笑しかったと思う。

時間と成長に抗うことを始めたのだ。

馬鹿みたいだ、本気で不老不死にでもなれると思っていたんだろうか。

──いや、今冷静に考えてみても、本気で時間を止められるなんて、思っていなかった。

ただ、それに抗う覚悟を、愛の結晶としてまあやに伝えたかったんだと思う。

これほどまでに、君を愛しているんだと。


まず、食べるのをやめた。

成長期真っ只中の、この時期にだ。

どれだけ食べても、お腹が空いて仕方ない時期だというのに。

朝も夜も食事を摂らない僕を見て、まあやはその努力に感激してくれた。

それほどまでに、私を愛してくれているのだ、と──。


しかしそれは、白雪姫が毒林檎を口にすることと同じだ。

それが猛毒と知りながら、自らの体を死へと誘うものだと知っていながら、それでも僕は、それを喜んで口にしたんだ。

それで愛を証明できるのなら、これ以上の喜びはないと感じたから。


──そうか、もしかしたら白雪姫も、そうだったのかもしれない。

それが毒林檎だと最初から分かっていながら、それでも継母への愛を証明する為に、その猛毒を口にしたのかもしれない。

だとしたら、王子様のしたことは、ひょっとして野暮だったのかもしれない。

王子様のキスで生き返り、王子様と結ばれる未来を選んでしまったことで、最後にはその継母に、真っ赤に焼けた鉄の靴を履かせてしまった。

もしかしたら、これは見せかけのハッピーエンドで、幸せを差し替えているだけなのかもしれない。

本当は継母を幸せにしたかったのに、王子様と出会ってしまったことで、本来の目的を忘れ、違う幸福に留まっただけなのかもしれない。


自分の姿を王子様に重ねていた僕は、分からなくなってしまった。

遠い昔には美談だと憧れていた物語も、歳を取り見方が変わっていく度に、その解釈は変わっていく。

それでも、今更やめるわけにはいかなかった。

思い描いた僕とまあやのハッピーエンドを目指して、ただひたすらに突き進むしかなかった。


まあやと話す時は裏声を使って、日に日に声が低くなっていくことを悟られないように過ごした。

ただ、給食の時間はそうもいかなかった。

先生やクラスメイトに見られているし、アレルギー以外のものは、一品一口は最低でも食べないと残してならないというルールもあり、その最低限だけは口にした。

今思うと、そのルールが無かったら、僕はその時栄養失調で死んでいたかもしれない。

それに助けられていたと今なら分かるけれど、当時はまあやが手首を切るほど苦しんでるいるのに、それに背く行為をしている自分が許せなかった。

食べることへの、罪悪感が消せなかった。

何度も、その事実が気持ち悪くて吐いた。

遂には吐き癖がついて、食べ物を目の前にするだけで吐くようになってしまった。

いつの間にか、味覚も感じなくなっていた。


別に本当にまあやの為を思うなら、学校なんか行かないという選択もできたけど、決して世間に怪しまれてはいけないという、そんな不安が一番にあった。

しばらくは、食欲が無いからと言い通せた。

しかし半年が経った頃、見るからに痩せ細っていく僕の体に、周りの大人達は、家庭で虐待されているのではないかと疑問を抱いた。

直接、保健室で先生に問われることもあった。


「ねぇ、本当に虐待じゃないのね?」


──まあやが虐待?

笑わせないで。

そんなわけないじゃないか。

僕は世界で一番、まあやに愛されている。

これは、僕が勝手にやったことだ。

そのことで、周りにまあやを『子供を虐待する親』に仕立て上げてしまったことは反省した。

しまった、やり過ぎた、と──。


そう思った時にはもう遅く、給食で口にした僅かな固形物さえ体は受け入れず、食べてもトイレで戻してしまうようになっていた。

食べ物を前にするだけで、胃がきゅっと縮む感覚に陥る。

空腹なのに、何も欲しく無かった。

喉を通る筈のものが、最初から拒まれている気がした。

脳に栄養が行き渡らないこともあり、もうこの頃は、思考回路がボロボロだった。

何か複雑に物事を考えることができなくなり、ただただ、まあやへの愛しか見えなくなった。

そして僕の身長は完全に止まり、望みは叶った、筈だった。


ある時、市の児童福祉センターの人が家にやって来た。

色々聞かれたけれど、まあやも僕も全く心当たりが無いと話した。


「虐待だなんて、おかしなこと言うわよね。私達は愛し合ってるのに」


それは本当のことだけど、もし事の経緯を話せば、まあやと一緒にいられなくなるのは分かっていた。

だから隠し通す。

大丈夫、僕ならやれる──。


それから何度か児童福祉センターの人達が来たけど、その度に追い返していた。


そんなある日、今度は警察がやってきた。

生活安全課の二人組だ。

福祉センターの人達が、このままでは埒が開かないと相談したのだろう。

一人はベテラン風の刑事っぽい見た目の人。

一人は新人っぽい人だ。


「梶田だ」


煙草吸いながら名刺を差し出して来る、無礼な態度の人だった。

そしてそれは、最早尋問に近かった。

食事を与えていないんだろうと、それは立派な虐待だと乱暴な言葉で迫る圧に、まあやは途中から泣き出してしまった。

僕は激しい怒りを覚えた。


一時間ほどの尋問の後、二人はようやく出て行った。

僕はまあやを落ち着かせた後、一人でその二人を追いかけた。


「あの、迷惑なので、本当にやめてもらえませんか? 僕らは見ての通り、円満で幸せな親子なんです。虐待なんて、以ての外ですよ」


先程まあやの前ではニコニコしていた少年が、額に青筋を浮かべながら、まるで親の仇を睨みつけるかのように、鋭い眼光を向けているのだ。

二人は目の色を変えて、僕に向き直った。

痩せた体と、僕の言い回しで、僕が自ら食事を摂らないということを察したらしい。


「何故食べないんだ。何故母親を庇う?」

「何のことですか? さっきも話したでしょ? ダイエットですよ、最近体型が気になっちゃって。あ、育ち盛りの男がダイエットなんておかしい、なんて言葉はなしですよ? 今時そんなこと言ったら、男女差別で逆に問題に──」

「母親に脅されてるのか。可哀想なガキだ」


ここまでお互いポーカーフェイスで牽制しながら相手に踏み込んで来たものの、そこだけは聞き捨てならなくて思わず真顔になった。


「……違う。僕が自分の意志で勝手にやってることだ。だから、これ以上話しても無駄ですよ」


殺伐とした雰囲気の中で、横にいた新人らしき人が口を挟む。


「あのね、これは君の為を思って言っているんだよ。僕は、世の中の不幸な子供を救いたいんだ。だから君にも、手を差し伸べたい」


「は? 僕が、不幸?」


それは、最も屈辱的な言われ方だった。

自分は不幸だと言われることが。

まあやを、不幸な子供を持つ母親にしてしまうことが。


「僕の幸せを、僕の不幸を、おまえ達が勝手に決めるなよ。僕にとって最も不幸なことは、まあやと一緒にいられなくなることだ。この件を大事(おおごと)にすることは、おまえ達の言う不幸な子供を生む行為だって言ってんだよ」


いつもの僕なら、こんな荒々しい言い方をしなかっただろう。

それほどまでに、自分を制御できないまでに、冷静ではいられなかった。


「いいか、よく聞け。おまえが受けてるのは虐待だ。洗脳という名のな。今満たされてるそれは、いっときのまやかしだ。目を覚ませ」

「は? 洗脳? 僕が? ……ははっ、おっかしい。逆ですよ。僕がまあやを洗脳してるんだ。僕の言動と行動で、まあやをコントロールしてるんです。操ってるのは僕の方ですよ」


