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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

春を呼ぶ

作者: 堀田三地

新人賞一次落ちの、作者に似て出来の悪い、しかし可愛い子です。


読んでくださる方に心から感謝します。


良き本との出会いがありますように!

    


                   1


巨大な銃口が、少女の後頭部を狙っていた。


標的が、快活な鹿のように跳ねるにしたがって、銃口もそれを追いかけて、木洩れ陽を背に浴びる少女の、痩せて幼い首筋を狙っている。

その無骨な手には、歪な疑問符の形をした鋼の塊が握られて、汗をかいている。

引き金を引けば、少女の胸から、死の鳥が羽ばたく。


凍るような白い吐息の向こう、銃身の動きには迷いも躊躇(ためらい)もない。

いつでも即座に獲物を仕留める用意はできている。


少女が振り向く。顔が緊張に強張っている。銃口に顔を向けたまま、息を呑んでいる。

その口から漏れるのは、命乞いか。懇願か。呪詛か。

「ちょ、待って。」

少女が息を喘がせる。引き金に指をかける。

少女は、ちからの限りに叫んだ。


「うんち踏んだ!」


次の瞬間、むせかえるように、少女は明るく笑い出した。

「なんか動物のうんち踏んじゃった。見て、これ。」

スニーカーの靴裏を、銃口に向けて見せつけてくる。

まるで未曾有の宝物でも発見したかのように昂奮している。

靴裏は遠くてよく見えない。銃口は動かない。

少女は、杖を片手に、朽ちた倒木の幹に靴裏を擦りつけながら、

「なんだろう、泥じゃない、腐葉土じゃない、この変な感じ。絶対うんちに間違いないぞ。」


喉の奥から溢れ出す笑い声に咽ぶたび、苦しそうに腿を叩いて耐えている。

「最悪だあ。靴、買って貰ったばっかりなのに。」

ひいひいと、悲鳴のように声を挙げて、笑う。狂騒でもない、自棄でもない。

ただ、ただ純粋に可笑しいのだ。


拳銃が微かに揺れる。

その上に、青年の顔がある。

美しい顔立ちだが、心労にやつれ、髪はもう半分白くなっている。

「ブツはどこだ。」銃を構えた青年は厳しく言う。

「多分、絶対ここらへんです。警部。」

少女が、戯けた仕草で、両手で曖昧に足元を指す。


青年は歩み寄り、少女の真向かいから、その明るい額に銃口を突きつける。少女は微動だにしない。相変わらず、笑みを含んだ顔で、地面を指して、青年の次の挙動をわくわくして待っている。


青年は屈む。糞の匂いを手でかぐ。

「ふむ。このフローラルな芳醇な薫り…さては、タヌキさんからの、置き手紙かな。キツネさんからかな。クマさんからかな。」

それを聞くと、少女は噴き出しかけて、両手で口を覆って我慢していたが、耐えきれずに、また声を挙げて笑い出した。

しかし、よく見ると、その瞳は、罅目の入った水晶のように光を失って、曇っている。

「よし。俺も踏んでみようかな。えいっ。」

銃を手にしたまま、その青年は、ブーツで真っ直ぐに糞を踏んだ。

カーッ、と森の鴉のような声を挙げて、少女が顔をおおって爆笑した。飛び跳ねながら、

「なんで今踏んだの。なんで今踏んだの。」と熱狂的に繰り返した。


驚いた小鳥が枝から飛び立つ微かな羽ばたきが、早朝の森に響き渡った。

青年は止まらない。更に、糞を手で掴み上げ、「まだ、金色で、暖かい。ほかほかだよ。」と言う。

少女は、もう最悪、最悪、と言って笑い転げながら、鼻をつまんで、青年から距離を取る。

その屈託ない姿に向けて、青年は再び銃をむける。鋼の銃身に森の枝々が映っている。

少女が笑い止むまで、青年は真顔で銃を構え続けた。

少女は、笑いの波が半分引いた後の、きらめく珊瑚や貝殻をちりばめた、波打ち際のように輝く明るい顔を、まっすぐに、穏やかに青年に向けている。

青年の殺意がゆっくり凪いでいく。青年は銃を下ろした。


この盲目の少女の頭を撃ち抜く。それが青年の仕事だった。

それだけで、巨額の報酬が約束されていた。

それだけで、青年の背に縋る、多くの生命を救うことができる。

一つの悪行を、千の善行が償ってくれる。

引き金を引く。ただそれだけのことが、どうしても出来なかった。

処刑執行の機を伺いながら、少女と行動を共にするようになって、既に一週間が過ぎようとしていた。


二人は明るい照葉樹林の二股道を右手に曲がって、ゆっくりと、ゆっくりと、歩き続けた。どんな些細な石ころや枯れ枝にも足を取られないように、青年は、少女の先に走っていって、障害物をどけてから、また、少女の後ろに回り込むのだった。

そんな挙動を、少女は可笑しそうに全身で聴いて、信頼し切っている。


「はー。森の匂い。とてもいい匂い。」

少女は伸びをした。

「うんち踏んだ奴が言うことか。」青年が言う。

「うんち踏んだ靴で、踏んでやるぞ。」少女が笑って言い返す。


「ところで、先生。森は、今朝、どんな色。」

少女が枝の天蓋を仰ぎながら問いかける。

緑色、と言いかけて、青年は口をとざす。樹々はうら枯れている。

どこを見渡しても、物悲しい冬の森だ。炭と灰。涙のダイヤモンド。


永遠に逝ってしまった春をいたんで、樹々が喪に服しているようだ。


確かに、地球から、春は失われてしまった。


青年は幼い頃、まだ春が存在した頃、この森を遊び場にして暮らしていた。


記憶の中の森は、いつも春の粧いに包まれ、樹々はその種類によって、葉色も幹の色も無限に異なっていた。

青灰色、鋼色、鳶色、抹茶色、黄金色、とりどりの色を見せていた。


もう二度と、少女がこの場所を訪れることはない。

どうやって、彼女にこの森の、本当の豊かさを伝えればいいのだろう。

自分が見た森の美しさを、どうやって伝えればいいだろう。



「たくさんだ。ありとあらゆる色の緑に輝いている。」

「へええ。」と少女がため息をつく。

「綺麗なんだろうなあ。私には、明るいってことしか、わからないや。

目の前を通り過ぎていく色や形を、私に教えてよ。」

「橙色。クリーム色。黄緑色、青緑色、希望の緑色。」

青年は思い出せる片端から、考えずに口に出していく。

記憶の森と、現実の森とが二重写しになる。

「希望の緑色。それ、なんか、すごくいいねえ。ふんふん。それからそれから。」

「夏祭りのサイダー壜の色に似た濃い緑色。

理科準備室の棚に並んだクロム、コバルトの緑。

傷だらけの、朝の光を冷たく反射している黒板の緑。

錆び切った十円硬貨の緑色。

鳩の喉の緑色。」

少女はくつくつと笑い出す。いいねえ。いいねえ。

目の前を過ぎていくのは、上空から散布された酸性の薬品で焼け爛れた、哀れな死の風景ばかり。ここにあるのは、人の手が汚した、純粋無垢な自然の亡骸だ。苔の屍衣に包まれた、骸骨のような樹々が、憐れみを乞うかのように、太陽に向かって手を差し伸べている姿だけだ。

