The Last Kiss
暦は3月に入ったが、寒気はまだ京都の上空に路上駐車の車よろしく陣取っている。そんな朝に、ワタルは目を覚ました。カスミと別れてから迎える、4回目の朝。ほとんど無意識に冷蔵庫を開けて、グビグビと喉を鳴らしながらパックの牛乳を飲む。
エアコンとテレビの電源を入れて、ワタルは朝食を作り始める。まずフライパンを温め、その間にキャベツとキュウリを洗い千切りにして皿に盛る。充分に熱くなったフライパンに分厚い食パンを置き、表裏それぞれ20~30秒強火でカリッと焼く。食パンの表面には焦げ目があるが中は限りなく生、というのが彼の好みだ。トースター任せではこう上手くはいかない。さらにパンにマーガリンを塗り、野菜にフレンチドレッシングをかけ、コーヒーを淹れた。そしていつもの情報番組を見ながら、約20分かけてゆっくりと食べた。その間、番組のコメンテーターは自分の花粉症対策を熱心にアピールしていた。その後の“今日の占い”のコーナーで、自分の血液型(A型)よりもカスミの血液型(B型)の運勢に関心があることに彼は気づいた。そして自分自身に半ばあきれながら、彼女にまだ未練があり、少なからず後悔していることを認めた。
昨年の7月、大学での授業を終えて帰ろうとしたワタルに、隣に座っていた友人が言った。
「お前今、彼女いないだろ?今晩暇なら、俺たちと合コン行かないか?」
確かに彼にはガールフレンドはいなかったし、幸か不幸か夜の予定も無かったので、ワタルはしぶしぶ参加を了承した。その友人の話によると、女の子のうち1人がアルバイト先の同僚、ということだった。
夜6時頃に3対3の合コンはスタートし、女性陣の中で2番目に自己紹介をしたのがカスミだった。彼女は高知県出身で、大学ではバレーボールサークルに入っている、ということだった。そのすぐ後に、ワタルが自分は滋賀県出身だということや、両隣の2人と一緒に生物学を専攻していることを話した。彼の自己紹介は30秒ほどだったが、少なくとも彼女のワタルへの第一印象は悪くない様だった。
3時間弱の合コンは大学生特有のノリで終始話題が途切れなかった。その間ワタルは会話を楽しみながらも、追加の料理や酒をオーダーした。特に気が利く所をアピールしたかった訳ではなく、自然とその役に回った。そもそも、彼はそういう事が好きだったし、得意としていた。合コン終了後、皆で携帯の番号とアドレスを交換し、その日はお開きとなった。
次の日の午後、ワタルはカスミに「昨日は楽しかった。もし良ければ、2人で会いたい。」という旨のメールを送った。思ったよりも早く2時間後に「今週の日曜日の昼過ぎなら時間が取れる。」と返信が来て、その後、具体的な場所と時間を取りつけた。
日曜日、ワタルは指定した喫茶店に約束の時間の5分前に入ったが、カスミは既に入り口近くの窓際の席で本を読んでいた。ワタルも向かいに座り、カプチーノを注文した。
「こんにちは。何読んでるの?」
「お笑いの人が書いた、都市伝説の本。さっき買ってきたの。・・・・・・ワタルくん今あたしのこと、“変な本読んでる女”って思ったでしょ?」
「んなことないよ。で、都市伝説ってどんな話?」
「スタバの看板のデザインがムンクの叫びを基にしてる、とかそんな話。まぁ、どこまでホントかはわかんないけどね。」
それから2人は、今までの恋愛遍歴やどれくらい恋人がいないかなど、いろいろな事を話した。そのうちにワタルは、自分がカスミに対して好意の様なものを抱いている事に気づいた。それが友人としてなのか、恋人としてなのかの判断は微妙だが、迷った末に決断した。
「好きです・・・もし良ければ、俺と付き合って下さい!」というワタルの告白に対してカスミは、
「・・・いいよ。」とさほど驚かずに答えた。どうやらカスミの中では、このシナリオは想像の範疇だったようである。さらに彼女が付け加えた。
「でも、1つ条件があるの。2、3日に1回は必ず電話すること。わかった?」
