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ロストユースに青を知る  作者: 志結
第四章
35/35

第三十四話《神楽坂海の過去》

※やや長いです

お時間が許す時にどうぞ


.


愛を知らずに、生きてきた──



物心がつくのが、人より早かった気がする。

三歳の頃には自分という認識、所謂自我が芽生え、幼稚園の頃には物事に対する思考がハッキリしていたように感じる。

在った出来事を記憶しているレベルではなく、その時自分が何をどう考えて行動したのかという、思考回路まで覚えているのだ。

正直そんな子供、今思うと気味が悪いと思う。

子供らしさというものが、圧倒的に欠けていた。


この頃からうちにパパはおらず、ママの口癖は『あんたのせいで』だった。

あたしは自分が、ママに愛されていない子供だと知っていた。

ママが不機嫌な理由は、いつもあたしが原因だったから。

あんたのせいでお金がかかる、あんたのせいで恋愛ができない、あんたのせいで自分の人生は台無しだ。

そんなことを日々言われ続けた家庭環境だったせいか、あたしは自己肯定力が低い子供で、それが故に自己愛の塊で、それでいてどこか悟りを開いている子供だった。


友達の中にいても、自分はこの子達とは違うという孤独感があった。

みんなが心底楽しそうにしていることに、自分は楽しさを見出せない。

みんなが当たり前のようにできていることが、当たり前に泣いたり笑ったり親に甘えたりすることが、上手くできない。

それどころか、それをくだらないと馬鹿にし見下しているところがあった。

所謂ませているというか、卑屈な歪んだ性格の子供だという自覚はあった。


あたしの本名は、神楽坂麗魅成(うみな)

麗しく魅せられる人に成る、でうみなだ。

夜職をやっているママの娘で麗魅成なんて名前の子供がいたら、周りの母親達はとんだヤンキーだと思っていたに違いない。

神楽坂麗魅成なんて名前をクラス名簿で見たら、あの子とは遊んじゃダメだと自分の子供に言い聞かせたくなる気持ちも、まぁ分からんでもない。

それほどに、この名前が行き過ぎているという自覚はあった。


一度だけ、名前の由来をママに聞いたことがあった。

その返答は『なんとなくノリで? 語感かな?』みたいなかんじで、子供の成長した後先を考えないまさにDQNネームだった。

大方、友達に産むかどうかを相談した際に『産みな』と言われたからだろう、なんてくだらないダジャレを一人で思い付いて、失笑もできずに勝手に落ち込んだ。


四月生まれだったというのもあるかもしれないけれど、同級生の子供達は自分より遥かに幼く見えた。

寧ろ、羨ましいとさえ思った。

単細胞で、子供らしくいられることが。

そんなあたしが周りの子達との違いに苦しんだのは、幼稚園年中の時。

母の日が近くに迫った頃だ。

お母さんに日頃の感謝の手紙を書きましょうと、先生が皆に便箋を配った。


『あんたなんか、産まなきゃ良かった!』


ママの言葉が蘇る。

毎日のように、自分の存在を否定され続ける言葉。

──あたしは、書けなかった。

あたしがいるせいでいつもイライラしているママに、ありがとうなんて、そんな思ってもないこと言えない。

そして、まるでテストの答案をカンニングするかのように、隣の子が書いている手紙を盗み見た。

そこには『おかあさん、うんでくれてありがとう』と書かれていた。


──鳥肌が立った。

なんでそんなこと、思えるの、と。

産んでくれなんて、あたしが頼んだ覚えは無い。

ママは子供が欲しかったから、あたしを作って産んだ筈だ。

いや、そこに関しては、今となってはそもそもそうじゃなかったのかもしれないとも思うのだけれど。


その頃のあたしは、いろんな絵本や映画やドラマで見て知っていた。

赤ちゃんが欲しいと本気で願ったお母さんのところに、赤ちゃんがお母さんを選んで産まれてくるのだと。

だから自分は、本気で願われて産まれてきた筈だと思っていた。

それなのにママの言動や行動からそれが感じられることは無く、それどころがあたしのせいでこれができない、あれができないのだと八つ当たりをされる毎日。

そんな日常の中で、どうしてそんなふうに思えるだろうか。


でもあたしだって、ママを自分で選んだ覚えが無い。

だからあたしが絵本で見てきた世界は、周りのみんが生きている世界は、自分には無縁のものなんだという諦念の意を、僅か五歳にして感じていた。

それでも一人ぼっちにならないように、周りを観察して、適度に合わせて生きてきた。



小学校に上がってからは、分かる、ウケる、を繰り返して、共感している雰囲気を出しておけば、なんだかんだ友達は増えた。

本音を言えば頭の悪そうな友達ばかりだったけれど、自分も頭の悪いフリをして馬鹿を演じていた。

そうすれば、人と同じ形をしているように思える。


厄介なのは、学校が終わった後だ。

夜に子供が一人で外に居たら、お巡りさんに声をかけられたり、近所の人に通報されてしまうからだ。

それで一度、ママに叱られたことがある。

皆習い事をしていたり、塾に行っていたりと忙しそうだった為、放課後に暇そうな子を見つけて声をかけては、時間を潰していた。


五時までは公園で遊んでいられるけれど、それ以降は家に居座らせてくれる子を探した。

だいたい七時くらいの夕飯時になると、『そろそろ帰らないとお母さんが心配するんじゃないの?』と、友達のお母さんがオブラートに包んで帰るよう促す。

初めて遊びに行った時には『うちでご飯を食べてっていいよ』と言ってくれた人も、それが連日になり、そのくせ親からのお礼の電話の一本も無いと分かると、さすがに厄介払いになってしまう。

別にこちらとしては、この時間まで居座らせてもらえるだけで充分ありがたいし、文句を言える立場ではないのだけれど。

うちのママが夜職をやっていると知りながら、『お母さんが心配するんじゃないの?』なんて上っ面な良い人アピールは、正直見てられないなとは思う。


まぁでも、七時まで時間を稼げたらこっちのもんだ。

ママは七時には家を出て、仕事に向かう。

一人の我が家に、安心して帰ることができる。

もちろん、寂しくないわけではない。

それでも、早く帰ればママと彼氏の時間の邪魔だと、怒鳴りつけられてしまう。

それにママは、彼氏にあたしの存在を隠したがってる。

だから部屋には、小学生の女児が住んでいるような痕跡はひとつも無い。

ランドセルも、体操着も、家庭科で使う裁縫セットも、あたしの私物は全て、部屋の奥の物置に仕舞われていた。

自分の存在は隠すべき恥ずかしいものなのだと、そう思い知らされるのには充分だった。


とはいえ、彼氏だって毎日家にいるわけじゃない。

彼氏が来ているかどうかは、匂いで分かる。

玄関を開けた瞬間、ママのきっつい香水の匂いが鼻の奥をついたら、彼氏が来ているということだ。

つまり、今日は夜まで帰って来るなという合図。

そんな暗黙の了解を、あたしは律儀に守り続けていた。

そのおかげで、あの匂いを嗅ぐ度、気持ち悪くなって吐き気がしてしまうほどにまでなった。

そんな状態では、どちらにせよ家の中には入れない。

体が本能的に防衛反応を覚えたように、その嗅覚は心よりも先に危険だと、体に教えてくれるようになった。



五時以降行く場所が無い時には、家のアパートからすぐ近くの海岸を歩いた。

暗い海辺なら、早々人に気付かれることはない。

闇に紛れるように、悪魔と契約を交わすように、あたしは夜の海をひたすら見つめていた。


──夜は苦手だ。

子供は家に帰らなければならない時間帯なのに、家に帰ればそこには知らない男がいる。

そして、自分を疎ましく思うママが。

一人で、何処へでも行けたらいいのに。

夜に外にいるだけで補導されることもなく、自由に一人で朝を迎えられたらいいのに。

早く大人になりたい。

大人になれば、なんでもできる。

親の許可など必要無く、なんでも自分で決められるのだ。


海岸添いの砂浜を歩きながら、波の音を聞きながら、真っ暗闇の海を照らす月明かりを眺めながら、心が鎮まるのを待った。

一応、名前に『うみ』が入っていることもあり、生まれ育ったのが海岸沿いの小さなアパートだということもあり、海には昔から不思議と親近感があった。

誰に言われたわけではないけれど、自分の存在はママにとって『膿』のようなものなのではないかと、勝手に自分で解釈して落ち込んだこともある。

しかしそう落ち込む度に、海の広さを、綺麗さを、偉大さを、眺めて想いを馳せては、自分というちっぽけな存在を必死に保ってきた。


特に学校で習った月の満ち欠けと潮の満ち引きの神秘は、とても興味深いものだった。

そして満月の夜は、子供が産まれやすいという神秘も。

海には、たくさんの神秘と物語が詰まっていた。

そして人間が海を恋しく思うのは、海水とママのお腹の中の羊水が同じ成分だからだという話を聞き、本当はママに甘えたいという赤ん坊のような願望が自分にあるからなのかもしれないと、そんなふうに考えることもあった。


そして満月を見る度に、あぁ、今どこかで、新しい命が産声を上げているのだろうかと、想いを馳せる。

どうかその子は自分のようにはなりませんように、ちゃんと愛されますようにと祈ることで、神様に良い人アピールをした。

徳を積んで、来世ではいい人生を歩めますようにと、既に詰みゲーな今世を見限るような祈りを捧げていた。


そしてもうひとつ、海を眺めながら、好きな絵本である人魚姫の物語を想った。

自分の声を差し出して、それでも報われなかった想いを一人で抱えながら、愛する者の為に自らを差し出し泡となって消える人魚姫。

初めて読んだ時、なんて美しい物語だろうと思った。


(羨ましい……)