だが、青年は、瞼の裏のスクリーンに映る、美しい春の森を実況し続けた。

空は深々と青い。木の葉はそよがず、黄金色の光と藍色の影の縞模様が、浅瀬の水底のように明るく交錯している。

「あなたの目に映る、森の美しさを私に教えて。」と少女が胸を躍らせて言う。

青年は答えるために目を瞑る。

「春になると、すみれの一面に咲き乱れた空地がすごくきれいだ。色とりどりの花で編んだ絨毯が樹々の間に見える。

初夏には、勿忘草、カモミール、ジャスミン、柘榴の花や、矢車菊も咲いている。

ビースをちりばめたように、朝つゆに輝く新緑の美しさといったら、この世の景色じゃないみたいだ。森の向こう側に出ると、桜並木が河の両岸にどこまでも続いていて、水鏡に、桜色の花辨が浮かんで、ゆっくり流れていく。」

「うん。うん。」少女の顔は喜びに輝く。

「綺麗。本当に綺麗だね。いつか、本当に見てみたいなあ。」

古骸骨のように立ち枯れた樹を撫でながら、少女は夢見るように言った。

「この木にも、いつか、花が咲くのかな。」

青年は目を開いて、また銃を構える。

樹の幹に頬を預けている少女の頭を狙い澄ます。

銃口の黒枠に、少女の小さな頭が遺影のように納まる。

「冷たっ。くさっ。」少女は樹を突き放し、ほがらかに笑う。


薬品漬けにされた大地に、春はもう二度とやって来ない。

大地は、花咲くことを忘れてしまった。

さっき少女が森の動物の糞だと思った物が、実は、天から降ってきた産業廃棄物の残滓だとは、青年は言わない。言うことができない。

彼女はこの森で死ぬ運命なのだから。せめて最期に美しい夢を抱いたまま逝けるようにと願った。

38口径5連発リボルバーを構える。たグリップの象牙には、トール神の槌と、オーディンの槍と、ウルの弓が彫り刻んであり、「我天使を討つ。」という文句がラテン語で掘り込まれている。

かつて戦場で戦って果てた兵士の手に、この拳銃は握られていたという。その頭蓋は柘榴のように割れて、白い骨が植物の根のように剥き出しになっていた。兵士は何を想ってこの銘を刻んだのだろう。神の加護を祈ったのか、それとも、黒い笑いか。

青年は、この銃を手に入れてから、毎日、自分の頭を撃ち抜く想像ばかりして来た。

だが、いつまで経っても、彼は引き金を引くことができなかった。

そして、今、その銃口は、盲目の少女の方を向いている。


青年は、手の中で魚のように踊り出した銃を、荒い息を吐きながら、発作的に、自分の顳顬に銃口を押し付ける。

少女は、そんなことは露知らずに地面に屈んでいる。しばらくすると立ち上がって、あたりを見回し、

「冬至。」と呼んだ。それが青年の名前だった。

「ここだ。」冬至は答えた。銃を自分の頭に押し付けたまま。

少女は両手の拳を握って、指をぴんと立てて、二丁拳銃の形にして構えていた。

冬至は驚いて身動きひとつ取れない。少女はゆっくり近づいて来る。

「バーン。」少女はくちびるを勢い良く鳴らして、同時に両手を開いた。

手のひらに、笠の帽子を被ったドングリの実が盛られていた。

少女はニコニコ笑っている。

「手を出して。」言われるがまま、冬至が空いている方の手を出す。

手探りで触れて、木の置き土産をその手にこぼす。

「耳を澄ませてみて。その中で、春が眠ってるよ。」少女が言った。

冬至の手の中で、死んだ木の実は薬莢のように冷たく光っていた。

      2

刺客と標的は、並んで歩き続けて、森を抜けた。

断崖に出た。

有毒の空の向こうに、薔薇色の積雲が輝いていた。

その雲の峰には、高層建築物が密集していた。

空を飛ぶ都市。

残照を浴びて、黒大理石のビル群が、熾火の薪のように燃え崩れる太陽の光を、一斉に反射する。

雲間から音もなく、斜めに射す光線の中を、黒い雨がゆっくりと振り落ちてくる。あれは雲の上から排出された塵芥だ。生活排水や産業廃棄物の類が処理されて、輝く天上のマナとなって地上に降り注ぐのだ。

まるで堕ちた天使のように、長い影を曳いて、塵芥が落ちて来る。


格差経済と科学技術は臨界点を超え、遂に人類は神話のように雲の上に住まうことができるようになった。

人工浮揚島。そこでは超富裕層と、社会に貢献する、選ばれた優秀な遺伝子の保持者だけが常春の生を謳歌している。この地球の限りある富の大部分が雲の上に運ばれて消費され、食卓からこぼれ落ちたパン屑を、地上では、犬のように掴み合いの喧嘩をして奪い合う。

大地は電子的な薬品漬けにされて、機械のパイプが『荊棘あまねく生え薊その地面を掩いその石垣崩れいたり』という詩篇の言葉通りに、半ば廃墟と化した町々に蔓延っている。

大地に眠る春の力の一切は、天上へと吸い上げられていた。


春の恩恵は、雲の上の都市に奪われ続けている。

太陽の光が遮られるこの下層の貧民窟には、まともな仕事もなければ、太陽の恵みを宿した農作物も育たない。


冬至は、ある日、貧民窟で、路上に倒れたまま動けないでいる老人の最期を看取ったことがある。

老人は、微笑みながら、震える唇で、こう口にした。

「なんという地獄のような日々だろうか。『大地の実りは熟することもなく立ち枯れ、草を食む家畜は牧場に倒れ、女の胎の子は流れて、国は滅びの道をゆく。』子らよ、この地上に生きることに、どんな希望があるというのだ。」

ソフォクレスの「オイディプス王」の一節。それが老人の最期の言葉だった。

老人が、悲劇そのものの世を嘆きながら、野垂れ死する世界。

それが、青年と少女が生きている世界だ。

文字通り、地上は、春を売って生きている。明けることのない冬に閉ざされたままだ。

あの雲が空を占拠する限り、いつまでも。

冬至は、地上の掃き溜めに生まれ、野良犬のように、社会のどん底を這いまわって生きてきた。

黒い布をかけて覆ってしまいたくなるような地獄絵を、いくつもこの眼で見て来た。

地上での生を呪えば呪うほど、天上の壮麗な都市は輝きを増して見えるようだった。

            3

冬至が、その「仕事」を請け負ったのは、「死蔭の谷」と呼ばれる暗黒街に出入りするようになって、五年の歳月が過ぎた頃だった。

既に、いくつもの後ろ暗い仕事に手を染めて来た。選択肢はなかった。施設にいる幼い子ども達のために、生活費を稼がなければならなかった。

孤児院で育った冬至は、稼ぎ頭と言えば聞こえはいいが、実際は、乏しい公費によって賄われる孤児院の運営には、絶対的に不足な金額を、私的に稼ぐために法の外側へと踏み出して戦う尖兵だった。

「日照税」「大気汚染浄化税」など、摩訶不思議な百項目以上の、多岐に亘る税金を天上へ納めるために、地上の労働者の稼ぎの大部分は消えていく。育ち下がりの子どもたちが、痩せこけた頬をしているのを見ることほど辛いことはなかった。

冬至は、「にいちゃん、にいちゃん。」と自分を慕う子どもたちのために、どんな血の泥濘にでも躊躇わずに手を突っ込んで来た。

その度胸と胆力を買われて、裏社会でさまざまな汚れ仕事を請負ってきた。

その度に、そのうら若い頬には皺が、肉体には癒えることのない傷跡が増え、輝くような濃い色の髪に、死の白色が混じるようになった。年老いてはその知恵の栄冠ともなる白髪は、若者にあっては、痛ましさしか感じさせなかった。


