第28談
「奥様を放っておかれるとは……」
精一杯の強がりと共に、後ろに下がると、格子のついた窓がある壁にぶつかった。室内に灯された灯りは幻想的で、十耳魔王の美しい姿をさらに、妖艶に際立たせる。
「妻は眠った。正確に言うと……最中に元の姿に戻ったら悲鳴をあげて、そのまま頓死だ。つまり妻の座がひとつ空いたということだ」
「……奥様にお悔やみを申し上げますわ」
わざだと思う翠蘭には余裕がある。妻達は十耳魔王の本来の姿を見るのも嫌がっていた。寵を受ける立場でありながらそれもどうかとは思うが、それでも最中に見目麗しい姿からあの姿へと変わってしまえばあり得る話だ。
自分はどうあっても鼠だけは逃がそうと、着物の袖を格子窓にかけるがどうしたことか鼠は出てこない。
もしや十耳魔王の妖気にあたり死んでしまったのだろうかと思えば、自分が殺してしまったかも知れないという罪悪感までついてくる。
「お前にその座をくれてやっても良いが?」
口元に笑みを浮かべる、今の十耳魔王の姿は、蠱惑的だ。酷薄な笑みを浮かべる涼やかな瞳にじっと見つめれられると思考が停止し、薄い唇を自分と同じ紅で染めたいという衝動すら沸いてくる。
これが普通の女性であったら、生まれたまままの姿になり、そのまま十耳魔王の腕の中に全てを投げ出していたかも知れない。普通の、女性あったら。
「遠慮申し上げます」
キッパリと強い意志をもって翠蘭は断る。確かに翠蘭は人ではあるが、幸い魅了されることはない。彼女の強い意志と、雪玲の髪紐が、それを拒否する。
「この姿で誘うと、女はすぐに落ちるのだが……お前は違うようだな」
「見た目で落ちる女がお好みであれば、その様な女を攫ってくれば宜しいでのは?ですが、これでも私は【嫦娥の盃】一の妓女。足繁く通わない客と寝る気はありませんわ」
「儂を客呼ばわりか?」
「ええ、乱暴に私を攫った、常識のない無体な客ですわ。ああ、そして貧しいお方なのでしょうね?裕福あれば店に通えるはずですもの――これだから妖怪は!知恵も常識もない男など願い下げですわ‼︎」
キッと睨むと、十耳魔王の美麗な顔が怒りから崩れていく。それでも美しい姿は誰のものなのだろうかと、翠蘭は唾を呑む。これは偽りの姿だ。だから見惚れてはいけないと、自分に自分で言い聞かせる。
「そうやって……怒らせて、我から殺されようというつもりか。それは無策だな、怒りから無体に抱くかも知れないぞ。あまり良い方法ではないな」
それでも十耳魔王は数多の妖怪達を束ねるだけはあるのだろう。翠蘭の思惑には乗らず、横に並んで外を眺める。
「私から堕ちるのを待つとでも?それこそあり得ないこと……」
「すぐ堕ちる獲物はつまらない。ゆっくりと囲い込み、我なくしては生きられないようにするのが楽しいのだ」
「あら?奥様達もそのように?」
「いや、あれらはこの姿になったと同時に縋り付いてきた。この姿に動じないのはお前くらいだ……翠蘭」
十耳魔王の細い指が翠蘭の頬をそっと撫でる。心のうちの動揺を隠し、翠蘭はふわりと笑う。だがその瞳は何も写していない。
だからこそ十耳魔王は笑う。きっと翠蘭は本来の姿であっても同じ様に対応するだろうから。
「興が削がれた、今宵はここで終いにしよう」
踵を返し十耳魔王は扉を出ていく。再び扉に鍵がかかり、今度は聞こえる足音が遠ざかるのを聞き、翠蘭はそのまま崩れ落ちた。
膝はガクガクと震え、涙が自然に床へと落ちる。唇は恐怖から嘆きに似た声が出る。何よりも怖いのは一瞬でも十耳魔王に身を委ねたいと思ってしまった自分だ。
口に手をあて、心の思うままに泣いていると、どこに行っていたのか先ほどの鼠が肩にちょこんと乗っている。
「お前……どこに行っていたの?」
震える声で声をかけると、鼠がチューと鳴いて、その場でくるりと一回転した。
「……え?」
翠蘭は思わず目を見張る。そこには逞しい虎柄の腰巻きを巻いた男性が、鼠の大きさそのままに立っていた。
◇◇◇
「ようやく見つけた」
独りごちる斉天大聖は安堵の息を漏らす。その身体は十耳魔王の館がなんとか見渡せる岩山の頂にある
斉天大聖は蝿に姿を変え、十耳魔王の作る結界を越えようとした。しかしそこは数多の妖怪を束ねる魔王の結界だ。一筋縄ではいかない。そもそも蝿に変わったとしても斉天大聖の神力は大きい。抑えたとしてもこの結界には気付かれそうだと思ったので、抜いた髪に息を吹きかけ、無力な鼠を大量に作り出し十耳魔王の館へと放った。
作り出したのは無力な鼠だ。その大半が駆除されたり、妖怪に丸呑みされたりしたのだが、幸いにも一匹だけが翠蘭に辿り着けた。たどり着いたと同時に十耳魔王が部屋に入ってきた時には万事休すかと思ったが、幸いなことに気付かれなかったらしい。
「いやいや……しかしここまで、翠蘭が良い女だったとは――ぜひ、俺のものにしたいな」
自分の道を探求する仙界の住人と違い、神界の住人は自由だ。人や動物を自分の召使いにするのは良くあることだし、なんなら妻にすることも可能だ。
とは言えど助け出せなければ、それすら不可能だ。
「まったく、泰然はおびき寄せられたのだとして、万姫はどうやってこの結界を超えたんだ……まったく規格外な女だ」
斉天大聖は空を見上げ、息を吐く。自分の無力さを呪い様に。
「悔しいが無事も確認できたし、当面は安全そうだ。分身もいる。一旦帰るとしよう……」
斉天大聖は、その場で雲を作り、空を飛んだ。
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