第三十二話《朝霧陽七星の過去》
※やや長いです
お時間が許す時にどうぞ
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愛されていると、信じていた──
子役として活動を始めたのは、一歳の頃だと聞いている。
物心がつく前から、既に僕の芸能生活は始まっていた。
どうやら、母は女優になりたかったらしい。
若い頃劇団に入り役者として稽古に励んでいたが、残念ながら目は出ず、母の夢は未完で終わったと。
そんなこともあり、子供に夢を託したかったのだろう。
三歳上の姉は先に芸能界入りしており、子役として何本か映画やドラマに出演していた。
そして僕がブレイクしたのが、七歳の時だ。
有名な女優さんが主演のドラマに息子役として出演し、見事な泣きの芝居で僕は一躍有名になった。
天才子役と呼ばれ、その後朝ドラに出演。
大河デビューも果たし、天才子役としてバラエティにも番宣の為出演することもあり、日本で僕を知らない人は居ない程の有名人になった。
「ひなはいい子ね。ひなはお母さんの夢を代わりに叶えてくれた、本当にいい子。これからも、お母さんの夢を叶えてね」
母にそう言われる度、嬉しくて堪らなかった。
大好きな母の夢を、自分が代わりに叶えることができたのだと。
大きい仕事を受ける度、世間の注目度が上がる度、褒めてくれる母のことを、僕は心から大好きだった。
「今日はドラマに映画に引っ張りだこの天才子役、朝霧ひなくんにお越しいただきましたー!」
芝居だって、バラエティだって、結局やることは同じだ。
皆が求める、ひなくんの姿を演じればいい。
僕は五歳の時に、芸名を【朝霧ひな】に改名している。
母の意向で、陽七星という珍しく読み辛い漢字よりも、『ひな』という可愛くキャッチーなものの方が、皆に浸透し易いだろうという考えからだったらしい。
天使のように可愛い容姿と笑顔だと絶賛され、皆『ひなくん』という愛称を愛してくれた。
僕は自分の本名もかなり気に入っていたのだけれど、確かに子役として売り出すなら賢明な判断だったと思う。
本名の陽七星は、太陽を意味する『陽』と、対照的な『星』を『七』で繋いでいる名前だ。
朝と夜を繋ぐように、いつ何時も人と人とを繋くような人間になるようにと、そう母が願いを込めて付けてくれた名だったらしい。
その名に恥じぬように、人に手を差し伸べられるヒーローのような人間になりたいと、そう思っていた。
「朝霧ひなです! よろしくお願いします!」
礼儀正しく、決して驕らず、いつも笑顔で人の為になることを精一杯やる。
そんな真っ直ぐな僕の生き方と思想自体は、決して演技ではなく本物だった。
僕は紛れもなく、世の中の全ての人を愛していた。
そして愛されていると、信じて疑わなかった。
小学校中学年になる頃には、朝四時に起きて撮影に行くのが日常で、昼間は可能な限り学校へ通った。
学校生活は苦痛では無かった。
芸能活動が忙しいながらも学級委員長に選ばれそのリーダーシップを発揮し、教室で一人の子がいれば積極的に声をかけてクラスの輪に入れてあげた。
それが偉いことだとは思わなかった。
僕は、人が好きだったから。
周りの人が笑ってくれることが、嬉しくて仕方なかったから。
「ひなくん! サッカーしよ!」
「ひなくん! 昨日のドラマ見たよ!」
「ひなくん!」
「ひなくん!」
学校の友達も、先生も、皆僕を『ひなくん』と呼んだ。
幼少期、僕が朝霧陽七星でいられた時間はあまりに少ない。
僕自身さえ、その名前を忘れてしまいそうになるくらい。
朝から晩まで、現場でも家でも学校でも、僕は朝霧ひなを演じ続けた。
常に皆の憧れで在ろうと、理想の姿で在ろうと努めた。
それが苦痛だとは感じなかった。
寧ろ、僕は幸せだった。
誰からも愛され、誰をも愛する僕は、本当に幸せ者だと思っていた。
どの仕事もお芝居も、僕にとっては大切な経験だった。
その中でも特に印象に残っているのは、九歳の時に演じた『ピーターパン』の舞台だ。
ピーターパンは、小さい頃から大好きな物語のひとつで、ずっと憧れを抱いている作品だった。
ピーターは皆を導き、そして救うヒーローのような存在だ。
僕が思い描いている、一番理想の姿をしているように思えた。
そんな思い入れが強い分、いつも以上に気合いを入れてオーディションに臨んだ。
「簡単だよ! 楽しいことを考えるんだ! そうすれば飛べる! 翼が生えたのと同じだよ!」
声高らかに、審査員の前でその台詞を叫ぶ。
憧れのピーターに成り切って、僕は天にも昇る気持ちで笑顔で演じた。
そして結果が実り、主役のピーターパン役を掴み取った。
心の底から、嬉しかった。
結果発表の後、隣の子役の子が泣き出してしまった。
不合格だったことが悔しくて泣いているのだと察し、僕は声をかけた。
だって、困ってる人や泣いてる人に手を差し伸べるのが、僕の使命だから。
「大丈夫! 次はきっと受かるよ! だから頑張って!」
今思い返せば、なんて非情なことをしてしまったんだと分かる。
その子は僕を睨んで、涙声のまま、震えて言った。
「……君には……分からないよね……。弱い人間の気持ちなんてさ……」
──どうして、上手くいかないんだろう。
僕はただ、みんなを笑顔にしたいだけなのに。
その為に僕は、舞台に立っているというのに。
その子のあの顔が忘れられないまま、僕は稽古に入った。
常に台本を持ち歩いて、少しでも空いた時間があれば、ページを捲って台詞を唱えては頭に入れた。
「飛べるかどうかを疑った瞬間に……永遠に飛べなくなっているんだ……」
大好きなピーターのことを、僕は必死に理解しようとした。
大人にならない子供。
大人になりたいと嘆く子供に、手を差し伸べ救う存在。
離れてしまった自分の影を探していたところで、ウィンディに出会い、飛び方を教え、一緒にネヴァーランドへと旅立つ。
そして約束は絶対に守り、正義の為に戦う。
誰もがそう信じて疑わない、皆の憧れの英雄。
そこまで心の中で唱えて、僕は手を止めた。
ある疑問が、ふと湧き上がってくる。
(……じゃあ、ピーターのことは、誰が助けてあげるの……?)