かつて、冬至には無二の親友がいた。

彼は、妹の学費のために、俗に言う当たり屋家業を営んでいた。

貧しさの連鎖から、せめて妹だけでも逃がしてやりたいという思いから、危険な当たり屋を繰り返し、保険金と治療費をせしめて、自分のためには一銭も使わずに、全てを妹のために貯めていた。妹には、自動車工場で働いていると偽っていた。

だが、ある日、運悪く本当に轢き殺されてしまった。車は一度も止まらずにそのまま走り去った。

貧民窟には満足な医療機関もなく、正規の病院での治療は余りにも高額だった。

二人の後ろにいつもくっつていた、おさげ髪のおとなしい妹は、ずたずたに引き裂かれた兄を目にし、兄がひた隠しにしていた献身を知ると、豹変した。

天上都市の最先端の医療施設なら治療できるかもしれない。そう思った彼女は、観光用の小型飛行機をハイジャックした。兄の部屋に飾られていた安物のモデルガンを振り回してパイロットを脅し、お願いだから、兄を早く病院に連れて行ってと、泣きながら懇願したのだった。

だが、天上都市の民間警備隊によって、彼女は弾雨を浴びて蜂の巣のように穴だらけになって死んだ。明らかな過剰殺戮だった。

冬至は、共に育った友人ふたりの亡骸を抱いて泣いた。


親友が妹のために貯めた金は、罰金として、全額が天上都市に徴収された。

冬至の最後の涙が地面に落ちると同時に、夢も希望も、憧れも一緒に捨て去った。

復讐の念だけが、冬至の胸の中にたぎり、煮えくりかえる真っ赤な溶鉱のように燃え続けていた。

その眼は、まっすぐに、天上に浮かぶ、贋物の積雲の、明るい輪郭線を睨み据えていた。

「俺とお前の一騎討ちだ。」

その燃える眼は、「人間喜劇」に登場するウージェーヌのように宣言していた。

妹の手に握られていたモデルガンを、輝く太陽を背にした天上の雲に向かって構える。

「これが宣戦布告だ。」冬至は叫んだ。

雲を撃ち落とす轟音が、冬至の想像の中で響き渡る。

銃は雷火を噴いて、天上の無慈悲な天使達を次々に撃ち墜としていく。

いつの日か、このおもちゃの銃が、あの雲の島を地上に墜とすだろう。


そんな酸性の怒りに心を蝕まれながら、孤児院の運営にも頭を悩ませていたある日。

冬至は、知人から一人の男を紹介された。

その男は、いつも、一番深い暗闇から現れて、一番昏い暗闇の中に溶けるように消えて行った。

その身に纏う、一部の隙も無い高級な仕立てのスーツは、あまりにも色が黒過ぎて、見ていると眼がしんと痛むようだった。

まるで空間の奥行きを感じられない、宇宙の闇のようなその漆黒は、どんなに微細な光をも反射せずに呑み込んでしまう。

男の瞳の色も同じ色をしている。そこにぽっかりと穴が空いたような。

だから、その男の姿は、画家が途中で投げ出して、黒い絵の具で掻き消した、未完成の肖像画を思わせた。

「破格の報酬です。」と、その男は口を切った。

「一年以内の致死率99.9%と言われる汚染区域浄化槽で、薬液に胸まで漬かって働く労働者の、実に百年分もの賃金を、一挙に稼ぐことができます。」

「なぜそんな割りのいい仕事を、俺なんかに?」

「つまらない卑下はおよしなさい。これは生命の値、血の値。

私が、あなたを特別に選んだのです。覚えはありませんか。

『大地の実りは熟することもなく立ち枯れ、草を食む家畜は牧場に倒れ、女の胎の子は流れて、国は滅びの道をゆく━。』」

悪魔は、不意に、両手を広げて、朗々と俳優のように謳った。

「『オイディプス王』。至高のギリシア悲劇です。あなたは、私の最期のモノローグを聴いて下さったじゃありませんか。

かつて、私は道端で行き倒れる老人でした。あなたは親切にも立ち止まって、私の最期を看取ってくれましたね。私は感激しました。あの老人の肉体を脱ぎ捨てて、すぐにこの新しい身体に入って、こうしてあなたに、会いに来るくらいに。」

冬至は、驚いて飛び退った。

「なぜそのことを。あんた、蔭で見ていたのか。」

男が顔を覗き込んで来た。その瞳には、冬至の顔は映っていない。

何も映っていない。虚無そのものが眼の奥に広がっている。

男は続けた。

「ユダは、かつてその魂を売って、銀貨三十枚で血の畑を買いました。

これもまた、悪魔からの特別なオファーを引き受けてした仕事です。

残念ながら、親愛なるユダは、首を吊る羽目になってしまいましたが。

あなたは、鎌を手にして、その畑から収穫するだけです。

実に割りのいい楽な仕事ではありませんか。

稼いだ金で、孤児院にいる、血の繋がりは無いけれど、大勢の妹や弟達に、たくさん食べさせてやることができるでしょう。それに、学校にだって行かせてやることができますよ。優秀な子どもは、天上都市への被昇天を許されるかもしれません。そこで栄養栄華を欲しいままにして、一生涯を安楽に過ごせるでしょうね。そうでなくとも、この地上での奴隷暮らしとは金輪際さよならできるはずです。

ああ。かつて、楽園を追われるアダムとイブに、神はこう仰せられました。

『大地は薊と荊棘とを汝のために生ずべし。また汝は野の草を食らうべし。』

あなたの仕事は、一言で言えば、鬼退治ですよ。有毒な害虫を、ひとひねり。

この世界で、一番古くて新しい仕事です。つまり、殺しですよ。カインがその創始者である、胸を張って世界に誇れる仕事です。」

男は戯れるような口調で、バターのように滑らかな口調で語り続けた。

「あなたは、その標的を始末さえすれば、天上楽園への自由往来の切符を手に入れることができるのです。そこで、禁断の木の瑞枝から、生命の実を、思うさま頬張ればよろしい。

神と等しくおなりなさい。」

気を呑まれて、冬至は身動きすることができなかった。

「その標的は、そんなに強いのか。」

「ノー。或いは、イエス。かの敵は、藁しべよりも弱く、しかも、城壁よりも堅固です。あなたという弓にしか、射ることができない遠い的なのですよ。」

男は紙袋を冬至の胸に押し付けた。

「これで殺しなさい。」

「待ってくれ。まだ何も詳しいことを聞いていない。」

男は指を鳴らした。

「前金はもう、あなたのいる孤児院のクレジットに入金しておきましたよ。莫大な負債は前金だけで弁済することできるでしょう。しかし、どうして、こんな天文学的な負債になったのでしょうか。身寄りのない子どもを引き受けるだけで、無尽蔵に借金が膨らみ続けるというのですから、おかしな話。まるで、果実を実らせるたびに、新緑の芽が萌すたびに、反対に、痩せて貧しくなる木のようではありませんか。

残り三分の二の報酬は、仕事をし遂げて頂いた暁に。約束ですよ。」

男は建物の陰の闇に呑まれて消えた。冬至は男を追いかけた。

建物の陰は行き止まりで、蟻だけが通れるような数センチの隙間しかなかった。

紙袋の中で、例の拳銃━━38口径5連発リボルバーが冷たく光っていた。

             