報われず死んでしまう人魚姫のことを、羨ましいと感じてしまう自分の感性は、健全ではないという自覚があった。

それでも、そう思わずにはいられなかった。

自分の全てを差し出してもいいと思えるほど、相手のことを大切だと思える心。

それはあたしが思い描く、『愛』の形に一番近い気がしていた。

あたしもいつか、そんな恋がしてみたい。

例え報われなかったとしても、きっと愛の為ならなんだってできる。

自己犠牲の尊さを説く美しい物語として、未来永劫語り継がれる象徴になれるんだ。

こんなに羨ましいことは無い。


それは人への恋心じゃなかったとしても、別の何かでもいい。

自分の命と引き換えにしても惜しくないほどの、護りたい大切な何か。

いつかあたしも、その何かに出会えたらいい。

死んじゃってもいいと思えるほどの幸せに出会えたら、それだけで素敵な人生だ。


それに、泡になって海に還れるになれるなんて、素晴らしいことじゃないか。

この広い海の一部になって、月明かりに照らされながら、静かに世界を見つめることができる。

そうなれたら、どんなに幸せだろう。

そんなロマンチストなことを考えながら、広大な海に思いを馳せながら、一人の夜を越える術を身に付けてきた。



そんな寂しく虚しい日常に、ある日革命が起きた。

小学五年生の時だ。

オシャレでファッション誌を買っているクラスメイトが、雑誌の巻末に書かれているオーディションのページを見せてくれたのだ。


「私受けようと思ってるんだけど、みんなも受けてみない?」


今思うと、その子は相当の自信があって、自分だけが受かってみんなとの格差を示したかっただけなのかもしれない。

それでも、その日があたしにとって、運命を変える革命的な日になったことは間違い無い。


歌もダンスもちゃんとやったことは無かったけれど、テレビの向こう側の人間に憧れはあった。

最近テレビに引っ張りだこの天才子役、朝霧ひなが同い年だと知った時は、憧れよりも強い嫉妬を覚えた。

きっとこの子も、あたしとは違う。

親に愛されて、幼いながらに夢を追う環境を与えてもらって、なんの苦労もせずにヘラヘラ笑っているのだと。

心底ムカついて、一方的にライバル視をしていた。


「神楽坂麗魅成、小学五年生です!」


そしてオーディション当日、見よう見まねで流行りの曲を歌った。

周りには幼い頃からボイトレに通ってるような子供達もいて、今思うとあたしの歌は聴くに耐えなかったと思う。

ダンスの課題曲も初めてやる動きばかりで、着いていくのがやっとだった。

それでも、我武者羅な中で思った。

楽しい、と──。

思いきり歌うことが、全身を使って踊ることが、心底楽しいと感じた。


結果、オーディションは不合格だった。

ショックだったけど、まぁ当然かという気持ちだった。

しかしその不合格の後、審査員の一人であった紫波プロダクションの人に声をかけられ、レッスン生に選ばれたのだ。

レッスン生とはいえ、芸能事務所との契約だ。

難しいことがたくさん書いてある契約書に、内緒で親の名前を書き、タンスに仕舞ってあった印鑑を勝手に押した。

自分の麗魅成という名前にコンプレックスがあったこともあって、いつかファンの人に呼んでもらう時に親しみやすい名前がいいと考え、芸名を『神楽坂海』にした。

新しい名を手にした瞬間、生まれ変わった気持ちになった。


それからは、幸せな毎日だった。

今のこの子供でいるしかない大人になるまでの期間は、全てを諦めてやり過ごすしかないと思っていたあたしにとって、こんなに喜ばしいことは無かった。

自分の力で、やりたいことに打ち込める。

夢に向かって挑むことができる。

毎日をただやり過ごすだけだった日々に、ただ時間の経過を待つだけだった日々に、そんな人生に革命が起きたのだ。

練習すればするほど、歌が上手くなる、ダンスが上手くなる、その達成感ももちろん楽しかったけど、歌うということ自体に、踊るということ自体にも楽しさを見出していた。

テレビの向こう側の人になりたいという目的を忘れて、当初はその手段でしかなかったものに夢中になったのだ。

そんな日々が、幸せだった。

ようやく自分の人生が始まったのだと、そう思えた。

ママに存在を否定されながら、大人の言うことをただ黙って聞いて耐えるしかなかった日々は、もう終わりだ。

誰かのものではなく、誰かの為ではなく、ようやく自分の為の人生が始まったのだと。

生きる意味を見つけたのだと、本気でそう思った。


学校が終わった後はすぐに事務所へ向かい、決められたレッスン以外にもレッスン室を借りて毎日自主練をした。

その努力が実り、小学六年生の時に、ダンスボーカルユニットのメンバーに選ばれた。

この時点ではまだレッスン生の活動としてのユニットということもあり、すぐにメジャーデビュー云々という話ではない。

それでも、頑張って結果を出せばいつかその夢も叶えられると、今まで以上に心が躍った。


メンバーは五人。

小学生はあたし一人だけで、二人が高校生二年生、もう二人が高校生一年生という、かなり歳の差が離れたグループだった。

それまでずっと一人で練習してきたあたしは、初めて同じ夢を持つ仲間ができて嬉しかった。

同じ夢に向かって、お互いを切磋琢磨して、同じ景色を目指して共に戦っていく戦友ができたのだと、心底嬉しかった。


しかし、現実はそうもいかなかった。

レッスンで集まっても、ずっと関係の無いお喋りをしていて、なかなか練習を始めないメンバー達。


「ねぇねぇ、昨日のドラマ観た? 藤井くんめちゃくちゃかっこ良くなかった!?」

「観た観た! はー、藤井くんまじイケメン付き合いたーい。生藤井いつか会えないかなぁ」

「今度ドラマで、ひなくん共演するじゃないですかぁ! 同じ事務所の者で見学に来たんですけどって言ったら、話せたりしませんかねぇ!?」

「私この前、事務所で本物のひなくん見ましたよ! あの子と仲良くなれば、いろんな撮影現場に行って、生芸能人にいっぱい会えるかも!」

「あんたら天才じゃん! そうよね、使える権利は存分に使っていかないと!」


心底、イラついてしまっていた。

ストレッチをしながら、何度も時計を見る。

高校生未満のあたしは、夜八時までしか仕事ができない。

まだデビュー前のレッスンであっても、一応芸能事務所としてのものだ。

そのあたりの規則は厳しく、時間ぴったりには練習を切り上げ、一人で先に帰らなければならない。

こっちは、時間が無いのに。

限られた練習時間を、無駄にしたくはないのに。


「あの! すみません、そろそろ練習始めませんか?」


痺れを切らして発したあたしの言葉に、四人は鬱陶しさを包み隠さなかった。


「出た出た、海の優等生アピール。そんな根詰めて練習してどうすんのよ」

「でも……みんなデビューしたくないんですか? それを目指して、ここでレッスンしてるんですよね?」


そうに決まっている。

実際自分は、その為に我武者羅に努力を続けて、ユニットのメンバーに選ばれるという目標を勝ち取ったのだから。


「べっつにー。ただ芸能界に入ったら、芸能人と付き合えるかなって思っただけだし。え、みんな実際そうだよね?」

「そんなもんですよね。あとうちは、お母さんにやれって言われてやってるだけですし」

「それな。私もママが芸能界に憧れてて、自分がダメだったから娘を芸能界に入れて満足してるだけだし? だから実質、もう充分親孝行してるのよねー」

「てか私、ホントは汗かくの嫌いなんですよねぇ。ダンスもあんまり好きじゃないし、疲れるだけっていうか……」

「分かるぅー、私もさぁ……」


彼女達の会話が、信じられなかった。

同じ夢を持って、一緒に高め合っていける仲間だと信じていたのに。

あたしは本当のことを話せば、絶対反対するママに必死に事実を隠しながら、それでも夢の為に努力を惜しまず喰らい付いているというのに。

もどかしい、羨ましい、妬ましい──。

自分が欲しいものを持っているのにも関わらず、目の前の光に手を伸ばそうとしない彼女達のことが、苦手だった。


そして、ショッピングモールのイベントで披露する為の、初めてのオリジナル曲を貰った。

あたしは、メインボーカルとセンターを任された。

ずっと努力してきた自負は有る。

だから正当な評価をしてもらえたと感じ、嬉しかった。

まぁでも、それが彼女達にとっては、余計に面白くなかったんだろうなとは思う。


無視は当然、持ち物を隠される、壊される等のイジメも、日々エスカレートしていった。

それでも、逃げなかった。

初ステージに向けて、必死に努力を続けた。

ユニットを組んだとは言え、結局は個人戦だ。

今までとなんら変わらないじゃないか。

あたしの夢が失われたわけじゃない。

そう自分に言い聞かせながら、腐らないよう必死に自分を鼓舞してきた。



中学校に入学してからも、その状況は依然変わらなかった。


「あっれー? まだいんの? 中学生はもうお家に帰る時間だけどー?」


今日も練習に取りかかる時間が遅かったせいで、全体の振り合わせも満足にできなかった。

文句の一つも言いたくなったけれど、それでも規則を破って事務所に迷惑をかけるわけにはいかない。

唇を噛み締めながら、渋々荷物をまとめてレッスン室を出た。


「よぉ、お疲れ、海。もうそんな時間か」


事務所の受付カウンターで、バイトの頼さんが飴を差し出す。

頼さんは、この事務所の社長の息子だ。

高校の制服姿の頼さんは、いつも面倒見が良く、レッスン生みんなの憧れだった。


「ほれ、やるよ」


それはとても可愛い、動物柄の個包装に包まれたキャンディーだった。


「ありがとうございます。……意外ですね。頼さんがこんなに可愛いの持ち歩いてるなんて」

「ん? あぁ、貰ったんだよ。そいつもちょうど仕事終わりで、今さっきまでここで話しててさ。疲れには飴ちゃんが効くんだってさ。まぁでもほら、俺ここに座ってるだけで、別に疲れるようなことしてねぇし? レッスン後のおまえの方が糖分欲してるだろ」


