第32談
「万姫……さま」
「大丈夫?泰然……」
微笑んだ様はまるで朝露のように儚げで、水仙の花のようにすらりと立つ姿は美しい。その姿に泰然は安堵の涙を流す。
妖怪達は突如現れた美女に声も出ない。触れることのできない高山にある万年雪のような佇まいに、腰を抜かすものもいる。涙を流すものもいる。そして何の罪悪感からだろうか、頭を地面に擦り付け、拝むものまでいるから不思議だ。
だがそんな妖怪たちの中で、格が違うのだろう。十耳魔王だけが、泰然の姿のままで声を発した。
「これは――小物を獲物に大物が釣れた!」
好色な色を写した目が舐めるように万姫を捉えた。
誰もが手を出せない、出すことのできない孤高の存在である万姫に対してその様な目を!しかも自分の姿で!そう思うと泰然の心は燃え盛る炎の様に怒り、自身を黒く染めていく。
それに気がついたのだろう。万姫は、泰然に視線をむける。
「わたくしは大丈夫よ。だから泰然は落ち着きなさい……陰陽が乱れているわ」
万姫が泰然に息を吹きかけると、途端に捕縛が解けた。どんなに自分が解こうとしてもできなかったものを、一瞬で解いたのかと思うと、師との格の違いを今更ながら思い知った。
「そして……十耳、わたくしを口説きたいのであれば、仮初の姿ではだめよ」
万姫が誰もが魅了されるような笑みを見せると、十耳魔王の擬態はとけ、途端に醜悪な姿へと変わる。
何と醜い姿だと、泰然は蔑んだ視線を送るが、万姫はまるで蝶を愛でるように十耳魔王を見る。
その視線は受け止められないのだろうか、十耳魔王は震え出した。恐怖からなのか、怒りからなのだろうか、それとも歓喜の震えか分からないが、擬態を解いたのが万姫だということは確かだ。
そもそもここには十耳魔王が張った結界がある。だがそれら全ても万姫の前には児戯のようだ。
泰然は落ち着きを取り戻し、深く息を吐く。
「師匠……申し訳ございません、私のために」
「良いのよ。あなたはわたくしの可愛い弟子。弟子を助けるためなら、わたくしはどこにでもいけるわ」
ふんわりと笑う万姫の顔色が変わったのは一瞬だった。そもそも身体の弱い万姫は自分の山から出てこない。出られない。
「――っう……」と苦しそうな声を漏らし、倒れる万姫を泰然が支えようとした瞬間、十耳魔王が韻を踏むのが見えた。
放たれた呪術が万姫を襲う。それは黒い稲妻の様であり、巻き付くことで締め上げようとするヘビの様でもある。
「師匠!万姫様!」
泰然が叫んだと同時に、万姫も術を発動させた。倒れながらもくるりと身体をくねらせると万姫の周囲に再び花びらが集まる。ワッと集まった花びらはその場で鋭い刃へと変わり、四方八方に飛び散る。
下等な妖怪達はその刃に当たり、一瞬で姿を消す。それよりも強い妖怪達も「ギャー」と叫びながら、次々と刺さる刃になす術もなく消えていく。十耳魔王の身体にも刃は次々と刺さっていく。だがそこはさすが年経た大妖怪だ。刺さりながらも、禹歩を踏み、その場から煙の様に姿を消した。
泰然には怪我はない。なぜなら泰然に当たった鋭い刃は、その場で儚い花びらへと変わっていくからだ。
ひらひらと舞い散る花びらをかき分け、泰然は万姫の身体を探す。かき分けた先にいたのは子供の姿の師。凄まじい勢いでに逆成長していく姿に泰然は声も出ない。
「……泰然……わたくしは、もうだめなようね……」
声すら幼児だと、泰然は涙を流す。仙人・仙女は基本的には死なない。だが、まさかこの様なことで殺すことができるとは!後悔の涙を流す泰然の頬に、もう赤子の様な姿となった万姫の指が当たる。
「お願いどうか……わたくしの山を焼いて……」
「そんな……いやです、無理です……私には、万姫様……」
滝のようにながれる涙が万姫の顔に落ちる。だが万姫はもう、元の姿のかけらもない
―お願いね―
万姫の言葉が泰然の脳に木霊のように響いた。
その言葉を最後に、万姫は姿を消した。髪の一本も何も残さず、残ったのは抜け殻のように舞う仙衣だけ。
泰然は頭の中で何かが弾けた音を聞いた。それは後悔の音だ。プツンと切れた音が自分の中に鳴り響いた時には、どうしようもなく、獣の咆哮のような声をあげて泣き叫けぶ自分がいた。
自分が殺したのだ。誰よりも尊敬する、誰よりも敬愛する人を!
そう理解すると陰陽のバランスが乱れ、陰に染まる自分を感じた。このまま狂ってしまえば良い!このまま滅んでしまえば良い!こんな世界など!情けない、自分など!
身体中が沸騰しそうな勢いで仙気が乱れ、身体を作り替えるようにゴキゴキと骨がなる。もうどうにでもなってしまえと思った時に、声が聞こえた。
―お願いどうか……わたくしの山を焼いて―
それが自分に託された万姫の願い。
―お願いね―
それが自分を救ってくれた万姫の最後の言葉。
狂ってなどいられない。狂ってしまえば使命を果たせない。最後の言葉を叶えることができない。
そうして泰然は陰陽のバランスを取り戻した。
深い絶望と、悲しみと共に。
毎日12時に投稿します。
面白かったらブックマーク、下の評価よろしくお願いします!




