幼なじみの痴話喧嘩
放課後の校舎は夕日に染まり、廊下に長い影を落としていた。
宿題を詰め込んだスポーツバッグを肩にかけ、綾人は教室を出たところで足を止めた。
下駄箱前、見慣れた黒髪の少女――幼なじみの 美咲 が壁にもたれて立っていたからだ。
「……待ってたの?」
「べ、別に。たまたま帰りが一緒になっただけ」
美咲はそっぽを向いているが、頬はほんのり赤い。
“たまたま”というには、手に持つペットボトルも制服の裾も、何度もいじられた形跡がある。
綾人は呆れたように笑う。
「嘘つけよ。絶対待ってただろ」
「……いいでしょ、待ってたって言わせてよ!」
「言ってるじゃん」
「もうっ!」
美咲はぷいと顔を背けて歩き出す。
綾人は苦笑しながら並んだ。
昇降口を出ると、夕焼けが二人を包む。
そのまま帰路につこうとした瞬間、美咲が足を止めた。
「ねぇ綾人」
「ん?」
「……今日のお昼のことなんだけど」
美咲が降り続ける蝉の声に負けそうなほど小さく言った。
「綾人、クラスの女子と話してたよね?
しかもすっごく……楽しそうに笑ってた」
「……ああ。プリント貸してくれって言われただけだよ」
「わかってる。でも……」
美咲は視線を下に落とし、靴先をぎゅっと踏む。
「綾人が、私以外の子に……あんな顔、向けるの嫌だった」
「……あんな顔?」
「うん。優しい顔してた」
綾人は息をのんだ。
(そんな細かいところ、見てたのかよ……)
美咲の声は少し震えていた。
「幼なじみでも……私だって女の子なんだから。
好きな人が他の女子に笑ってたら……そりゃ、なんか……胸がざわざわするよ」
「…………え?」
綾人の心臓が跳ねた。
「ちょっ、美咲!? 今さらサラッと言うなよ!」
「だ、だって、思ったんだもん!」
顔を真っ赤にして言い返す美咲。
綾人も耳まで熱くなる。
「お前……俺のこと好きなの?」
「……好き。ずっと前から」
綾人は言葉を失った。
幼稚園の頃から一緒にいて、喧嘩も何度もした。
けれど “好き” を本人の口から聞いたのは初めてだった。
美咲は勇気を振り絞るように顔を上げる。
「だから……綾人が他の女子に笑うの、嫌なの。
できれば……私だけに向けてほしい」
「……なら」
綾人は美咲の手首をそっとつかんだ。
それだけで美咲がびくっと震える。
「俺も……お前が他の男と笑ってるの、正直ムカついた」
「えっ……綾人も?」
「当たり前だろ。ずっと一緒にいたんだし。
お前が誰かと仲良くしてるの見ると、なんか……胸がチクッとする」
言い終えた瞬間、美咲は顔をほころばせた。
「……綾人、それ嫉妬って言うんだよ」
「うるせぇ!」
「ふふふ、でも嬉しい」
美咲の声は甘く、耳に心地よく落ちてくる。
二人の間の空気がゆっくり変わっていく。
家へ続く道は、夕暮れのオレンジに包まれて温かい。
「ねぇ綾人」
「ん?」
「帰り……手、つないでもいい?」
「なっ! いきなり何言ってんだよ!」
「嫌?」
「嫌じゃない……けど……」
綾人は視線をそらしたまま、美咲の手をそっと握り返す。
美咲が目を輝かせて微笑んだ。
「……綾人の手、あったかい」
「お前が冷たいんだよ」
「じゃあ、温めて?」
「……はいはい」
夕暮れの帰り道を手をつないで歩く――
それだけで、世界が少し違って見えた。
美咲は歩くたび、そっと綾人の手に指を絡めてくる。
その度に綾人は心臓が跳ね、視線を逸らす。
「……お前さ。手、握りすぎじゃね?」
「え、嫌?」
「嫌じゃねぇけど……!」
「じゃあいいでしょ?」
美咲はふわりと笑って、さらに指を絡める。
夕陽に照らされたその笑顔は、綾人が昔から知っている――でも、今日のは特別甘い。
しばらく無言で歩くと、美咲がぽつり。
「ねぇ綾人。……今日のこと、本当に嬉しかった」
「今日?」
「“俺も嫉妬した”って言ってくれたこと」
「……言わすなよ、恥ずかしいから」
「ふふ。でもね、言われた瞬間、胸がぎゅーってなったの。
なんていうのかな……やっと綾人の隣に立てた気がした」
「……何それ」
「ずっと、追いかけてばっかだったから」
美咲はほんの少しだけ、つないだ手に力を込めた。
「綾人、気づいてなかった?」
「……何をだよ」
「私、ずっと綾人が好きだったってこと」
「……いや。今日初めて知った」
「えぇ〜!?