手渡されたそれは、まだ仄かに暖かかった。

つい先程まで、これを渡した相手の手の中で温められていたんだろう。

頼さんに好意を寄せる女の子だろうか。

そんなものを、すぐ他人に渡してしまえる頼さんの行動に、知らないその相手に少し同情してしまった。

さすが裏で、無自覚リアコ製造機と呼ばれているだけのことはある。


「初ステージもうすぐだろ? どうよ、調子は」

「……あたし、辛いです」


つい本音が零れてしまったあたしの言葉を、頼さんは黙って聞いてくれた。


「子供でいることが、辛いです。早く大人になりたい……。大人になれば、なんだってできるのに……」


歯を食いしばって俯いた瞬間、涙がポロポロと零れ落ちた。

──あぁ、いけない。

こんなとこ誰かに見られたら、男に媚びてるだとか、男の気を引こうとしているだとか、また散々言われてしまう。

違うのに。

涙が勝手に出てくるだけなのに。


頼さんは黙って立ち上がると、あたしの前で屈んで、そっと親指で涙を拭いてくれた。

こういうところが、モテるんだなと思った。


「そうか、辛いな。俺にはおまえのその痛みは分からないから、そんなこと言うなよ、って簡単には言えねぇわな。でもさ、俺は今の子供のおまえも、すごくいいと思うよ。優しくて、素敵な……あぁ、いや……とにかく、おまえは今のままでいいってこと」


抽象的な言葉だった。

何も解決しない、慰めでも、アドバイスですらない、取り留めのない言葉。

それでも、嬉しかった。

頭ごなしに否定するんじゃなくて、あたしの辛いって感情を、そうだなと肯定してくれることが。

そして、こんなあたしをいいと言ってくれることが。

どこか言い慣れていないたどたどしさに、借り物の言葉のような気もしたけど、それでも嬉しかった。


「ま、おまえくらいの歳の子供はみんなそう思うのかもな。あいつも最近同じようなことばっか言うし」

「あいつ?」

「……いや……家まで送ってくよ。最近免許取ったんだ。おニューの車に乗せてやる」


もし頼さんのことを恋愛的に好きだったら、少なからずショックを受けたかもしれない。

きっとあたし以外からも、悩み相談なんか散々受けているんだろう、と。


「……帰りたくないです……」

「え」

「……え、いや、違うんです! 変な意味じゃなくて! ……あの、あたしももっと遅い時間まで練習できたらって意味で……」

「あー、そーゆーね」


早とちって変に否定するのもおかしいとは思ったけれど、困惑させたくなくてついつい早口で言い訳を並べてしまった。


「じゃあさ、イイとこ連れてってやるよ」

「え」


今度は、あたしが困惑する番だった。

悪戯っぽく笑う頼さんは、最早わざと狙ってると思うほどにノリノリだった。

女慣れしてて、なんか負けた気分になる。


「すみませーん、俺ちょっと休憩してくるんでぇ、その間受付代わりにお願いしまーす。……はーい、たのんまーす。よし、行こうぜ」


奥の事務室の誰かに声をかけて、頼さんはあたしを車へと案内してくれた。

歳の離れたお兄さんと二人きりという状況に緊張もしたけれど、それでも頼さんはいつも通りおちゃらけていた。


「どう? 運転する俺」

「かっこいいです」

「だろ?」

「いつもこんなふうに、助手席に乗せてあげてるんですか?」


その質問は、皮肉だったかもしれない。

いつ誰にでも優しくしてるんでしょ?

どうせあたしが初めてじゃないんでしょ?

さっき傷付いたくせに、自傷めいた言葉で更に追い討ちをかける。

本当に、あたしは面倒臭い人間だと思う。


「んー、女の子は初めてかなぁ」


なんてことはなくサラっと答えた頼さんに、思わず頬を染めてしまいそうになる。

嬉しいなんて思っちゃういけない。

こういう手口なのかもしれない。

誰にでも同じことを言って、喜ばせる作戦なのかも。


「で、どこに向かってるんですか?」

「ん? 俺の知り合いんとこ」

「知り合い? 事務所関係の人ですか?」

「まぁ、行けば分かるよ」


そうして頼さんが連れて行ってくれたのは、綺麗な貸しスタジオの施設だった。


「俺の叔父さんがここの経営しててさぁ。小遣いが足りねぇ時にこっそりバイトさせてもらってんの。親父には内緒な?」


「……でもあたし、そんなにお金持ってなくて…」

「大丈夫、着いて来な」


頼さんがとある部屋の扉を開けると、そこは楽器の音が爆音で流れていた。


「お、頼じゃん! 今日はいないのかと思ってたぜ!」


ギターを抱えた学ラン姿の人が、こちらの様子に気付いて頼さんに話しかける。

それが、燈との出会いだった。

ギターの蒼さん、ベースの翠さん、ドラムの晟斗さん、キーボードの燈夜さんの四人から成るバンドグループ。

この時はまだデビュー前で、事務所に所属すらしていないけれど、いつかの未来で先輩になる人達だ。


「悪いな、練習中に。こいつ、神楽坂海。うちの事務所の期待の新人。悪いんだけど、端っこの鏡だけ貸してやってくんね?」


「鏡? 使わねぇから別にいいけど、こいつも楽器やんの?」

「ダンスだよ。部屋代はまけとくからさ」

「まじ? いつもサンキューな! 全然おっけー!」


そんな会話が目の前で繰り広げられて、頼さんはあたしの背中を押すと、事務所に戻って行った。


「この辺自由に使って。よし、もう一回合わせるぞ」


燈夜さんの声で、四人が再び演奏を始める。

初めてこんなに近くで聴く生のバンド音楽に心躍りながらも、折角提供してくれた場所と時間を無駄にしないよう、鏡の前で必死に踊った。


それから一時間ほど経った後、今度は翠さんが声をかけてくれた。


「俺ら一旦休憩するから、音流してもいいよ」


そう気遣ってもらって、言われるがままに音源を流して広々と踊らせてもらった。

初めて会う人達にまじまじと見られるのは恥ずかしかったけれど、ステージに立つ者を志している以上、そんなことは言ってられない。

ドキドキしながら踊って、四人が反応をくれることが嬉しかった。


「すげー! ダンスってアイドルみたいな振り付け想像してたけど、めちゃくちゃガシガシ踊るのな! 超かっけぇ! なぁ、俺にも教えてくんね?」

「ちょっと、自主練してるんだから邪魔しちゃ悪いだろ」

「お願い! ちょっとだけ! ここのステップどうやってやってんの?」

「ここは……足をこっちにクロスしてから蹴って……」


そんなかんじで蒼さんに教えていたら、最終的には残りの三人もいつの間にか加わっていた。


「下手くそかよ。こっちの足なんじゃねーの?」

「わーってるよぉ! 今集中してんの!」

「それに手も付けなきゃなんだって。ダンスってこんなに難しいんだなぁ」


ダンスを誰かに教えることも、誰かと笑いながらこんなふうに遊びで踊ることも、初めてのことだった。

五人で踊って、楽しいと感じた。

忘れかけてた何かを、取り戻せたような気がする。


「ごめんな? 騒がしい奴らで」


顔を覗き込んできた燈夜さんは、ビックリするくらい綺麗な顔立ちをしていた。

女の私が言うのもなんだけど、本当に整っていて美人だと思う。


「またいつでも来てよ。どうせ俺ら鏡使わないしさ」

「そうだよー! おまえが来てくれれば、頼がスタジオ代おまけしてくれるしな! 一石二鳥じゃん!」

「そんな言い方すんなよ、失礼じゃんか」

「翠ー。おまえ今月ピンチっつってなかったか?」

「うっ……そりゃあそうだけど……」

「こいつだって、そんくらいの方が気ぃ遣わなくて来やすいんじゃね?」

「ジョウ、年下の女の子をこいつ呼ばわりは良くないなぁ?」

「え……まじ……? 悪い」


彼らのやり取りが面白くて、楽しくて、本当に仲が良い人達なんだなと感じた。

──羨ましい。

あたしにも、こんな仲間が居れば、と。


それからのしばらくの期間、八時に事務所を出てからは、燈のいるスタジオへ向かった。

各々の練習をしたり、一緒に踊ったり、たくさん話もした。

実は同じ中学の先輩だということも分かり、言われてみればクラスの女子が、三年生にイケメンな双子がいると噂をしていたな、と思い出した。

彼らは学校のアイドル的存在で、文化祭や体育祭では、後輩から黄色い歓声が常に飛び交うほどだった。

そんな彼らに学校で話しかけられる度に、あたしは同級生から一目置かれた。

当然、優越感もあった。

妬まれることもあったかもしれないけれど、それで虐められるようなことは無かった。

何かがあっても、きっと四人が守ってくれるという驕りすらあった。



そしてあたしは、練習の末、憧れの初ステージに立った。

正直感想は、全然思っていた景色と違った。

無理もない。

全く無名の新人が、なんの予告も無くショッピングモールの小さな特設ステージに立つのだ。

最初から、理想通りな筈ない。


「お買い物中の皆さん、こんにちはー! 私達は、紫波プロダクションのレッスン生で【achieve】と言います! 今日は名前だけでも覚えて帰ってください!」


あたしの声に、買い物中の数人が立ち止まる。

物珍しかっただけかもしれない。

それでも、声が届いたと感じて嬉しかった。

しかしあたし達のパフォーマンスときたら、ダンスの振りは揃わない、振りを頭で追うだけでいっぱいいっぱいでお客さんを見ていない、学生の文化祭の方がまだ完成度が高いと思えるほど、酷いものだった。