「わかった。あと俺からも1つお願いがあるんだけどいい?」
「どんな?」
「何があっても、お互いの携帯は見ないこと。」
「別にいいけど、どうして?」
「やましいことが有っても無くても単純に恥ずかしいんだ。例えるなら、内臓見られてる、みたいな。」
「・・・ごめん。よくわかんない。」
「カスミちゃん、裸見られると恥ずかしいでしょ?でも、それ以上の恥ずかしさってこと。伝わった?」
「あー・・・まぁ、言いたいことは伝わったかな。」
こうしてこの日、ワタルの中のカスミは一般名詞としての“カノジョ”から固有名詞としての“カノジョ”に切り変わった。
1週間後に初めてのデートをした。無難に映画を見に行った。恋愛映画も上映していたが、カスミが「こんなコッテコテの恋愛映画を男女2人で見るのって、いかにもあたしたち付き合ってまーすって感じでイヤ。」と言うので却下となった。ワタルは「本当に付き合ってるんだからそんなこと気にしなくていいのに。」と思ったが、特に恋愛映画が見たいという気分でもなかったので何も言わなかった。結局2人はSF映画を見た。透明人間になることに成功した科学者がだんだんと狂気と破壊衝動に溺れていく、そんな筋だ。上映が終わった後に、2人は映画館近くのマクドナルドで遅めの昼食を食べた。
「さっきの映画、どうだった?」カスミが訪ねた。
「映像もきれいだし面白かったけど、どうして透明になると、他人を傷つけたり襲ったりしたくなるんだろう?」
「やっぱり、すごい発明とか発見をした人って、それだけで自分が強くなったって気になっちゃうんじゃないかな。あと、主人公が透明になって即行で女湯を覗きに行ってたけど、男の人ってやっぱりそうなの?」
「だいたいの男はそうなるかな。」
「ってことは、ワタルくんも覗くんだ?」
「・・・正直。」ワタルは申し訳なさそうに答えた。
「ふーん。じゃあワタルくんもどうせ、さっきの女湯のシーンに出てきたような、おっぱいの大きい人が好きなんでしょ?私みたいな貧乳と違って。」カスミは意地悪そうに尋ねた。確かにカスミの胸は大きいとは言えないが、それを補うようにきれいな形をしていた。
「女湯覗くことと好きなおっぱいの大きさは関係ないよ。俺はむしろ普通かちょっと小さいぐらいの方が好きかも。」ワタルはもう開き直って答えていた。
「要するに、ロリコンなんだ。やだぁ・・・」カスミは先程の3倍くらい意地悪い笑顔で言った。
「・・・逃げ場ナシかよ。」ワタルは半ばあきれながらつぶやいた。
夏の終わりに2人はツーリングに出かけた。ツーリングと言っても、原付でせいぜい1時間くらいの場所にある公園に行っただけだ。先にワタルがスズキ・レッツ4を停め、隣にカスミがホンダ・クレアスクーピーを停めた。2台とも女性に人気の車種なので、離れて見ると、とてもではないがカップルが乗って来たものとは思えない。その公園はかなり広く、子供用の遊具の他にサイクリングコースやランニングコースもあり、テニスコートでは40,50歳くらいの男女4人がダブルスの試合をしていた。
ワタルとカスミはテニスコートの近くにある野球場の前を通りかかった。入り口近くの黒板には、「○○杯野球大会」と書かれている。これを見てワタルが言った。
「今、草野球やってるらしいね。ちょっと見てかない?」
「いいよ。ワタルくん、野球部だったの?」
「いや、そうじゃないけど、よく友達の試合観に行ってたんだ。」
2人は自動販売機でジュースを買い、3塁側の席に座った。球場全体の3~4割ほどの席が埋まっていた。草野球にしては人気がある、ワタルはそう思った。
しかし7階の裏、いかにも強打者、と言う感じの選手が1塁側にホームランを打った。しかもその打球は、ビールを売る女性スタッフが担いでいるビールサーバーにうまく当たり、噴水の様に勢いよくビールが噴き出した。ビールは1メートル以上立ち昇り、周囲の人は祝勝会みたいにビールまみれだ。ワタルとカスミはそこから遠く離れた所に座っていたので被害はなかったが、そちらに目が行った。ビールサーバーが全てのビールを吐き出すまで2人はそれを眺めていた。そして、ワタルはカスミの顔を、カスミはワタルの顔を見つめ、どちらからともなくキスをした。時間にして1、2秒。濃厚とも、淡泊とも言えないキス。少し低くなった太陽が2人を照らしている。
