第5話:虚無の牙、最初の犠牲者
《虚無の覇者》
第5話:虚無の牙、最初の犠牲者
深黒の森に、ひたひたと冷たい風が吹き抜ける。
木々のざわめきの奥、獣とは異なる気配が、ゆらりと揺れていた。
「レイ……あれって、普通の魔物じゃない」
アリスが声をひそめ、肩を震わせる。目の前に現れたのは、身の丈三メートルを超える異形の存在だった。
狼のような獣の身体に、虫の外殻をまとった化け物――『アルマトラ』。
Sランク魔獣として恐れられ、王国の精鋭ですら避けるほどの強敵。
「ちょうどいい」
レイの声は、氷の刃のように冷たかった。
「最初の犠牲者には、申し分ない」
彼は一歩、前へと踏み出す。武器も、杖も持たずに。
「待って、レイ! 本気で戦うつもり? あれは……あれは――っ」
アリスの叫びも、彼の背中には届かない。
アルマトラが咆哮をあげた。大気が震え、地面が揺れる。
だが、レイは一切動じない。ただ、右手をゆっくりと持ち上げる。
「……空へ還れ(そらへかえれ)」
その言葉とともに、彼の掌から黒き闇があふれ出した。
空間がねじれ、地面が裂ける。深淵のごとき闇がアルマトラを包み込み――
その存在は、音もなく、痕跡もなく、この世界から消え失せた。
血も、肉も、叫びさえも、なかった。
まるで、最初から“存在しなかった”かのように。
「……なに、これ……」
アリスの声は震えていた。
恐怖か、畏怖か、それとも――別の感情か。
レイは、ゆっくりと振り返った。
その瞳に宿るものは、怒りでも、喜びでもない。
ただ、虚無。すべてを拒絶する、深くて冷たい空虚だけ。
「この力は、誰かを守るためのものじゃない」
「俺を踏みにじった世界を……跡形もなく消し去るための力だ」
アリスは息を呑んだ。
恐ろしさの中に、なぜか心を奪われていく自分に気づいた。
「――これが、始まりだ」
レイは、そう呟きながら闇の中へと歩き出す。
まるで、周囲の光までも吸い込んでしまうかのように。