そりゃあそうだ。

ろくに全体練習もしていないグループのパフォーマンスなんて、こんなものだろう。


一度足を止めてくれたお客さんも、そんなぎこちないあたし達の様子を見て、興味が失せたように次第に離れて行った。

グループでやっている以上、こんなことを言っても仕方がない。

それでも、思ってしまった。


(あたしはちゃんとやってたのに……)


それが思い上がりでも、意味の無いことだとしても──。



そんな葛藤の日々の中、学校で十年後の自分に向けて手紙を書く、という授業があった。

未来の自分に向けて言葉を綴り、それをタイムカプセルとして校庭に埋めようというのだ。


思い出したのは、幼稚園の時の母の日だ。

手紙を書くのは苦手だ。

書けなくて、周りの子達と自分を比べて、辛かった記憶が蘇る。

でも今回は、あくまで自分に向けたものだ。

読むのもあたし自身で、その出来についてとやかく言う者はいないだろうと考えると、少し気がラクだった。


あたしは、十年後の自分を想像した。

十年後ってことは、二十三歳。

きっとママの元を離れて、素敵な彼氏がいて、あわよくば結婚してるなんてこともあるかもしれない。

そして何より、アーティストとしてデビューするという夢を叶えられているかもしれない。

いや、夢なんかじゃ終わらせない。

絶対に叶えてやるんだと、そんな希望を未来の自分に託した。


【拝啓 10年後の私へ──】


今の現状や、今の自分が抱えている不安と不満と、葛藤の感情。

それらを書き始めたら、思っていたよりもスラスラと筆が進んだ。

未来のあたしがこれを受け取った時、どんな気持ちになるんだろう。

辛いのに良く頑張ったねって、大丈夫だよ、あたしは今幸せだよって、そんなふうに優しく声をかけてくれたらいい。

今は姿が見えないその相手を想って、あたしは手紙を書き終えた。



苦い初ステージから三ヶ月が経ち、すぐさま新曲のデモを貰い、振り入れが始まった。


「え」

「……だから、海はここ」


自分に与えられた立ち位置は、一番後ろ端だった。

歌割りも、明らかに前回より少ない。

──どうして。

誰より練習してるのに。

誰より上手くなってるのに。

絶望して立ち竦むあたしの後ろで、メンバーがクスクス笑っているのが聞こえた。


そのレッスンが終わった後の、ロッカールームでのことだった。


「お疲れ様でーす」


メンバーの一人が足早に帰った後、他の三人のメンバーが話し始めた。


「あの子さぁ、音楽プロデューサーとやっちゃったらしいよ?」

「まじ? でもほら、最近どっかのアイドルグループにガチ恋してるって言ってたじゃん。だからどうしてもセンターになって、目立ってるとこアピールしたかったんじゃない?」

「え、それってもしかして、この前イベントで一緒になったあの大学生の人達ですかね!? いいなー! 私もセンター狙っちゃおっかなー!」


あたしに聞こえるように、わざと大きい声で言っているような気がした。


「そこまでする? 男堕とす為に他の男食うなんて、よくやるよねぇ。まぁ私も、この前先輩に業界のイケメン紹介してもらっちゃったけど」

「ずるい! ねぇ合コンにしてよ。私もイケメンと繋がりたぁい!」


──なにそれ。

歌やダンスの実力とか、仕事に向き合う姿勢とか、そんなものはどうだっていいって言うの?

偉い人に気に入られて、卑怯な手を使って、そんなことをした人達が美味しい思いをする世界なの?


「バカよねぇ。黙って大人の言うこと聞いてればいいのに。この業界で生きてくなら、歌とダンスの実力なんて二の次よ」


俯き固まるあたしの様子を見て、今度は間違いなくこちらに攻撃するように言葉を吐いた。

──悔しい。

だけど、何も言い返せない。

実際、こんなくだらないもののせいで、自分が大事だと思ってきたものは、いとも簡単に崩れてしまった。

そんな世界だったのか。

あたしが夢見たものは、そんなくだらない世界だったのか。

憧れていたものが、夢見ていたものが、くだらなくてちっぽけなもののように思えた。

正々堂々と挑んだ自分が、バカらしく思えるほどに。



「……み! 海!」


背後から名前を呼ばれて、ハッと我に返る。


「どしたん? 調子悪いなら座ってな?」


蒼さんに促されて、あたしは言われるがままに鏡の前に座った。

いつものあたしだったら、多少体調が悪いくらいでこうはならなかっただろう。

『大丈夫です! やれます!』と、無理してでも踊り続けただろう。

それができないほどには、精神的に疲れ切っていた。


「あれだろ、なんか変なもん食べたとか? 海は変に食い意地張ってるところがあるからなぁ」

「おまえじゃねぇんだし、んなわけあるか」

「じゃあなんだよ、晟斗は分かんのかよ」

「うるせぇな。分かったら苦労しねぇんだよ」

「蒼も晟斗も、ちょっと黙っててくんない?」


二人の不毛な言い合いを翠さんが宥めるのと同時に、ペットボトルの水を差し出してくれたのは燈夜さんだった。


「こら燈夜! 抜け駆けすんじゃねぇ!」

「おまえらに任せてたら埒が開かないだろ?」

「かーっ! 今マウント取られました! 俺だってなぁ、お悩み相談受けるのだってお手のものなんだよ! 長男舐めんな!」

「おかしいなぁ、悩みを相談できる頼れるお兄ちゃんが居た記憶がないんだけど……」

「おまえなぁ……。昔は泣き虫だったくせに!」


仲良さげに話す四人の姿が、いつもなら見ていて楽しかった筈だ。

なのに今は、余計に苦しくなる。


「……あたしは……先輩達が羨ましいです……。あたしにも……こんな仲間がいたらって……」


堪えきれなくなって、涙が零れ落ちる。

ずっと我慢し続けていた不満や、悲しみや、悔しさが、ポロポロと溢れ出していく。


「あたしはただ……夢を叶える為に頑張りたいだけなのに……。メンバーと仲良くなれなくても、ひどいイジメに遭っても、それでもずっと続けてたら、いつかきっとって……信じてたのに……」


──あぁ、まただ。

ダメだ、泣くな。

泣いたら困らせてしまう。

お願い、止まって。


「……悔しい……!」


自分に必死に言い聞かせてきた。

一人で戦うしかないのだと。

それは仕方のないことなのだと。

それでも、それでもと、希望が消えない。

──苦しい。


「大丈夫だって!」


涙を止めることができず、流れてしまった気まずい沈黙を、打ち破ってくれたのは蒼さんだった。


「海はさぁ、まだ出会ってねぇだけなんじゃねぇの? そりゃあ俺らはガキの頃から一緒だったけどさ。良い出会いのタイミングなんて人それぞれだし、絶対この先信頼できる仲間に出会えるって」


なんの確信も無い、綺麗事だと思える答えだった。

それでも蒼さんの真っ直ぐな言葉は、不思議と説得力があるのだ。


「そうだよ。今のメンバー達と無理に上手くやろうとしなくてもいいんじゃない? 海にはきっと、海に相応しい場所があるよ」


翠さんは見た目こそ蒼さんとソックリだけど、とても優しく穏やかな言葉遣いだ。

兄の言葉をフォローするように、荷物の片側を持つように、そっと手を差し伸べてくれる。


「つか、事務所の奴らが見る目ねーんじゃねーの? 俺はダンスのことはさっぱり分からねぇけど、おまえには人を惹きつける力があると思うし、あいつらセンスねぇなぁくらいのスタンスでいればいいんじゃね?」