そんなことを思った。
僕はピーターのことをより理解する為に、お母さんに聞いてみた。
「大丈夫。ピーターは強いもの。だから、一人でも大丈夫よ」
その答えに、僕はさらに頭を悩ませた。
なんだか、矛盾していないだろうか。
ピーターは、永遠の子供だ。
まだ子供なのに、誰にも助けてもらえない。
それどころか、大人のフック船長に目の敵にされて、海賊である大勢の大人達と戦いながら、孤独にネヴァーランドで生きている。
その時僕は、薄っすら思ってしまった。
もしかしたら僕は、ピーターと同じなのでは、と。
瞬間的にそう思って、いやいやと首を振ってみせる。
(僕が孤独? 有り得ないよ。だって僕は、こんなにも愛されてる)
お母さんの夢を叶える為にお芝居をして、事務所の人達の期待を背負って仕事を勝ち取って、日本中の皆の憧れである【朝霧ひな】として、毎日幸せな日々を送っている。
全ては、皆を救う為だ。
僕の存在で、笑顔になってもらう為。
そんな、ヒーローのような存在になる為に──。
邪念を振り払って、僕は遂に本番を迎えた。
暗い舞台袖でその時を待って、幕が上がり照明が照らした瞬間、舞台へと上がっていく。
見据えたのは、客席の暗闇ではなく、この物語が行き着く未来だ。
「あれ? 僕の影、どこ行ったんだ?」
体から離れてしまった影を探して、ピーターがウェンディ達の子供部屋を訪れるところから、物語は始まる。
そして彼らに魔法の粉を振りかけ、楽しいことを考える自分を信じさせ、その部屋を出る。
「さぁ、星に向かって、朝まで飛ぶんだ!!」
その台詞が、【陽七星】という僕の名前を象徴するようなものだということにさえ、もう気付けないまま──。
舞台が無事千秋楽を迎えた頃、新しい出会いがあった。
事務所で母とスタッフさんが話をしているのを待っていた時、談話室に学ランを着た知らない人が座っていた。
「あ? なんだおまえ」
気怠そうに、面倒臭そうに、その人は振り返って僕の顔を見るなり言った。
「紫波プロダクション所属、朝霧ひなです! よろしくお願いします!」
共演者か、もしくは役者の先輩だと思い、咄嗟に姿勢を正し、丁寧に挨拶をした。
最早これは、反射だと言ってもいい。
「あぁ、知ってたわ。うちの稼ぎ頭だもんなぁ。ふーん、テレビで見るより小せぇんだな」
初対面でそんなふうに言われても、僕は決して不快には思わなかった。
それほどまでに、その頃の僕は人の悪意に触れたことが無かったのだ。
皆が自分のことを好きに決まっていると、そう自負しているところがあった。
「あの……すみませんが、お名前は……?」
「あぁ、俺? 俺は紫波頼人。この事務所の社長の一人息子だよ」
それが、頼との出会いだった。
「そうなんですね! 中学生ですか? その制服って、もしかして新英中学のですか?」
いつか自分が進むであろう中学校の学ランを来ている姿の頼は、年齢以上に大人びて見えて、かっこ良かった。
「なんだよ、そんなに学ランに憧れがあんのか? ほれ、着てみる?」
上着を脱いで手渡してくれる頼に、僕は興奮しながら袖を通した。
もちろん大きすぎてブカブカだけど、凄くかっこいい。
僕もいつかこの制服が似合うように大きくなれるんだと思うと、心が弾んだ。
「ありがとうございます! すごく嬉しいです!」
「敬語はよせよ。子供は子供らしく、ちょっと生意気なくらいで丁度いいんだ。俺のことは、頼でいい」
そんなことを言う大人は初めてだった。
いや、厳密には頼も年齢的にはまだ子供なわけだけど、礼儀には厳しく言われる環境だったこともあり、その砕けた態度が僕は嬉しかった。
「頼……。じゃあ、頼くんって呼んでいい!?」
「あいよ。真面目だねぇ」
頼は、僕にとって兄のよう存在だった。
ずっと兄が欲しかったこともあり、事務所の受付でバイトしている頼に会う度に、それはそれは慕って甘えるようになった。
「頼くん見て! 僕またオーディション受かったんだよ!」
「おー、すげーじゃん。こりゃまた売れてくれっちゃってぇ。会社が儲かってんだから、そろそろ俺の小遣いも増えちゃうかなー、なんつって」
「僕が頑張ると、頼くんも嬉しい?」
「そりゃ嬉しいさ。おまえは嬉しくねぇのか?」
「えへっ。お母さんや頼くんが喜んでくれるから、嬉しい!」
純粋無垢な笑顔で、そう答えた。
それが本心だったから。
「……そうかよ……」
でも僕がそうして笑うと、頼は時折寂しそうな表情を見せた。
喜んでもらう為に、頑張りたいだけなのに。
頼の手元には、真っ白な進路希望調査表の紙が置かれていた。
悩んでいるところだったから、元気が無かったのかもしれない。
「ねぇねぇ、頼くんが将来、この会社の社長さんになるんだよね?」
「はぁ? ねぇよそんな気。誰が言ってんだよそんなこと」
「お母さんが……。頼くんは次期社長さんだから、仲良くするのよって」
「……」
僕のその言葉に、頼は眉を顰めて息を吐いた。
しまった、怒らせてしまった。
謝らないと。
「違うよ? お母さんに言われたから仲良くしたいって思ったんじゃなくって、頼くんと仲良くなった後にお母さんに言われただけ! 頼くんと仲良くしたいのは本当に本当だから! だから……」
──嫌いにならないで。
初めてできた兄のような、自分を弟のように扱ってくれる存在。
それが心地良かったのは本当なんだと、そう伝えたかった。
怯える僕の目をじいっと見て、頼は軽く笑うと頭をくしゃっと撫でてくれた。
「……はっ、分かってるよ。心配すんなって。まぁでも、会社を継ぐ気はねぇんだよなぁ」
「どうして? もし頼くんが社長になってくれたら、僕は嬉しいけど……」
大人になって、スーツを着て、会社を担う社長を任される頼なんて、絶対かっこ良いに決まってる。
「俺は適当でいい加減で、面倒臭がりだからな。そんな俺が社長になんかなったら、倒産になりかねねぇって。ま、こんなデケェ会社じゃなくても、どっかで小せぇ会社作って細々とやってくのならアリかもしんねぇけどな」
「え、じゃあ僕、頼くんの会社に入りたい! 頼くんの会社のタレント第一号になる!」
「え? いやいや、おまえみたいな売れっ子、うちの事務所が手離すわけねぇだろ」
「それでも、頼くんに着いてく。社長さんがダメって言っても、お母さんがダメって言っても、頼くんのやりたいことに着いて行きたい!」
頼は、何故か驚いていた。
僕は当然のことのように思ったことを口にしただけなんだけど、それは頼にとっては驚くようなことだったらしい。
「それに、頼くんは適当でいい加減なんかじゃないよ。僕に優しくしてくれるし、他の子役の子のこともいつも気にかけてあげてるし。頼くんは優しくて、素敵な人だよ」
そこまで言うと、頼は右手で顔を覆って俯いた。
また怒らせてしまったのかと思って焦った。
ダメだ、僕は台本が無いと何もできない。
自分の言葉で、人の心を動かすことなんてできない。
だけどよく見ると、頼の耳は赤く染まっていた。
照れているんだと、そう気付いた。
「頼くん?」
「……おまえさぁ、そーゆーのどこで覚えてくんの? 演技でやってねぇんだったらタチ悪すぎだろ」
顔を上げた頼は、やっぱり頬を赤らめて照れていた。
貴重な表情を見られて、僕は嬉しくなる。
頼の周りを駆け回りながら、思わずピョンピョン跳ねてみせた。
「嬉しかった!? ねぇ嬉しかったぁ!?」
「だー、うっせぇな! おまえまじで気を付けろよ? 誰彼構わずそんなこと言ってっと、すーぐ勘違いする輩が出てくるからな! ……いや待て、元がプレイボーイの気質なのか? それはそれで厄介すぎんだろ……」
