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幸福な王子

作者: 有ずき

 イーディア国の子供たちが大好きなおとぎ話は、いつもこんなふうに始まる──

 

 「あれ」が満面の笑顔で現れたのは、父の葬儀も終わり、新しい屋敷に引っ越した翌朝だった。

「こんにちは、レアルさま。ぼくはフェイと言います」

 そう言って金色の小さな頭をぺこりと下げると、こう続けた。

「あなたのお世話をするよう言い遣ってきました。どうぞよろしく」

 

「はぁ~~ぁ」

 春の陽光が燦々と降り注ぐバルコニーで、レアルは両腕と体を思いっきり伸ばし、盛大な欠伸を披露した。年のころは十七、八、腰まである黒髪を無造作に束ね、白い肌に、黒曜石のような輝きを持つ黒瞳が印象的なその容貌は、年頃の娘らしく着飾れば立派な淑女になれるだろう。が、洗いざらしの清潔なシャツとひざ下のパンツに包まれた、細身ながら引き締まった四肢と体躯は、ただ美しいというありきたりな言葉では物足りず、むしろ草原を駆ける野性の獣のように精悍だった。

「気持ちよさそうですね、レアルさま」

 こちらは十一、二歳か、まだあどけなさも残る従僕らしい少年が、紅茶と軽食を載せた盆を持って微笑んでいる。肩にかかる金色の髪と、瞳の色は、右は淡青だが、左は髪に隠されて見えなかった。

 広くはないがよく手入れされた庭園を見下ろすこのバルコニーはレアルのお気に入りで、そこで蔵書を読みふけるのが彼女の日課であり、そこに毎日のように茶菓を運ぶのがこの少年、フェイの日課だった。

 しかしレアルに笑顔はなく、フェイが大理石のテーブルにカップや皿を移す様子を、欠伸の後遺症なのか、とろんとした目で眺めている。そこいらの男なら都合の良い勘違いをしてしまうほど蠱惑的な瞳だが、そんな下心を持ったまま彼女の「射程内」に入ろうものなら、哀れな獲物のごとく喉笛を噛み切られかねないことをフェイは知っていた。

「どうなさったんですか、レアルさま。あ、もしかして今日の昼食、お気に召さなかったんですか。でも、いつものように全部……」

「……ねぇ、フェイ」

「はい?」

「あんた……だれ?」

「は?」

 フェイが戸惑うのも無理はなかった。このふたりがひとつ屋根の下で暮らし始めたのは昨日今日のことではない、「今さら」の質問であった。

 そんな沈黙のなか、レアルの瞳は徐々に、しかし確実に強く、そして厳しくなっていき──突然、立ち上がったと思うと、まさに一瞬のうちにフェイの顔前に迫った。そして瞳だけを動かし、少年の小さな体を上から下、隅から隅まで眺め回したあげく、やがて気が済んだのか、ふたたび椅子に腰を落とすと小さく呟いた。

「やっぱり……」

「あ、あの、レアルさま……?」

 恐る恐る声をかけるフェイに、レアルはちらりと、しかし射るような鋭い視線を向けた。

「……ねぇ、フェイ」

「は、はい?」

「あんた……このまえ、怪我したわよね。うちに迷い込んだ猫を捕まえようとして」

「はい、確かに……」

 二日前のことである。屋敷の庭に大きな野良猫が入ってきた。そいつはこの界隈では有名なボス猫だったのだが、そのときレアルは昼寝中で、見付けたフェイが動物好きの彼女に見せようと餌で釣ろうとしたものの、あえなく反撃に遭い、餌だけ取られたうえに顔や腕を引っかかれたのである。もっとも、その騒ぎで当の主人は目を覚まし、「レアルに見せる」という目的は果たせたのだが。

 そして翌日、フェイは「いつものように」月に一日だけの暇をもらい、行き先も告げずに屋敷を出た。だが、今朝、帰ってきたときには、彼の体には傷ひとつなかったのである。

「あんたがどこへ行っているかなんて興味もなかったわ──今までは、ね。でも、あらためて考えれば、この一年、育ち盛りの少年がまったく変わらない。背も伸びない、顔つきも変わらない、腕は枝のように細いまま。まぁ、料理の腕は上がったみたいだけど……」

「おかげさまで」

「とにかく! あんたはこの一年、なんにも変わってないのよ。わたしとしたことが、やっぱりあの時にはっきりさせておくべきだったわ。フェイ、あんた、何者?」

 呼吸ひとつ乱さず、相手にまったく反撃の隙も与えず、言いたいことをはっきり言い切る。レアルの十八番である。はたから見ていて、ときには相手が悪くても同情すらしてしまうことがあるのは、目撃者の共通の認識だった。