一見乱暴な言葉遣いの晟斗さんも、苦手ながらに必死に言葉を尽くそうとしてくれている。

ぶっきらぼうで不器用で、それでも人に寄り添おうとしてくれる人だ。


「ジョウの言う通りだな。俺達は海のこと買ってるし、海のファン第一号だからな。こいつらに一目置かれてること、もっと自信持っていいんじゃないか?」


控えめそうな見た目をしている燈夜さんも、四人のことを話す時には決まって自信家になる。

そんな仲間と居られることが、やはり羨ましいと思ってしまった。

普段からメンバーの愚痴や悩みを聞いてくれている四人は、あたしの少ない言葉からたくさんのことを感じ取ってくれていた。


「つーかさぁ、頼は一体何やってるわけ? 俺がいっぺんビシっと言ってやろうか、そのメンバー達に」

「モンペムーブやめな? 俺らが出てったって解決しないでしょ。頼だってバイトの身なんだし、そんな無茶言うなって」


自分のことのように悔しがってくれる人がいるのは、とても心地が良かった。

味方は自分自身だけだと、そう思っていたから。

この人達の存在が、救いだと感じた。


「ほら、こんな時こそ踊ろうぜ。燈夜、俺この前のステップマスターしたぜ?」

「ほー、やるじゃん。じゃあ四人でダンスバトルでもするか? 海、ほら立って」


燈夜さんに手を引かれて、あたしはもう片方の手で涙を拭った。

──浮かれてしまった。

ここで大人しく満足していれば良かったのに、つい欲が出てしまった。

だからあたしは、いつまで経ってもダメな人間だ。


「じゃあ、あたし、燈の曲歌ってみたいです! いつも最後に歌ってるバラードのやつ!」


その言葉に、四人が固まった。

それに気付いてすぐさま引き返すことができていたら、どんなに良かっただろう。


「……いいぜ。ほら、真ん中来いよ」

「蒼……」

「いいじゃんか。今日だけだよ」


意味深な双子の言葉に怯みながらも、蒼さんはいつもの調子に戻って、あたしをマイクスタンドに誘導してくれた。


「ほらいくぞおまえら! 着いて来い!」


蒼さんのギターソロが始まって、三人も少しずつ笑顔を取り戻して演奏へと加わる。

あたしは歌った。

彼らの歌を。

その歌が、彼らにとって、どんなものだったかも知らないで──。


その日はいつも通り、スタジオ前で四人と別れた。

一瞬のあの表情は、一体なんだったのだろう。

あたしは、また間違えてしまったのかもしれない。

触れてはいけない大切なものが、誰しも心に宿っているものだというのに。

きっと、バチが当たってしまったんだと思う。

人の善意に付け込んで、調子に乗ってしまったバチが──。


家に帰ると、何故か部屋の灯りが付いていた。

ママはもう、とっくに仕事している時間だというのに。

鍵を開けても、いつものママの香水の匂いはしなかった。

その代わりに、妙な匂いがする。


慎重に、部屋の奥へと進む。

部屋でテレビを見ていたのは、ママの今の彼氏だった。


「おう、海か。あいつならもう出かけたぜ」


床には既に空のビール缶が転がり、酒臭い匂いが充満している。

煙草をふかしながらだらしなく寝転がる姿は、絵に描いたようなダメ人間だ。


数日前、ママから彼を紹介された。

どうやら、再婚を本気で考えている相手らしい。

彼はあたしの存在に特段驚いてはいないようだったけど、あたしからしたら決して気分の良い相手ではない。

今更知りもしない男にいきなり父親面されたって、思春期真っ只中のJCにはうざったいだけだ。


「おまえもこっちで一緒に飲めよ」

「未成年だから。今日はなんで帰らないの?」

「連れねぇなぁ。別にいいだろ、いずれ俺の家になるんだし。いいからこっちに座れよ」


──面倒臭い。

ママの彼氏相手の、しかも酔っ払いの相手をするなんて、たまったもんじゃない。


「あたし忙しいから」

「あ? 生意気言ってんじゃねぇよ!」


机を勢い良く叩いて、彼はあたしの腕を掴んだ。

信じられないほど、強い力で。


「……ねぇやめてよ! 痛い!」

「こんなヘソ出した格好してよぉ……誘ってんのか?」

「んなわけないでしょ!? キモい! いいから離して!」


必死に手を振り払った結果、彼の頬に平手打ちが入る。

しまった、と思った時にはもう遅かった。

彼の目は怒りに満ち、そのまま床に押し倒された。


「ガキが一丁前に色目使いやがって! 躾が必要だな……騒ぐな! じっとしてろ!」


そのまま咥えていた煙草を、臍の横に押し付けられた。

煙草の先端の温度は約1000度だと、授業でこの前言っていたっけ。


「あぁっ!! 熱い!! 痛いぃ!!」


耐え難い痛みと、皮膚が焼ける匂いが鼻の奥を突いた。

記憶と嗅覚は、切っても切れない深い結びつきがあるのだと聞いたことがある。

この時の恐怖を、痛みを、あたしは痛覚よりも嗅覚で覚えてしまった。


「これでもうこんな格好できねぇだろ。いい気味だ」


皮膚の痛みを抑えながら家を飛び出して、気が付いたら海岸沿いに居た。

ヒリつく痛みが、熱が、まだ消えてくれない。

そうっと、傷口に触れてみる。

そこにはくっきりと跡が残ってしまっていて、傷口が既に膿み出しているようだった。

仕事の衣装は、臍出しの仕様だ。

もうあの衣装は着れないだろう。

──悔しい。

あんな関係ない人に夢を邪魔されて、仕事を邪魔されて、なんで一人で耐えなければならないのだろう。


「なんでみんな……あたしの邪魔するの……?」


ママに話そう。

あんな人が父親になるなんて、考えられない。

ちゃんと話して傷を見せれば、流石のママだって考え直してくれるだろう。


それなのに──


翌朝、ママは信じられないことを言い出した。


「聞いたわよ? あんたあの人に迫ったんだって? 人のもんに手出してんじゃないわよこの泥棒猫!」


──何を言ってるの?

なんで?

どうして?

だって、酷いことをされたのはあたしの方だよ?


「違うよ! あたしは何もしてない! あいつが一方的に……! ほら見てよ! この傷、あいつにやられたの! 煙草を押し付けられて…」

「うるさい! なんでもかんでも被害者面してんじゃないわよ! これで彼とのことがダメになったら、あんたを一生恨んでやるわ!」


──なんで?

なんであたしより、あんな奴の言うことを信じるの?


怒りに震えるママを見つめて、子供みたいに駄々を捏ねたくなる。

違うの、信じてと、そう言えたら良かった。

だけどあたしは、それが無駄なことだと、とっくに知っていた。


──そうか、そうだった。

この人は、最初からあたしの味方なんかじゃない。

少しでも期待した自分が、馬鹿みたいだった。


再び家を飛び出して、学校をサボった。

お巡りさんや大人に見つからないように、海の岩陰に隠れながら。

一日中、海を眺めていた。

なんで、こんな家に生まれてきちゃったんだろう。

なんで、こんなに辛い思いをしなきゃいけないんだろう。

神様はなんで、あたしのことが嫌いなんだろう。

きっとあたしが、悪い子だからだ。

みんなが当たり前にするみたいに親に感謝できなくて、ありがとうって言えなくて、上手く人を愛せない人間だからだ。


「あたし……生まれて来なきゃよかった……」


実際にその言葉を口にしてみると、悔しさと、虚しさが一気に押し寄せて来た。

──本当は、あたしだって、ありがとうって言いたいのに。

心の底からありがとうって言いたいのに、ありがとうと思わせてくれないママが悪いんだ。

でもそうやって人のせいにして、被害者面して、そんな最悪な思考を持ってしまうあたしこそが、やっぱり悪い子なんだ。

いつまで、続くんだろう。

この苦しみに、終わりは無いのか。


──分かってる。

あたしが大人になればいい。

本心を隠して、表面だけ取り繕って『ママありがとう』って笑顔で言う演技をすればいい。

ママは単純だからそれで気を良くして、きっと今より優しくしてくれる筈。


だけど、だけど──。

心の奥で、ずっと叫んでる。

褒められたい、認められたい、愛されたい。

正直でいたい、誠実でいたい、愛していたい。

その感情を、包み隠してしまうことなんてできない。

全力でぶつかって、全力で傷付いて、全力で声を上げて泣いて。

苦しくて仕方ないのに、それをやめてしまいたくない。

あたしはあたしを、まだ、諦めたくない──。


そして、同時に誓った。

あたしは、あんな大人にはならない。

自分の都合で勝手に生み出しておいて、自分の都合で勝手に責任を投げ出すような、あんな大人には絶対にならない、と──。

あたしがいつか大人になった時には、子供にちゃんと寄り添えるいい大人になるんだ。

親になんて死んでもならないけど、なりたいとも思わないけど、もしその時がいつか来たら──。


「……大丈夫、あたしは絶対にならないよ。だから、大丈夫……」


ぼんやりと揺蕩う視線の先で、夕陽を海が飲み込んだ頃、たったひとつ、まだ失っていないものに気付いた。

──行かなきゃ。

あたしにはまだ、歌とダンスがある。

衣装なんて、外見なんて、ひとつの要因でしかない。

自分の体に培ってきた技術や努力は、嘘を吐かない。

重い腰を上げて、事務所へと向かった。

最後の灯を目指して。


「え」


頼さんではない、受付の女性。

彼女の口から発せられた言葉が、信じられなかった。


「今日、お母様から電話があったのよ。自分は認めていない。契約書も自分がサインしたものじゃないって。だから……」


「それで……一方的に、契約解除したって言うの……?」


絶望と怒りが込み上げてきて、家に向かって駆け出していた。

もちろん、親の同意を得ずに勝手にサインをした自分にも非はある。

でも、今はそんなことどうだっていい。

あの人は、あたしから何もかも奪っていく。

どこまでやれば、気が済むの──。


「ママ!!」


いつもなら家に入ってはいけない、暗黙のルールの時間。

でも今は、そんなこと言ってられない。

勢い良く扉を開けて、仕事の支度をしているママに向き合う。

きつい香水の匂いが、相変わらず鼻の奥を突くのを必死に堪えた。


「勝手なことしないでよ! 事務所に連絡して、一方的に契約解除なんて!」

「勝手なことしたのはどっちよ。あんたが私の名前で勝手にサインして契約してたんでしょうが」

「それはそっちが、時間まで家に帰って来るなって言ってたからじゃん! その約束はちゃんと守ってたでしょ!?」

「子供が親の言うこと聞くのなんて当たり前でしょ!? てかねぇ、ほんっと気に入らないのよ! 私がこんなにいろんなもの我慢してるのに、あんただけ好きなことやって幸せになるなんて、絶対許さないから!」