あんなに小さい頃からずっと一緒にいて、全然気づいてなかったの?」
「気づくわけねぇだろ……そんなの」
言いながらも、綾人の耳は真っ赤だ。
美咲はそれを見逃さない。
「でも……綾人も、少しは意識してくれてたんでしょ?」
「……まぁ、そりゃ、昔から可愛かったし」
「……え? なにそれ、聞こえなかった」
「聞こえてるだろ!」
「聞こえてない、もう一回!」
「うるさい!」
美咲は声を立てて笑う。その笑顔につられ、綾人も少し笑ってしまう。
家まであと少しという分かれ道で、美咲が急に綾人の袖をつまんだ。
「ねぇ……今日はさ、このままうちに来ない?」
「は!? 何言って……」
「違うよ! そういうのじゃなくて!」
美咲の顔が一気に真っ赤になる。
「今日は一緒に宿題しようよ。
なんか……もっと綾人と話したい気分なの」
綾人の心臓がまた跳ねた。
幼なじみの家に行くなんて日常のことのはずなのに、今はまるで違う意味を持つ。
「……いいよ。別に帰っても暇だし」
「ほんと!? じゃあ、はいこれ!」
美咲は嬉しそうに綾人の手を引く。
歩幅を合わせたその手は、最初のぎこちなさがなく、自然に馴染んでいた。
部屋に入ると、ふわっと甘い香りがした。
昔から何度も来ているのに、今日は妙に意識してしまう。
「綾人、そこで待っててね。冷たいの持ってくる」
「お、おう」
美咲はキッチンに走り、すぐに戻ってきた。
「はい、綾人。アイスティー」
「さんきゅ」
綾人がコップを受け取ると、美咲は隣に腰を下ろした。
ソファがふわりと沈み、ふたりの肩が触れそうで触れない距離。
美咲はじっと綾人を見つめてくる。
「……な、なんだよ?」
「綾人ってさ、昔よりかっこよくなったなって思って」
「はぁ!? 何急に」
「本当だよ? 中学の時からずっと思ってたもん」
綾人は思わず横を向いた。
(……やばい。やめろ、そういうの)
しかし美咲は追い打ちのように続ける。
「綾人のかっこいいとこ、いっぱい知ってるよ。
優しいとことか、困ってる人放っとけないとことか……
あとね――」
美咲が、そっと綾人の手の甲に指を触れた。
「ちょっと照れた顔、すごく好き」
綾人は完全に固まった。
「おま、お前……」
「えへへ、綾人ってからかうとすぐ反応するから可愛い」
「からかうな!」
「でも好きだよ?」
美咲の声はまるで囁き。
それだけで綾人の鼓動は速くなる。
(……これが、本当に俺のこと好きな女の子の顔かよ)
幼なじみだったはずなのに、気づけば美咲がやけに遠く、そして魅力的に見える。
美咲は宿題を開きながら、ちらちらと綾人を見てくる。
「綾人、問題わかんないとこ教えて?」
「……どこだよ」
「ここ。……綾人の字、好きだなぁ」
「問題と関係ねぇだろ!」
「あるよ。綾人の字見ると落ち着くの」
「意味わかんねぇ!」
けれど、綾人は美咲のノートに身を寄せ、丁寧に説明し始める。
美咲は説明より綾人の横顔の方をじっと見ている。
「……ちゃんと聞けよ」
「聞いてるもん。綾人の声、好きだよ?」
「お前なぁ……」
言いながらも、綾人の声はどこか優しい。
宿題はほとんど進まなかった。
ふたりが話して笑って照れて、時間がすぎていく。
やがて窓の外は夜に変わり、美咲が小さく伸びをした。
「今日は……もう少し綾人といたい」
「いたいって……俺、そろそろ帰らないと」
「……やだ」
「子どもかよ」
「綾人のこと、好きなんだもん」
その一言に、綾人は言葉を失う。
美咲は綾人の袖をつまみ、そっと引いた。
「ねぇ綾人。
明日も……手、つないで帰っていい?」
「……勝手にすんなよ」
「じゃあ綾人からつないで?」
「……ああ、はいはい」
ため息をつきながらも、綾人の表情は優しい。
美咲はその優しさを知っている。
翌日の放課後。