その自覚はあった。

もちろんまあやの幸せの為という想いが一番だったけれど、それだけではない。

愛する者の要求を叶えて、満たしてあげて、誘導して、幸せにしてあげる。

そんな優越感に浸っていたのも事実だ。


「だとしたら、逮捕するのは母親じゃなくておまえの方か」

「逮捕? どうやって? 今のまあやを見てよ。幸せそうでしょ? まあやには僕しかいないんだよ?」

「おまえ達の関係は、健全な親子じゃない。共依存だ。ちゃんとした親子になる為に、一度離れるんだ」

「共依存? 素晴らしいことじゃないか。僕にはまあやしかいなくて、まあやにも僕しかいない。こんなに幸せな愛の形がある?」


ああ言えばこう言うというように、狂った僕は論破をやめなかった。

──必要なことだ。

僕とまあやの、幸せな生活を護る為に。


「……後悔してからじゃ遅いんだぞ」

「後悔ならとっくにしてますよ。まあやをあの男から、もっと早く引き剥がすべきだった。そうすればまあやは……」


あんなふうに、また捨てられるのではないかと怯えることもなかった。

僕がもっと大人だったら、あんな男に捨てられる前に、僕がどこへでも手を引いて逃げられたのに。


「僕達は愛し合ってるんだ。邪魔するな、黙ってろ。二度と僕達に関わるな」


あの日から、既に覚悟は決まっていた。

僕一人で、まあやを護り抜く覚悟が。

誰にも邪魔させることなく、穏やかで幸せな日常を護るという覚悟が──。



そして13歳の、運命の日。

朝から、激しい雨が降っていた。


「私、好きな人ができたの」


世界が止まる。

息をするのも忘れた。


「…………………………は?」


突然わけの分からないことを言い出したまあやは、目の前で知らない男と腕を組んでいた。

男の顔は見てない。

こんなの、とてもじゃないけど、現実だと思えなかったから。


「私、この人と行きます。さようなら、ゆーい」

「……何言っての? ……はは、まあや、悪戯はいけないよ。僕を驚かせようって、そんな嘘あんまりじゃないか」


まあやを安心させようと、精一杯笑顔を作った。

遂にはこんなことまでして、僕を試させるようになったのか。

まったく、まあやの愛を感じたいが為の試し行動も、ここまで悪ふざけが過ぎるようになったのか。

──これは僕の落ち度だ。

最近自分のことでいっぱいいっぱいで、まあやへのケアが疎かになっていたかもしれない。

大丈夫。

僕なら上手くやれる。

僕は、まあやにとっての神様なんだから──。


「不安にさせてごめんね、まあや。世界中の誰よりも、僕はまあやを愛してるよ」


こんなこと、今まで数え切れないほどあったじゃないか。

貧乏な子供が保険金目当てで屋根から飛び降りる、というドラマを見てまあやが感激した時には、屋根に登って今にも飛び降りようと片足で立ってみせたし、まあやが一緒に死んでくれないかと持ちかけてきた時は『いいよ、一緒に死んであげる』と、包丁を喉元に当てた。

まあやは、いつだって本気なんかじゃなかった。

僕の行動に愛を感じると『ごめんね、こんなひどいことさせて。やっぱり私には勇為だけ。愛してるわ』と、抱き締めてくれるのだ。

心の機微が複雑なのは、女の子なら普通のことだろう。

いつも、まやあは安心が欲しかっただけだ。

僕の愛を、確かめたがっただけだ。

今回も、そうに決まってる。


「嘘なんかじゃない。この人は、私が欲しいものを全部与えてくれる。私、彼を本気で愛しているの」


思わず顔の筋肉が引き攣って、ポーカーフェイスが崩れる。

僕の悪口を言ってくれた方が、おまえが悪いと責め立ててくれた方が、まだマシだった。

なのに、なんで他の男との惚気話を聞かされなきゃならないんだ?


いつもの僕なら、冷静に次の手を考えられた筈だ。

でも、そんなことができた筈がない。

ろくに栄養が回っていないその頭で、正しい思考を巡らせることなど不可能だった。


「……っふっざけんなよ! 僕がおまえにどれだけ……!」


思わず、大きい声が出た。

今まで出したことがないような、荒々しく低い、本来の男の声で。


「あんたのせいで……私の人生はめちゃくちゃになった……。もう……あんたとは生きていけない…」


全身の血が凍った後、一瞬で沸騰した。

何かが、体の奥でプッツンと音を立てて切れる。


「……ふざけるなよ……。僕以外の男を選ぶって言うの……? ……赦せるはずが無いだろ……! …殺してやる……この男! 殺してやる! おまえのせいで! おまえのせいで!」


台所の包丁を手に取って、まあやの横の男に突進した。


(まあやの隣は、僕の居場所だ! おまえじゃない! 死ね!)


こんな状況でも、そんなふうに思ったのが可笑しかった。

しかし、もう何ヶ月もロクに食べずに痩せ細った体だ。

踏み込んだ瞬間から体勢を上手く保てず、フラフラな状態で向かってきた僕を、男は容易く突き飛ばした。


「……うっ……!」


包丁が音を立てて手から零れ落ち、床に突っ伏す。

立ちあがろうとするのに、足に上手く力が入らなかった。


「大丈夫!?」


愛しのまあやの声が頭上から聞こえて、僕の心は輝きを取り戻した。

──ほら、見たでしょ?

この人、僕を突き飛ばしたんだよ?

ロクな男じゃないに決まってる。

まあや、悪いこと言わないから、もうこんなことやめて?

今なら、全部笑って赦してあげるから──。


期待を込めて顔を上げると、まあやはその男の体を気遣っていた。

僕を突き飛ばしたその腕を庇い、見せつけるようにその手で撫でる。


(……なんで? なんでそんな男を庇うの? 僕の味方をしてよ……)