一人でぶつぶつ言ってる頼の気も知らず、僕は有頂天になっていた。
将来頼と一緒に仕事ができる未来があったら、とても素敵だと思ったから。
僕が頑張れば、頼はきっと喜んでくれる。
人に喜んでもらうことは、嬉しくて、楽しくて、心地良い。
そしてこの頃、僕はもう一人、憧れの存在に出会った。
「まさに1000年に一人の逸材、アイドル界のプリンス、HARU9さんです!」
陽七星が天才子役として順調に活躍していた頃、アイドル界を席巻していた男性アーティスト、HARU9。
歌とダンスのパフォーマンスはもちろん、その整った容姿とカリスマ性で、瞬く間に人気アーティストの仲間入りを果たしていた。
彼の姿をテレビで見て、僕は歌とダンスに強い憧れを持った。
「お母さん! 僕も歌とダンスやりたい! HARU9みたいにステージに立ちたい!」
売れた子役がCDを出す等の派生活動をすることは、当時決して珍しくは無かったように思える。
しかし母は、その提案に良い顔はしなかった。
「何言ってるのよ。今子役としての活動が成功してるんだから、他のことに手を出す必要なんかないの。あくまであなたは役者なんだから、芝居のことに集中しなさい」
母は、僕が売れればなんでもいいという訳では無さそうだった。
あくまで俳優業としての成功を望んでおり、それ以外はあまり興味が無かったように思える。
それでも、いつか──。
そんな未来への希望を胸に抱きながら、テレビで彼を追う生活は充実していた。
いつか僕がもっと大きくなって、かっこ良い大人になったら、HARU9のように歌手デビューするんだ。
そう思ったら、大人になることが楽しみになった。
しかし、母はそうではなかった。
「いい? ひなは強者で居なければいけないの。オーディションも、学校のテストも運動も、全部一番を勝ち取って、人生の強者で居なければならないのよ」
僕が高学年になった頃、あれだけ人との繋がりの大切さを説いていた母が、いつからかそんなことを言い出すようになった。
それはきっと、僕が売れたからだ。
一度テッペンの景色を見てしまったら、もう地に落ちることは許されない。
母はきっと、僕の成功を通して自分の夢を昇華させていた。
だからこそ、その夢の終わりを誰よりも恐れていた。
そして子役には、明確な終わりが存在する。
抗うことのできない、成長という名のタイムリミットが──。
「なんで!? なんでダメだったの!? ちゃんと礼儀正しく挨拶したの!? 本読みが甘かったんじゃないの!?」
中学校に入学した頃、目に見えてオーディションの不合格が増えた。
原因は明確だ。
第二次性徴期を迎え始めた僕に、子役としての需要が無くなったからだろう。
声変わりこそはまだだったけど、手足は日に日に伸び、顔つきも少しずつ凛々しくなっていった。
そのことに母は酷く動揺していたけれど、僕はあまり悲観的では無かった。
まずはずっと憧れだった、かつて頼が着ていた学ランに袖を通せたことが嬉しく、入学式の帰りに真っ先に頼に見せに行った。
入学祝いに何が欲しいか聞かれ、僕は『頼くんのこと、これからは頼って呼んでいい?』と言った。
そんなことでいいのかと頼は笑っていたけれど、僕にとってはとても大きなことだった。
あの頃憧れた頼と、同じ中学生になれた記念だ。
しかしその時、頼は高校生。
ブレザーの制服でネクタイを締めているその姿に、よりかっこ良さと大人らしさを感じ、気が早いのは分かっていながらも今度は高校生に憧れた。
そしてその頃頼は、高校を卒業したら留学の為海外に行ってしまうのだと言っていた。
そうやって頼は、いつも僕の憧れの一歩先を行く。
留学なんて、めちゃくちゃかっこいい。
でもそれでしばらく会えなくなると思うと、凄く寂しかった。
それでも、頼が選んだことなら応援しなきゃと、頼に追いつけるくらい早く大人にならなきゃと、僕も自分の夢を追いかけようと思った。
中学の部活で合唱部に入れたことも嬉しく、そして実はこの頃、初恋も経験していた。
目が大きくて笑顔が可愛い、クラスのマドンナ的存在の女の子だった。
片想いではあるものの、思春期らしい思春期を送っていたと思う。
女の子と間違われるような容姿にコンプレックスを抱いたのは、この初恋がキッカケだった。
もっとかっこ良くなりたい、もっと男らしくなりたいと、真っ当な思春期らしい感情だったと思う。
だから自分の容姿が変化していくのは、喜びですらあったのに──。
「お願いします! ひなに仕事をください!」
「はぁ? もう無理でしょ。ひなくん中学生になったんでしょ? さすがに子役としての賞味期限はとっくに切れてるって」
「そこのところを、どうかお願いします!」
母はなりふり構わなくなった。
偉い人や関係者の様々な人にひたすら頭を下げて、僕の売り込みに必死だった。
母を喜ばせる為にやっていたことだったのに、そんなことをさせてしまう自分の無力さが情けなかった。
でも、もう少しだけ待って欲しい。
成長期が終わって、ちゃんとした大人になれたら、役者業だってまた順調になる筈だ。
高校生の役だって、大学生の役だって、社会人の役だって、なんだってできる。
歌手の活動をしながら、俳優として活躍している人達だってたくさんいる。
だから、何も恐れることなんてない。
そう思っていた。
そう、信じていたんだ。
あの日までは──。
「ひなくん、ちょっといいかなぁ?」
中二の、春だったと思う。
久々の雑誌の撮影が終わった後、有名な映画監督に声をかけられた。
確か名前は、柏木監督。
「はい! お疲れ様です!」
「実は君のお母さんに頼まれてさ。演技指導の稽古を特別にしてあげようと思ってるんだけど。今日、この後時間ある?」
「あ、あります! ありがとうございます! よろしくお願いします!」
こんな有名な監督のところにも、母は頼み込んでくれていたのだ。
よかった、これで母を喜ばせることができる。
僕の演技を見てもらえれば、指導してもらってもっと良くなることをアピールできれば、きっと役を貰える、と。
そして監督の車に乗り、稽古場に移動することになった。
「ひなくんはさぁ、今、好きな子とかいるの?」
「え」
世間話の流れで、監督はそう聞いてきた。
頭の中にはクラスのあの子が浮かんでいたけれど、腐っても芸能人だ。
あまりこういうことは、口にしない方がいいのかもしれない。
「いません。恋愛とかって、僕まだよく分からなくて」
「そうなんだぁ。初恋もまだってこと?」
「まだなんです」
恋愛をしてすっかり大人びてしまったと思われたら、振りたい役が幼い子供の場合イメージと違ってしまうかもしれない。
そんな子役としての打算もありつつ、慎重にそう答えた。
「ふーん。でもひなくんも年頃なんだしさぁ、そういうの興味出てくる頃なんじゃないの?」
「えっと……興味無いことはないんですけど……。僕、周りに比べると体の成長も遅いみたいだし、まだその……よく分からなくて……」
こんなこと、初対面の人に言うべきではなかったかもしれない。
それでも、保健体育の知識くらいはある。
周りがどんどん体が大人になっていく中、取り残されてしまっているような不安感も確かにあったのだ。
父親は単身赴任をしている為なかなかこういった相談ができず、また頼にも聞き辛いというところがあった。
いつしか車は、人気の無い薄暗い林の中に止まっていた。
この近くに、稽古場があるのだろうか。
「じゃあさ、おじさんが教えてあげようか?」
「え」
その言葉と同時に、シートのリクライニングが倒され、監督に押し倒される形になった。
(え……え……?)