昨日の甘い空気をそのまま閉じ込めたように、二人は自然と並んで帰り道へと歩き出した。
「……今日さ」
「ん?」
「綾人から手、つないでくれるって言ってたよね?」
「誰がそんなこと――」
「昨日、言った」
美咲はつぶらな瞳でじっと見てくる。
否定しようとした綾人の手は、なぜか勝手に美咲の手を探していた。
「……ほら」
綾人が少し照れながら手を差し出すと、美咲はぱぁっと顔を輝かせて指を絡める。
「うん、これ。これがしたかった」
「お前ほんと……甘えん坊だな」
「綾人限定だもん」
「限定すんな」
「する〜」
二人は笑いながら住宅街を歩いた。
昨日よりも、確実に距離が近い。
綾人の心臓は落ち着かないのに、美咲は幸せそうに微笑んでくる。
家までの途中、小さな公園の前を通りかかる。
「ねぇ綾人、ちょっと寄っていかない?」
美咲が手を引き、二人は人気のないベンチに座った。
腕が触れ合いそうなくらい近い。
「今日の美咲……なんか、昨日より積極的じゃね?」
「うん。だってね……」
美咲は、綾人の肩に軽く頭を寄せた。
「昨日、綾人が嫉妬してくれたの、すっごく嬉しかったから」
「そんなことで?」
「そんなことじゃないの!
ずっと片想いしてた相手にだよ?
“お前が他の男と笑ってるとムカつく”って言われたら……そりゃ、もう……」
美咲は照れ笑いしながら続ける。
「ねぇ綾人。もう少し……わがまま言ってもいい?」
「まだあるのかよ」
「あるよ。いっぱいある」
美咲は綾人の顔をじっと見つめ、少し口を尖らせた。
「綾人、昨日『俺も美咲が誰かと楽しそうにしてるとチクッとする』って言ってたよね?」
「あぁ……言ったけど」
「それって、“綾人も私のこと好き”って意味だよね?」
「……いや、それは……」
綾人が言い淀むと、美咲がぐいっと顔を近づけた。
「ねぇ、曖昧にしないで。ちゃんと言って?」
「おま……近いって!」
「言ってくれたら離れるよ?」
「脅しかよ!」
「うん」
「認めるな!」
美咲は嬉しそうに笑い、綾人の視線を逃さない。
綾人の喉が上下し、やがて小さく息を吐く。
「……好きだよ」
「え?」
「聞こえただろ!
美咲のこと、俺も好き……だよ」
その瞬間、美咲の目にふわっと涙がにじんだ。
「……もう一回言って?」
「お前……」
「一回じゃ足りない」
「……ほんと、わがままだな」
「綾人限定だもん」
綾人は小さく笑って、美咲の頭をくしゃりと撫でた。
「好きだよ、美咲」
美咲は堪えきれず、綾人の肩にぎゅっと抱きつく。
「……ほんとに好き。ずっと、ずっと好きだった」
「わかったから……近いって」
「離れたくないもん」
「……俺もだよ」
綾人が腕を引き寄せるように回すと、美咲は嬉しそうに目を閉じた。
夕日が沈みかける公園に、甘い沈黙だけが流れる。
家が近づくころ、美咲がそっと綾人の袖をつまんだ。
「綾人……これからさ」
「ん?」
「学校でも、手つないでもいい?」
「……人前は恥ずかしいだろ」
「じゃあ……」
美咲は綾人の腕に自分の腕を絡ませた。
「放課後は全部、綾人と帰る。
綾人が帰りたい日まで、ずっと一緒」
「最初からそのつもりだけど?」
「……告白してよかった」
美咲はつないだ手に指を絡め直す。
「ねぇ綾人。
“幼なじみ”じゃなくて……綾人の“特別”になれてる?」
「昨日からずっと特別だよ」
「……綾人、大好き」
「俺も」
照れながら言い合うその声は、
誰にも聞こえないくらいの小さな音で。
でも二人には、しっかり届いていた。
痴話喧嘩から始まった幼なじみの恋は、
気づけば誰よりも甘く、
誰よりも近い恋になっていた。
今日も明日も、その先も。
二人はきっと、手をつないで帰っていく。
書いてて血の涙が溢れました…ドウシテ…