床に平伏しながら、その男を精一杯睨む。

血走ったその目は、最早獣のようだった。

そして、まあやはゆっくりと振り返り、僕の目を見て言い放った。


「悪魔みたいな子」


それがまあやの、最後の言葉だった。

──なんだよそれ。

今まであんなに、僕を神様だと呼んでくれたじゃないか──。


玄関の扉を開け、まあやが男と出て行く。

僕は放心状態から我に返り、わなわなと全身が震え出した。


「……っ……! 待てよ!!」


無我夢中で床を蹴って、まあやを追いかける。

このまま行かせるわけにはいかない。

このまま行かせれば、僕の人生は全ての意味を失う。


「……まっ……っ!」


角を曲がって二人の背中を見つけた時、まあやの名前を叫ぼうとしたその時。

──二人は、相合傘をしていた。

それはまさに、僕が理想として思い描いていた、後ろ姿だった。

まあやの肩が濡れないように、そっと抱き寄せる男の手。

それにそっと、はにかむまあや。

いつか背が伸びて、大人になった僕がずっとやりたいと夢に描いていた、理想の形そのものだった。


二人の背中が、丘の階段を一段一段降りていく。

呪詛を吐こうと思った。

僕を愛という呪いで縛り付けて来たように、僕も呪いをかけてやろうと思った。


それなのに──


「………」


何も、言えなかった。

皮肉なもんだ。

最後の最後まで、まあやを傷付ける言葉を吐くことを、この体は拒んだ。

その代わりに吐いたのは、ほぼ空っぽの胃から出た、酸っぱい胃液。

そのまま地面に嘔吐した。

何もかもが、無駄だったのだと言うように。

この体に蓄積されたもの達が、まるで何一つ価値が無かったのだと、無意味だと思い知らせるように。

腹の奥から溢れ出したもの達が、喉元を通り過ぎ、虚しく散る。


記憶が曖昧なまま、気付けば部屋に横たわっていた。

──終わった、何もかも。

僕の人生全て。

僕の存在は、まあやにとって全てだと思っていた。

そう、思い上がっていた。

でも、実際は逆だったんだ。

まあやの存在が、僕の人生の全てになってしまっていた。

まあやを失った今、僕には何も遺らない──。


力無く横たわった視線の先には、一冊の絵本。

白雪姫の表紙を見て、そして、悟る。


──あぁ、僕は、王子様なんかじゃなかった。

鏡に毎晩唱えるように呪いを刷り込まれ、邪魔になった途端毒林檎で殺された、白雪姫そのものだ。

王子様が助けに来てくれるその時まで、ただただこうして、眠ったまま待つことしかできない。

しかしその先に待つ未来は、偽りの幸福でしかないと、自分の仮説によって既に定められてしまった。

もうこの先、生きていく意味など、見出せる筈が無い。


──このまま死んでしまおう。

そう思って、自分の舌を噛み千切ろうと、精一杯力を込める。

しかし、体力も気力も衰弱し切っている子供の力だ。

上手く力を込めることさえできず、どんなに噛んでも、血の一滴さえ出なかった。

そんな無力な自分にうんざりする。

今の僕は死ぬことすらできず、全てを失ったくせに、まだ息をしているという事実が受け入れられなかった。

終わりさえ自分で選べない子供という生き物は、なんて無力で、脆弱なんだろう。


このまま飲まず食わずでこうしていたら、いつの間にか死んでいられるだろうか。

でも、そんな簡単な筈は無い。

餓死というのは、自殺の方法の中で、最も辛く苦しいと聞く。


──お腹が空いた。

苦しい、寒い、寂しい、虚しい。

今まで感じたことのない、死んだ方がどれほどマシかと思えるような、地獄のような時間だった。

それでも、そんな体の苦しみなどどうでもよくなるほど、心の中のぐちゃぐちゃの方が苦しかった。


「……おい! しっかりしろ! おい!」


薄れゆく意識の中で、この前の警察の二人組が見えた。


そこからの記憶は、少し曖昧だ。

目覚めた時には、見知らぬ天井が頭上にあった。

過度の栄養失調で、僕は警察に保護され入院していた。

点滴を受けて、病院食のお粥が少しずつ口にできるようになり、病状は次第に回復していったらしい。

それからお医者さんやカウンセラーの人や、警察の人や福祉センターの人に色々聞かれたようだけど、正直あまり覚えていない。



そうして、数ヶ月が経ち──


「ようこそ! 遊馬家へ!」


見慣れない玄関の扉が開くと、クラッカーの花吹雪が目の前で散った。


「勇為くん、いらっしゃい。今日からここが貴方のお家よ」


僕に、新しい家族ができた。


「私紅葉(くれは)! 今日から勇為のお姉ちゃんだよ!」


「あたしは彩葉(いろは)! よろしくね、勇為くん!」


明るくて優しいお姉ちゃんが、二人もできた。

そしてお喋りで料理上手なお母さんと、おっとりとみんなを見守るお父さん。

僕は、【遊馬勇為】になった。


遊馬家の食卓はいつも賑やかで、笑い声が飛び交っていた。

ここでは無理に笑ったり、無理に取り繕ったりしなくていい。

毎日が、とても平和だった。


お父さんは、まあやの義理の兄らしい。

とは言っても、お父さんが高校生の頃両親が離婚し、そのお父さん、つまり僕のお爺ちゃんに当たる人に着いて行き、その数年後にお爺ちゃんが連れて来た恋人の連れ子が、まあやだったというわけだ。

しかしその恋人は夜の仕事をしていた人らしく、再婚の話を持ちかけたくせに、まあやを置いて姿を消してしまったらしい。

そして保護してもらうか迷った挙句、お爺ちゃんが面倒を見ることになったと。

しかし元々家事を任せたいが為に再婚を考えていたような人だったらしく、まあやのことも実質放ったらかしだったそうだ。

お父さんもその直後すぐに、大学進学の為家を出て一人暮らしをしていた為、まあやとは義兄妹と言えども、ほんの僅かな期間一緒に暮らしていただけらしい。

そしてまあやが高校を卒業と同時に、僕の父親と結婚し家を出て行ったということで、そこからは一切連絡も取らずそれっきりだったらしい。

そんなまあやが失踪し、その子供の僕の親族を探したところ、この家族に行き着いたというわけだ。


僕は、幸運だったと思う。

こんな幸せな家庭に引き取ってもらえて。

これまでの苦労が、一気に報われるようだった。

しかしあの頃の弊害で、僕は味覚がほとんど無くなってしまっていた。

味が分からず、食べることを体が拒んでいるかのように、食べては戻してしまう。

もう、成長や体の変化を、嘆く者は居ないのに。

そんな、体に刻み込まれてしまった傷を恨んだ。

しばらくは食欲が戻らず、食事を出されても手が伸びない僕を、折角出してくれたものを残してしまう僕を、お母さんも家族も責めなかった。


「そんな時だってあるよ。私だって食欲ない時は、無理に食べたくないし」

「じゃあ勇為の分はあたしが食べちゃう! もーらいっ!」

「あんた食べ過ぎじゃない? 太っても知らないよ?」

「紅葉ちゃんに言われたくないですーぅ」


僕が暗くならないように、みんな気遣ってくれた。

その優しさが、とても温かかった。

家族とは、本来こういうものだったのかもしれない。

僕が今まで居た世界が異常だっただけで、これが普通の家族の在り方なのかもしれない。

慣れない与えられるだけの愛情に時折戸惑いながら、困惑しながらも満たされた日々を過ごした。


そんなある日、外で雨が降っていた時のことだ。

家族と共に出かけようと、靴を履いて玄関を出た。


「勇為? なんで、傘二本も持ってるの?」

「……え?」


彩葉ちゃんに言われて自分の右手を見ると、僕は傘を二本手に取っていた。

なんの迷いも無く、いつもの癖が抜けないように、無意識に。

自分の青色の傘と、深紅の婦人傘。

──まだ、消えてくれない。

あの女と過ごした日々が、この体にこびりついている。

そのことが、堪らなく嫌になった。


「いけない、私ったら自分の傘忘れてたわ。ありがとう勇為」


お母さんはそう言って手を差し出すと、僕から深紅の傘を受け取った。

その背後で、数秒前に車の影に隠したであろう傘が、チラッと目に入る。

──優しい人だ。


「勇為は気が効くなぁ。こういうさり気ない優しさがモテる秘訣だからね。二人も覚えとくように」

「お父さんだって、そんなのやったことないでしょ?」

「そうだよ。自分棚に上げるのかっこ悪いよ? ねー? 勇為」

「ちょっと、お父さんにだけ厳しくない?」


遊馬家は、いつも笑顔が絶えなかった。

こんな僕を、本物の家族のように扱ってくれる。


でも、贅沢過ぎる悩みもあった。


「僕、手伝うよ」

「いいのよ、勇為は座ってテレビでも見てて」

「……え……でも……いいの?」

「いいのよ、勇為はまだ子供なんだから。親に甘えるのが仕事なのよ」

「……それでも……何もしなくても……ここにいていいの?」

「当たり前よ。家族ってそういうものなんだから」

最後の一言は、聞けなかった。


(何もしなくても、人生を捧げなくても、本当に、僕を愛してくれるの?)


愛という用語を使うのが、怖かっただけかもしれない。

もしくは、その答えが肯定の言葉だっだとしても、そんなのは嘘だと疑ってしまうと思ったからかもしれない。


部屋に一人篭って、膝を抱える。

今の生活が幸せだと思えば思うほど、不安が込み上げてくる。


──要求が欲しい。

要求が無い愛は、安心できない。

求められていないということは、居る価値が無いということではないかと、そんなふうに考えてしまう。

今まで自分の価値をどう示すか、どう立ち回ることで、人を幸せにするかということに人生を費やしてきた僕は、この事実に耐えられなかった。

無償の愛など、信用できない。

親が子を愛することなど、なんの意味や大義も必要無く、ただ当たり前のことでいいんだと、今までの僕が知る由も無かったから。

自分は求められているんだという、証が欲しい。

これが欲しいと言われて、それを叶えてあげることで、その対価として愛を与えられたい。

それでないと、辻褄が合わない。

安心できない。

要求が無い愛は、愛だと思えない。

与えたい、尽くしたい、求められたい。


(誰か……僕を、神様にして……)