               4

その奇妙な邂逅から数日後。

冬至は、男から指定された場所に待機していた。

竹林の奥にある、朽ちた廃寺の裏の無縁仏が眠る墓地だ。

廃寺は、小高い斜面の頂上にあった。

いつも同じ時間に、標的がここにやって来るのだという。

人気のないこの場所を隠れ家に潜んでいるのだろうか。

冬至は、拳銃を握りしめ、どんな獰悪な強敵が来るか、心臓が張り裂けそうなほどに緊張していた。

そして遂に。足音が聞こえる。藪陰から、覗き見る。

少女が杖をついてやって来た。

冬至は混乱した。一般人が紛れ込んで来たのだと思った。

少女は、手探りで、一つ一つの傾いた墓に手を合わせて、一番最後の墓に来ると、お供物らしい、林檎や清酒の壜を取り出した。

栓を抜くと、霊が溺れるほど、清酒をざばざばと墓石に呑ませた。

それから、林檎の皮を器用にナイフで剥いて、切り分けると、小皿に備えて、墓前に供えて合掌した。

「いただきます。」

そっちかい、と冬至は、藪の影から勢い良く手を突き出して叫びたいのを我慢した。

少女は、無頓着に、墓前に座り込んだまま、さっさと林檎を口のなかに片付け始めている。

「ああ美味しい。おじいちゃんも美味しいね。」

独り言を言っては、ニコニコしている。


この盲目の少女を「始末」すること。それが、冬至に課せられた「使命」らしい。

冬至は動転した。何かの手違いで、間違った場所に来てしまったのだと思った。

帰ろうか、帰るまいか、足が退いては前に出ようとした。右足と左足が喧嘩をして、両成敗で倒れた。藪の中に盛大に倒れ込む。

「誰っ。」と少女は鋭く声を上げた。

「誰かそこにいるの。」

少女の顔は、恐怖に強張っている。冬至のいる方へ、ゆっくり近づいていくる。

「ミャーオウ。」咄嗟に、冬至は喉から声が出ていた。しまったと思った時には、もう遅かった。孤児院で子ども達と遊ぶときの癖が出てしまった。

「猫さんだ。」はっと、少女が笑顔になる。

「ワウ。ワウ。」やけくそで、冬至は声をあげる。

「犬さんもいる。」驚いた少女が言う。

「メヘエエ。」

「山羊さんもいるよ。ここは、いつから動物の楽園になったの。」

「コケコッコー。」

「わあ。鶏さんもいる。今夜の晩ごはんのメインディッシュに決まりだ。」

ギラリとナイフを持ち替えて、赤く光る目をして少女が立ち上がる。

「おい。待て。ヒトだ。早まるな。」

冬至は、藪の中から飛び出した。

少女は凍りついたように動かない。

次の瞬間。少女は、プッと吹き出して、口を覆って笑い出した。

冬至は、指が白くなるほど銃を握りしめたまま、訊ねた。

「俺が怖くないのか。ちょっと、警戒心がなさ過ぎるんじゃないか。」

「それはお生憎さま。初登場が、動物のモノマネの人を、どうやって怖がればいいの。」

「君は、眼が見えないのか。」冬至は訊いた。

「ええ。明るいか、暗いかくらいなら、わかるのだけれど。今は、夜の十一時だね。」

「朝の十一時だよ。笑っていいのか、わからないや。そういう冗談は、やめてくれよ。」

少女は、また朗らかに笑った。

「ここに、なんの用があって来たの。」

少女は無邪気に問いかける。

「あ、わかった。あなたもお墓参りでしょう。私もそうなの。」

「聞くつもりはなかったんだが。祖父の墓参りなのか。」

「ええ。私を育ててくれたの。両親はずっと前に亡くなっていないのだけれど。

唯一の身寄りだったけど、去年、亡くなっちゃった。」

「そうか。」

他に何も言えなかった。モゴモゴと口ごもり、気まずさに耐えきれなくなり、

「この度は。御愁傷様でした。」と冬至は頭を下げた。

少女は、また吹き出して笑った。

「面白い人だね。変わってるって、よく言われるでしょう。」

「そっちこそ。」

まさに、変人奇人のキテ列伝の巻頭を飾るにふさわしい少女だと青年は思った。

暗殺の依頼は、間違いだろうと確信した。

早く帰って、あの男ともう一度連絡を取り直そうと思った。

「林檎、食べる?」

小皿を差し出してくる。皮しか載っていない。

「いらんわ。中身がねえじゃねえか。」と冬至は言う。

あっはっは、と少女は泣かんばかりに笑った。

冬至は、馬鹿にされているようで不快だった。

「じゃあ、この辺で俺は。」と手を挙げて去りかけた。


すると、どこかから、エンジン音と土を削るような音が聞こえてきた。

次の瞬間。竹藪を突き破って、巨大なトラックが突進して来た。

「うわーっ。」という言葉を、冬至は生まれて初めて口にした。

危険に際して、本当にそういう生の言葉が口から飛び出るのだと学んだ。

トラックの運転席から、荷台から、怪しい風態の男たちが、くんずほぐれつしながら飛び出してきた。毛玉のように互いの手足が絡まって、転びまろびつ、その眼は、少女を捉えて離さない。

「あの娘だ。捕らえろ!」一人が号令をかける。

飛んできた土塊のかけらを食らって倒れた少女に駆け寄り、抱き起こして、その場を離れる。

驚くほど軽かった。抱きかかえた肩が軋むほどに華奢な体つきだった。

「何が起きたの。」少女は、腕の中で問いかける。

「わからん。あいつら、知り合いか?」

少女は勢いよく首を横に振った。

飛び跳ねるようにして、藪を突っ切り、石段を飛び越える。

少女はその度に歓声を挙げる。

「ひゃー。爽快。」それから、少し心配そうに、

「重くない?」

「重くない!」

「ダイエットしといて、良かったなあ。」と呑気に笑った。

冬至は、そのまま斜面を駆け降りると、街の裏路地に紛れた。

野良猫たちに挨拶しながら、狭い小道や塀の上を走り抜け、頭に蜘蛛の巣を乗せて、市内に幾つもあるセーフハウスのひとつに滑り込んだ。

海岸にあるボート屋の倉庫だった。

「食事をしよう。ここでおとなしく待っていてくれ。」

鍵をかけて、量販店に行き、弁当やお菓子や、化粧品や、下着やらをたくさん買い込んで帰った。

少女は、膝に手を置いて、ニコニコしながら待っていた。

なぜか、冬至はその姿を見た瞬間、激しい胸の痛みを覚えた。

「退屈だったろう。テレビもないし。ネットは繋がるんだけど。」

「大丈夫だよ。さっきのチェイスのことを思い返してた。すごいワクワクしたよね。」

拳を握って、鼻息を荒くして、眼をキラキラさせている。

疲労困憊の冬至は、レンジで弁当を温めて、少女の前に置いて、こう言った。

「はやく飯食って寝ろ!」

そのまま、冬至は気絶するようにソファにひっくり帰って眠った。

          5

冬至は、夢を見た。

十年前の聖夜。

遊園地で、ひとりの少年が母を失った。

ひと際高く聳え立つ、ケルト・ルネサンス様式を模した古城。

その宮殿の水晶の広間へ続く階段の前には、恋人たちが大勢むらがっていた。

花火が上がった。爆音と一緒に歓声が上がる。

光に照らされた母は、童話の姫のように美しかった。

「ここで待っていてね。」

そう母は言って、どこかへ消えた。土産物でも買いに行くような気安さで。

少年は、回転木馬の台の前にいた。

宝石を鏤めた黄金の鞍を置いた白馬が、ニッと歯を剥き出しにして笑いながら、上下に動いていた。

くるみ割り人形の「花のワルツ」の旋律と共に、どうどう廻りを続けている。

その前に置かれたベンチに腰掛けたまま、少年は、いつまで経っても帰って来ない母を待ち続けた。

人波の雑踏のなかで、漂流船の帆柱のように背筋をピンと伸ばしたまま、にこにこと笑顔を浮かべて、待ち続けた。

人影がいなくなり、閉園を告げる物悲しい音楽が流れる頃、閉園のために見回りをしていたスタッフが、その少年を見つけた。屈み込んで、声をかけた。

「坊や。お父さんとお母さんはどこにいるの。」

「父さんには会ったことないの。母さんが、ここで待っていなさいって。だから僕、ここでずっと待ってるの。母さん、ひとりぼっちにしたら可哀想だもの。母さんには、僕以外誰もいないんだから。」

