水没都市と人魚たち
海の日なので。
これは、さほど遠くない未来の話である。
「アコヤちゃん、準備はいい?」
「ええ、もちろんよ」
船は滑るように水面を移動する。船に乗っているのは三十歳くらいの女性と、高校生ほどの女子である。
船の下をイワシの大群が通り過ぎる。
船は、ビルの屋上と屋上に挟まれた水路で停止した。
「気を付けてね」
「行ってきます」
アコヤと呼ばれた少女は、船から海の中に飛び込んだ。
人類が想像することすらできなかった海面上昇から、十年以上たった。
ある日、唐突に地図にあった街の三分の一が海に沈み、死者の数は数えきれないほど多かった。
この町は、水没具合が軽いほうだ。しかし、五十階建てのビルが必死に頭をだして呼吸をしなくてはならないほど、水面は高い。
生き残った人類のほとんどは、水没していない陸地へ移動した。
これは、その『ほどんど』に入らず、水没した町にとどまった人々の物語である。
***◆◇◆***
「今日の仕事はどうだった?」
「まあ、終わったけれど別に何とも思いません」
私、アコヤは海鮮丼を口に頬張りながら言った。
私は『釣り人』である。『釣り人』とは、水没した数々の建物の中に残された品を海に潜って回収する職業だ。
私は今、凪さんと水上市場で昼食を食べている。凪さんは、現場まで船を漕いでくれたり、私に仕事を斡旋してくれる親のような存在だ。
「どうしてあんなものを回収してほしいと言ったのかは分からなかったけれど」
私は首をかしげる。今日の依頼は、孫の職場にあるというボールペンだった。『釣り人』に回収を求められる品は、貴重品のネックレスや写真などといった形見が多い。だが、今回はボールペン。しかも記念品などではなく、何処ででも売っているような量産品だった。それでも判別できたのは、名前が書いてあったからである。そのおかげで、私は数ある引き出しを開け、依頼品を見つけることができたのである。
「まあ、こんな水没都市、事情は人それぞれだよ」
そういって干物を口に運ぶ凪さんにだって事情はある。凪さんは、パートナーをここで亡くし、それが忘れられずこんな水没都市にとどまっているのだ。パートナーが死んだのも、もう十年以上前。それなのに、凪さんは忘れることができない。余程深く愛していたのだろう。
凪さんは、過去に決着をつけることを成長というのなら成長はしていないと思う。それでも、凪さんはかっこいい。これだけでいいとも私は思うのだ。
それに、人のことも言えない。
「ああー、肉が食べたい」
凪さんが愚痴る。
「肉なんてもう食べれませんよ。魚があるので十分です」
海面が上昇して良かったことと言えば、魚が取りやすくなったくらいである。
その時、伝書鳩がアコヤたちのテーブルにやってきた。
「えー、今食事中なんですけど」
「私のデザート踏まれた……」
この水没都市ではほとんどの電子機器が使えない。そのため、連絡手段も古典的なものしかないのである。
凪さんが手紙を取り外し、鳩を帰らせる。
「げ、『釣り人』の組織のトップからだ」
『釣り人』には組織がある。組織に入ると、良い仕事がもらえたり、協力して仕事ができたりといろいろ楽なのである。もちろん、私と凪さんも組織の一員である。
凪さんは黙々と手紙を読み終えるといった。
「ごめんよ、これから回収したボールペンを依頼主にどうやら届けに行かなくてはならなくなったぞ。どうやら仲介役が風邪にやられてしまったらしい」
「ええ……」
「そうと決まったら急いでここを出なくては間に合わないぞ」
「はい」
慌てて席を立った凪さんを、私は追いかける。凪さんは歩くのが結構はやい。
唐突に凪さんが振り返って私に言った。
「ごめんよ、いつもあぶない潜るのをお前にやらせちゃって」
凪さんはこの世界には、致命的な欠陥を抱えている。それは、泳げないことだ。
「別に、息を止めて潜るのは得意なので」
私が言うと、凪さんは笑った。すこし悲しそうに見えた。
***◆◇◆***
依頼主の家は、あるビルの屋上の仮設住宅だ。
凪さんは、私たちの家、つまり船で待っている。さっき、急にごめんとか言っていた割に、私に仕事を押し付けてくる。
この地域には、ビルの上に船を家としない人のための仮設住宅が建っている。仮設住宅といっても、築十年も経っていれば、もう立派な家と言っていいのかもしれないが。これらはすべて、海面上昇時に政府が慌てて作ったもので、すべて放置されている。
私が依頼主の家に行くと、老婆が座って待っていた。
「まあ、こんなかわいらしいお嬢さんが来てくれるとは」
おばあさんが私を歓迎してくれる。この外見からして、もう七十歳くらいであろう。医療がほどんど死んでいる水没都市では有り得ないくらい健康である。
おばあさんがお茶を淹れてくれたので、私はごちそうになる。
「さて、本題ですが。こちらが今日私が回収してきた依頼品のボールペンです」
私はカバンから布に包まれたボールペンをだし、机の上に置いた。