「わ、わかりました。でも、ぼくだってちゃんと考えてのことなんですよ」

 フェイはとりあえずレアルから一歩、距離を置き、息をついた。

「だって、女性がお屋敷にたったひとりで住むなんて、物騒──て、レアルさまなら大丈夫か」

「……なんか言った?」

「い、いえ。とにかくレアルさま、お料理できないでしょ。お掃除やお洗濯は、町のおばさんたちに頼んでいるからいいとしても、レアルさま、放っておいたら、本に夢中になって食事も忘れてしまうんだから。とは言え、今度は年頃の女性が男とふたりきりって言うのも何を噂されるかわからないし。だから、ぼくはちょっとした“おまじない”を使ったんです」

「おまじない~?」

「そう、ぼくが『フェイ』であるための。だから、それを解いてもらうまでは歳もとらないんです。ただ、それって満月のたびに“更新”しないといけないので……あ、怪我が消えてしまったのは、その副作用みたいなものだと思います」

「………」

「そうゆうわけなので、年齢はご想像にお任せします。たぶん、12歳くらいだとは思うんですけど。ね、それよりお茶にしましょうよ。冷めちゃう──」

 振り向こうとしたフェイを、しかしレアルは逃がさなかった。猫の子をあしらうように襟首をつかんで、その顔を自分のほうに向けた。

「歳のことはごまかしたつもりだろうけど、もっと肝心なことが残ってる」

「え?」

「おまじないって言ったわよね。わたしだってこの国の人間だもの。呪術だの魔術だのの類は知ってるわ。でもね、人間の歳を止めるなんて聞いたこともないし、少なくとも、そこここの術士にできるもんじゃないわね。そんなことができる術士を知っているなんて、やっぱり、あんた……何者?」

 ふたりの間にこれまでにない張りつめた空気が漂う──が、それは長くは続かず、フェイの屈託ない笑顔で一瞬にして雲散霧消した。

「じゃ、こうしましょう」

 フェイが自分の左の小指を陽光にかざす。途端、その爪がえも言われぬ鮮やかで美しい色を見せ、それにはレアルも思わず心を奪われた。

「どうです?」

「──え、た…確かにきれいな色だけど、それが何よ」

「当ててください、この色」

「はぁ?」

「この色が何かを見事に当ててくれたら、ぼくも自分のことを明かします。どうです? おもしろいでしょ」

 にっこり笑ったフェイの顔に、その瞬間、勢いよく飛んでくるものがあった。

「こっちが真剣に訊いてるのに──まったく、ふざけんじゃないわよっ!」

 手近な本──それでも数あるうちでなるべく薄いものを選んで投げつけると、レアルはぷんぷんしながらバルコニーをあとにした。

 その足で寝室に入ったレアルは、まっすぐに寝台に向かい体を投げ出した。天井を眺めるうちに気も静まってきたころ、脳裏にはあの日のことが浮かび上がっていた。

「一年、か……」

 我知らず呟き、瞳を閉じる。誰もが一生のうちに必ず幾度かは迎えるだろう転機は、確かにあのとき、彼女に訪れたのだ。

 レアルはれっきとした貴族の娘である。それは今も昔も変わらない。変わった──いや、彼女がみずから変えてしまったのは、自身を取り巻く環境である。

 一年前、レアルが十六になったばかりのある日、父親である侯爵が突然に他界した。物心つくまえに母親は出ていき、親族と言えば爵位や財産への欲心を隠そうともしない遠縁ばかり。ひとりぼっちの少女には、だが一方で輝かしい未来が約束されていた。この国の王子との婚約──つまり、未来の王妃の座である。

 しかし、このとき信じがたいことが起こった。

 父の葬儀の慌しい準備のさなか、内密に登城したレアルは、国王やその側近に対してこう言い放ったのである。

「婚約の儀、恐れながらご辞退申し上げます」

 居並ぶ重臣の誰もが呆然と言葉を失くすなか、レアルはさっさと退城した。婚約の件は宮廷でもごく一部の者しか知らない内々の決定だったため、幸いにもレアルに咎めはなかった。もっとも、王家が臣下に一方的に婚約を破棄されるなど、面子にかけても公にすることはできないが。