そんなことを考えて苦しくなって、そんな贅沢なことで苦しくなっていることに、申し訳なくなった。

身寄りの無い僕を引き取って、こんなにも家族は良くしてくれているのに。

勝手に苦しんでる自分が、酷い人間のように思えて苦しかった。

自分を責めて、もがき苦しんで、逃げたくて、ラクになりたくて。


その結果、責める相手を変えた。

──そうだ、僕がこうなったのは、全部あの女のせいだ。

あの女のせいで、僕の人生はめちゃくちゃになった。

僕を壊して、挙句の果てに捨てた、あの女を赦せない。

絶対に、赦してなんかやらない。

僕は決して、あんな大人にはならない。


「……見てろ……絶対に復讐してやる……!」


それは殺意以外の何物でも無かったけれど、殺そうだなんて気は起きなかった。

殺して一瞬でラクにしてやるなんて、そんな生優しいことしてやらない。

僕が受けた苦しみを、同じだけ味合わせてやる。

──そうだ、有名人になろう。

芸能人でも、政治家でも、なんでもいい。

日本の何処にいても、街中やテレビで顔を見るような有名人になって、僕のことを思い出させてやる。

そして世界中から愛されている僕のことを見て、僕という人間の素晴らしさを思い知って、いつか僕を迎えに来ればいい。


『ゆーい。捨ててごめんなさい、やっぱり私には、貴方しかいないの』


縋るようにして再び現れたあの女に向かって、僕はこう言ってやるんだ。


『触るなよ。今更なんだ。僕はもう、あんただけの僕じゃない。あんたなんかがいなくても生きていける、世界中のみんなから愛されてる、遊馬勇為なんだ。かつて自分が捨てた男に、捨てられる気分はどう? 二度と僕の前に現れるなよ』


そして極めつけに、こう吐き捨ててやるんだ。


『悪魔みたいな女』


今度は僕が、呪いをかける番だ。

おまえが捨てたものが、どんなに素晴らしいものだったのか、思い知らせてやる。

自分のしたことの愚かさを恨んで、一生後悔すればいい。

それは、どんなに爽快なことだろう。

僕の人生をどん底に落としたことを、死ぬまで後悔させてやる。

どんな手を使ってでも。

真っ赤に焼けた鉄の靴を履かせて、どんなに泣いても終わらない苦しみを味わいながら、死ぬまで踊り続ければいい──。


その日から、生きる目的が新たに決まった。

今までは、あの女の為だけに生きて来た。

これからは、あの女に復讐する為に、それだけの為に生きていこう。

その為にはまず、僕が幸せでなければならない。

全世界から、愛される人間にならなければならない。

──大丈夫、人心掌握は得意だ。

相手が欲しいものを察して差し出すのは、僕が生きる為に身に付けて来た、最も得意なことだ。

今まであんなに、頭のおかしい女の相手をしていたんだ。

こんなの、余裕だ──。



そんな覚悟を実行するように、転校先の中学では一気に人気者になり、周りには女の子が絶えなかった。


「ねぇ勇為、今日カラオケ行こうよ」

「いいね、行こ行こ」

「えー、ずるい! 私も行きたい!」

「私も!」

「いいよ、みんなで行こ」


クラスの女の子達に誘われて放課後遊びに行ったり、部員がほぼ女の子のダンス部に入ったこともあり、常に女の子から囲まれている学校生活になった。

ただこの場合、男子からは当然おもしろく思われない。

でも僕は、そこも決して抜かり無かった。

初めて三年生の先輩から校舎裏に呼び出された時でさえ、僕は動揺しなかった。


「おまえ、女にばっか囲まれていい気になってんじゃねぇぞ」


普通なら、日和って許しを乞う場面だ。

しかしそんな絶対絶命のピンチさえ、僕は利用しチャンスに変えてみせた。

ここぞの演技力で、涙に目を浮かべて、弱々しく声を発した。


「……すみません。僕、昔から女の子みたいだって言われてて、男の子の友達と上手く馴染めなかったんです……。実は先輩のこと、男らしくて、ずっとかっこいいなって思ってて……。もし良かったら、僕とお友達になってもらえませんか?」


僕は根っからの女好きだし、同性に対して恋愛感情を抱くということも全く無い。

完全なハッタリだ。

それでも、その時の僕は、相当可愛かったらしい。

それから学校を仕切っていた強面のその先輩は、僕の肩に手を回しながら仲間達にこう言った。


「こいつ、今日から俺の仲間だから。おまえらも仲良くしてやってくれ」


そんなふうに、学校中に僕を紹介して回ってくれた。

学校のボス的存在に一目置かれたことで、体が大きいわけでも喧嘩ができるわけでもないのに、男子の中での僕の立場はどんどん優位になっていった。


「なぁ遊馬。おまえ二組の藤澤と仲良いよな? もし良かったら、今度遊び行く時あいつも誘ってくれん?」

「いいよ。他の子達にも声かけて、セッティングしてあげる。ただ、そっから先のことは自分でなんとかしてね。女の子に気持ちを無理矢理押し付けるようなことは、僕にはできないからね」

「分かってるよ。まじ助かるー! 神様仏様遊馬様!」


自分の定めた紳士ルールは守りながらも、人の為に精一杯尽くす姿勢を見せた。

こうして男女共に欲しいものを与え、僕は誰からも愛される存在になった。

──正直、楽勝だった。

言ってしまえば、チョロかった、だ。

あの頃の苦労に比べたら、こんなに簡単なことはない。

あの女よりも攻略が困難な人間なんて、この世に存在しないのだから。


そしてある日、いつものように女の子達とカラオケに行った帰りのことだ。

高校生が出歩くには、少し遅い時間だった。


「ねぇ勇為、今日は朝まで一緒にいようよ」

「何言ってんの。高校生がそんなことできるわけないでしょ。ほら、帰るよ。また明日ね」


優しく頭をポンポンとすると、女の子は恥ずかしそうに頬を染めた。


「おい君達、もう十時過ぎてるよ。どこの高校? 学生証を見せて」


見回りの警官に声をかけられて、皆がおもしろおかしく騒ぎながら走り出す。


「やべ、逃げよ!」

「サツに捕まるぅ〜!」

「ちょっと、待ってよ!」

「……古賀?」


捨てた筈の古い苗字を呼ばれ、振り返った。

それはあの時の、二人組の警察官だった。


「勇為くん! 久しぶりだね! 元気だった!? わぁ、こんなに大きくなって……!」


あの時新人だったであろう警官も、三年も経てばすっかり新人感が抜けていた。

そんな会話をしているうちに女の子達は逃げ、二人の元に僕だけが取り残された。


夜の公園のベンチに腰掛け、自販機で買ったジュースを梶田さんに手渡される。


「ありがとうございます」

「元気でやってるのか? ま、女に囲まれてるところを見ると、随分楽しそうだったが」


相変わらず、煽るように喋る人だ。

それでも今は、彼らへの感謝の念の方が圧倒的に大きい。


「えぇ。お陰様で、楽しくやってます。あの時の僕はまだ子供で、大したお礼もできずにすみませんでした」

「え」


あの頃の飢えた獣のような僕とはまるで違う様子に、二人は戸惑ったようだ。

ちゃんと目の前に立って、丁寧に深々と頭を下げてお辞儀をする。


「本当にありがとうございました。貴方達が言ってたことは正しかった。あのままだったら、僕は悪夢の中にいたままでした。仰っていた通り、いっときのまやかしだったと気付いた。お二人は命の恩人です」


まるであの頃の面影が無い僕の様子に、二人は戦慄していた。

まぁ、あの頃の僕を知っていれば、無理もない話なのだけれど。

僕は善意100%で伝えたつもりだったけれど、二人からすると、それは最早狂気染みていたように思われたらしい。

手負の獣のようだった少年が、人が変わったように笑顔を浮かべている。

まるで、そちらの方が不自然だと思えるように。


「今の生活が問題無いなら何よりだ。もう遅い。送って行くから車乗れ」

「嫌ですよ。パトカーでなんて送られたら、不良息子だって家族に心配されちゃいます」

「だったら、十時以降の外出は控えるように」

「はーい、すみません。ジュース、ご馳走様でした」


謝罪とお礼をして、僕はその場を後にした。

──よかった。

伝えられて良かった。

あの頃の自分への否定が、今の僕への肯定になる。

自分は間違っていなかったんだと、あの女が居ない日常こそが僕の人生の正解なんだと、そう思い知らせてくれる。


「本当に、人が変わったようでしたね」

「どうした。あぁなるのを望んでたんじゃないのか?」

「そうなんですけど……その筈なんですが……。今は、本当にあれで良かったのかなって。僕達がしたことは、本当に正しかったのかなって。こんなことを言うのは間違ってるかもしれませんが、なんていうか、あの頃の勇為くんの方が、人間らしかったというか……。勇為くんが勇為らしくいられる世界の方が、もしかしたら正解だったのかなって。分からなくなりました」