──分かってはいた。

この人は、子育てに向かない人だと。

だとしても、それでも、ここまで我が子に面と向かってこんなことを言える人だったのか。

自分が生み出した我が子の幸せを、ここまで踏み潰してぐちゃぐちゃにすることができるものなのか。


「勝手なことして! ほら、これもこれもいらないでしょ!? 全部捨てるから!」


ママが手にしているのは、あたしの全てだった。

擦り切れるまで、繰り返し聞いたユニットのCD。

何度も書き込みをして、レコーディングに臨んだ楽譜。

ダンスの立ち位置やフォーメーションを、細かくまとめたノート。

事務所に入ってから、これまでの日々を書き連ねた日記帳だ。

あたしが、生きる意味を見出したものたち。

今のあたしがここにいた、紛れもない証拠だ。

ママが窓を開けて、一瞬にして血の気が引く。


まさか──

いや、この人ならやるだろう。


「ママやめて! お願い! 捨てないで! ヤダ!」


声を荒げた時には、それらは宙を舞っていた。

窓から無造作に放り投げられた、あたしの夢。

粉々に砕け散った、あたしの全て。

急いで窓から下を覗き込んでも、散ったそれらは真っ黒な海に紛れて、何一つ確認できない。


「あははははっ! 図に乗るんじゃないわよ! あんたみたいなガキが一人で何ができるっての? ガキはガキらしく、大人の言うこと黙って聞いてりゃいいのよ!」


この人に少しでも期待を残していた、自分は大馬鹿者だ。

負け惜しみの言葉を吐く気も起きず、すぐさま家を飛び出して、窓の真下へ向かった。

まだ無事かもしれない。

まだ、掬い上げられるかもしれない。


海岸に出たあたしは、迷わず海の中へと入っていった。

服が濡れるのも気に留めずに、口にしょっぱい海水が入って来るのもお構い無しに、必死に探し続けた。

お腹の傷が、ジクジクと傷んだ。


「ねぇどこ!? お願い! 出てきて!」


例え海に漂うそれらを見つけられたとしても、既にずぶ濡れではその状態は損なわれているだろう。

しかし、そんなことはどうでも良かった。

自分が信じたものを、拠り所にしてきた唯一のものを、それにもう一度価値を見出したかった。

我が子を抱き締めるように、この手で掬い出したかった。

これまでの日々を。

今のあたしを作った時間を。

ただの海の藻屑に、無意味なものにしてしまいたくなかった。


その最中、右足が攣る。

諦めろと、現実を受け入れろと言わんばかりに。

足が付かなくなって、溺れる。

──あ、死ぬんだ、と本気で思った。

まぁでも、全てを失ったあたしは死んだも同然だ。

それなら、このまま死んでしまうのも悪くはないかもしれない。

自分を納得させようと、観念したように力を抜く。

このまま、人魚姫のように泡になって、憧れた海の一部になれるのなら、それも悪くない。

禊を済ませるかのように、あたしは荒波に、そっと身を任せた。


突如、肺に海水が入って、苦しさに震える。

その瞬間、言い表せない恐怖が湧き上がってきた。


(怖い……! 死にたくない……!)


まだ、生きることを手離せなかった。

痛い思いをすることが、誰の記憶にも残らず一人で死んでいくことが、心底怖いと感じてしまった。

必死に手をバタバタと動かして、無様に『(せい)』にしがみつく。

やっとの思いで砂浜に辿り着いた瞬間、肺いっぱいに空気を吸い込んだ瞬間、突然体が震え出した。


──死ねなかった。

生きたいと、願ってしまった。

そんな自分が情けなかった。

こんな状態で、こんな悲惨な人生で、一体まだ何に期待しているというのだろう。

いつもだったらこんな時は泣きそうになるのに、何故か涙の一滴も込み上げて来なかった。


──あたしは敗者だ。

人生の負け組だ。

それを分かっていながら、自らの手で終わらせることさえできない。

今ここで再び海に臨めば、全てを手離せると分かっていても、それを選ぶことさえできない。

負けた者には、負け惜しみを言うことも、正論を説くこともできない。

言葉を持つことさえ、意志を示すことさえ赦されない。

人魚姫のように、例え足を手に入れたって、肝心な声を失ってしまえば、何も掴み取ることができない。


そして今のあたしは、いつか憧れた、人魚姫のように泡となって消えることすらできない。

何にも変え難い幸せを、ようやく見つけた筈だったのに。

その為だったら死んでもいいと、そう思えるものの筈だったのに。

見栄も、誇りも、大人への必死の抵抗も、今のあたしを創ったその全てを、護る為なら命だって投げ出せると、そう信じていたのに。

結局あたしは、自分が可愛いだけ。

全てを失ったというのに、それでも生きたいと願ってしまった自分の醜悪さに、吐き気がした。


(……悔しい……!)


それと同時に、全てが馬鹿らしくなった。

全力でぶつかって、そのダメージの全てこの全身で受けてしまう苦しさ。

泣いて喚いたところで一人ではどうすることもできなくて、そして誰も助けてくれない虚しさ。

挑む度に思い知らされる、己の憐れさ。

子供でいることに、疲れ果ててしまった。

糸がプッツンと切れてしまった操り人形のように、何かもを手離してしまいたい。


手離したいのは、感情だ。

こんなものがあるからいけない。

こんなものがあるから、いつまでも苦しみから逃れられない。

心をどこかに仕舞ってしまいたい。

誰にも触れられることが無いように、鍵をかけて沈めて、海の奥底に眠らせてしまいたい。


でも現実は、そんな簡単にいかない。

何故なら、それは命だから。

手で掬った砂浜の貝殻のように、綺麗なまま大人しく瓶に入ってくれるような、決してお行儀のいいものではない。


あたしは憎しみを待って、その貝殻を握り締めた。

まるで、自分の首でも締めるかのように。

もう二度と起き上がれないように、目覚めることがないように、力一杯握り締めて、息の根を止めた。


傍から見たら、拳を握り締めているだけだったかもしれない。

それでも、丁寧に手入れされた長い爪が痛々しく肉を裂くくらいには、容赦が無かった。

パキッと音を立てて、爪が割れる。

掌に残った破片が、無惨な姿で潮風に揺れた。


──勝った。

そう思った。

この瞬間に、あたしはあたしに勝利した。

先程まで体の奥で鳴り止まなかった声が、うるさいほどの叫び声が、静かに音を失くす。

聞こえるのは、穏やかな波音だけ。


掌に残ったその欠片を、あたしは海に放った。

──さよなら、今日までのあたし。

もう二度と、会うことはないでしょう。

安心して。

これからは、きっと上手くやれる。

波に揺蕩うその欠片は、流されていつの間にか見えなくなった。

海の底に沈んで、永遠の眠りに就くことだろう。


「おやすみ」


我が子を寝かしつけるように、そう呟いて──。



それからは、抜け殻のような日々だった。

日々に意味を失くしたあたしは、感情が抜け落ちてしまったように過ごした。


一度、頼さんが家を訪ねて来てくれた。


「何も力になれなくて、すまない」


魂が抜け落ちたようなあたしの姿を見て、頼さんは言った。


「いいか、18まで待つんだ。成人すれば、おまえはおまえの意志でなんでも決められる。18になったら、また事務所のオーディションを受けに来い」


その約束だけで、生きる理由には充分だった。

たった五年だ。

あと五年耐えれば、全部が上手くいく。

あたしの理想の世界が、そこには広がっている筈だ、と──。


そんな思いであたしは、また同じようにただ時間を消費するだけの日々に戻った。

放課後はゲームセンターやショッピングモールをうろついて、夜は街を適当にブラブラして時間を潰した。

そんなことを続けているうちに、少し年上の人達と連むようになった。

バイクを乗り回してコンビニ前にたむろしているような、所謂不良の暴走族というやつだ。

確かに危ない奴らだったけど、彼らと一緒に居る時は、何も考えずに時間が過ぎて行った。

ノーヘルでバイクの後ろに乗って、警察から逃げ回ったことも、退屈な日常にはいいスパイスになった。

苦しみから解放されたあたしは、それなりに楽しい人生を送っていたと思う。

絵に描いた不良のような、一通りの悪さはした。

煙草だけは、勧められても吸わなかった。

あの煙の匂いを嗅ぐだけで、体が拒絶反応を起こすようになっていた。


いつの間にかあたしは、歌もダンスも辞めていた。

もちろん、あの約束があったからこそ、あたしは生きていく意味を見出せた。

しかし歌おうとする度、踊ろうとする度、お腹の傷口がジュクジュクと痛むのだ。

あの辛い日々を、思い出してしまう。

夢破れた情けない自分を、あんな惨めな負け方をした自分を、思い出すことが辛かった。


一人ベッドに入ってからも、あの日々を思い出して眠れない夜もあった。

相変わらず、夜を越えるのは上手くならなかった。

早く朝になってと願っても、脳裏を過ぎるあの日々が、消えてくれない傷の痛みが、あたしを孤独な夜に縛り付けて離さない。


──なんで。

全部捨てた筈なのに。

全部終わった筈なのに。

ちっぽけな体の自尊心が消えてしまいそうになる度、あの日々を憎んだ。

あたしに敗北の味を教え込ませた、今もなお棲みついて蝕み続ける膿が、心底赦せない。


ベッドから飛び起きて、蛇口を捻り、汲んだ水を一気に呷る。

泥のような味を舌の奥で噛み締めながら、拳を握り締め、誓った。


──あたしは、全てを赦さない。

あたしをこんな目に遭わせた、全てを赦さない。

這い上がってやる。

どんな卑怯な手を使おうとも、どんなに周りから蔑まれようとも、この人生の勝者になってみせる。

今のあたしが生きることを選択したことが、間違いじゃなかったと証明する為に──。


その数日後、連んでいた奴らが、中年のサラリーマン相手にカツアゲをしていた。

複数で囲んで、強い言葉で圧をかけながら恐喝をしている。

正直、ダサいなと思った。

でもそのおじさんはダッシュで逃げて、カツアゲは失敗に終わった。

そして、おまえもやれよと言われた。

気乗りはしなかったけど、もっといい方法があると知っていた。

彼らに煽られて、あたしだったらもっと上手くやれるとムキになった。

半ば暇潰しをするように、あたしは目の前のおじさんに声をかけた。


「ねぇ、お兄さん。ちょっと遊びに行かない?」


あまりの作った猫撫で声に、自分でもちょっと寒いなと思いながらも、上目遣いと胸元の強調も忘れなかった。

おじさんは想像以上にチョロく、あたしに誘われるがままにホテルに入った。

そして相手がシャワーを浴びている隙に、あたしはおじさんの財布から万札を抜き取り、そのまま部屋を後にした。

その時のスリルが、興奮が、達成感が、湧き上がった言い表せない感情が、あたしの体を満たしてくれた。

これが、勝利の味だ、と──。

演じて、騙して、手に入れて、自分の力で相手を負かした。

力だけでは無い。

頭を使って、賢い方法で相手に敗北の味を知らしめたのだ。


(気持ちいい……!)