二人は互いに顔を伏せ、黙り込んだ。しかし10秒後、沈黙に耐えかねたワタルが口を開いた。
「・・・出よっか?」
「・・・・・・うん。」
帰り道、2人はほとんど無言のまま原付を走らせ、カスミのアパートの前でさらりと別れた。もちろんキスはしない。
3時間後、ワタルは家で一人の夕食を済ませ、日本酒を飲んでいた。ワタルはいつも酒を飲むわけではない。しかしこの日は、飲まずには眠れない。そういう種類の日だった。そこにカスミから電話が来た。ワタルは電話を取ろうか悩んだが、6回目のベルで取ることに決めた。
「はい、もしもし。」
「あ、ワタルくん。今何してたの?」
「日本酒飲んでた。」ワタルは動揺を気取られないよう注意して答えた。
「あーいいねぇ。あたしもポン酒好きなんだー。」
「へぇ、そう。でも、合コンの時はカシスオレンジとか巨峰サワーだったよね?」
「正直言うと焼酎とか日本酒ガンガン飲みたかったけど、マジで飲んだら男の子たち引いちゃうからさ・・・一応かわいいお酒選んだんだ。」
「あーなるほどね。」
そこで会話は途切れた。しかし8秒後にカスミが言った。
「その、さっきのキスなんだけど・・・」
「あ、うん。」
「あんなにドキドキしたキス初めてだった。」
「俺も。今思うんだけど、もし草野球の試合中に何も起こらなかったら、たぶん今日キスなんてしなかったんじゃないかな。」
「うん、なんて言うかビールの魔力・・みたいなもんかな。とにかく、すごく興奮したキスだったから電話したくなったの。」
「そう。ありがとう。」
「じゃあ、おやすみ・・・大好きだよ。」そのすぐ後に電話が切れた。ワタルはプー、プー、という電話の音を聞きながら、カスミが俺を“好き”と言ったのは初めてかもしれない、そう思った。
秋から冬にかけて、2人は何度もデートを重ねた。いつの間にか(2人にとって時期はさして重要ではない)呼び名は、“ワタルくん”と“カスミちゃん”から“ワタル”と“カスミ”に変わっていた。彼女が別の大学にいるという事は、ワタルにとってありがたい事だった。一緒に合コンに行った2人の友人は面白がって、事あるごとにワタルを問い詰めた。「デートはどこに行ったのか?」、「ABCどこまで行ったのか?(いつの言い方だろうか)」など。ワタルは不快とは言わないまでも、少しうんざりしながら適当に答えていた。もしカスミがこの大学の学生で手を繋ぎ歩いていたら、どれ程イジられるかわかったものではない。
そして月が変わり年が変わり、季節は春になろうとしていた。
2月の終わり、ワタルはカスミに夜の8時、京都駅に呼び出された。
「おはよう。」
「おはよう。」時間通りに2人は会った。朝だろうと夜だろうと、その日初めて会う時の挨拶は“おはよう”だ。特にそう決めた訳ではないが、2人にはそれが癖(というより一種のルール)になっていた。
「友達に聞いたんだけど、ここからちょっと行ったところにおしゃれなバーがあるんだって。ワタル、一緒に行かない?」カスミが言った。
「いいね。近いの?」
「歩いて10分ぐらいだって。」
カスミの言う通り、バーにはすぐに着いた。焦げ茶色の重い扉を開けると、30歳くらいの男性バーテンダーが「いらっしゃいませ。」と穏やかに2人を迎えた。店はカウンターが10席ある位のこじんまりした店で、最近流行りのダイニングバーというより、純粋に酒を楽しむ大人のバーといった風情だ。一番奥に座っていたサラリーマンが、「こんな若い人が来るなんて珍しい。」と言いたそうにこちらを見た。ワタルとカスミは真ん中あたりの席に座った。
「ご注文は何になさいますか?」バーテンダーがお絞りとメニューを出しながら尋ねた。