わけが分からずにいると、腕を掴まれ、もう片方の手が服の中へと入ってきた。
気持ち悪い。
怖い──。
「待ってください! ねぇ! やめて!」
「ずっとひなくんのこと、可愛いなって思ってたんだよ……。こうして触れることができるなんて、夢みたいだ……」
そこからの流れを、その時の僕は表現ができなかった。
わけの分からない行為、知らない感覚、そして何より湧き上がって来たのは、得体の知れない恐怖だ。
「……さ、触るな! ……誰か! 誰か助けて!」
思いっきり叫んでも、誰にも届きやしない。
痛みと苦しさの中で、あの子の顔が浮かんだ。
いつかかっこいい男になって、想いを伝えたいと思っていた、初恋の女の子。
今のこの僕の姿を見たら、なんと言うだろう。
「……いやだ! やだやだ! 離してぇ!」
その瞬間、何かが弾けて、頭の中が真っ白になる。
──これが、僕の初体験だった。
二度と思い出したくもないのに、忘れることのできない傷を体に刻み込んで──。
朦朧とする意識の中で、その大きな体を蹴飛ばし、急いでドアを開けて車から飛び出した。
逃げなければ。
どこでもいい。
早く、早く──。
乱れた服を掴んで、振り返ることなくとにかく走り続けた。
心臓の音が、早くなりすぎてうるさい。
外は、暗い林の中だった。
折り重なった木々の向こうに、真っ赤に染まる夕陽が見えた。
しかしその光はこちらまで届くことは無く、足元の暗闇は薄ら笑っているようにさえ思える。
「誰か……! 誰かいませんか!?」
必死に叫ぶ声も虚しく、辺りは不気味な烏の鳴き声が響き渡るだけだった。
──一人は苦手だ。
一人では、何もできない。
怖くて怖くて、堪らない。
周りの人に、喜んでもらいたかった。
僕を大好きでいてくれるみんなに、笑っていて欲しかった。
その中心に居て、安心していたかった。
誰か、誰か──。
どれくらいの時間、無我夢中で走り続けたのか分からない。
肺は潰れそうなのに、体力はとっくに底を突いているのに、恐怖で止まることを許されないように、足だけは動き続けていた。
もうじき日が暮れる。
こんな人気の無いところに一人取り残されたら、どうしていいか分からない。
そう思った時に、木々の隙間から一筋の街灯の光が見えた。
──駅だ。
その言葉の通り希望の光に向かって林を駆け抜け、大慌てで家の方向に向かう電車に乗り込んだ。
座席に乗って、窓の外を見つめる。
あの人が追いかけて来てるんじゃないかとハラハラして、どうか早く扉が閉まってくれと、手を組んで握り締めた。
この時の感覚は、永遠のように長く感じた。
車掌の声と共に扉が閉まって、電車が動き出す。
ホッと安心して力が抜けた瞬間、体が大きく震え出した。
両腕で肩を抱いて、必死にその震えを止めようと力を入れる。
──あぁ、怖かったんだ。
すごく怖かったんだと、そう感じた。
無理矢理触られた感覚、醜い悪意をぶつけられた感覚、恐怖に頬を濡らした涙の感覚が、ハッキリとこの体に残っている。
散々な想いをした。
醜悪な経験をした。
早く、早く誰かに会いたかった。
怖かったねと、辛かったねと、苦しかったねと、一刻も早く誰かに抱きしめて貰いたかった。
最寄駅に着いてからも、走ることをやめなかった。
早く、早くと、家に向かって全力で走った。
家の灯りを見つけて、思わず口元が緩む。
思いっきり扉を開けて、そのまま玄関に転がり込んだ。
もう息ができない、そんな状態になりながらも、大きな声で母を呼ぶ。
「おかえり。どうしたの、そんな大きな声出して」
「お母さん聞いてよ! 柏木監督が、僕に酷いことしたんだ! 無理矢理触ってきて、無理矢理嫌なことしてきて、僕怖くて……! 途中で突き飛ばして、必死に逃げてきて……!」
堰を切ったように言葉が溢れ出して、再び先程までの恐怖が蘇る。
母の顔は、驚愕を浮かべていた。
無理も無い。
自分の子供が性犯罪に遭ったんだから。
──あぁ、早く。
早く抱き締めて。
怖かったねって、苦しかったねって、守ってあげられなくてごめんねって言って、安心させて。
「なんで……」
その言葉を、生涯忘れることはないだろうと、そう思っていたのに──。
「なんで我慢できなかったの!? せっかくお母さんが監督に頼み込んであげたのに! ちゃんと我慢できてれば、映画の主演にキャスティングしてもらえたのに!」
母が何を言っているのか、僕には理解ができなかった。
(……なん……で? どう……して……?)
母の言葉は、先程受けたトラウマなど、簡単に更新し塗り替えてしまった。
「ほんっと……親不孝な子……」
──信じられなかった。
言葉が出なかった。
そのまま思わず、家を飛び出していた。
「ひな!」
──今更なんだ。
ずっとそうやって僕のことを、道具として扱ってたんじゃないか。
自分の夢を叶える為の、自分の欲を晴らす為だけの道具に。
愛されていると、信じていたのに。
愛されているから、僕も全力でそれに応えようとしてきたのに。
『いい? ひなは強者で居なければいけないの』
自分は、強者側だと思っていた。
強者として、弱い者に手を差し伸べてあげなければいけないのだと。
──でも、違ったんだ。
僕は弱者だ。
母の言いなりになることしかできなくて、愛なんて都合の良い曖昧な言葉で納得した気になって、良いように使われていただけ。
孤独な舞台に上げられたまま、降りることを赦されなかった、ピーターパンと同じだったんだ──。
『飛べるかどうかを疑った瞬間に……永遠に飛べなくなっているんだ……』
──いや、それも違う。
今の僕は、ピーターですらない。
翼を捥がれて、空から地面に叩きつけられて、飛べないただの端役だ。
魔法の粉を奪われて、幸せだったと思い込んでいた夢から醒めた、弱者だと気付かされたただの惨めな子供だ。
英雄から最もかけ離れた、何もない人間。
それこそが、僕の正体だったんだ──。
どこからかサイレンの音がして、近くで火事が起きているんだと知る。
ぼんやりと歩いていたせいか、気付いたらその現場の目の前まで来ていた。
野次馬が大勢いる中、轟々と燃え上がる炎の揺らめきを見つめる。
その赤は、あの夕焼けに似ていた。
僕を終わらない深い闇へと落とした、あの憎き赤に──。
無意識に、足が動いた。
一筋の光を目指して駆け抜けたあの時のように、体が勝手に反応した。
炎に呼ばれていると、そんな気がして。
「君!」
消防隊員の人に肩を掴まれ、ハッと意識を取り戻す。
「危ないじゃないか! 下がっていなさい!」
我に返って、今まさに自分がしようとしていたことに驚く。
恐怖が湧き上がってきて、急いでその場から走り去った。
(なに今の……。僕は、死にたかったのか……?)
