第三十一話《朝焼けと橋の下》
澄み渡った空気が、気持ち良い。
少し涼しげで、静かで穏やかな世界。
真っ暗だった空が次第に白み出して、どこからか昇った陽の光を浴びて、雲がオレンジ色に染まり始める。
早朝だと、織は肌で感じた。
傍に見える河川敷は、かつて父親と兄弟達がよくキャッチボールをしていた場所に似ていた。
なんで、こんなところに居るのだろう。
さっきまでみんなで、飲み会をしていたところだったのに。
まぁ、考えたところで仕方が無い。
諦めるのは慣れている。
我慢することも。
女が夜出歩くのは危ないと門限が厳しかった家柄もあり、織は昔ちょうどこのくらいの時間に、朝のジョギングを日課としていたのだ。
走りながら、一日の始まりを告げたばかりの世界を見渡しては、物思いに耽るのだ。
朝の空が好きだった。
神聖な朝の空気と共に、これから一日が始まるという希望を含んだ薄くて淡いオレンジ。
昇ったばかりの新鮮な陽の光を浴びた世界は、徐々にその光を自分の輝きにする。
空が、山が、海が、自分達の本来の色を取り戻すのだ。
何者にでも成れるのだと、そう促すように。
そんな世界を全身で浴びながら、河原を駆け抜けるのは気持ちが良かった。
あの頃を思い出して、少し走ってみる。
今はジム通いの為、外でランニングをすることはほとんど無くなってしまっていた。
久々に外を走るのは、気持ちが良い。
そうして走っていると、河川敷近くに人だかりが見えた。
派手な装飾に、陽気な音楽。
縁日のようなものが行われているのだと、そう思った。
(こんな朝っぱらから、縁日?)
不可解に思いながらも、このままでは帰ることができないと、渋々その人だかりに近付き声をかけた。
「あの、すみません。ここはどこですか?」
それなのに、その声は祭囃子やお喋り声に掻き消されてしまう。
「島の管理をされてる方々ですか? 東京に帰りたいのですが、うちのスタッフを見ませんでしたか?」
先程より声を張った筈なのに、誰も何も反応しない。
祭でそれどころじゃないのか、それとも余所者の自分が毛嫌いされているだけなのか。
どちらにせよ、いい気分では無かった。
──人は苦手だ。
何を考えているか分からない。
必死に相手の意向に従おうと予想して実行してみても、全く的外れで変人扱いされてしまう。
幼い頃から、自分は変わり者だと、一般的な感性とは違う人間だという自覚はあった。
人と関わる度、人と話す度、それを思い知らされるのが苦しかった。
決して分かり合おうとしていないわけじゃないのに、必死に理解しようと努力しているのに。
自分は異質なんだと、気付いたら人と話すことを避けるようになっていた。
でも、ダンスは違った。
上手く話せなくても、これで自分を表現できるなら、言葉なんて必要ないと思えて、みるみるうちに病みつきになったのだ。
そんな人混みを掻き分けた先に、妙なものを見つけた。
橋の下に、鳥居が見える。
まるで橋を支えている支柱のように、その青色をした鳥居は、力強く聳え立っていた。
影が斜めに入って、徐々に朝陽を浴びて、その青さを増していく。
「……そこにいるの?」
無意識に、声が出た。
そこには誰も居ないのに、誰かに問いかけるように。
その輝きに魅せられて、その応えが欲しくて、織は鳥居を潜った。
その瞬間──
「……っ!」
各々が鳥居を下を潜った瞬間、膜のような何かを通った感覚があり、風が吹き抜けた。
そんな中、一歩を踏み出し足を着いたと同時に、世界は色と音を無くした。
目の前が真っ暗になり、恐る恐る振り返る。
すると鳥居の向こうに、ある子供の姿があった。
冷や汗が背中を伝い、恐る恐る口にしてみる。
「……誰?」
無音の世界で、その声だけが響き渡る中で、その子供はゆっくりと顔を上げた。
『忘れちゃったの?』
その声は幼く、聞き馴染みのある声だった。
顔には黒い靄がかかっており、その靄の上に赤い目と口が浮かんでいる。
それでも、分かる。
濃い影がかかっていても、分かる。
その輪郭も、その姿も、全て知っている。
『ひなだよ』
『うみなだよ』
『ゆーいだよ』
『みおちゃんだよ』
『れんだよ』
『あいりだよ』
彼らは、答えた。
それは、六人の子供の頃の姿だった。
ハイライトが消えているその目は、侮蔑の瞳だ。
かつて彼らが、絶望した大人に向けたのと同じような。
憎しみと、憐れみを孕んでいる。
その瞬間、脳内を駆け巡る、過去の記憶。
子供の頃だけのものではない。
今日まで二十数年生きてきた、忘れてしまっていた、これまでの記憶全て。
「……あ……あぁ……」
それが、何を意味するのかまで。
彼らの人生が、今生きているこの姿が、何を意味するのかまで、強制的に分からされてしまう。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーー!!!」
絶叫して、頭を抱えしゃがみ込んだ。
──思い出してしまった。
自分の罪を。
どうして今日というこの日まで、生き延びて来られたのかを──。
ぐちゃぐちゃになった顔を上げた陽七星は、目の前にいたひなが消えていたことに気付いた。
「……っ!」
断片的な映像がフラッシュバックし、途端に体が震え出し、それを両腕で必死に抱き締める。
『……さ、触るな! ……誰か! 誰か助けて!』
あの日の感覚が蘇ってきて、歯がガタガタと震えて止まらない。
「……どうして……」
それは消えた目の前の相手に対してではなく、自分自身に零した問いだった。
「……どうして……忘れてたんだ……」
涙でぐちゃぐちゃになった顔からは、後悔と、侮蔑と、哀憐が零れ落ちていった。