そう思った。


奴らの元に戻ると、あたしは褒め称えられた。

その金でみんなに焼肉を奢って、誇らしくすらあった。

それからは、金よりもその快感を求めて、ひっきりなしに人を騙した。

人を負かしている時だけが、生きていると感じられた。


そしてその金を使って、臍の横にできた火傷痕を綺麗に治した。

まるで最初からそんなものは無かったかのように、跡形も無く消えた綺麗な皮膚を見て、こんなに簡単に決してしまえるものだったのかと歓喜した。

何事も、解決方法はあるのだ、と。

時間が経つにつれて、幼い頃の傷が、次第に癒えていったように──。


そんなふうにして過ごした日々は、とても楽しかった。

あの日々を捨て去ることができたこの五年間は、敗者の自分と決別できた日々は、とてもラクだった。

何も考えなくていい。

ただ欲望のまま、自分の思うがままに生きればいい。


そんな思考を手放した日々は、あっという間に過ぎ去った。

13歳のあの一年が体感五年と感じるなら、この五年はたった一年に満たない短い期間だったと感じるくらいに。

そんな日々だったのに。

忘れ去った筈だったのに──。


18歳の春、あるポスターを見て立ち止まった。


【紫波プロダクション、所属アーティスト募集中!】


風が吹き抜けて、心に何かが灯る。

体は憶えていたのだ。

記憶や意識からは抜け落ちてしまっていても、ちゃんと体は憶えていた。

傷があった筈の場所が、久々に疼く。

歌って踊った時に感じた、あの膿んだような感覚は、ただ痛むだけでは無かった。

期待と、憧憬と、焦燥に疼いていたのだ。

失ったものを、今ならまだ取り返せるぞと、そう教えてくれていた──。


そこからは早かった。

履歴書を送ってオーディションに出向き、その人と再会することとなる。


「待ってたよ」


学生服からスーツ姿に変わった頼さんは、相変わらず不敵に笑っていた。

これからは楽しいことしか起きないぞと、そう言いたげに。


所属オーディションをほぼ顔パスで合格したあたしは、再びレッスンに励んだ。

もちろん、神楽坂海という、かつての名前で。

五年という日々のブランクは、確かにあった。

それでも、あの頃辛かっただけだとしていた思い出を塗り替えるように、歌とダンスに打ち込む日々は楽しかった。

──あぁ、こんなものを忘れようとしていたのか。

忘れてしまおうと思っていたのか。

なんて、勿体無い──。

でも今だからこそ、あたしはあたしの思うように夢に打ち込める。

法律的に大人になったあたしは、自分で自分の道を選ぶことができる。

大人とは、なんて楽しい生き物なんだろう。


それからすぐに、紫波プロ主催の大規模なオーディションに参加しないかと、頼さんに誘われた。

頼さんが事務所の社長を継いでから初めて行う、ダンスボーカルユニットオーディションだ。

きっと、頼さんがあたしの為に用意してくれたものに違いない。

そんなことを思い感激しながら、あたしはオーディションに臨んだ。


一次の書類審査はもちろん、二次、三次の実技審査も順調に進み、遂に最終選考の合宿審査が行われた。

そこには、あいつが居た。

昔テレビで見ない日は無かった、あの天才子役。

そして幸か不幸か同じ事務所に所属することになったものの、一度も会ったことが無かったあの『ひなくん』だ。

見た目の雰囲気はだいぶ変わっていたけれど、やはり心底気に入らなかった。

子供の頃から夢を追える環境があって、皆から愛されてやまなかった、ぬるま湯に浸かってきた奴に決まってる。


「あたしは神楽坂海。アーティストとしてはあたしの方が先輩だから。よろしくね、ひなくん?」


こういうのは最初が肝心だ。

どっちが上なのか、主導権を握っているのはどっちなのか、分からせなければならない。


「あんたに教えてあげるから。この世界はそんな甘っちょろいもんじゃないってね」


それでもそいつは、怯むことなくマウントを取ってきた。


「俺様もおまえに教えてやるよ。最後に笑うのは、強い人間だってことをな」

「強さなんて、曖昧でなんの確証も無いわ。この世界は結果が全てよ。勝ち負けなの。例え力があったって、勝てなければなんの意味も無いのよ。そこんとこ覚えときなさい」

「は? おまえが俺様に勝てる部分がどこにあるって? そのたけぇプライド諸共へし折ってやる。後悔してもおせぇからな」


ああ言えばこう言う減らず口だ。

やっぱり天才子役なんて持て囃されて、調子に乗って天狗になってる奴に決まってる。

まぁいい。

こんなことで言い合っていたって、なんの意味も無い。


(実力で、結果で思い知らせてあげる)


そんな意気込みで挑んだ合宿審査で、生意気にもあいつはあたしに張り合ってきた。

業界を干されてのらりくらりしてただけだと思ってたけど、どうやら基礎くらいは叩き込んできたらしい。

一気に火が着いた。

負けてたまるかと、ムキになって踊った。

声量で押し負けてたまるかと、力の限り歌った。


「……はぁ……はぁ……隠居生活してたわりには……そこそこ体力あるじゃない……。でも、こんなのまだまだ序の口だから……。そんなんで……ライブで二時間……笑顔で乗り切れるの?」

「……はっ、ほざけ……。てめぇこそ……無駄に暦だけあってそんなもんか……? 世間に醜態晒す前に……とっとと身を引いた方がいいんじゃねぇか?」


憎まれ口が気に入らないと思いながらも、本気の奴と競い合うのは、楽しかった。

今まで周りにいたような、仕事を舐め腐っていた奴らとは違う。

そんな張り合い甲斐はあった。

しかしカメラが寄って来ると、陽七星はコロっと態度を変えるのだった。


「……はぁ……めちゃくちゃしんどいです……。でも、ずっと憧れてた道ですから。夢をつかみ取れるように、一生懸命頑張ります!」


そんないい子ちゃんアピールをする陽七星に、やっぱり気に入らない奴だと思い直した。

だけどみんな、そんなもんなのかもしれない。

あたしだって、ファンの前では嘘吐いたって笑顔でいたいし、どんなに苦しくてもそれを表に出したくはない。

必死に強がって、弱い自分を見せまいとしてきた、今までのように。


結果オーディションは、合宿メンバー六人が全員合格となった。

もちろん不満はあった。

全員があたしに着いて来られるレベルというわけでは無かったし、何より気に入らなかったのは、陽七星とダブルセンターのツインメインボーカルということだ。


──おかしい。

頼さんがあたしの為に、用意してくれたグループだった筈なのに。

スタッフが話してるのを聞いたところ、どうやら陽七星は、子役時代から頼さんと親交があったらしい。

それを聞いて、一気に冷めてしまった。


──なんだ、あんたも結局そうなんじゃない。

卑怯なコネを使って、実力以外のものに頼りきって、まるで何も持たないあたしを馬鹿にするみたいに。


(気に入らない……ムカつく……)