「後悔してるのか?」

「あの時はそうでした。こんなことになる前に、初めて家に行った時に、強引にでもあの親子を引き剥がすべきだったと。先輩は、後悔とかしなさそうですね」

「あるに決まってんだろ。だが後悔があるとしたら、もっと早く、あいつを見つけてやらなきゃいけなかったってことだ。父親と離婚してすぐの、まだ幼い頃に。あぁなる前に……」


僕が居なくなった後の公園で、二人がそんな会話をしているとも知らずに。

いつかテレビに映る僕の姿を見て、二人は何を思ったのだろう。

笑顔を振り撒く僕は、幸福に見えたのか、はたまた不幸に見えたのか──。



そんな僕を今のこの世界に導いたのは、高校二年生の時。

クラスメイトが、とあるオーディションを勧めてきたことがキッカケだった。

大手プロダクションによる、ダンスボーカルユニットのオーディション。


「勇為、歌もダンスも上手いから絶対いけるよ。あと何より顔がいい」

「でも、みんなの勇為になっちゃうのはちょっと複雑〜」

「それは今と変わんないよ。学校中のアイドルから、日本中のアイドルに変わるだけじゃん。勇為は誰のものでもあって、誰のものにもならないんだから」


取り巻きの女の子達がキャッキャと騒ぐ中、僕は沸々と想いを滾らせていた。

──遂に来た。

これで売れてやる。

これであの女に復讐してやる、と──。


オーディションは自信があった。

ダンスは部活だけとはいえ経験があったし、歌も放課後のカラオケで得意になっていた。

それに何より、相手が求めてるものになればいい。

それが一番、僕が得意とすることだったのだから。


「108番、遊馬勇為です」


審査員が求めているもの、スタッフが求めているもの、ファンが求めているもの。

全てを理解して、それを全力で体現した。


「合格した暁には、どんなアーティストになりたいですか?」

「世界で一番、ファンに愛を与えられる存在になりたいです」


目の前の相手の意図を汲み取り、審査員の望みを汲み取り、言動で、行動で示していった。

そしてそれが功を成し、無事最終選考まで進み、六人の合宿審査に挑んだ。

そこには、昔テレビで見た元天才子役もいた。


「わ、あんたが朝霧ひなね」


ストレッチをしてる最中に、細身の女の子がその元子役に話しかけに行き、皆の注目はそこに集まった。

どうやら、芸名の話をしているらしい。

確かに、僕の知っている【朝霧ひな】ではなく【朝霧陽七星】という名前でエントリーされていた。


「きゃっ」


頭上にタオルが落ちてきて、反射的に床に落ちる前に拾う。


「はい、どうぞ」

「あ……ありがとうございます……」


鈍臭そうな女の子が、アタフタしながらタオルを受け取る。

彼女は確か、水無月みお。

最終候補者の全員の顔と名前は、一通り頭に入れてある。

──当然だ。

合宿審査では、他のメンバーとの協調性や関係性も、大きく関わってくる筈だから。


「敬語じゃなくていいよ? 確か同い年だから。水無月みおちゃん」

「……あ、そうなんだ……。……ありがと。あなたは……遊馬勇為くん」

「勇為でいいよ」


胸元の名札に書かれているのは、YUIというアルファベットだけだ。

フルネームで覚えているということは、事前に配られたエントリーシートを、彼女もちゃんと目を通してきたということだろう。


「あっち、すごいね。本物の芸能人を生で見るのって初めてだよ」

「ねっ。みおも、生のひなくん初めて見た。最初名前違ってたから、別人かなって思ってたけど。勇為……は……本名なの?」


名前のことを聞かれ、オーディションのエントリーシートに書き込んだ日のことを思い出す。

芸能活動というのは、本名とは違う芸名を使っている人も多いと聞く。

今ここで書く名前が、僕のこれからの芸能人生を彩る名となるのだ。

一瞬、脳裏を過った。


【古賀勇為】


あの女に復讐すると言うのなら、この名前を使うべきなのではないか。

この名前を世に轟かせて、あの女に見つけさせるようにする為には、この名前にすべきではないのか、と──。

それでも、その方が合理的だと分かっていても、その名前を書くことを、僕の体は拒んだ。

──もう、戻りたくない。

あの日々に、あの自分に。

あの地獄のような人生に。


考え抜いた末僕は、エントリーシートに【遊馬勇為】と、今の本名を書いた。

──大丈夫。

この名前は、僕のものだ。

役所で養子としての手続きもしてくれているし、ちゃんと法で定められた、紛れもない僕の持ち物。


「本名だよ。そうじゃなきゃ、意味が無いんだ」


証明するのは、今の僕が幸せであるということだ。

遊馬勇為としての今の僕が幸せであるということを、あの女に証明できればいい。

元々、名前の方だけでも珍しい名前だ。

街中で『ゆーい』という名前を聞けば、心臓が跳ね上がったように振り返り、僕を思い出すことだろう。

だから、これでいい。

今の僕は、世界中に愛されている僕は、あんたのものだった古賀勇為じゃない。

あんたと決別して生まれ変わった、遊馬勇為なんだ、と──。


最終選考ともなると、さすがに歌もダンスもレベルが高い人達ばかりだった。

それでも、やることは変わらない。

寧ろ他の人達が、歌やダンスのスキルでメンバーの座を勝ち取るのなら、僕はそれ以外の面でアピールしていかなければ。

僕以外の五人をじいっと見つめ、冷静に分析する。


陽七星くんは元々知名度があるけど、謙虚で好青年な表の顔とは違って、プライドが高そうだ。

彼より前に出ることは、今後のグループの立ち位置としても、ファンから向けられる視線を考えても、メリットが無いだろう。

個人で陽七星くんと対立しないようにして、それでも決して彼の下に着くという姿勢は見せないように、上手く立ち回ろう。


海ちゃんはキャリアもあって、歌とダンスのスキルが高いし、何よりアーティストとしての華がある。

自信家で我儘な女王様タイプだろうけど、それなら僕の一番得意なタイプだ。

海ちゃんの下に着くのを装って、海ちゃんの要求を呑んでいると見せかけて、僕がこのグループをコントロールしよう。


美生は多分、顔とキャラでここまで来たってかんじだ。

同い年ってのもあるし、もしかしたらシンメとしてセットにされることが多いかもしれない。

コンビ推しも一定数できるだろうし、ここは当たり障りなく仲良いかんじを見せて、だけどファンのストレスになりすぎない程度に距離は保とう。


伶くんは、歌とダンスのスキルは一歩出遅れているけれど、アーティスト自らが曲を作れるのは、今の時代大き過ぎるアドバンテージだろう。

陽七星くんが一人で前に出るなら、僕らが対になることもあるだろうし、無口で真面目でクリエイターとしての拘りが強そうだから、機嫌が良い時にだけ絡みに行こう。


織ちゃんは、正直難しい。

僕が今まで見てきた女の子達の、どれにも当て嵌まらないタイプだ。

クールビューティーでおしとやかなイメージだけど、何かこう、心の奥底に何かを灯しているような、そんな違和感がある。

それでも、女の子はみんなお姫様扱いされたいものだろう。

これから会話をして距離を詰めて、性格を見極めて、付かず離れずの関係に持ち込めればいい。


そして僕には、ある仮説があった。

この六人、バランスが良すぎる。

社会人で同い年の、伶くんと織ちゃん。

高校三年生の、陽七星くんと海ちゃん。

高校二年生の、僕と美生。

同い年の男女が二人ずつの六人で、おそらく歌唱力が群を抜いている、陽七星くんと海ちゃんが中心のグループになるだろう。

合宿審査のオーディションとは謳っているものの、あわよくばこの六人でデビューさせようという目論見が、既に運営側にはあるのではないか、と──。

だとしたら、今求められているのは、この人達を蹴落とす為の努力じゃない。

この人達の中で、自分という人間をどう際立たせ、またはどう溶け込ませるかということだ。

彼らは初めからライバルであり、チームメイトだ。


でもそれとはまた別で、どんなにチームを組んでいようと、人生は所詮個人競技でしかない。

全員が仲間であり、それと同時に全員がライバルでもあるのだ。

もちろん最低限のスキルは必要だろうけど、同じような部分を担うメンバーが固まっても、意味が無い。

アイドルとはまた違う、本格実力派グループを謳っていても、結局は人気商売だ。

審査員の評価はもちろん、ファンを味方に付けなければならない。

オーディションや合宿の様子は動画配信されている為、僕は既に、画面の向こうにいる未来のファンをターゲットにした。

まだオーディションの段階とはいえ、まだメンバーに選ばれるかも分からない状態で、今はまだ目には見えないファンが欲しいものを、精一杯提供した。


案の定、ダンスのフォーメーションでは美生とシンメになり、彼女との関わり方には一段と気を付けた。

彼女を通して、僕という人間をプレゼンしようと考えたからだ。

あれを手の内に収めて上手く利用すれば、僕の人間性やキャラクターを、存分に視聴者に見せつけられるだろう。


「みおちゃん、大丈夫?」


「みおちゃん、振り確認したいから、一緒に練習しよ」


「みおちゃん、泣かないで。ほら、僕のハンカチ使って」


僕の紳士的な気遣いを、騎士のような献身さを、彼女に向けることでファンにアピールした。

それこそが僕の、共感性という強みを存分に提示できると思ったから。

彼女もすっかり気を良くしたようで、あたかも自分が特別かのような、お姫様になったかのような様子で、扱い易かった。


何もかもが順調だと、そう思っていたのに。

予想外のことが起きた。

レッスン終わりのカメラが回っていない場面で、水道に居る美生に声をかけた時のことだ。


「お疲れ様、みおちゃん」


顔を水で濡らす彼女の前には、いつも着けているリストバンドが置いてあった。

そして左手首にある、傷跡を見てしまった。

痛々しく、幾つもの赤黒い線が入ったその手首を──。

一瞬にして胃が冷えて、記憶が蘇る。

あの女の姿だ。

カッターの刃を突き立てながら、死んでやると喚き散らしていた、あの女を。

彼女が顔を上げる前に、僕はその場から足早に走り去った。


「……なにあれ……」


腹の底から嫌悪感が上がって来て、口元を押さえるも間に合わず、その場に嘔吐した。

気持ち悪さの正体は、あの女を思い出したからだけじゃない。


(……なんで……?)