 そして、侯爵としての権威と礼式だけはきっちり守った盛大な葬儀を執り行い、その後の行動は、およそ常人には理解しがたいものだった。

 まず、都の邸宅に仕える使用人をすべて解雇したのである。むろん、ひとり一人の身の振り方に責任を持つことは忘れなかった。時を同じくして邸宅を売り、それを元手に当面は困らないだけの金銭を持たせたうえで次の働き口を紹介し、年老いた執事や庭師たちには領地にある屋敷を、その管理という名目で隠居所として提供した。さらに小作人たちには土地を分け与え、あげく当の本人は、先祖代々の墓所がある一部の領地と、それでも一人の生涯分には十分な資金だけを手元に残し、市街にほどよい広さの屋敷を買うと、爵位の証である徽章と身の回りのものだけを持ってさっさと移ったのだった。

 宮廷人だけでなく都中の者たちも驚き、呆れ、口さがない者は父の死のショックで気がふれたのではないかと噂するほどであった。

 が、彼女は知っていたのである、この「名門」たる家の内情を。どうにも父を初め、数代前からこの家の男たちは散財を繰り返し、かつては溢れんばかりにあったはずの富もほとんど使い果たしていた。その情勢を一気に挽回しようとしたのか、父は何を思ったのか、自分を王妃にすることに執念を燃やした。貴族ならば誰もが望む、王家の外戚という究極の立場──そのためにどれだけの金が使われたのか知りたくもなかった。それでも目的を果たした「つもり」だった父は幸せだっただろう。その途端、張りつめていたものが切れたように急死したとしても。

 しかしレアルは違った。父の生前は止めてもやめるはずがないから放っておいたが、みずから望んだものでもなければ、そもそも王妃なぞ性に合わないのだ。貴族の娘は勉学よりも、いかに高位の男に見初められるかを競うような因習の中で、黙って微笑んでいれば誰もが振り向かずにはおかない美貌と気品を持ちながら、はたしてこの姫の「とんでもない」性格は宮廷では知らぬ者はいなかった──だから、よけいに散財する羽目になったのかもしれないが。それでもレアルを含めた周囲の予想に反し、最終的には国王の一存で将来の王妃の座をつかんだはずだったが、父侯爵の後ろ盾もなくし、一生を宮廷に「飼い殺し」にされるなぞまっぴらだったのだ。

 彼女は自分の転機を逃さなかった。もともと情の薄かった父とはいえ、その死を喜ぶつもりは毛頭ないが、変えようがない「現在」を「未来」に向かってどう活用するかは無限に自由である。

 こうして、あとの始末におよそひと月をかけ、レアルがこの屋敷に引っ越したその翌朝、それは現れたのだ。

「こんにちは、レアルさま。ぼくはフェイといいます」

 あのとき、なぜ見知らぬ少年を疑いもなく受け入れてしまったのか。おそらく屋敷を離れた誰かが遣してくれたのだろうと思ったためもある。“文武両道”には秀でていても、およそ家事なぞ縁のなかったレアルには、この一年、貴重な存在だったことは確かだった。

 

 それから数日は何事もなく過ぎていった。変わったことといえば──

「レアルさま?」

 屋敷の一番広い部屋で、数十人の子供たちの中で一番前に座っている少女が遠慮がちに声をかけた。

「朗読、終わりました」

「あぁ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたみたい」

 今日は、レアルが町の子供たちに勉学を教える日である。学校はあっても、様々な事情で通えない子供たちを集めて、読み書きや計算を教えているのだが、普段なら、生徒より先生のほうが楽しそうなはずなのに、それはずいぶんと珍しいことだった。

「はい、今日はこれで終わり。気を付けて帰るのよ」

「ありがとうございました!」

 すべての子供たちが部屋を出たのと入れ替わりに、フェイが大きな駕篭を抱えて満面の笑顔で入ってきた。

「レアルさま、見てください。また野菜をもらいましたよ、ほら、こんなに!」

 レアルは子供たちに勉強を教えるだけでなく、高価な書籍を買う余裕のない青年たちに蔵書を貸し与えたり、農繁期にはみずから畑に出て、農作業もいとわなかった。そして、それはここ一年のことではなく、父の生前から──その頃は、貴族からは「とんでもない」とか、町の者からは「貴族の気まぐれ」などと言われることもありながら、続けていたことだった。卑怯な真似や理不尽なことには容赦ないが、社会的に弱い者には親身になるその人柄が、今では広く慕われていることもあり、お礼として町の者たちはたびたび庭の手入れや差し入れをしていたのだ。