希死念慮なんて、今まで抱いたことはない。
その言葉だって、学校のいじめ自殺撲滅運動の授業の一環で知ったものだ。
逆に自分はそんな心の弱い人間に、手を差し伸べる側の人間なんだと。
そう、ずっと思ってきたのに──。
どうして、変わってしまったんだろう。
いや、変わったわけじゃない。
捻じ曲げられてしまったのだ。
ずっとそうだったものを、初めから弱者として扱われていたことを、気付かされてしまっただけなのだ。
今までの人生が、頑張ってきた自分が、全部馬鹿らしく、ただの夢見心地なおめでたい人間だったということに。
──そして誓った。
僕は、あんな大人にはならない。
弱い者を支配し、自分は強者であるという優越感に浸っている母のような大人には、絶対にならない、と──。
次に足を止めた時には、事務所の前に立っていた。
そもそも役者なんてやっていたからこうなってしまったのに、何故無意識にこんな所に来てしまったのだろう。
もし人生をやり直せるなら、役者なんて絶対にやってやらないのに。
「あれ、ひなじゃねぇか。今日はもう帰ったんじゃなかったのか?」
稽古場の事務室まで行くと、後片付けをしていた頼が一人残っていた。
その姿を見た瞬間に、ぶわっと涙が溢れ出した。
「うわっ、おいおいどうした? ……ひな?」
衝動的に抱き着くと、頼はわけも分からないまま優しく背中を摩ってくれた。
「頼……。怖かった……苦しかった……」
「分かった、分かったから。今はなんも考えんな」
頼はそう言ってくれたけれど、僕はゆっくりと、涙声で全部を話した。
監督にされたこと、母に言われたこと、火事の炎の中に、飛び込んでしまいそうになったこと。
自分が変わっていくことが、怖いということ──。
頼の顔は見れなかった。
きっと、悲しい顔をさせてしまっているから。
頼が喜んでくれるのが、嬉しかった。
笑ってくれるのが、好きだった。
それでも、言わずにはいられなかった。
困らせると分かっていても、悲しませると分かっていても、それでも、縋らずにはいられなかった。
自分が自分で在る為に、生きることを、辞めてしまわない為に──。
「……助けて……頼……」
それは、自分が弱者だと、決定的に裏付けてしまう言葉だった。
口から出てしまった言葉は、もう元には戻せない。
それを後悔してしまうほど、憐れだと感じてしまうほど、精神は崩壊してしまっていた。
頼の腕に、力が込もる。
強く抱き締めてくれたその温もりが、とても心地良かった。
「……忘れちまいな……」
おまじないを唱えるように、子守唄で寝かしつけるように、頼は優しく呟いた。
「大丈夫だ。全部、全部忘れちまえばいい」
無茶なことを言う。
もし本当にそんなことができたのなら、どんなに救われることだろう。
あの感覚も、恐怖も、憎悪も、できることなら忘れてしまいたい。
そんなことはできやしないだろうと自嘲しながらも、頼の温もりに触れている間は安心できた。
『……忘れちまいな……』
その言葉は、僕にとって、新しい魔法の粉になった。
傷を癒すように、もう一度空を飛ぶ為に、僕に寄り添う子守唄になった。
その優しい子守唄を聞きながら、僕はそのまま、眠りに就いた。
それからしばらくの間、頼の家にお世話になった。
頼の家ということは、即ち社長の家だ。
頼が社長さんに事情を話してくれて、色々としてくれたらしい。
まず母との事務所の契約を打ち切り、僕は一旦紫波プロのタレントでは無くなった。
母は抗議したようだったけれど、さもなければ事を荒立てて法的措置を取ると言う社長の言葉に、悪事を働いた自覚がある母は黙り込むしかなかったようだ。
そして僕はと言うと──
「おまえも一緒に来い」
季節が夏に差し掛かった頃、頼はそう言った。
「どこに?」
「ニューヨークだよ。おまえも九月からあっちに留学しろ」
突然の提案に驚きはしたものの、それは願ってもいない話だった。
母から離れる為、芸能界から離れる為、朝霧ひなを知る人々から離れる為、日本を離れるのは良い判断だったかもしれない。
そして何より、頼と離れ離れになってしまわなくて良かったと、心底安心した。
そうして九月からの入学に向けて、頼と二人でのニューヨーク生活が始まった。
頼の名義で部屋を借りて、所謂ルームシェアーという形で僕らは新しいスタートを切った。
頼は大学に、僕は現地の中学に入学し、憧れだった歌とダンスのレッスンにも通った。
しかし──
「……っ!!」
眠っても、夜中に悪夢で魘され飛び起きる毎日。
夢の中は、いつもあの赤。
逃げても逃げてもあいつが追いかけてきて、再び犯される。
「ひな、入るぞ。大丈夫か?」
深夜にも関わらずノックがして、頼が水を差し出す。
「なんで……なんで僕が……」
「大丈夫だ。大丈夫だから」
現地でカウンセリングを受けてはいたものの、心の奥深くに刻みつけられたトラウマは、簡単には消えてはくれなかった。
こんなふうになってしまった自分が、憐れで仕方が無かった。
──赦せない。
母を赦せない。
そんな自分を赦せない。
強者で居なければ──。
それは目標や指針ではなく、最早強迫観念になっていた。
ニューヨークの学校生活は、何かと順調だった。
ここには、僕を知る者はいない。
女の子みたいな容姿を馬鹿にされるかと不安定もあったけれど、幸いこの頃には身長がぐっと伸び、年相応の美男子になっていたと思う。
態度も下手に出ていては舐められる為、自分を強く見せようと必死にイメチェンをした。
日本では『僕』という一人称で馬鹿にされることはあったけど、ここでは『I』という一人称で全てが解決する。
それでもマインドを変える為、頼の前でも『俺』と言うようになった。
頼は『これが思春期かぁ』と少し寂しそうだったけど、特に反対はされなかった。
そして年が明けてすぐくらいの頃、ダンスのジュニアクラスに十歳の少年が入って来た。
素直で謙虚で、誰にでも愛されるいい子だった。
彼が幸せそうに笑う度、何故かイライラした。
もしかしたら、少し前までの自分を重ねていたのかもしれない。
人の悪意になんかに触れたことが無くて、この世には醜悪な人間が存在するということさえ、全く知る由も無い。
愛されていることが、当たり前。
俺だって、そう思っていたのに──。
長年信じ続けていたものを打ち砕かれて、裏切られて、夢に魘されるような弱い人間が存在することなど、考えたことも無いのだろう。
(……汚したい)
そう思った。
俺の苦痛を味わって欲しかった。
世界はおまえが思うほど綺麗なんかじゃないと、分からせてやりたかった。
──いや、違うかもしれない。
俺は可哀想なんかじゃないと、弱い人間なんかじゃないと、思い知らせたかった。
自分で、そう思い込みたかった。
そして、ある冬のこと。
甘い言葉を囁いて、その子供を誰も居ない密室に呼び出した。
「やめてよ! 嫌だ!」
強者で居なければ──。
その憎き強迫観念だけが、俺を突き動かしていた。
俺は弱者なんかじゃない。
誰かを組み敷いて支配してしまえば、俺は強者側でいられる。
俺の力はあの時より強く、心だって怯える事無く清々しい気分だった。
──優越感。
自分は強者側で在るという、優越感だ。
強さは、心地良い。
毎晩夢で犯され続ける俺は、もう居ない。
震えて怯え続けていた俺は、もう居ない。
──さよなら、弱者だったひな。
自分を強者だと思い込んでいた、憐れなひな。
己にナイフを突き立てて、あんな弱く惨めな自分は殺してしまおう。