理解ができなかった。

なんであいつが、あんなことしてるんだ。

映えあるオーディションで選ばれて、自分を売り込んで、これから多くのファンを獲得しようとしている人間の筈だ。

そんな人間が、死にたいと願っていたような人間が、それを大事にしようとする者の気持ちや努力を馬鹿にして嘲笑うような人間が、人の憧れの的になろうなんて馬鹿げてる。


──何も知らないくせに。

自分が愛する人間がその行為をしているという事実が、どれほど惨めな気持ちにさせられるかなんて、これっぽっちも知らないくせに。

握った拳が震えて、怒りが込み上げてくる。

何もできなかった惨めな自分と、そんな行為を容易にしてしまえる、愚かな人間に。


「……馬鹿にするなよ……」


心から、軽蔑した。

それを隠すことさえ、取り繕うことさえ、もう馬鹿らしいと思えてしまうほど。


「ねぇ勇為。もしかして、さっき声かけてくれた? ごめん、みおすぐに気付けなくって……」


ロッカールームを出た僕を、美生が捕まえて話しかける。

僕は迷わず、彼女を無視した。


「……え……」


黙ってその場を過ぎ去ろうとするところを、美生は僕の手を掴んで引き留めた。


「ねぇ待ってよ、なんで無視するの?」


その時僕が向けた眼差しは、ひどく冷え切っていた。

心の底からの、侮蔑と失意の意を込めて──。


「触んないでくれる?」


手を振り払うと、美生は怯えたような瞳を向けた。

泣きそうな顔で、まるで同情を誘うような態度が鼻についた。


「……なんで急にっ……。ずっと仲良くしてくれてたじゃん……。みおがなんかしたなら言ってよ……。こんなのあんまりじゃん……」


──あーあ。

今度は被害者面だよ。

ほんっと、都合良いんだから。

君達みたいな考え無しの女のせいで、迷惑する人間がたくさん居るっていうのに。


「分かんないよね。あんたみたいな人間には、一生さ」


それからは、美生への態度を一変させた。

意識的にしたと言うよりは、体がそれを拒んだと言った方が的確だろう。

表では今では通り仲睦まじい演技をしながら、裏では容赦無く突っぱねた。

それどころか、表ではより一層美生に優しい振りをした。


「みおちゃん、大丈夫?」


「みおちゃん、振り確認したいから、一緒に練習しよ」


「みおちゃん、泣かないで。ほら、僕のハンカチ使って」


同じように見えて、全く違う。

自己プロモーションとして株を上げる目的もあるけれど、合宿も終盤になり、今の僕には既に大勢のファンが着いている。

そうすると、今までは女の子に対する気遣いとして評価されていた部分も、ファンは勝手に嫉妬して、美生に対してヘイトを向けてくれる。


【MIOってさぁ、YUIに対してデレデレしすぎじゃない?】


【ぶりっ子だし鼻につく。YUIに優しくされて勘違いしてんじゃない? YUIはみんなに優しいのにさ】


【自分だけは特別だって良い気になってそうでウケる。うちの推しに手出したら許さねぇかんな】


SNSでファンの書き込みを見て、一層気分が良くなった。

嫉妬は、愛においてとても重要な要素だ。

これを上手く扱えるかどうかで、ファンとの関係性は決まってくる。

夢中にさせて、適度に嫉妬させる。

与えられるのが当たり前ではないと知って、より僕にのめり込んでくれるだろう。

愛に溺れるなんて、そんなの奴隷みたいだ。

相手を溺れさせてこそ、愛は矛にも盾にもなる。

僕は誰よりも、愛を上手く使いこなしてみせる──。


そして結果、僕はオーディションに合格した。

予想通り、合宿審査を共にした、六人でのデビューが決まったのだ。

僕の読みと戦略は、間違って無かった。

自分のやり方は、この世界でも充分通用するという証明になり、自信にも繋がった。

結果的に言えば、楽勝だったと言えよう。

それでも、ここ数年は何事もヘラヘラと中途半端に日々を過ごしていた僕にとって、ひとつの目的の為に一生懸命思考を巡らせて挑む日々は、少なからず楽しかった。

もちろん、初めてちゃんと受ける歌とダンスのプロのレッスンは、着いていくのに必死にならざるを得なかったのだけれども。

終わってみれば、やはり自己プロデュース。

それが全てだと感じた。


そして初ステージまで更にレッスンを積み、パフォーマンスに磨きをかけ質を上げていった。

初めてステージに立った時の感想は、パフォーマンス的には未熟で、まだまだ磨きをかけなければと痛感させられることもあった。

それでも、初めて感じたステージの感覚、熱。

鏡の前で幾度と行ってきた、空っぽの客席の中での、リハーサルの時とは全然違う。

お客さんでいっぱいになった会場。

僕のメンバーカラーの、黄緑色のサイリウムを振ってくれるファンの子達。

もちろん感激はしたけれど、その声援全てを自分に向けたものだとは思えなかった。

僕より多くの歓声を向けられ、それに気持ち良さそうに応える陽七星くん。

会場のサイリウムの光も、自分に向けられたもの以上に、その他の色が気になってしまった。


──もっと、もっとやらなければ。

陽七星くんは元天才子役の知名度があるし、オーディションの配信も、陽七星くんがメインのように扱われている部分が多かった。

海ちゃんも、歌が上手くてルックスも良くて目立つ位置にいることで、男性ファンの人気は圧倒的だった。

元々アドバンテージがあるのだから、スタート地点はハンデがあって仕方なかったものの、ここからが僕の腕の見せ所だ。

僕にとってデビューはゴールではなく、戦いの始まりでしかなかった。


まず、SNSでの動画配信に一番力を入れた。

グループのチャンネルで毎晩生配信を行い、ファンとの距離を詰めていった。


「みんなありがとう♡ 今度握手会もあるから、僕に会いに来てね!」


活動の宣伝はもちろん、コメントを拾って質問に答えたり、ファンの子のお悩み相談に乗ったりと、定番の企画等も着々とこなした。

でも僕の売りは、恋人と錯覚してしまうかのような、まるで恋人と一対一でテレビ電話をしているかのような、そんな絶妙な距離感だった。


「今日は何してたのぉ?」

「一日よく頑張ったねぇ。偉い偉い」

「あんまり頑張りすぎちゃダメだよ? 僕には君が必要なんだからさ」


その様子は、ブルバのリアコ枠として、早々にキャラを確立した。

──簡単なことだ。

皆が喜ぶことなんて、手に取るように分かる。

尽くして、要求を聞いて、それに応える。

僕がずっと、得意としてきたことだ。

僕にとってこの仕事は、まさに天職だった。


ファンはもちろん、メンバーとのことだってそうだ。

結局は、人身掌握

結局は、コミュ力だ。