おばあさんは黙ったまま私がだしたボールペンを見ている。
私は少し慌てた。
「ひょっ、ひょっとして依頼品と違いましたでしょうか。も、もしそうなら今からでももう一回もどって回収してきます」
依頼品とは違うものを回収するという失態を私はプロとしてまだ起こしたことはない。『釣り人』は依頼してもらうときに、依頼品の詳しい情報を依頼主に教えてもらう。今回の依頼は詳しすぎるほど詳しく教えてもらったみたいなので(仲介人を通して通常は聞く)余裕と思ったのに。
「いえ、そうではないの。合ってるわ。ただ、本当に持ってきてもらえたことが嬉しすぎて絶句していただけよ。ごめんなさい」
私はほっとした。
「それはそうと、ひょっとしてあなたが『釣り人』をやってるの?」
「ええ、はい。そうです」
「若いのに感心なことね」
おばあさんはそう言って、ボールペンを手に取り、じっと眺めた。
「ねえ、なんでこんなどこにでもあるようなボールペンを私が欲しがったか気にならなかった?」
「まあ、気になりましたね」
私は正直に言う。
「このボールペンにまつわる話を聞かせてあげたいんだけど、時間ある?」
きっと話したいんだな、と私は思う。一人で寂しくて、話し相手もいないのだろうこの水没都市には。
「もちろんです」
ゆっくりとおばあさんは話し始めた。
「といってもなんの変哲もないただのボールペンよ」
「へ?」
「強いて言うなら、このボールペンはちっちゃい頃から持っていて、お絵かきに使っていたくらいだわ。でも、インクはほとんど交換したことないわ。なぜかって、大して使ってなかったんだもの」
そこまでいうとおばあさんは豪快に笑った。
「まあ、これで夫との婚姻届けを書いたわ。なぜかって? 他にかけるボールペンが近くになかった、ただそれだけよ」
「はあ」
「でもね、このボールペンを私は愛していたのよ」
一呼吸おいて、おばあさんは続ける。
「ずっと小さい頃から使ってて、持っていた。ただそれだけなのに愛おしかった。それだけじゃ、理由にならない?」
「いえ、なると思います」
おばあさんは、ニコリと笑った。
「あの日ね、私の孫がペンを貸してくれって言ったの。そして、私は迷わずこのペンを渡したの。なぜかって? これもただそこにあったから。それだけよ」
おばあさんはどこか遠くを見つめるような目で言った。
「日常ってそんなもんじゃないかしら。傍から見れば、いや当事者から見ても、何の意味もないもののように思えるけど、すっごく愛おしいもの。そんな感じがするわ」
「意味のないもの……ですか」
「ええ。意味のないものを大切に思って生きていかなくちゃね。これ、老いぼれからの人生のアドバイスよ」
おばあさんはそこまでいうと、お茶を一杯飲んだ。
「私だって長生きしているからね。いいお茶の淹れ方とか、くだらないことをいっぱい知っているのよ」
ふぅ、と息をついておばあさんは話すのをやめた。
私は、ずっと引っかかっていた疑問を聞いてみようと思う。
「おばあさんは、陸地のほうへ行かないんですか。そっちのほうがいい医療も受けれますよ」
「行く必要はないわよ、こんな老いぼれはこの水没都市で散っていくほうが世のためよ」
「そんなこと言わないでください!」
「私なんかが行って、未来ある若者の枠を一つつぶすなんて許せないわ。それより、あなたこそ陸へ行ったほうがいいと私は思うわ」
「私は……」
私はなんでこの水没都市に残っているのだろう。特に大きな理由はないと思う。
「私は、この町であの日、お母さんとお父さんを亡くしました。六歳の時です。特に思い出なんかはなく、顔も覚えていません。私はそこで凪さん、私の雇い主のようなものです、に拾われて今ここにいます」
凪さんに拾ってくれた理由を聞くと、凪さんは決まって笑ってこう言う、「死んだパートナーに似ているからさ」。
世界はそんな偶然で出来ている。私があの日生き延びたのも偶然、凪さんに拾われたのも偶然。なんの意味もない。だけど、そこに価値を見出していいのだろうか。
「私が水没都市に残っているのは惰性です!」
私は言い切った。
「私は俗にいう、愛とかは分かりません。しかし、ここで暮らしていって人々の遺物に触れることによって愛を知りたいんです」
多分こんな理由。違うかもしれないけど、今はこの結論でいい。
おばあさんは笑って
「またいつでも来てくださいね」
と言った。
***◆◇◆***
「どうだった、依頼主は」
「いい人でした」
「ああ、そう」
「日常とは、傍から見れば意味のないものであるが、愛おしいものである」
「なにそれ」
「内緒です」
***◆◇◆***
今日も今日とて私は品物を回収しに海に潜る。
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4作目
↓前作 幻覚魔法少女の涙
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