もう二度と息を吹き返すことがないように、頑丈な鍵をかけて、鎖で強く巻き付けて、記憶の奥底に閉じ込めてしまおう──。
それからは、男も女も関係無く、取っ替え引っ替え抱いた。
誰でも、なんでも良かった。
この行為だけが、この日々だけが、今の俺の強さを証明してくれる。
搾取される側でなく搾取する側に回ることで、今の俺は強者で在ると知らしめてくれる。
忘れられないのなら、あの忌々しい日から抜け出せないのなら、いっそ日常にしてしまえばいい。
そんな力尽くの荒療治でトラウマを変換させることで、俺は強者へと成り上がった。
そしてあっという間に、二年の月日が経った。
「じゃ、行くから。本当に一人で大丈夫か?」
「大丈夫。問題ねぇよ」
頼は留学期間を終えて、日本に帰国することになった。
本音を言えば寂しかったが、これからは一人でやっていくしかない。
「18になったら、おまえも帰って来い。おまえがやりたいことできるように、全部こっちで準備しとくからさ」
その時は、なんのことか分からなかった。
頼がやろうとしてることがなんなのか、頼の進路さえ、この時の俺はまだ知らなかった。
二年も一緒に生活していたのに、そこまで踏み込んで聞くようなことはしてこなかった。
頼が居なくなって、ニューヨークでの一人暮らしが始まった。
高校に入学した俺は、クラスのリーダー的存在になっていた。
日本にいる時もそうだったが、その時とは違う。
膝をついて、弱い者に優しく手を差し伸べるのとは違う。
使えそうな奴らを何人か侍らせ、人の上に立ち人を取り仕切った。
──支配だ。
この学校で一番強いのは、一番偉いのは俺だと分からせた。
強さは、心地良い──。
ボーカルダンススクールでも、トップクラスの実力者となった。
勝手に人が寄って来て、周りにはいつも誰かがいた。
そうして俺は、俺が欲しかったものを再び手に入れた。
約束の18歳になって、俺は日本に帰国した。
頼は紫波プロダクションの社長になっていた。
昔はならないとあんなに言っていたのに、どんな心境の変化があったのだろうと不思議に思った。
「どういう風の吹き回しだよ」
「え? やっぱどうせなるなら大手一流企業の社長かなって。ほら、このスーツやり手社長っぽいっしょ?」
「胡散くせぇなぁ。どうせ就活忘れてたとかだろ」
「ははっ、ばれた?」
今なら分かる。
頼は、俺を護ろうとしてくれていたのだ。
俺が二度とこの世界で傷付くことがないように、俺が生きていける世界を造ろうとしてくれていたんだと。
頼は日本に戻った後、大学に在学しながら紫波プロのマネージメントの仕事を社長から任されていたらしい。
そして【燈】という四人組のバンドをスカウトし、自らそのマネージャーを務め、メジャーデビューした後大ヒットさせた功績を買われて、晴れて社長の座を父親から譲り受けたんだそうだ。
そして頼が社長になってからの初プロジェクト、ダンスボーカルユニットオーディションが開催された。
準備とは、このことだったのだと分かる。
俺が歌手として生きる道を、頼は作ってくれていたのだ。
オーディションなんて回りくどいことをしなくても、デビューする準備はいつだってできていたのにとは思ったが、素直に受けることにした。
そして恐らく形式だけのオーディションが開催され、元天才子役のアーティストとしての門出として、メディアの注目も集まった。
これも頼の作戦だったのかもしれない。
オーディションの応募総数は一万人を超え、選考も長きに渡った。
一次選考の書類審査、二次、三次選考の実技審査を終えたところで、最終選考の合宿審査へ進む、俺を含めた六名が選出された。
そのオーディションの様子はネット配信され、日本中を巻き込む大規模なオーディションとなっていた。
「わ、あんたが朝霧ひなね。ふーん、業界から干されてしばらくテレビで見ないと思ってたけど、今度はお歌に転向したんだぁ」
「は?」
一週間の合宿審査の際、やたらと上から目線で話しかけてくる女がいた。
──それが、海だ。
俺はその態度が、心底気に入らなかった。
「あたしは神楽坂海。アーティストとしてはあたしの方が先輩だから。よろしくね、ひなくん?」
名前を聞いたことも無ければ、顔もイマイチパッとしない。
弱い犬ほど、よく吠えるとはまさにこのことだ。
「素人が気安く話しかけんじゃねぇよ。俺様を誰だと思ってやがる。あと、それは捨てた名前だ。二度と呼ぶんじゃねぇ」
「え? ……ホントだ、HI7SEって、なにこれ? 超ダサくない?」
その女は練習着のゼッケンに書かれた名札を見て、馬鹿にしたように笑った。
「てめぇ……調子に乗んなよ?」
「あんたに教えてあげるから。歌の世界はそんな甘っちょろいもんじゃないってね」
俺は朝霧ひなという芸名を捨て、本名の朝霧陽七星として再びタレント登録し、歌手活動のアーティスト名はHI7SEとして再スタートした。
HI7SEの7は、アルファベット6字は多いと感じたことと、HARU9へのリスペクトも込めてのことだった。
いつか同じ音楽番組で共演することができれば、いつか同じステージに立つことができたのなら──。
そんな初期衝動の憧れは、まだちゃんと胸にあった。
歌う時も、踊る時も、俺はHARU9を頭に思い浮かべるようにして全身を駆使した。
まるでHARU9という役を、役者として演じているかのように。
強気で、自信家で、眩しい。
圧倒的なカリスマ力を持ち合わせた、彼のような存在に近付きたかった。
合宿審査は鬼のようなスケジュールで、ボーカルレッスン、ダンスレッスン、実際のステージに立ってのパフォーマンス審査と、詰め込まれすぎた日程となった。
辛くなかったと言えば嘘になるが、それでも余裕の振る舞いをして、他の奴らとの格の違いを見せつけた。
こっちは、ニューヨークでの本場のレッスンを積んできたんだ。
そのプライドに懸けて、負けるわけにはいかない、とーー。
「……はぁ……ちょっと、へばってるなら……さっさとどいてくんない?」
「はっ……おまえこそ、息上がってんぞ? こんなのも耐えらんねぇようなら……さっさとリタイアしろよ」
他の奴らとは頭ひとつ実力が飛び抜けている俺に、海は何かと突っかかってきた。
素人を相手にしている暇はないと思ったが、いくら振り解こうとしても喰らい付いてくるその姿に、かなりうんざりしていた。
だが、こいつともたかが一週間の付き合いだ。
このオーディションは、最終的には俺一人が合格して終わる。
それが分かっている以上、これ以上関わる必要はない。
「陽七星くん。子役を電撃引退してからもう五年が経つけど、今回のオーディションの意気込みを聞かせてくれる?」
「はい。この五年間、ニューヨークに留学して本場の歌とダンスのレッスンを受けてきたんです。これからはアーティストとして活躍できるよう、なんとしてでもメンバーに選ばれたたいです」
カメラの前では、あの頃と同じような謙虚な好青年を演じた。
昔の経歴が邪魔だと思えることもあるが、世間の注目を集めるには打って付けだ。
時代を席巻していた元天才子役が、留学期間を経てアーティストデビューだなんてトピックは、どうやったって話題になりやすい。
そして、オーディションの結果発表の時が訪れた。
「紫波プロダクション、ダンスボーカルユニットオーディション! メンバーに選ばれたのは……なんと、最終審査に残った六名全員です!」
(……は?)