一人一人個性や拘りが強く、一致団結するのには向かないメンバー達だったけれど、それでも僕の掌の上で上手く転がされてくれていた。

自分が一番優位な位置に居ると、全員を上手くコントロールして、僕にとって都合の良い人達に仕立て上げたと自負していた。


初めての握手会だって、完全に僕の得意分野だった。

事の経緯は、レコード会社主催で行うデビュー後初の接触イベントを、握手会という形で全員で行う筈だったものの、陽七星くんがそれを頑なに拒んだらしい。

その結果、陽七星くんだけ省いて行うのはさすがにということで、グループから代表して僕と美生の二人が担当することになったのだ。

陽七星くんはどうやら、潔癖症なんだとか。

人それぞれ苦手なものがあるのは仕方ないけれど、まるで女の子を汚いもの扱いするみたいで、そんな傲慢な心持ちの人間がこの仕事をしてるということを、快くは思わなかった。


自分のグループでの在り方を模索する上で、陽七星くんのやり方と、自分のやり方を比較することは多かった。

陽七星くんは、テレビ等の表向きでは謙虚な好青年だけど、ステージでの振る舞いはドSな王様気取りで、その圧倒的強者感がファンの人気を獲得していた。

でもそれが魅力だという人が居れば、それが苦手だという人も当然居る。

そのふるいから零れ落ちた人達を、自分に振り向かせればいい。

まぁ、元々やり方や考え方は、全くと言っていいほど違うのだけれど。


陽七星くんは、支配を勘違いしている。

海ちゃんに対してもそうだ。

いつもくだらないことで張り合っては、マウントを取ろうと必死で、横暴で力で押さえつけて、自分があたかも優位に立っているかのように振る舞っている。

でも、あんなのは支配じゃない。

本物の支配は、言うことを聞かせることじゃない。

こちらが言うことを聞いてあげて、僕がいないとダメだと教え込むことだ。

要求を飲むということは、僕が与えてあげている立場だということだ。

愛されたいと願ってくれるから、僕は愛してあげる。

あくまで僕が与えてあげてる側で、僕はみんなの神様だ。

誰かに尽くすということは、誰かを満足させられるということは、男として最高の矜持だ。

陽七星くんのように、ふんぞり返って言うことを聞かせ、圧政することじゃない。

首輪なんか付けなくても、向こうから勝手にやってくる。

誰かに望まれて誰かに拝まれて、誰かの願いを叶えて満たしてやることが、僕がいないとダメな人間にさせることが、本当の支配だ。


──僕は、ファンを心底愛している。

僕を必要としてくれていると分かるから。

僕に望んで、僕に期待して、僕に愛されたがってると同時に、僕を愛したがってくれている。

愛は、心地良い──。



そうして、準備してきた握手会当日となった。

嫌いな美生と二人きりの控え室で、気分は最悪だった。

何も言葉を発さないまま、沈黙が流れる。

お互いスマホと睨めっこしながら、SNSのチェックに必死だった。

僕に会えることを、今か今かと楽しみにしながら並んでくれている子達ばかりだ。

そして握手会のタグで検索していると、どうしたって美生のファンの投稿も出てくる。

あいつもあいつなりのやり方で、今日までSNSやブログを使って、多くのファンを獲得してきたらしい。


──証明してやろうと思った。

僕のファンの方が、僕のやり方の方が、正しいのだと。

美生のように弱みを晒して、ひけらかして、同情を誘うやり方でファンを増やすことより、要求に応えて、与えて、尽くす僕のやり方の方が正しいのだ、と──。


美生の左手首に、リストバンドは無かった。

良く目を凝らして見ると、少し前まで痛々しく残っていた傷は、跡形も無く綺麗に消えていた。

今更ながら、整形手術でもしたんだろう。

そんなに簡単に消してしまえる傷なら、もっと早くに消してしまえば良かったのに。


(……やっぱり……馬鹿みたい……)


そう思ってから、少しだけ虚しくなった。

あの女が、もしあの傷跡を消してしまっていたら。

僕と共に過ごした日々ごと、綺麗さっぱり消してしまっていたのなら。

そんなの、赦さない──。


「勇為くん、顔色悪いけど大丈夫?」


マネージャーの惇さんに声をかけられて、いつもの自信家な笑顔を向けて見せる。

きっとあの女を思い出している僕は、相当怖い顔をしていたのだろう。


「大丈夫。美生と同じ空気吸ってて、ちょっと気分悪くなっただけ」


なんとなく腹いせに、美生をおちょくって攻撃してみる。

いつもなら悔しそうに、小動物のように負け惜しみを言いながら、噛み付いてくるのに。

美生は勝ち誇ったように、笑顔を浮かべていた。


「今日は喧嘩しないよ。これから、大好きなファンのみんなに会えるんだもん。デート前の大事な時間なんだから、邪魔しないで」


言葉は若干刺々しいものの、その声色はまさに、恋に焦がれる乙女だった。

自分を磨いて、オシャレをして、一番輝いている自分を見て欲しいと願う、愛に溺れた顔だ。

それがあまりにも綺麗で、美しくて、思わず見惚れそうになってしまった。


──あぁ、いけない。

そんなもの、有りはしないと分かっているのに。

ファンから得られる愛なんて、色恋のそれとは全く違うものなのに。

それでも、期待したくなってしまう。

かつて僕が焦がれるほどに手を伸ばした、欠けたピースを埋めてくれる存在に。

もう誰にも預けないと、誓った筈だったのに──。


開場の時間になり、握手会が始まった。

僕に何かを期待してくれている、何かを求めて、ここへやって来た人達だ。


「はじめまして! オーディションの時からずっと応援してました! YUIくんが大好きです!」


「YUIくんの笑顔にいつも元気貰ってます! これからも頑張ってください!」


「配信毎日見てます! YUIに出会えて本当に幸せです! ずっと自慢の推しでいてください!」


ファンの子達がかけてくれる言葉のひとつひとつに、心がすうっと甘く溶けていく。

肩にのしかかっていた荷物が、少しだけ軽くなるように。

──あぁ、楽しんでもいいんだ。

救われてもいいんだ、と──。


その時、確かに感じた。

──あぁ、幸せだ。

僕は、みんなに愛されてる。

あんなに必死に手を伸ばしても届かなかったものが、こんなにも今、手の中で溢れている。

やっぱり、愛は、心地良い。

僕の想いは報われた。

そう、思ってしまった──。



──普通なら、これでハッピーエンドだ。

人生の全てを愛に捧げ、愛に生き愛の喪失によって死を迎えた一人の子供が、培った技術を駆使し、数多の愛を手にすることでその自尊心を満たし、人生の全てを再び取り戻すことができた。