「えっと・・・・とりあえずビールを。あと、チーズの盛り合わせください。」
「あたしはブラッディメアリーを。」
注文したつまみで酒を飲むうちにサラリーマンが帰り、店の客は2人だけになった。ワタルはハイボールを、カスミはモスコミュールをそれぞれ追加した。そして、2杯目を飲んでいた途中でカスミが切り出した。
「あのさ・・・」
「うん?」
「あたしこないだ、サークルの先輩に付き合ってくれって告白されたの。」
「・・え!?」
「も、もちろんね、今付き合ってる人がいるのでごめんなさいって断ったんだよ。でも、2股でもいいから付き合ってくれ、って先輩が言うの。」
「・・で、カスミはどうしたいの?」
「あたしは、それもありかな?って思ってる。同時に2人の人があたしを愛してくれるってなんかすごいなって思うから。」
「そう。」ワタルがこの言葉を聞いて最初に感じたのは、単純な驚きだった。今までカスミには多少サディスティックな所があるにせよ、決して高飛車なセリフを言ったことはなかったので、これはある意味では新鮮だった。しかしその刹那に彼を襲ったのは、喪失感と絶望感、そしてプライドを砕かれた“痛み”だった。「胸が張り裂けそう」という例えがあるが、まさしくそんな感じだった。もしできるなら、この場で膝をついて泣き叫んでしまいたかった。皮肉にも今わかった事だが、それほどまでに彼はカスミを愛していた。しかし砕かれたプライドの1つ1つのかけらはワタルが泣き叫ぶのを許さなかった。そして何億、何兆にも及ぶ彼の全身の細胞たちがその思いを支えていたので、どうにかワタルは冷静さを取り繕う事が出来た。
バーの中を沈黙が支配した。今度は23秒の沈黙だ。その後にカスミは、
「ちょっとトイレ行ってくるね。」と席を外した。しばらくしてワタルはバーテンダーを呼び、1分ほどやり取りをしてからカウンターに1万円札を置いて店を出た。
カスミが席に戻るとすぐに、バーテンダーが「お連れ様からです。」と1杯のショートカクテルを出した。
「あの、彼はどちらに・・・」彼女は尋ねたが、
「ぬるくならないうちにお召し上がりください。」とバーテンダーは言い、彼女の質問には答えなかった。仕方なくカスミはカクテルを一口飲んだ。シャープで心地よい刺激が舌の上に広がった。
「辛口でおいしいです。」
「ありがとうございます。ちなみにお客様は、そのカクテルの事はご存知ですか?」
「?・・いえ。」
「ホワイトラム45ml・ブランデー10ml・レモンジュース5mlをシェイクしたものです。名前は、“ラストキッス”といいます。」
「・・・・別れのキス?」
「ええ。オーダーを受けた時、お連れ様の瞳が少し濡れていました。たぶん、精一杯カッコつけていたかったんでしょうね。私も男ですから、気持ちわかります。どうか酌んであげて下さい。」
「・・・あたし、何て酷いこと・・・・」それ以上は声にならず、ただ涙が零れ、カウンターを湿らせていた。
一方ワタルはどうにか自分のアパートに帰り、カスミの彼氏としての自分と対話するように、静かに泣いた。窓の外では、涙を洗い流すように雨が降り始めていた。
この日のワタルとカスミは、互いに攻める者であり、また受ける者だった。
それから5日間、ワタルは全く外出せずに家に籠っていた。昼頃に目を覚まし、ほとんど何も食べなくてもさして空腹を感じなかった。シャワーを浴びるのも億劫で、テレビを観る気にもならず、夜遅くなると寝た。生きるためのエネルギーが欠如しており、体全体が減力運転をしているような5日間だった。