「やっぱり採りたては色艶が違いますよ」

 その言葉にちらりと目を向けたものの、自然の恵みを凝縮した鮮やかな色も今のレアルのお気に召すことはなかった。立ち上がり、無言のままフェイのかたわらを通り抜けた。

「レアルさま?」

「ちょっと出かけてくるわ、夕暮れまでには戻るから」

「はい。じゃあ、それまでに夕食を準備しておきます」

 変わったことといえば、彼女の外出が増えたことくらいである。それまでも、屋敷にある蔵書はほぼ読破しているため、王立の図書館や町の本屋などへたまに出かけることはあったが、その頻度がほぼ毎日になったのだ。ここ何日か、色彩に関する専門書に限らず、多少なりとも手掛かりになりそうな書籍は片端から手に取り、また外に出ては目に付くものに糸口を求めた。が、結局、目ぼしい成果はなかったのだ。

 フェイに見送られ、愛馬に乗って門を出たレアルは、屋敷前の通りの陰からこちらを伺う人影を認めたが、いつものように無視して駆け出した。街中では彼女と気付いた人間と言葉を交わしたり、市場で果物をもらったりしながら歩みを進めていたが、結局、何も見つからないまま城下を通り抜け、いつしか郊外の田園地帯にまで足を進めていた。

 街道そばの木陰で馬を下り、太い幹に身体を預けると、水筒の水を口に含みながら天空を見上げた。緑の中を駆け抜けた風は心地よく、汗ばんだ彼女の心身を蘇らせた。しかし、どれとも違うのだ。蒼天よりも青く、新緑よりも鮮やかな緑──光の加減によってその色を変える、今までに見たこともない煌き、それがあの色だった。

 ひところ休むと、レアルはもう吹っ切れていた。そう簡単に見つかっては面白くないとも思う。そもそも探索というのは見つけるまでが楽しいのであって、たとえ「おまじない」で答がすぐ出せると言われても断るだろう。

 すっくと立ち上がり、ふたたび愛馬に跨ったそのとき、広く開けた視界の端に何かを認めた。馬から下りたレアルが草陰に近付くと、くたびれた旅装束をまとった老婆がうずくまっていた。

「おばあさん、どうしたの?」

 膝を折り、顔を近付けて呼びかけるも、返事はない。

「とりあえずわたしの家に行きましょう。ゆっくり休むといいわ」

 レアルは水筒を老婆の手に持たせると、振り返り、愛馬に来るよう合図した。途端、不意に背後から腕を引っ張られた。

「お待ちなされ」

 うつむいたまま老婆が呼びかける。ずいぶん明瞭な、しかも威厳すらある声音は少なからず意外だった。

「おまえさま、何やら探し物をしとるじゃろ」

「え?」

「もうすぐ王城で大きな夜会がある。それに出てごらん。求めているものも大切なものも意外と近くにある。きっとそれに気付くよ」

「ちょっと、それ、どうゆう……」

 それ以上、問い質すことはできなかった。突然の旋風にレアルは思わず腕で顔をかばい、視界が回復したその前にはただ虚空が広がるばかりだった。

 帰り道の記憶はない。フェイの出迎えも上の空のまま、レアルがようやく我に返ったのは夕食も半ばを過ぎたころだった。

「レアルさまってば!」

「わっ!」

 手からすべり落ちしそうになったグラスを反射的につかむ。ほっとひと息つく間もなく、レアルはフェイに厳しい視線を向けた。

「なによ、急に大声出さないで」

「急にじゃありませんよ。さっきから何度も呼びかけてるのに、もう」

 フェイもまた不満気な顔を見せる。しかし、それはすぐに心配そうな表情に変わった。

「お帰りになってからずっと上の空ですよ。何かあったんですか?」

「べ、別に……」

 レアルは思わず視線を外したが、それが答のようなものである。フェイの無言の追求に、早々に降参した。

「そうよ、あったのよ、変なことが」

 レアルは郊外で遇った老婆のこと、そのときに言われたことを話した。魔術師とは名ばかりの、曖昧を売りにする占い師や子供だましの奇術師など珍しくもないし、レアルは過去、少しでも淑やかになってくれればという、父の涙ぐましい試みである「術」をことごとく跳ね返した、文字通りの「術師泣かせ」である。それが、あの老婆に限っては抵抗できない何か強いものを感じたのだ。

