第36談
「捨身月兎を知っているか?」
十耳魔王が発した言葉に、翠蘭は軽く頷く。
ここで知らないふりをするのは悪手だ。十耳魔王は翠蘭との問答を楽しんでいるのだから、馬鹿のふりはよろしくない。
「兎が我が身を食事として差し出すお話でしたでしょうか?」
翠蘭の回答は十耳魔王の心を揺さぶるに相応しいものだったようだ。愉悦に満ちた様に4つの目が細くなり、真ん中のひとつが輝きを増した。
「そうだ。飢えた坊主が獣たちの前に現れた。死にそうな坊主を哀れに思った獣達はそれぞれ食事を用意した。だが、なにひとつ採れなかった兎は自身を焼いて食事として出した……そんな人にとって都合の良い話だ」
そんな話だったかしら……と翠蘭は思ったが、口には出さず微笑んだ。伝承は口伝えで広がることが多い。まるで違う内容になることなど良くあることだ。
「我は昔、無力な兎であった」
やはりそうなのかと翠蘭は十耳魔王の耳を見る。全てが仮初のような十耳魔王の姿の中で、兎のような耳だけが、まるで本物のようだと思っていたから驚くことはなかった。
「兎であった時、狐に襲われ足を喰われ、それでも逃げた時があった。足から血が溢れ、もう死んでしまうだろうと思った時、年老いた坊主と出会った」
これこそが聴きたかった情報だ。翠蘭は十耳魔王の語りを邪魔しないように、そのまま息をひそめる。
「坊主はこれも何かの縁だと、我を助けてくれた。そして我は坊主と暮らし始めた。坊主は人に嫌われていると言って、人里離れた山奥で庵を結び、嫌われている人々のために読経をして毎日を過ごしていた。雨が降っては祈りを捧げ、日が照っては祈る日々。そうすることでこの世界を守っているのだと、戯言を言っておった。愚かなことだ。人が祈っても雨がふることはない。雷を止めることはできない。自然災害は世界の理。ちっぽけな人間にはなにもできない。できるわけがないのに、毎日祈ってすごしていた」
僧が修行と称して山奥に籠ることは良くあることだ。彼らの多くは仙人や神仙を目指し修行をする。だがそれは意味のないことだ。仙人は生まれながらに仙人だ。人は仙人になることはできない。神仙が気まぐれに人を眷属とすることはあるが、それは修行とは関係ない。彼らは人がたまたま見つけた蝶を、家に持ち帰るような感覚で生き物を攫い、寿命ある生き物として生きる理から解き放ち、召使いとする。そこから神仙となるには、そうとうな努力が必要だ。ほとんど生き物が、召使としての生を満喫する。
「そんな坊主を周囲の人間はあなたこそ誠の聖だと言って崇めるようになった。坊主も悪い気はしていなかったのだろう。日課としていた読経にのめり込み、まるで修羅のような形相へと変わっていた」
十耳魔王の目が懐かしい色を見せる。どうやら坊主との暮らしは色々言いつつも良かったようだ。
「坊主の庵は隙間風が吹き、夏は涼しかったが冬は凍えるように寒かった。お陰で我は温石扱いだった。坊主の稾の布団に潜り込んで良く温めてやった」
十耳魔王のうっとりとした目が物語っている。きっと坊主と生活していた時が、彼にとって一番幸せだったのだろう。
「坊主は寝る際に良く捨身月兎の話をしていた。そして羨ましいと良く言っていた。その時の我は無力な兎であったが、頭だけは賢かったので、徳のある坊主を生かすために、獣は自ら命を投げ出すのだと感心していた。それだけの価値があるのだと」
随分と脚色されていると翠蘭は十耳魔王を見る。捨身月兎は諸説あるが、翠蘭が聞いている話では坊主ではなく、神仙のひとり帝釈天だったはずだ。兎も遠い異国の神の生まれ変わりの姿だったり、ただの兎だったりしている。だが、所詮物語だ。内容は様々で解釈も様々だ。兎の自己献身を褒め称える物語が多い中、坊主の徳の高さを十耳魔王が言うのは、きっとそれだけ自分と共に過ごした坊主のことが余程気に入っていたからだろうと、推測する。
「ある日、旱が続いて飢饉が起こった。坊主は食うものも食わず読経をするが雨は降ってこない。やがて、血反吐を吐き、声も絶え絶えになってきた。旱続きで山の恵もなく食べるものもない。豊かな水を運んでいた川も乾き、坊主は痩せ細っていった。我も食うものがないので、虫の息だ。だが、今こそ捨身月兎の時ではないかと思った。我を食うことで、坊主が生きれるならそれで良いのではないかと……」
そのために生きていたのだと言う十耳魔王の目は誇らしげだ。
「ですが、貴方様はここにいるではありませんか?」
翠蘭が口を挟むと、十耳魔王の表情が一変した。
「人と言うものは愚かだ。我はその時、思い知ったのだ!」
十耳魔王の怒りの力が身体中から迸り、部屋が揺れた。
◇◇◇
「良くやった!さすが翠蘭だ」
斉天大聖は拳を握り締め、その大きな体を揺らす。十耳魔王の屋敷がかろうじて見渡せる山の頂きにいるのは、斉天大聖と泰然だ。ふたりの目の前には鏡があり、翠蘭と十耳魔王の姿が映っている。どうやらその鏡で翠蘭の様子を見ているようだ。
「十耳魔王の正体は兎のようですね」
「そうだな、そして兎を飼っていて山奥に住んでいた坊主が鍵となるようだ。調べろ、泰然」
「はい!」
短く返事をして、泰然は千里眼を始めた。
斉天大聖はふたりの会話の続きを再び見始めた。これで翠蘭を助け出せる糸口が見つかったと思いながら。
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