もしもこれが御伽話なら、めでたしめでたし、で物語は締め括られるだろう。


しかし、そう上手くはいかない。

愛は、とても難しい。

幸福を満たす甘い蜜にもなり、心を蝕み殺す毒にもなる。

そんなこと、誰よりも人生を通じて、分からされていた筈だったのに──。



順調な活動が、三年目くらいに差し掛かった頃だ。

グループでは得意の喋りと洞察力でMCを任され、個人でも仕事が増えるようになり、ブルバとしてではなく【遊馬勇為】を認知する人も増えて来ていた。

そして目標のひとつだった、個人でのCM出演を遂に果たした。


「愛するほどとろけちゃう濃旨アイス、新登場!」


もちろんCMやアンバサダーは、陽七星くんや海ちゃんが先ではあったけれど、それでも達成感は大きかった。

交差点の街頭ビジョンに、僕の顔が大きく映し出される。

みんながそれを見て、写真を撮って、口々に僕の噂をしてる。

みんなが見てくれてる。

求めてくれてる。


もちろん人気の度合いを数で表すなら陽七星くんの方が高かったけど、それでも僕だって負けていなかった。

そもそも、人気の種類が違う。

あえて言葉を選ばずに言うなら、僕のファンは、頭がおかしい人が多かった。

例えるなら、認知度が高くメディア露出も多い陽七星くんは、ファンが一万人いて、それはCDを1枚ずつ買う人だとする。

それに対して僕のファンは、CDを100枚買ってくれる人が100人いる、というかんじだ。

僕のファンは、僕を愛して、愛して、狂うほどまでに愛してくれていた。

握手会なんてやろうもんなら、泣きながら婚姻届を差し出すようなファンも、一人や二人じゃなかった。


「YUIー! 愛してるー! 結婚してー!」


「私には、YUIくんしかいないんです! YUIくんの幸せを、誰よりも願っています!」


そんな言葉をかけてもらう度に、僕の自尊心は満たされ、どんどん膨れ上がっていった。


──あぁ、なんて、心地良いんだろう。

愛は、心地良い。

僕はすっかり人気者で、有頂天だった。



そんな時、ある記事が出回った。

僕がアイドルの女の子と付き合っているのではないかという記事が、週刊誌に書かれていたのだ。

そもそも僕は、その子と仕事以外で会ったことも無く、全く心当たりが無い事実無根のデマ記事だった。

どうやらその女の子が、僕とお揃いのものを身につけている写真をSNSに上げたり、恋人同士であるかのような、所謂匂わせの投稿をしているのだという。


──呆れた。

そんなことをして、満たされるのだろうか。

虚しさや愚かさが先行して、自分が惨めになったりしないのだろうかと、そんな軽蔑の念を抱いた。

しかし世間はこの記事を鵜呑みにし、物申すファンが急増し炎上した。

配信をしても、コメント欄はひどく荒れた。


【ガッカリしました。あんな見た目だけの女に騙されるんですね】


【ファンのことが一番だって言ってたのに嘘吐きやがって。もうファン辞めます】


【おまえにいくら貢いだと思ってんの? 死ね】


事務所からこの件については言及するなと言われ、否定することすらできなかった。


(こんなことで……。こんなところで……)


僕のサクセスストーリーが道を閉ざすなんて、あっていい筈が無い。

このまま、黙って退くことなんてできなかった。

僕はその記事の相手の子に、SNSのアカウントからDMを送った。


【BLUE BIRTHのYUIです。今度、会えませんか?】


速攻返事が返って来て、僕らはプライベートで初めて会うことになった。


「YUIくんにお誘いいただけて、本当に嬉しかったです! 実はデビューした時から、YUIくんのファンで……」


ファンだと言うのなら、どうして僕の邪魔をするんだろう。

僕の夢を妨害するような真似、どうしてできるんだろう。


「ねぇ、僕らさ、本当に付き合わない?」

「……え……」


嬉しそうにしちゃって、馬鹿みたい。

本当に僕のものになんか、なれる筈無いのに。


「僕の彼女にしてあげるよ」


──くだらない。

こんな言葉ひとつで、こんな行為ひとつで、自分だけがまるで特別かのような勘違いを起こす。

でもそれが、心地良い。


「二人だけの秘密だよ。君が誰にも言わなければ、このまま一緒にいられるんだから。もし誰かに話したりしたら……なんて、賢い君なら分かってくれるよね?」


優越感に酔いしれる。

心を預けてるのは、そっちだけ。

僕は君無しでも生きていけるけど、君はそうはいかない。

愛の奴隷になるのは、君の方だけ。

そんな僕は、誰よりも、愛を手懐けられているのだ、と──。


それからは、ひっきりなしだった。

僕のファンを名乗る子達に、個人的にDMを送っては密会した。

【恋愛は御法度だ】と【誰かのものになるYUIなんか考えられない】と、皆SNSでは発信しているのに、結局みんな同じだった。

──ほらね、みんな誰のものにもならないで欲しいなんて、嘘ばっかり。

どうせ自分のものにはならないからと、理想の品行方正を人には求めて、いざ自分にチャンスが回って来たと知れば、卑しくしゃぶりつく。

──あぁ、なんて醜いんだろう。


僕は僕のファンに、絶望し続けている。

自らファンの価値を下げて、笑って見せることで自尊心を守った。

あの子達には僕しか居ないのに、でも僕は誰にも執着していない。

誰のことも愛してあげるし、同じように誰のことも特別に愛していない。

その優越感に酔いしれ、ひどく安心もした。

捨てられるのは、もうまっぴらだ。

もし捨てられたとしても、僕にはたくさんの代わりが居る。

依存してない相手に依存されることは、優位に立っているようで、昔の自分に勝利したようで、とても気持ちが良かった。


(さぁ、僕を絶望させてみてよ。君達が囚われている愛なんて、なんの価値の無いものだって、僕が証明してあげる)


愛に裏切られた自分の心を護る為に、愛の価値さえも自ら下げた。

そうして価値観をすり換えることで、惨めな自分を護ってきた。


──僕は、ファンを愛している。

でもね、だからこそ、もう誰も、一番になんかしてあげないんだ。

一つの場所に留まるのはやめた。

僕は自由だ。

どこにでも行ける。

誰とでも愛を築けるし、誰とでも即席の愛を交わせる。

それはつまり、誰にも執着しないということだ。

そうすれば、もう間違えない。

雨の日に傷が疼くことも、求められない孤独を嘆くことも、愛の喪失に怯えることもない。


──馬鹿だな、古賀勇為。

おまえが執着してたものは、おまえが焦がれて堪らなかったものは、こんなにも薄っぺらくて、何処にでもありふれてるゴミみたいなものだったんだ。

おまえは間違っていたと、僕のやり方が正しかったんだと、本当の愛を手懐けた今の僕が、教えてやるよ──



人間とは、悲しい生き物だ。

どんなに深い傷を負ったとしても、壮大な誓いを立てたとしても、想いを内に秘めて口にすることなく、毎日笑顔の日々を送っていれば、脳が幸せだと勘違いしてしまう。

──僕は、忘れてしまった。

当初の目的を忘れたまま、体にこびり着いた愛に対する強迫観念の奴隷になった。

そんな状態でファンを愛し、数多のファンと恋人になることで、その欲を満たした。

人を自分の快楽の為の道具にして、要らなくなった途端ゴミだと言って捨てるような、僕を苦しめたあの女と同じ人間になって──。


そして最も嫌だった愛の押し付けを、葵瑞に対してもしてしまっていた。

あいつは、僕自身だったのに。

大人と戦いながら、理不尽な要求と戦いながら、見えない愛の正体に怯えながらも戦っている。

戦うことを辞めてしまった僕が、あの頃の僕を忘れてしまった僕が、嗤うことなど赦される筈が無い。


──いや、まだ終わってない。

きっとまだ、あの女は生きてる。

僕がこんなにも絶望の淵に立たされ、死にたい思いをしているというのに、あの女は好きな男と、のうのうと日々を送っているのだ。

その事実が、耐えられない。


──いいか、遊馬勇為。

これが最後の警告だ、次は無い。

あの女に復讐をしろ。

二度と間違えるな、決してブレるな。

それしか、生きる道はない──。


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