次の日の朝9時、ワタルは酷い空腹感で目が覚めた。それは、彼が経験した事のない暴力的で無慈悲な空腹であり、直ちに栄養を補給しろ、という身体からのメッセージだった。ワタルは冷蔵庫を開けたが、中には人参とマーガリンとドレッシング、そして牛乳しか入っていなかった。とてもこの空腹に対抗できる類の物ではないので、彼は外で食べる他なかった。彼はすぐにシャワーを浴び、髭を剃った。鏡で自分の顔を見ると、頬がこけ、目が窪み、毛穴という毛穴から疲労がにじみ出ていた。ワタルは、現代の日本でも飢え死にの可能性がある事を不思議に思いながら服を着た。それから家を出て、近所の24時間営業の定食屋で朝定食をご飯大盛りで注文した。胃袋が受け付けるか心配したが、ご飯・納豆・味噌汁・サラダ・焼き魚・漬物を10分程度で平らげた。一応の気力が戻ったところで、ワタルは街をあてもなく歩いた。
2時間後、ワタルはあるピンクサロンの前に来ていた。街をぶらぶらするうちに電車に乗り、自然とこの場所まで足を運んでいた。この店の事は、以前友人から聞かされていた。当時ワタルはそれを聞き流していたが、何故か店の名前も大まかな場所も、彼の脳内に記憶されていた。ワタルは、ピンクサロンや風俗店が道徳的に許せない、という訳ではなかった。性的快感を得たい男と性的サービスをする事で稼ぎたい女がいる、それだけの話だ。ただ、ワタルが行きたいと思った事は1度も無かった。そして重要なのは、別に今だって彼は来たくて来た訳ではない、という事だった。彼の中でこれからこの店に入るのは、一種の儀式・運命・義務に近いものだった。ワタル自身の自由意思は大したウェイトを占めていない。
店に入ると、入り口の横にすぐカウンターがあり、40歳くらいの男性店員が言った。
「いらっしゃい、30分3990円だよ。」
ワタルは無言で頷き、金を支払った。さらに店員が、
「あと2000円で好きな娘指名できるけど、どうする?」と言ったが、
「いえ、結構です。」と答えた。今の場合、相手の女の子の顔やスタイル、性格は重要ではない。彼は爪の長さをチェックされアルコール消毒をし、口に臭い消しのスプレーをした後、奥に通された。
マットの上で待っていると2分後に女の子が来た。友人の前情報によると、指名しないとブスしか来ないらしいが、(今回は)そんなことはなかった。サービスを受けながら、ワタルは、もしもカスミとの交際を続けていたら、近い将来こういう事もあったのだろうか、と想像した。カスミが気づいていたかはわからないが、ワタルまだ童貞だった。カスミの事はもちろん愛していた。しかし、彼女を性の対象とするのは間違っている、そんな気がしていたのだ。童貞を捨てる為だけにカスミと付き合っている、それは彼女にとってあまりに無礼であるし、何より救いが無い、ワタルはそう思っていた。そして、今もそう思っている。そういう行為は交際する目的ではなく、交際する過程としてのみ存在すべきである、それがワタルの中での真理になっていた。
相手の女の子は、適切に、そして職業的にワタルを射精に導いた。それからそそくさと服を着て、「少し待っててね。」と言い残し、店のさらに奥へ消えた。4分後に戻って来てワタルに、
「今日はありがとう、気持ち良かった?それでね、次来た時にこのカード出したら、1500円割引になるからね。」と言いながらカードを渡し、キスをした。ワタルは適当に相槌を打ち、店を後にした。そして駅に向かって歩き、途中で通りかかったコンビニのゴミ箱に先ほど貰ったカードを捨て、電車に乗りアパートに帰った。
家に着いてからワタルは本を読んでいたが、どうしても本の内容に集中する事ができなかった。本のページが映画館のスクリーンに見え、そこに昼間の出来事が音もなく浮かんだ。俺は相手の女の子にカスミの影を見たのだろうか?だが昼間の事を鮮明に思い出そうとしても、ピンクサロンで過ごした40~50分間は白昼夢のようにふわふわと虚空に消えていった。ピンクサロンに行った事が正しいかはわからない。しかし、そうしなくてはならなかった事だけはわかった。
午後6時半過ぎに携帯が鳴った。画面には“西村香澄”の文字。左手を伸ばせば電話を取る事ができたが、取る気にはなれなかった。ワタルはぼんやりと携帯を見つめながら呼び出し音の回数を数えていたが、9回目まで数えてやめた。いつまでもそんなものを数えている訳にいかない。