小さな両手を擦り合わせて、白い息を吐いた。

閉園後まで、みじろぎもせずに、にこにこと待ち続けている少年を、遊園地のスタッフたちが、手に手に、レストランの余り物のチュロスやキャラメルポップコーンで、痩せた猫に餌付けするように、食べさせてくれた。どの手も優しく、頭を撫でてくれた。

年中不機嫌そうな顔をした園長が、警備詰所に少年を寝泊まりさせるために準備をした。

煎餅布団を三重にして、土産店へ走ってマスコットキャラのぬいぐるみを幾つも抱いて走り、枕元を囲むようにいくつも配置した。いつも不機嫌そうな顔を、紙つぶてのようにくしゃくしゃに歪めながら、シーツの皺を手で何度も伸ばした。

園長が遅くなるから早く帰れと叱っても、従業員たちは少年のそばを離れなかった。

一度離れたら、もう、二度と会うことはないと知っていたからだ。

少年は、ただ、にこにこと笑っていた。

少年は、そこに泊まった。もしかしたら、母親が戻って来るかもしれないからだ。

翌日、少年は、遊園地を満喫した。どれほど園長が咎めても、少年が寂しくないように、従業員たちが替わる代わる手を繋いで、園内で思う存分一緒に遊んでくれたからだ。

そうして、回転木馬の前にある木のベンチで、母が迎えに来てくれるのを待った。


すぐに警察に連絡しなかったのは、園長の思いやりだったのか、それとも、エゴだったのか。園長は、かつて、幼い息子を失っている。冬至の姿に、成長した息子を重ねたのかもしれなかった。

従業員たちと別れるとき、皆が順番に冬至を抱きしめてくれた。

従業員たちが驚いたことには、あの厳しい園長が、まるで自身が迷子の子どもになったかのように、冬至を抱きしめて、声を挙げて泣いたことだった。

少年は、やはり、ニコニコして、園長の背中を撫でていた。


通報を受けて駆けつけた警官の青年は結婚したばかりで、妻のお腹には三ヶ月の子どもがいた。

少年をパトカーの後ろに載せて、年越しの準備に華やぐ街を走った。

そのまま少年を警察署まで連れて行った。

少年課にある大人用の椅子に被保護者を座らせた。少年は、ジュースとお菓子を振る舞われて、上機嫌そうに足を泳がせていた。

「あの子はどうなりますか。」巡査は、少年から離れた場所で、先輩の警部補に訊いた。

「どうなるもこうなるもないさ。孤児たちが行き着く場所に行くだけだよ。」

「それからどうなりますか。」

「生きていくんだ。この地上で、死ぬまで。」

「親も身よりもいないのに。あんなに小さいのに。誰があの子を庇ってくれるんですか。」

「なら、お前が引き取って養子縁組でも組んでやればいい。」

青年は唇を噛んで、うなだれたきり、何も言えなくなった。

椅子に座って、事務処理の傍ら、妻に「おやすみ」のメッセージを送りながら、その青年巡査は涙を流した。

先輩は、タバコの量と酒量が以前の倍に増えた。ニコニコ笑う少年の無邪気な顔を頭から消すためには、それだけの煙幕が必要だったのだ。

彼もかつて幼くして父母を亡くして、祖父母に育てられていた。


少年はそれらを知らない。知ることができない。彼のために泣いてくれた人がたくさんいたことを、知らない。

知ることができたら良かったと思えることは、何一つ知ることができなかった。

知らなくていいことばかりを、知らされて、少年は大人になっていった。


少年の母親は、新しい家族と共に、天上の都市で幸福に暮らしている可能性があることがわかった。役所に提出されたばかりの婚姻届が確認された。

母親の姿が、最後に天上都市への移送ヘリポートの監視カメラに映っていた。

母親は、男と一緒にいた。


少年は、特別に、警察署の仮眠室で夜を明かした。他に誰もいなかった。

「トイレはすぐ横にあるから。何かあったら、おじさんたちが仕事してる部屋までいらっしゃい。」

女性警察官のひとりが、少年の頬を撫でて言った。少年は、ベッドに横たわり、やはり、ニコニコ笑っていた。

つられて婦警も笑った。

女性警察官が扉をゆっくり閉めた。その直後。

ニコニコ笑っていた少年は、一人きりになった瞬間、わっと泣き出した。

暗闇の中で、声が漏れないように、布団の中で嗚咽を噛み殺しながら、泣いた。

これが、ひとりぼっちになった少年が流した、最初の涙だった。

少年の名前は、冬至というのだった。


冬至は、自分は棄てられたのだと考えることはできなかった。

母を憎むことは、自分で自分の首を絞めることに似ていた。苦しさに耐えきれなくなって手を離し、大きく息継ぎをすると、胸を差す痛みを一瞬だけ忘れることができた。たくさん憎んで、たくさん涙を吐いて、少しずつ、痛みに鈍くなっていった。それでも、毎晩、最後に見た母の姿が、夢を訪れた。

微睡を恐怖し、同時に、心から待ち焦がれた。いくら歳を重ねても、恋しさは募るばかりだった。幼い頃のままの自分が、厚い外殻に覆われた果実の奥の、柔らかい核の中で眠っていて、ふとした物音に目を覚まし、母を恋しがって、泣き出してしまうのだった。


十年後の冬至が眼を覚ますと、少女の膝の上に寝ていた。

慌てて起き上がり、額と額をぶつける。

「痛あ。」と少女は泣き声をあげる。

冬至はソファから転げ落ちた。

「すまん。びっくりして。ひどくぶつけたか。それにしても、すごい石頭だなあ。」

少女が怒って殴る仕草をする。笑い出す。

「ご飯。食べてないでしょ。一緒に食べよう。」

「なんだ、食べなかったのか。」

「一緒がいいよ。」と、少女は微笑んで言った・

「遠足じゃねえんだからさ。」冬至は唸った。

「はー。おいし。」

少女はもうカツ弁当を食べ出している。

「誰かと一緒にご飯食べるの、楽しいね。」

そう言って、にこやかに笑う。

冬至は、布巾を瞼の上に乗せて、とんでもない厄介事に巻き込まれたと思った。

           

