第26談
いつでもどこでも、酒宴は騒々しいはずなのに、ここは随分と静かなこと……心の中では侮蔑しながらも、それをおくびにも出さず翠蘭は周囲を涼やかな表情で見渡す。
【嫦娥の盃】でも上客ばかり相手にしていた翠蘭から見れば、酒宴は慣れた場所だ。空気を読みながら、お酌をし、相槌を打ち、微笑みで相手を魅了する。適度に酔わせればこちらのものだ。艶いた視線で相手を虜にし、更にこちらのペースに持っていく。酔い潰れさせてはいけない。相手は翠蘭と楽しみたくて来ているだから、相手が望むように、だが自分の思うように持っていくことが必要だ。今まで人相手にしていたこと。そして、それは人ではなくとも通じるらしい。
十耳魔王に攫われて1ヶ月が過ぎただろうか、翠蘭は無事だった。この無事という言葉の中には、人であるということも含まれている。人は陰と陽から成り立つものだ。陰に偏り過ぎても、陽に偏り過ぎてもいけない。どちらかに偏ったが最後、人は人でなくなる。それは生きるもの全てに言えるものだ。
そして妖怪はあえてどちらかに偏ったものだ。それらの精を受けたが最後、人は陰陽のバランスを崩し、妖怪となってしまう。
十耳魔王は翠蘭を攫ったが、現在は花を愛でるように見ているだけで、手折るような無体な真似はしてこない。そのため、翠蘭はこの妖怪だらけの酒宴会場で唯一の人間だ。
この妖気の溢れる場所であれば、通常の人間であれば正気を失い、陰陽のバランスを崩し、妖怪となってしまうだろう。だが、翠蘭はその心根の強さと、更に心の頼りとするために常に手首に巻いていた雪玲の髪紐のお陰で正気でいる。そしてそれ故に十耳魔王に気に入られ、酒宴がある度に呼ばれているのだ。
十耳魔王の住処は深い山間にある。その山間に都の大臣でもかくやと思われるほどの邸宅を作り、夜毎酒宴を開いている。様々な妖怪が思い思いに呑み、食っている。食べているものが人と近しいところだけが幸いだと翠蘭は思う。
「翠蘭お前は実に美しい」
十耳魔王の傍に控えていた翠蘭は、返事の代わりとしてとろけるような笑みを漏らす。
十耳魔王の姿にも慣れた……と思いながら。
十耳魔王は蛇のように面長い顔に、形の違う目が5つある。
人間のような、鋭い切長の黒い瞳がひとつ。
猫のように瞳孔が縦長に延びる、金色の瞳がひとつ。
トンボのように青みを帯びた、飛び出た瞳がひとつ。
カエルのように、横に瞳孔が広がり、ギョロリとした瞳がひとつ。
その中心にある血のように紅い紅玉は、宝石ではなく瞳の様だ。それが最後のひとつ。
口は初め2つだと思っていたが、違うらしい。後頭部の真ん中に小さな口がひとつ。前頭部に全てを丸呑みできそうなほど裂けた口がひとつ。その中にある鋭い牙を持つ口を、先日発見した。
つるんとした顔には、人のような鼻はないが、匂いを嗅ぐときに顔の中央にある横並びの穴がヒクヒクと動くことから、そこが鼻ではないかと思われる。そして、頭の上には見事な意匠の紫金冠がちょこんと乗り、その両脇にはウサギのような耳が垂れている。
この耳だけは何故かかわいらしいと思えるから不思議だと思いながら、翠蘭はにこりと笑う。すると十耳魔王は5つある目の内、4つの目を細める。そのバラバラの目は、心を切り裂く様に冷たい光を放つ。それでも翠蘭は視線を交わす。視線を反けると、恐らく切り裂かれると分かっているからだ。
「我の視線を受け止めるのはお前くらいだな」
「そのような……」
曖昧に視線は逸らさず笑う翠蘭の顎に十耳魔王の手がかかる。
獣の手だ。鋭い爪に、毛に覆われた手。固い毛柔らかい毛が混ざっている、あらゆる生き物が混じった様な……そんな毛感触だ。
「我の妻達もこの姿の時は触られるのを嫌う。目も合わさぬ。姿を変えねばここにいる奴らも同じだ。だが翠蘭は我を真っ直ぐに見る。触っても嫌な顔ひとつせぬ」
ああ、だから十耳魔王の妻達は一歩引いた場所で横に並んで座っているのだと、翠蘭は見る。すると彼女達は憎々しい表情を美麗な顔に映す。
十耳魔王の元に集まった部下達も、この上座に向かって正面を向いていないことは分かっていた。彼らは上座からまっすぐ伸びる様に設けられたテーブルの前で、あぐらをかいて座っている。向かい合った互いの顔を見て酒を酌み交わすが、誰一人十耳魔王の元に酌をする者はいない。
まるで通夜のように静かな酒宴が、十耳魔王の姿を恐れてかと思えば、納得する。誰もが彼を恐れて集まっているのであって、彼を慕っているから集まったのではないのだ。
だが、そんな思いをおくびにも出さず、翠蘭がニコリと笑う。
「皆は貴方様の威光に畏れ慄いているのですわ」
「つまりお前は我を畏れていないのだな?」
「私が恐れているのは、人として死ねないことのみですわ」
鋭い視線を送ると、興に乗ったのだろう。建物を揺るがす勢いで高らかに笑い出した。
まるで裸の王様だ、誰も彼に意見をすることはできないのだろう。
「歌え、翠蘭……」
それでも己の姿を恥じているのだろうか……十耳魔王がブルンと体を捻ると、見目麗しい男性の姿に変わった。その姿でやっと、彼の妻たちも、更に部下たちまでもが息をつけたとばかりに、あからさまにサワサワと話し出す。
情けないこと……そう思いながら、翠蘭はすっと立ち上がる。
今日も無事に人である自分を誇りながら。
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