メディアの報じ方も、あたし達のグループを『元天才子役の再デビュー』としか扱わなかった。

心底面白く無かった。

それでも、ここで証明するしかない。

ここが、あたしの居場所だ、と──。



遂に迫ったデビューライブの前夜、明日の為に早く寝ようとベッドに入ったものの、なかなか寝付くことができなかった。

不安が、孤独が、恐怖が込み上げて来る。


──どうしよう、明日もし、失敗したら。

ショッピングモールの初ステージの時みたいに、散々なステージを見せて、失望されてしまったら。

憧れていた場所が、渇望していた場所が、一瞬にして台無しになってしまったら。

あたしが生きる意味を見出したものが、そんなものは初めから無かったのだと言わんばかりに、消え去ってしまったら。


──夜は苦手だ。

余計なことを考えてしまう。

一人では、思考の海に溺れて凍えてしまう。

早く朝になればいいのに。

感情的になってしまうのは、全部夜のせいだ。

──でも、大丈夫。

ただ暗闇の中待っていれば、時間をやり過ごせれば、すぐに朝は来る。

辛くても、一人で耐えていれば、いつか終わる。

平気だ、いつものこと。

これまで十何年も、一人の夜を越えてきた。

だから、いつものこと──。


結局そうしていても落ち着かなかったあたしは、夜な夜な事務所へと向かった。

この時間なら、まだ貸しスタジオが開いていると思ったから。

しかし明かりがついているそこには、誰かの人影があった。

──陽七星だ。

あの自信過剰野郎が、ライブ前日のこんな夜遅くまで、一人で練習をしている。


少しだけ、心に燈が灯る。

それを認めてしまったらいけないような気がして、口端を上げて、いつもの煽り口調で声をかけた。


「なぁにぃ? あんたもしかして緊張してんの? 自信家の俺様キャラが聞いて呆れるわね」


そう強がりを口にしながらも、心の奥ではホッとしていた。


「げっ……なんでこんなとこにいやがる」

「あんたが一人でコソ練してんのが見えたからさぁ。よっぽど明日の初ステージにビビってんのね」

「別に野暮用あって寄っただけだし? 頼を待ってる間暇だったから、軽く汗でも流しとくかって……んだよ、何笑ってんだ」

「いや、あの元天才子役も、意外と可愛いとこあるじゃないって思っただけ。仕方ないわね、ちょっとだけなら付き合ってあげるわよ」

「誰も頼んでねぇよ。おまえこそ、こんな時間に何しに来たんだよ」

「別に。ただの夜の散歩よ」


──あぁ、よかった。

あの砂浜の先が、見えない暗闇の先が、ここに繋がっていて良かった。

回り道もしたけれど、それでもまたここへ導いてくれて良かった。

一人で夜を越える不安が、孤独が、恐怖が、少しずつ和らいでいく。

寂しくて堪らなかった長い夜が、ステップを踏む度に加速する。

鼓動を揺らすように、明日が待ちきれないと叫ぶように──。


デビューライブ当日、ドキドキしながら幕が開くのを待った。

真っ暗なステージで閉じていた目が、瞼の上からでも強く眩しいと感じる光に覆われる。

目を開いた先には、無数の光があった。

あの日海に浮かんでいた月のような、スポットライトの光。

シャボン玉が浮かんでいるような、七色のサイリウムの光。

その中には、あたしのファンであることを証明する、水色の光もたくさん灯っている。


「UMIー!」


「UMIちゃーん!」


あの日欲しかった歓声が、観客の声が、ハッキリとこの耳に届く。

ここに居るよと、そう叫んでくれているように。

こっちだよと、道を照らして導いてくれるように──。


一人でも大丈夫だと、ずっと自分に言い聞かせて来た。

それでも、ここに居るのは、あたし達を好きでいてくれるファン。

誰かに求められて、それに応えて、誰かを幸せにすることができる、今のあたしは素晴らしい人間なのかもしれない。

そんなふうに、自分を誇りに思えた。

ようやく欲しいもの全てを手に入れたあたしは、紛れもなく、人生の勝者だった──。



──普通なら、これでハッピーエンドだ。

親の愛情を知らず、夢も希望も奪われ続けてきた一人の少女が、勝利の味を覚え努力を続けた結果、積年の夢を叶えることができた。

もしもこれが御伽話なら、めでたしめでたし、で物語は締め括られるだろう。


しかし、物語はまだ終わらない。

あくまで、夢の入り口に立っただけなのだから──。



あたしは人生の勝者となり、全て手に入れた。

無惨に負けて、膝を抱えて泣くことしかできかったあたしは、もう居ない。

もちろん、手段を選ばなかった。

どんなに卑怯だと言われても、蔑まれようとも、欲しい物に手を伸ばすことをやめなかった。

共演者、スタッフ、プロデューサー。

あらゆる人と関わりを持ち、時には特別な関係になることもあった。


デビューしてから三年が経った頃、憧れだった武道館やドームに立ち、CMや映画のタイアップも任され、国民的アーティストへの道を順調に進んでいた。

この頃はプライベートも順調で、あたしは大好きな彼氏の家に入り浸っていた。

愛を知らずに育ったあたしにとって、恋愛なんてものは劇薬の蜜のように甘く、見る見るうちに依存していった。

このまま結婚して、一生一緒にいられたらどんなに幸せだろうと、そんなふうに考えてさえいた。

寂しくて凍えてしまいそうな日々は、もうおさらば。

優しい腕に包まれながら、愛されていると実感しながら、いくつもの夜を過ごした。

全てが上手くいっていると、そう感じていた。


とある日の仕事中、食事を摂ろうとしたところで、鼻を突くような強烈な匂いを感じ、全身を嫌悪感が走っていくのを感じた。

そして吐き気を催し、その場に倒れ込んだ。


「え」

「おめでとうございます。十四週ってところですね」


緊急搬送された病院から、何故か別の場所に移され、医師は言った。

目の前には、白い塊が浮かぶエコー写真。

──何かの間違いだ。


(あたしが……ママに?)


それを望んでいた筈だった。

大好きな彼と家族になれたら、幸せになれると感じていた。


それなのに──


(……嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!!)


この時の感情を、なんと表現していいのか分からない。

怖い、苦しい、逃げたい。

言葉にしてしまえば薄っぺらいものになってしまうけれど、それは形容し難い異物感だった。

あたしが、ママになんかなれっこない。

愛を知らないあたしが、そんなものになれるわけない。

──それに、仕事はどうするの?

今は全国ツアーの真っ最中。

産むとなれば、どれほど仕事を休まなければならないか分からない。

エンタメが横行するこの世界で、少しでも休めば、それは誰かに席を譲ることになるだろう。

簡単に代わりを宛てがわれて、きっとすぐに忘れ去られてしまう。

今までの苦労が、意味の無いものに成り果ててしまう。


こんなこと、ちゃんと考えていたら気付けた筈だ。

今は仕事を優先するべきだと、注意すべきところはあった筈だ。

──考えることを、放棄してしまっていた。

与えられて、満たされて、幸せな毎日に浸って、考えることをやめてしまっていた。

ただその日一日を楽しく過ごす為だけの、動物的な一時の感情に身を任せて。

何も背負う覚悟の無いくせに愚かなことをして、最低な結果を招いてしまったのだ。


家に帰って彼に話すと、彼は泣いて喜んでくれた。

子供と三人で幸せになろうと、プロポーズまでしてくれた。

これが、あたしの求めていた幸せだった筈だ。


(なのになんで、なんで……!)


感じるのは嫌悪感だけで、我が子に対する愛情なんてものは、まるで湧き上がって来なかった。

──話が違うじゃないか。

今まで映画や物語の中で見て来た母親という生き物は、例え望まない妊娠をしても、どんなに周りから反対をされても、それでもお腹に命が宿った瞬間母性が生まれ、その子をどんな手を使ってでも守り抜くと決意するのだ。

それが真の母親の愛情であると、そう言わんばかりに。

どうして、あたしにそれが適応されないのだろう。


──母性って、なに?

なんであたしは、物語の中のママ達とは違うの?

なんであたしは、こんなに薄情な人間なの?

そんなことを、一人でグルグルと考え続けた。


──答えは出ていた。

それこそが、あたしが母親に成り得る人間では無いということを、証明していた。

ここでもあたしは、自分を責めるのではなく、親と育ちに責任を擦りつけていた。

自己防衛のあまり、自分の愚かさを棚に上げて、他人を責めることで自分を護ろうとしていた。

こんなことになったのは、あたしがこんなふうになってしまったのは、あんた達のせいだと。

あたしは、悪くない、と──。


彼に、自分の意志を伝えた。

産みたくないと。

仕事を失いたくないと。

別れて欲しい、と──。


彼は必死に説得してくれた。

それでもあたしは、もう止まれなかった。

半ばヤケクソのように同意書に彼の名前を書き、そのまま手術へと踏み切った。

止まってしまったら、ダメな気がした。

考え無しにここまで来てしまったんだ。

もういっそこのまま、考えないようにしなければ。

仕方の無いことだったと思わなければ──。


(あたしは悪くない……あたしは悪くない……!)


気が付いた時には、手術台の上だった。

上から照らすライトが、スポットライトのように眩しかった。

そして麻酔を吸って眠る直前に感じたのは、鼻をつく消毒の匂い。

堕ちていく感覚の中で、天使が旅立つ夢を見た──。


次に目を覚ました時には、全てが終わっていた。

先程までとは違う天井と、血の匂いで、それを察した。

お腹の上に手を当ててみる。

その場所には、もう、誰も居ない。


もちろん、命を犠牲にしてしまった後ろめたさはあった。

しかしこの時のあたしは、まだ分かっていない。

その行動が示すものを。

それがもたらす意味を──。



──そう、分かったのは、あの子に会ってからだ。

海の中に浮かぶ鳥居を潜って、うみなと対峙してから。

うみなは確かに、何かを抱えていた。

──あれは赤ん坊だ。

あたしが殺してしまった、あたしが身勝手に投げ出してしまった命。


『ねぇ、なんで? なんであたし達は、死ななきゃいけなかったの? ねぇ、なんで?』


黒い靄に覆われた顔で、浮かび上がる充血した赤い目で、あたしを真っ直ぐ睨み付ける。

あの子達は、あたしを恨んでる。

──当然だ。

あたしが意志を持って殺した子達だ。

不運な事故なんかじゃない。

あたしが殺意を持って、握り潰し、捨てた命だ。


──なんで、気付かなかった?

なんで、忘れてしまった?

あんなにも、辛く苦しい想いをしてきたというのに。

あんなにも、絶対にならないと誓ったのに。

あたしが絶望し続けてきた大人達のようにはならないと、そう誓った筈だったのに──。


葵瑞に対する自分の行いが、まさにそれを示している。

当人はどうすることもできない『子供である』ということを嘲笑って、支配で押さえ付けて、自分の言いなりにしようとした。

そして今もなおあたしは、勝利を手にする為に卑怯な手を使って、あたしが生きる全てを見出したこの仕事さえも馬鹿にしている。

傷付いてきた、幼い自分を完全に忘れて。


もちろん、その事実だけでも死にたくなるだろう。

しかし本物の絶望は、それだけではない。

あたしが最も忌避し軽蔑した、自分の都合で勝手に生み出して、勝手に捨てるような最低な大人に、あたしはなってしまっていたのだ。

あたしが殺してしまったのは、お腹の中の尊い命だけじゃない。

あたしの中でまだ必死に息をしようとしていた、本物のあたし自身を殺すことと同じだったのだ。

あたしが自ら、手をかけて──。

海の底に沈めたと思っていたそれは、ずっとあたしの中にまだ確かに在ったのだ。

お腹の皮膚が焼ける時の焦げた匂いも、光の下で感じた血と消毒の匂いも、体はちゃんと憶えていたように。

ずっと無視するあたしに向けて、叫び続けてくれていたのに──。


どうすることもできなくて、子供でいることが辛かったあの頃、未来の自分に向けて書いた手紙さえ、あたしは嘲笑って、破り捨てた。

火を点けて、燃やして、塵にした。

うみながあたしに向けて書いてくれてた手紙を、未来に希望を託すことでしか生きて来られなかった悲痛の言葉を、嘆きを、叫びを、どうしてあんなふうに捨てることができたんだろう。

そんな最低な人間に、あたしは成ってしまっていたんだ──。


この事実を知って、どうしてまだ、生きていくことができるだろう。

どうしてまだ、自分を誇りに思える瞬間が、再び訪れると思えるのだろう。


あたしはもう、生きていちゃいけない──。


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