                6

冬至が買い出しに行っている間に、少女がいなくなった。

しまったと、冬至は買い物袋をその場に放り出して、外に走り出した。


どこへ行けばいい。眼が見えない少女が、あんな荒くれ者たちに捕まって、何をされるか。胸の中が真っ暗になった。

日は照っているのに、暗闇の中、泥の海を泳いでいるようだった。

もしやと思って。例の墓のある廃寺へ行った。


突撃してきたトラックのせいで、風通しがよくなかったその墓地で、少女は座って林檎をかじっていた。

冬至は頭から石畳に突っ込んで行った。

「何してるんだよ。」

少女はあっけらかんと言った。

「おじいちゃんが、林檎を食べたいって。」

「お前が食べたいだけだろうが。」

「バレた。」

少女は笑いながら、「おひとつ、いかが。」

「だから皮だけじゃねえか。実をくれよ。」

その時、訊いたとことのあるエンジン音と土を削る音が聞こえてきた。

「まさか。」

そのまさかだった。

巨大トラックが再び斜面を駆け上ってきた。勢い余って、墓石を轢き倒し、廃寺に突っ込む形で止まる。

そして、またしても中から屈強な男たち。墓石を立て直してから、二人に襲いかかって来た。

「なんだこれは。録画したやつをもう一度見てるのか。相手してられるか。」

冬至は少女の手を引いて走り出す。

執拗に、男たちはどこまでも追いかけて来た。

人混みに紛れようと、市場へと走った。

しかし、通行人までが一斉にふり返り、少女を目に捉えて、抜き身のノコギリや包丁を取り出して構えた。

この街に住むすベての人間による狩猟だった。その獲物が少女だった。

冬至は、安全な場所はどこにもないのだと観念した。警戒の羅網は、この街の全地に敷かれているらしい。

少女が、「こっち来ないで。」と叫びながら当てずっぽうに石を投げると、それが運悪く追いかけてきた男の股間を直撃した。

「うわーっ。」と男は悲鳴を上げた。

それが戦いのゴングとなった。

大乱闘が始まった。

男たちは、武器を捨てて、戯れるように、敵味方の別なく、己の膂力のままに、ただ拳を振るう。

血飛沫が壁に華を咲かせる。歯が飛ぶ。


今は、優しいものはすベて忘れ去らなければならない。

すべての優しいものを忘れて、狂暴な火を噴く雄牛と化して、あの天上の雲を貫き墜とさなければならない。

冬至は、殺戮の衝動に我を忘れて、血濡れた拳を振るい続ける。

群がる男たちを、右に左に薙ぎ倒し、野獣のように咆哮する。

男の一人が、傷ついた顔をかばう。冬至は、渾身の力を籠めて拳をふりかざす。

その時。男の胸から落ちた財布が開いて、幼い娘らしい写真が見えた。

男の腕の中で、輝くような、前歯の無い笑顔で、ピースサインを向けている。

阿修羅のように歪んでいた冬至の顔が、その瞬間、しぼんで、悪戯を咎められた子どものようなあどけない顔になった。振り上げた拳が力なく落ちた。

冬至の顔に、横から飛んで来た、別の男の強烈なパンチが叩き込まれる。冬至は市場の野菜を陳列した棚に吹き飛ぶ。

かぼちゃを掴んで、男の頭に叩きつける。


「相手してられねえ。」

冬至は、叫ぶなり、素早く少女を抱きかかえると、全力で走り出した。公道をゆっくり走っていたラーメン屋の配達バイクに声をかける。

「ねえ。バイク貸りてもいい。」

「良いわけねえだろ。」

ラーメン屋の店員が叫ぶ。

「ありがとう!ちゃんと返すから。ささ。降りて、降りて。」

「うわっ。馬鹿野郎。」

冬至はお尻をねじ込むようにしてバイクの席に少女を乗せ、それから自分も飛び乗った。

「ごめんね!後で必ず返すから!」

「ラーメンどうすんだよ。」

「配達しておくよ。」

追いすがる店員を後方に置き去りにして、冬至は加速した。

「ふざけんな馬鹿野郎。」

店員は靴を脱いで放り投げた。


少女を後ろに乗せ他まま湾岸道路を走った。

検問を突破し、パトカーの追跡を躱しながら、化学物質によって汚染された「禁域」へと踏み込んでいく。


森の奥深くに遊園地があった。

かつて、冬至が母と別れたあの遊園地だった。

施設は十年前よりもずっと古色蒼然とした色に覆われ、全体的に錆び付いていた。緑に半ば覆われて、土に帰ろうとしている。遊園地は、自然保護を謳う植物園を兼営することで危機を乗り越えようとしていた。

「園長先生!ご無沙汰してます!」

冬至が、花壇の上に屈んだ老人の背中に叫ぶ。

十年分、年老いた園長だった。白髪頭の、背の屈んだ園長が、怪訝そうに振り返る。

冬至の姿を見るなり、パッと顔を輝かせた。

が、一瞬後で、かろうじて、顔を取り繕い、謹厳で不機嫌そうな様子を取り戻すことに成功した。

「うむ。元気だったか。」と髭を撫でたりしている。

その眼は、冬至の傷ついた頬や、若白髪を認めると、涙を滲ませた。胸を暖めるような喜びとともに、冬至の抱える悲しみを思って、血を流すような痛みを覚えた。

しかし、冬至の顔は、喜びに輝いて、開けっ放しの窓のように爽やかな風に吹かれていた。

父性愛の象徴ともいうべき園長先生に、冬至は少女を託すことにした。


少女の手を引いて、冬至は、園内の回転木馬の前に来た。

どの遊具も、大人になった冬至の眼には、小ぶりに映った。まるで巨人が小人の国を再訪したような気分だった。

回転木馬の前には、大ぶりな枝を広げた桜の樹がある。その下にある古ぼけた木のベンチに、少女を誘った。

自分は座らずに、少女の前に跪いて、

「ここで、俺が来るのを待っていてくれるかい。約束する。必ず戻ってくるから。」

少女は、神妙な顔をして頷いた。

「指切りげんまんする。」少しも茶化さない。

「嘘ついたら、火で熱した畳針を、口から鼻から耳から、一千万本、本気で呑ませる。」という地獄の拷問のような約束をさせられた。

冬至は笑顔でうなずいた。

親友とその妹が無惨な死を遂げてから、ずっと笑顔を忘れていた冬至が。

園長先生は、その姿に驚いて目を見張り、涙を流した。

「おおい。冬至くーん。」

古株の遊園地の従業員たちが、手を降っている。

積み木の家の売店から、貝殻を模した海鮮レストランから。海賊船から。観覧車から。

大勢の人が冬至に手を振っている。

「みんな。まだ辞めずにここにいたんだね。」

「随分なご挨拶じゃないか。ここが廃墟になるまで、しがみついてやる。何せ、タダで遊べるからなあ。」

「お客も滅多に来ないしね。」

そう一人が言うと、みんなが笑い崩れた。


冬至は、皆に少女を紹介すると、園長に深く頭を下げた。

「園長先生。どうかあの娘を頼みます。今回の仕事の報酬の全てが、ここにあります。」

通帳とカードの入った封筒を手渡した。冬至の一切の収入がここにある。

どうか、あの子の目の手術と、孤児院の弟と妹たちをどうか、よろしく頼みます。」

「お前。まるでさよならでも言いに来たみたいじゃないか。」

冬至は晴れやかに笑った。透明な、この世のものではないような明るい笑顔で。


        6

冬至は、再び、あの森にいた。

少女と冬至が散策した、あの森だ。

そこで、仕事をくれたあの男が待っていると連絡があったのだ。

「待っていましたよ、冬至さん。」

菩提樹の陰から、不吉な男が現れ、帽子を脱いで挨拶した。

「お前は、一体誰なんだ。」

冬至は叫ぶ。

「最初に貧民窟の路地裏で出会った時から、あなたは私の名前を知っていたはずです。

➖┃悪魔ですよ。」

悪魔は、慈母のような笑みを浮かべて、恍惚と冬至を見つめていた。

夕暮れの森で、悪魔を名乗る男は、冬至に向かって、意外なことを語り始めた。

「あなたのお母様について話をしに来ました。」

「どういうことだ。なぜ俺の母親のことをあんたが知っているんだ。あの少女が一体誰なんだ。なぜ町中の人たちが彼女を狙うんだ。」


「質問には、一つ一つ答えていきましょう。

冬至さん。あなたは、冬至の頃に生まれたから、そう名づけられたのですよ。

それは奇しくも、救世主の誕生日と重なっています。

Born in a hunger. (汝、飢えの中に生まれし者よ。)