まさかの六人全員合格という結果に、俺はどうしても納得がいかなかった。
しかしカメラが回っている前でその表情を露わにするわけにもいかず、まるで戦友かのようにメンバー達と抱き合い、涙する感動のシーンを演出した。
そうして俺達はBLUE BIRTHというグループ名が付けられ、男女混合の六人組ユニットとしてデビューすることとなった。
ソロでのデビューでないことは予想外だったが、それでも俺がメインのグループであることは間違いない。
他の奴らは、あくまで俺の引き立て役だろう。
そう思っていたのに、箱を開けてみたら、海とのダブルセンターという形だったのだ。
「どういうことだよ!?」
「なにが?」
「俺一人がメインボーカルのセンターでいいだろ! なんであんな女となんか……!」
プロデューサーから聞かされた決定に納得できずに詰め寄ると、頼は呑気そうに笑っていた。
「俺はハマってると思うけどなぁ、ひなと海のダブルセンター。おまえら似た者同士だし、お互い良い刺激になるって」
「似た者同士ぃ!? 俺とあの女がかよ」
「まぁまぁ、一回俺を信じてみなって。きっと上手くいくからさ。大丈夫、こっからは楽しいことしか起きないよ」
頼の謎の自信は理解できないまま、初ステージへのスケジュールもタイトな為、仕方なくデビューへの準備を進めた。
まぁ、俺様の実力を見せ付けて振り落としてやればいいだろうと、そう思っていた。
しかし何度張り合っても、何度勝負を挑んでも、海は振り落とされること無く喰らい付いてきた。
元々負けず嫌いな性格ではあったが、芸歴の長さと本場のレッスンを積んでいたプライドもあり、負けるわけにはいかないと俺も意地になった。
「おい、早くどけよ。俺様の為にセンターを空けろ」
「は? カウント無視して入ってくるんじゃないわよ。このツーエイトはあたしの見せ場なんだけど」
「黙れ。決定権は俺様にあるんだよ」
「なにそれ。頼さんとちょっと親しいからって社長気取り? 言っとくけど、このグループは頼さんがあたしの為に作ってくれたものなんだからね」
「……は?」
その聞き捨てならない発言に、俺は怒りを抑えきれず海に詰め寄った。
「何言ってやがる。このグループは頼が俺の為に用意したもんだ。付き合いの浅いてめぇが知ったような口利くんじゃねぇよ」
「はっ、ホントおめでたい頭ね。頼さんはね、あたしが中学の時から色々と面倒見てくれてたのよ。あんたが知らないような、切っても切れない深ーい関係なわけ」
「おい……調子に乗んなよ? それ以上喋るな」
意味深な物言いで関係を匂わせる海に、思わず余裕を失くして凄む。
頼のことを知ったような口振りをされるのが、一番腹立たしかった。
──何も知らないくせに。
ポッと出のモブ如きが、頼を語るな、と──。
頼のことを一番良く知ってるのは、俺だという確信を揺るがせたくなかった。
(気に入らねぇ……)
そんなふうに海を敵対視しながらも、表では仲睦まじい芝居をした。
他の奴らは、正直眼中に無かった。
素人に毛が生えた程度の奴ばかりで、芸能界の厳しさを痛感すればすぐに逃げ出すだろうと思っていた。
それでも、皆根性だけで喰らい付いてきたようで、誰も欠けること無くデビュー当日を迎えた。
舞台袖から、その時を待っていた。
久々に、緊張していた。
そんな自分が可笑しかった。
役者としては何度も大舞台を経験しているし、ニューヨークでもステージに立ってパフォーマンスを披露することだってあった。
それでも、憧れていた景色が今まさに目の前にあるということに、期待と高揚と同時に、不安と焦燥も大きかった。
──もし、これでダメだったら?
もし、この幕の向こうに、あの監督がいたら?
朝霧ひなとして見られる視線に、耐えられなかったら?
憧れていたものが、焦がれていたものが、いざ手に入れてみたら、紙屑のようにつまらないものだったら?
