第21談
それの訪れは突然だった。
それを見た誰もが、恐怖から声を出すことすら出来ない。大事な商売道具である女達を守るために雇われた男達は腰を抜かして、小便を垂らす者までいる。女達は憐れにもその姿を見ただけで、気を失ってしまった。
次々と倒れていく女を、それは品定めしていくように持ち上げては、乱暴に床に放り投げる。
そんな我が物顔で妓楼の中を歩き回る、それの行く手を阻んだのは、派手派手しい姿をした老婆だった。
「ここには翠蘭はいないよ。あの子は良い人ができて遠くに行ったんだ!」
ニヤリと笑うそれは、人を人として思っていないような、人と虫ケラも同じだと思っているような酷薄な瞳を老婆に向ける。だが誰もがそれとまともに向き合うこともできない中、それでも立ち塞がる老婆には興味を持ったのだろう。天井にも届かんばかりの巨体を、ぶるんと一振りすると、途端に見目麗しい青年へと変わった。
灰色の髪は仙人が住う神聖な山のようで、金色の瞳は大地に恵みを与える太陽のようだ。先ほどとは違う高貴な姿に、老婆―仮母―は息を呑む。
まるで神界に住う神のようだ……。人とは違うその姿にうっとりととした視線を向けると、口が言ってはいけないことを勝手に喋る。
「翠蘭は1階に。米櫃の中に隠しました」
あっと、口を塞いだ時には、もう遅い。再び醜悪な姿に戻ったそれが、妓楼を壊す勢いで大笑いをする。
「感謝するぞ!婆あ、礼としてひと思いに殺してやろう!」
それがその鋭い爪を持った手を振り上げると同時に、天界の神すら魅了する声が響いた。
「私はここだ、これ以上の狼藉は許さないよ!」
それが廊下の先を見ると、抜け出してきたのだろうか、服も髪も乱れた翠蘭が息を切りながら立っていた。
「ふむふむ、この姿の儂を見ても気絶しないとは……さすが【嫦娥の盃】一の美女」
翠蘭はふわりと笑う。ここで逃げたら雪玲の姉として面目が立たないと思いながら。
「お褒めに預かり光栄ですわ。ですが私の客となるのでしたら、何度か通って頂かないとお目通りは叶いませんのよ?」
「それは人の世の理。儂には関係ないこと……」
「ここは人が住う国、人が営む店。人の理に従うべきでは?」
それは翠蘭に近づき、覗き込むように見る。負けずと翠蘭もそれを見る。
袖の下の腕はカタカタと震えている。足も同じだ。折れそうな心を奮い立たせるため、雪玲が残した髪紐をギュッと握りしめる。今の恐怖に向き合うための、心の支えだ。
「声だけではなく、その意志の強そうな切れ長の瞳も良い。流し目が実に美しいな。度胸も素晴らしい。儂と目を合わせて話すとは。ただの興味本位だったが……これは良い」
それが、ダンっと大きな足で床を強く蹴ったと同時に廊下に光が広がった。誰もが目を開けていられないほどの眩しい光。
「翠蘭!!」
仮母の叫びが廊下に響き、そして目を開けた時に、それと翠蘭の姿はなかった。まるで始めからいなかったかのように。
◇◇◇◇
「ムムムむ……」
額に手を当てじっと睨んでも、見えるのは空に浮かぶ山と雲ばかりだ。
「師匠……なんにも見えませんけど?」
雪玲は後ろで腕組みをする泰然を見る。
雪玲が仙界へ来て、2ヶ月が過ぎた。マグマの中に落とされたり、氷漬けにされたり、針山の上に寝させられたり、錘をつけて水中に沈められたりと、常人では理解できない修行のオンパレードだったが、それでも雪玲は無事に生きている。仙人はマゾ体質でないとできないと、師匠や峰花に文句を言うが、誰も同意はしてくれない。
「目で見ているからダメなんだ。千里眼というのは、神通力の一種。呪でも術でもない。先を見通す気持ちが必要だ」
「出たよ……、またそれだ。仙人は何でもかんでも出来ると思えば出来るだ。結局全部が精神論じゃんか。出来ると思ってできていたら、師匠なんて必要ないじゃん」
「精神論であっても、導かないと間違った使い方をするだろう。一歩間違って邪念が増幅すると、道士だって妖怪と化す。そもそも道士から仙人に至る過程として、解脱をしなければいけない。だが解脱に邪念が混ざっていても妖怪と化す。そうならない為にも仙人が導くのだ」
「邪念……邪念って結局なんなのさ」
泰然は雪玲に近づき、頭をガシッと鷲掴みにする。
「お前は何を見たいと思って、先を見ようとしているんだ⁉︎」
その額には青筋が立っている。どうやら仙人は人の心すら見通せるようだ。そう思うと雪玲は見たいと思っていたことをそのまま口に出す。
「曜国の皇帝と後宮の女達とのまぐ――イッター!!もう暴力反対!」
「そんなモノばかり見ようとするから、邪念だらけになってうまく行かないんだ!」
「何でさ!男女のまぐわいは自然の行為だ!斉天大聖様だって自然なことだって言ってたよ」
「じゃあ、お前はその行為をしている自分を見られたいのか?もし誰しもが見て良いと思っているのなら、もっと大っぴらにその辺で繰り広げられていても良いんじゃないのか?そもそもお前だってコソコソ隠れて見ようと思っている段階で、悪いことだと思っているじゃないのか?」
「う゛――っっ」
それを言われてしまえば、その通りだとしか言えない。自分がやられて嫌なことはしない。そんなのは常識だ。
「もっと、有益なことを考えろ!今日は以上だ」
泰然は踵を返して、黎明山に帰っていく。
「ちぇっ、師匠はずるいや」
本当に見たいもの……それは分かっている。雪玲は瞼を閉じて、その姿を思い浮かべた。
「姐姐……」
ぽとりと落ちた何かが、雲の上で溶けた。
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