Born in a manger. (汝、飼い葉桶の中に生まれた主よ。)」

歌うように、悪魔はそんな詩を呟いた。

「なぜそんなことを知っているんだ。」

聞き覚えのある旋律だった。それは、母がよく口ずさんでいたフォークソングの一節だった。

生ぬるく、血腥い瘴気の風が吹き始める。

悪魔の影が、墓地の草地に大きく伸びて、風車の翼のように黒々と広がっていく。

その影が声を上げて笑う。

「あなたが思うよりも、古くて深い縁が、私とあなたの間には結ばれている、というだけのことですよ。

飼い葉桶で生まれた幼子イエス。対してあなたは「歓楽の園」と呼ばれる私娼窟で生まれました。あなたの父御は、天上都市から降りてきた娼家の客でした。

聖霊のように、彼は地上に降りて来たのです。

あなたのお母様は、囚われた家族のためにその身を差し出した健気な娘でした。

そして天使が、あなたの母に受胎を告知したのです。

お母様の家族は、不幸にも、皆、地上の収容所で息を引き取っています。

そんなこととも知らずに、彼女は、健気に娼婦として働き続け、そして、あなたという子を宿します。

あなたの母御は、その真珠のような粒揃いの歯を、美しい黄金なす髪を、牛乳のような皮膚を、神様から貰った、新鮮で健康な臓器を売って、あなたを育てました。

実に、立派な御母堂でした。」

冬至は、思いがけない事実を知らされて、顔を覆って泣き出した。

「冬至さん。ここに、あなたのお母様からの手紙を預かっています。」

悪魔は、胸を指差して言った。

「原本は紛失していますが、一言一句、記憶しています。読み上げても、宜しいでしょうか。」

冬至は、顔を覆ったまま、力なく頷いた。

悪魔は、母の声で朗読を始めた。       

『冬至。わたしの愛しい子。

体が思うように動かなかくて、汚い字でごめんなさい。

これを、病院の一室で書いています。

この手紙があなたの手に届く頃には、きっと春が来ていることでしょうね。

それを思うと、体の痛みも、凍えも、無くなります。

あなたが歩いてくれれば、私も一緒に歩きます。

あなたが笑ってくれれば、私も一緒に笑います。

あなたが歌ってくれれば、私も一緒に歌います。

冬至!

あなたを見るたびに、あなたは、私の中から生まれたんだ。そう思います。もう、わたしには他に家族はいません。父も、母も、兄も、姉も、みんな逝ってしまいました。

でも、あなたの顔を見るたびに、そこに、家族みんなの面影を見ます。

あなたの顔の中に、私は、永遠に失ったと思っていた、すべてのものを見出しました。

あなたとどうしても逢いたくて、こんな大変な世界へ、あなたを呼んでしまって、謝りたい気持ちもあります。でも、謝ることは絶対にできません。後悔することは、絶対にできません。決して。

あなたを産んだことは、私が人生で成し遂げた、最大の、最高の快挙です。世界中が、私を喝采してしかるべきです。あなたという宝物を、世界に贈ったのですから。

ああ。わたしのなかにある、一番善い部分が、冬至、お前です。わたしの悪い部分は、いつか、この体と共に朽ちて無くなるでしょう。

でも、あなたが残るのです。

永遠という言葉の意味を、わたしは、あなたに出会って、初めて知りました。

無くなりません。心から愛したものは、決して、死ぬことがありません。


もう、一緒にはいられないけれど、稼いだお金を信頼できる人たちに預けたので、あなたのために、善くはからってくれるでしょう。

あなたは、わたしが、雲の上の未来都市で、いつか、成長したあなたが、輝かしい勲章を身に帯びたり、法曹界や政財界の寵児と呼ばれたり、軍服を着て、英雄と呼ばれるような姿を想像して、嬉しく思っていると思いますか。

それは嘘。

勲章は要りません。業界の寵児になる必要はありません。決して、英雄になんてならないいでください。

どんな仕事でもいいのです。朝起きて、働いて、疲れた人たちと一緒に家路について、暖かな夕食を囲む。そのことほど、素晴らしいものはありません。

どうか、幸せになって。わたしの幸せは、あなたの幸せでいることです。

ね。なんて、わがままな、身勝手なお願いでしょう。

わたしたちが、地上では決して手に入れることが出来なかった幸福を、どうか、あなたが見つけ出すことができますように。

もうすぐ春ですね。

蝶々やマルハナバチやライラックが、笑顔が、穏やかな日々と愛に満ちた夜々が、いつもあなたのそばにありますように。

あなたのそばに、いつも、いつまでも、春がありますように。

心からの、愛を込めて。母より。」』

悪魔は、手紙の朗読を終えた。

冬至は、顔を覆って、憚らず、声を放って泣いていた。

「母さん、母さん。ごめんなさい。ごめんなさい。」

悪魔は、冬至の髪を撫ぜた。

「この手紙は届かなかった。あなたの手に渡る前に、天上都市によって検閲されたのです。

あなたの母が貯めたお金は、全て、雲の上の人々が盗んで行きました。死人に口無しと言わんばかりに。『生きている犬は、死んだ獅子に優る。』ある人は、金を盗みながら、私にそう語りましたよ。」

悪魔は悲しそうに、そう言った。

「金なんかどうだっていい。犬に食われればいい。お前たちは、母さんの命を盗んだんだ。母さんを返せよ。」

冬至は、悪魔の胸を幾度も叩いた。

悪魔は、冬至を抱きしめて、慰めた。

悪魔は、いつの間にか、優しい、にこやかな女の姿に変わっていた。冬至の背中を、優美な手で撫でさする。太い低い声も柔らかなものに変わり、体全体から、薔薇やジャスミン、麝香の香りが立ち昇って来る。

スーツ姿も、いつの間にか、艶やかなゆったりしたドレスに変化している。

純粋な水と光で育てられた果実のように、滑らかでひき緊った、牛乳で洗った水晶のように白い胸と腿がむき出しになる。そのえくぼの影のある小さな顎を、冬至の頬に寄せて、かつて男だった女は、語り続けた。