考えれば考えるほど、不安は増長していった。
脳裏に、赤がチラつく。
あの日の夕陽が、あの暗闇が、ステージ裏で俺を孤独にする。
誰か、誰か──。
一人は、苦手だ。
「ちょっとなに? あんたビビってんの?」
茶化すように笑いながら、海が煽る。
しかしその声は、心做しか震えていた。
震えていながらも、それを表に出すまいと拳を握り締めて、必死に強がってそこに立っていた。
──負けてたまるかと、そう思った。
いつものように顎を上げて、ふんっと鼻を鳴らしてみせる。
「誰に言ってんだ。俺様の足引っ張るんじゃねぇぞ?」
「あんたこそ」
そして俺達は、初ステージに立った。
幕が上がると、そこには七色のサイリウムが光っていた。
──赤だ。
皮肉なことに、俺のメンバーカラーは赤。
でもそれは、優しい赤だった。
赤色の光を照らす人々の手には、HI7SEと書かれた内輪が握られている。
「HI7SEー!」
「HI7SEー! こっち向いてー!」
子役朝霧ひなとしてではなく、俺をアーティストのHI7SEとして応援してくれている。
それは今の自分の姿を肯定してくれる、何よりの証拠だ。
──一人は苦手だ。
だから、ここにいる奴ら全員巻き込んで。
歓声を浴びて、大勢に求められて、ヒーローのような存在になれたのだと、心が満たされていった。
子供の頃に憧れたその場所は、思い描いてきたその舞台は、想像を遥かに超えて最高の瞬間だった。
今までの傷が、苦悩が、痛みが、このステージで全て報われたと思えるほど。
頼が言っていた通り、これからはもう、楽しいことしか起きないと、そう信じた。
ファンに求められる快感に釘付けになり、俺は眩しいスポットライトの中、歓声に手を振ったのだった。
──普通なら、これでハッピーエンドだ。
親から期待され、人生の全てを役者業に捧げてきた一人の少年が、性被害を受け、親から見捨てられ、弱者であるというトラウマを植え付けられた末、強者へと成り上がることで憧れていた夢を叶えることができた。
もしもこれが御伽話なら、めでたしめでたし、で物語は締め括られるだろう。
しかし、そうはならない。
何故なら人生は、ここで終わりではないから。
ハッピーエンドを迎えたところで都合良く終わりを迎える、御伽話とは違うのだから。
人の人生は、続いていく。
心臓の鼓動が止まってしまう、その時まで──。
デビューしてから、三年が経った頃だ。
三周年ツアーでは念願のドーム公演を行い、俺達の人気は鰻登りだった。
全てが順調だと思われた、そんな時。
「……は?」
テレビのニュースで、それを知る。
「人気アイドルのHARU9さんが、今日未明、遺体となって発見されました」
憧れの人は、直接会うこともできずに居なくなった。
想像以上に、ショックだった。
これから一体、何を目標にしてやっていけばいいのだろう。
脳裏に常に居て、その姿を真似るようにして、ここまで来たというのに──。
紛れもなく日本のトップアイドルだった彼の訃報は世間を騒がせ、多くの人間が悲しみに包まれた。
自殺の線が濃厚だと報道され、後追い自殺をするファンもいたというほどで、彼の影響力の凄まじさを改めて思い知らされた。
──HARU9は間違いなく、人生の成功者だった。
デビューしてから十数年間その人気は衰えること無く、大勢の人に愛され、そんな人達を引っ張る紛れもないスターだった。
そんな彼が、何故──。
仮に自殺だとするのなら、一体何が原因だったのだろう。
死んでしまいたいと思うほどの絶望を、どのようにして味わったのだろう。
それは、勝てなかったのだろうか。
地位や、名誉や、ファンの声や、愛されていることの優越感。
それだけのものを手にしていて、それでも尚アンチの声や世間の期待に負けてしまったのだろうか。
全ての人間の意見を聞いていたら、キリが無い。
俺だって心無い言葉にイラつくことはあるものの、そんな奴らに心を預けて傷付いたりしない。
そんなもの、なんの意味も無いから。
俺なら、そんな奴らに負けやしないのに──。
何故彼が自殺に踏み切ったのかという真相は誰も分からないまま、この件はHARU9の葬儀が行われ一旦幕を閉じた。
圧倒的な国民的スターを失ったこの事件は、エンタメやアイドルについての在り方、ファンやメディアの在り方等についても大きな波紋を呼んだ。
SNSでの誹謗中傷が原因だったのではないか、過激なファンの行き過ぎた行動が原因だったのではないか、マスコミの執拗な付き纏いが原因だったのではないかと、様々な憶測が飛び交った。
どちらにせよ、この国が失ったものは大き過ぎた。
国全体に、ひとつの大きな穴が空いてしまったように──。
俺だって、胸に穴が空いた一人だ。
それでも──
この頃の俺は、自信に満ち溢れていた。
デビューしてから丸三年。
多くのファンを獲得し、数多のステージに立ち、歓声を浴びる度にその自尊心は大きく膨れ上がっていった。
HARU9の喪失による悲しみに落とし所を見つけられなかった俺は、これを自分に与えられた使命だと変換した。
俺ならもっと、上手くやれる。
世間からの期待も、アンチの声も、全てを背負い込んだ上で、テッペンに立ってみせる。
──そうだ、HARU9は甘かったんだ。
心が弱かったから、完全にスターに成りきれなかったから、きっとこうなってしまった。
おい、あんた、何やってんだよ。
俺が憧れた存在は、そんなもんじゃねぇだろ。
まぁいい、あんたの穴は、俺が埋めてやる。
この悲しみの淵から抜け出せない人間達を、全員俺の虜にしてやる。
大丈夫だ、やり方は分かってる。
何故なら俺は、ずっとHARU9を真似てきたからだ。
他人に言われるのは癪だが、これでも一応元天才子役だ。
HARU9が成りたかった姿を、成るべきだった姿を、俺が完璧に演じてみせる。
そうして俺は、国民的トップスターとしての階段を登り詰めた。
それなのに──
──思い出してしまった。
あの日の赤も、無理矢理触られた恐怖も。
自分は弱者だと思い知らされた、あの言葉も。
そして、気付いてしまった。
子供の自分に会って、その軽蔑しきった顔を見て、思い知らされた。
自分の今の姿は、子供の俺が最も成りたくなかった、大人の姿をしているということを。
強者で居なければと、何故思わされることになったのかという初期衝動を忘れて、その強迫観念だけが残った。
──残った?
違うな、消したんだ。
忘れたいと、忘れなければと、俺自身が願ったんだ。
──いや、忘れたなんて言葉では生ぬるい。
あれは殺しだ。
子供の自分に刃を突き立てて、心臓を貫いて、二度と息を吹き返すことができないよう、暗い闇の底に突き落とすことと同じ。
それはあの林に一人置いて行かれた、あの日の俺のように──。
ひなはずっと、あの林の中を彷徨っていたんだ。
十年もの長い間、どこにも光を見出せることなく、ただ一人で彷徨い続けていたのだ。
ほんの数十分でさえ、俺にとっては永遠を感じるほどの地獄だったというのに。
俺はそこから抜け出す為に、代わりにひなを置き去りにして、見捨てた。
誰か、誰かと叫んでいる声は確かに聞こえていたのに、伸ばされた手を振り払うようにして、ひなと決別した。
これ以上、傷付かないように。
これ以上、自分を嫌わないで済むように。
弱い自分を忘れて、理想の自分を作り上げて、あたかもそれが本来の自分の姿であるかのように錯覚して、多くの間違いを犯した。
あの幼い少年を組み敷いたことも、憧れの人を嘲笑ったことも、日常的に弱者をいたぶり続けていることも。
そして今まさに、幼い子供を支配しようと、散々な目に遭わせてきたこと。
葵瑞の、あの目が嫌いだった。
どんなに罵声を浴びせても、どんなに汚い手で傷付けても、それでも強い光を放ちながら真っ直ぐに見つめてくる。
誇りを手離すこと無く、戦い続けているあの目で。
それがどんなに苦しいことなのか、どんなに難しいことなのか、俺は知っている。
それができなかったから、苦しみに負けたから、諦めてしまった方がラクだと逃げて、そして忘れ、自分が最も忌避していた大人の姿になっていたのだ。
この愚行を、この裏切りを、どうして許すことができるだろう。
俺は、最低だ──。