「あなたの母様が出された婚姻届というのも、全て偽造です。天上都市の臓器密売組織が、法の抜け穴として、天上人との偽装結婚を企んだのです。

あなたの母様の御体は、最期にはバラバラになって売られましたよ。

まるで、春の森から、あるだけの美しい花をむしり取っていく、陽気なピクニックの一行のように。

天上の楽園では、奇跡のような若い肉体は高額で取引されました。

不死不滅を実現するために、どうしても必要な「資源」だったのです。

あの少女も、遠からず、同じ運命を辿るでしょう。

そうして、天上に迎え入れられて、地上の汚穢に満ちた肉体を捨てて、永遠に生きるのです。

あなたのお母様は、移植や手術に耐えるために連日投与される薬品で、ボロボロでした。

あなたに最後の別れを告げたあの聖なる夜、お母様には、まともな体の部位は一つも残ってはいなかった。それでも、幼いあなたの目には、尊く、美しく見えたことでしょうね。

ああ、愛おしき、血の垂れる心臓の母達よ。

その夜、あなたのお母様は、あなたを奴隷の境遇から買い戻すために、その心臓を売ったのです。

あなたのお母さんの心臓は、今も、この私の胸の中で、今も鼓動しています。」

悪魔は、冬至の手をとって、自分の膨らんだ胸に押し当てた。

「聞こえますか。冬至。あなたのお母さんが、ここにいますよ。」

悪魔が、母の顔をして笑っていた。

「あなたを護るために、今まで私は力を尽くしてきました。

あなたに逢うために、私は、あの雲の上の都市から、ここへ降りて来ました。

私と一緒に、天国へ来なさい、冬至。

そうして、私の息子に、夫に、弟になって、永遠に生きるのです。」

その豊かな胸の中に、涙を流し続ける冬至を抱いた。

「眠りなさい。この残酷な世界に眼を閉じて。」

冷たい微睡が全身を浸し、思考が蝕まれていく。心地よい闇に全身を預けて、瞼を閉じてしまいそうになる。

その時、ポケットの中に、燃えるような激しい熱を覚えた。

手を入れて、掴み出した。

少女がくれたどんぐりだった。ほとばしるような黄金色の光を放っている。

放たれる熱が、冬至の胸の中にまで広がっていく。

母なる悪魔が、その瞬間、悲鳴を挙げて飛び退った。野太い胴間声で叫ぶ。

「何だ。その穢らわしい物は。」

その声は、幾人もの老男若女の声をひとつに重ねたように聞こえた。どんぐりは、手の中で暖かく、胸に抱くとほのぼのと春の熱が伝わってくる。この実は、まだ死んでなどいない。少女の、すべてを信頼しきったような笑顔が脳裏に浮かぶ。

彼女は、どんな悲しみに遭っても、あの笑顔を失わなかった。


そして、母の最後の願いを思った。

冬至は、自分がなすべきことを悟った。

どんぐりに、涙に濡れた最後の接吻を籠める。

それから、リボルバーの空の弾倉に、黄金色のどんぐりを装填した。

迷いなく、焦りなく、着実に。

悪魔が、顔からはみ出るほどの大きな嘲笑を浮かべた。

「そんなことをすれば、お前の魂はバラバラに引き裂かれて、二度と修復できなくなるだろう。」

その顔が、母に似た優しい顔に変わる。

「よしなさい。その生命の全てを銃弾に籠めて、あなたは、我が身を犠牲に捧げるつもりなの。」

冬至は、誘惑を退けて、笑い泣きながら言った。

「母さん。ありがとう。」

躊躇わずに引き金を引いた。

どんぐりの銃弾が、母の心臓を貫く。

鐘樓の塔の頂で、巨大な鐘を鉄槌で打つような音が響き渡った。

バリバリと雷のように引き裂かれた悪魔が、両手を広げて、天地に響きわたるような悲鳴をあげた。

眩い閃光が走り、爆炎が噴き上がり、冬至の髪と頬を焼き焦す。

煙霧が晴れると、そこには、巨大な樫の樹が聳え立っていた。

あの男とも女ともつかない悪魔の、両手を広げた姿そのままに。

悪魔は、鬱蒼とした樫の樹と化していた。

冬至は樹木の梢を見上げ、微笑んだ。勝ち誇るでもなく、哀しそうに。

その幹に耳を押し当てる。樹液のかけめぐる音がする。母の心臓の音がする。

冬至は、足を引きずって歩き、懸崖の端まで歩いて行った。

銃撃の反動で、腕の筋がちぎれ飛んでいた。上衣をナイフで引き裂いて、手にリボルバーを巻き付ける。

血が滴り落ち、歯の根も合わぬほどに全身が震えていた。血を吐くと、歯や内臓のかけらが混じっている。悪魔の抱擁で、体の隅々まで死に冒されていた。

だが、あのどんぐりの実から発する大地の熱が、前に進む力を与えてくれた。

「君に、春の森を、見せてあげたいんだ。」

冬至はそう呟いて、微笑む。顔は蒼白で、眼は霞んでほとんど見えなかった。


そこは、かつて、親友とその妹のために復讐を誓った場所だった。

もう、空の眩さしかその眼には映らない。

太陽を背にした、聳え立つ雲の峰に手を上げ、撃鉄を起こす。

どんぐりを装填した銃が、真っ直ぐに、雲の峰を狙っていた。

冬至は、心からの笑顔を浮かべた。

「春よ。来い。」

そう言って、引き金を引いた。俄にかき曇った空に、幾つも紫色の稲光が走る。

大地を揺るがす轟音とともに、雲が崩れていく。

かき消すように、花散るように、天上都市がバラバラに分解していく。

海上に落下する地殻が、高層建築群が、鼎の鍋のように海を白く泡立てる。

長きにわたって空を塞いでいた人工の雲の峰が崩れさり、光が障壁を失って、大地に燦爛と降り注ぐ。

冬至は、その時、ランボーの詩のように、永遠を、太陽と溶け合う海を、その目ではっきり見たと思った。

冬至は、生命の緒がちぎれる音を、頭の中ではっきりと聞いた。

歓喜の叫び声を放って、冬至は倒れた。


 

         7

あでやかな桜の花が、枝に揺れている。

花瓣(かべん)はみずみずしく、まるで、透明な硝子細工の一枚一枚に、小さなガーネットの粒や、紅珊瑚を埋め込んだようだ。

蒼く澄み切った空へ、花辨が渦を巻いて、舞い上がっていく。

その空と同じくらい、明るく澄んだ瞳に、空が、桜の木の晴れ姿が映っている。

睫毛の影の濃い、美しい眼だった。


微笑んで、散りゆく花を、惜しみつつ、眺めている。

それは、かつての盲目の少女だった。

その眼は、はっきりと光を取り戻して、遊園地の至るところに咲き出した花々を、一つ残らず映して、胸に大切にしまっていた。

園長先生は、頼まれた通り、身寄りのない彼女の後見人を務め、大病院でその眼の手術を受けれるように手続きをした。

あんなにも憧れた明るい空と花々が、こうして目の前にある。

回転木馬の下の、古ぼけたベンチに座って、彼女は待ち続けている。

家族連れや、恋人たちが、遊園地に溢れかえっている。園長先生も、従業員たちも、忙しそうに駆け回り、声を張り上げて、観客を沸かしている。

彼女はそれを、嬉しそうに、ニコニコと眺めている。

小さな少年が、風船を持って、不思議そうに彼女を見つめていた。

「前に来た時も、お姉ちゃん、そこにいたよね。誰かを待っているの。」

ええ、と少女は頷く。

「とても大切な人を待ってるの。その人に、伝えたいことがたくさんあるの。」

「はじめに、なんて言ってあげるの。その人に。」


少女は花を背にして笑い泣きながら言った。

自分の名と同じ、その季節の名を。


春が来たよ、と。

読んで頂いて誠にありがとうございます!


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