「わたしらしくないわね。こんなこと、いつまでも気にするなんて」

 話すことで心の整理ができたのか、レアルは自嘲気味に苦笑した。対して、フェイもまた笑顔を返す。

「そうですよ。ところで、ひとつ──あ、ふたつほどお訊きしたいことがあるんですが」

「なによ、改まって」

「レアルさま、お父さまが亡くなられてから王子との婚約を破棄されたでしょ。でも、もしお父さまがご存命だったら、本当に王子と結婚なさるつもりだったんですか?」

「そうね~」

 フェイの瞳がやけに真剣なのには気付かず、レアルは少し考えてから言葉を続けた。

「今思えば、試してみるのも悪くなかったかもね。とりあえずやってみなきゃ、失敗もできないもの。まぁ、親の言うなりに顔も知らない相手と結婚するような男じゃ、遅かれ早かれイヤになって、さっさと国外逃亡でもしていたでしょうけど」

「………」

「で、なによ、ふたつめは」

「あ、は…はい。ひとりになられたのち、財産を整理されたことは、レアルさまの性格から理解できるんですけど、なぜ爵位だけはどなたにも譲られなかったんですか? もしかして、実は結婚を考えていらっしゃる相手がいるとか……」

「まさか」

 フェイは主人の気に障らないよう恐る恐る尋ねたが、当のレアルはあっけらかんと一笑に付した。そして、これまでにない冷徹な視線をフェイに向けた。

「あんたもこの国の人間なら知っているでしょ。ここでは女は爵位を継げないってこと」

 フェイは黙って頷く。この国では財産はともかく、爵位は男子のみに受け継がれるものとされ、女子しかいない貴族は早々に婿を取ることで血統と家名を守った。レアルのように、娘が未婚のときに父親が死亡した場合、二十歳までに結婚するか、でなければ一族の男子に爵位を禅譲するしかなかった。

「父が死んで、一族みんなが虎視眈々と爵位を狙っていたわ。あんたも何度も見ているでしょ、陰からこそこそとわたしの動向を伺っている連中を。本当は喉から手が出るほど欲しいくせに、わたしに万が一のことでもあれば、爵位は国に返上されるし、それが怖いんでしょうね。互いに牽制しあって、だーれも指一本出せないの」

 レアルは小さく、だが、およそ人としてこれ以上ないほどに冷たく微笑んだ。それは明らかに楽しんでいた。爵位という餌をぶらさげて、そこに群がる人間の欲望を。

「わたしが結婚するかと言えば、まずしないでしょうね。まして、爵位なんぞのためにはね。二十歳になったそのときは……くじ引きじゃ芸がないし、そうだ、あの徽章を例の大きな猫の首にでも付けて、街にでも放そうかしら」

 レアルはからからと笑った。爵位になぞ何の興味もないが、そもそも女性が爵位を継げないことが彼女には納得できないのだ。そして、この主人なら冗談ではなく本当にやってしまうことが、この一年で少年にもよくわかっていた。

「ま、そうゆうこと──でも、初めてね、あんたがこんなことに興味を持つなんて」

 レアルは喉を潤しながら、珍しく物思いにふけるフェイを見た。

「いえ、ただ、ぼくもこの国の人間として、もしかして王妃さまになられていた方の気持ちを知りたいなと思って。それに……」

「それに? なによ」

「そうだ! レアルさま、デザートをお出しするのを忘れてました。今日は新作に挑戦してみたんですよ」

「ホント? 早く見せて!」

 このとき、レアルはすでに自身の最後の問いかけを忘れていた。

 

 くだんの老婆の予言どおり、王城から夜会の招待状が届いたのは半月ほど経ったころだった。普段なら即、開封すらせず廃棄するレアルであったが、老婆のことだけでなく、フェイが今回に限って行きたいと駄々をこねたのと、王城の中や、貴族の煌びやかなドレスや宝石にあの色の手掛かりがあるかもと期待し、物見遊山のつもりで出かけることにした。

 夜会当日の夕刻、レアルの衣裳部屋の前を行ったり来たりするフェイの姿があった。

「いいわよ」

 部屋の中からの声に、フェイは期待に胸を躍らせて扉を開いた、はずだった。次の瞬間、少年の小さな胸は冷水を浴びせられたように固まった。

「レ、レアルさま、それって……」

「なによ?」

 フェイの目の前には、女性用の細剣まで佩いた、凛々しい正装姿の騎士が立っていた。そこここの青年貴族より、よほど若い娘たちの視線を釘付けにしそうである。

「あの、まさか、その衣装で出かけられるんですか?」

「まさかとは何よ。あんたこそ、まさかわたしにヒラヒラのドレスでも着せようと思ってたの?」

「そ、そりゃぁ……」

「いやよ。あんな動きにくい、しかも胸も腰も締め上げたようなもの。何も食べられやしない」

「だって悔しいじゃないですか。レアルさまがほんとは誰よりも綺麗だって見せてやれるのに。このままじゃ、やっぱりお転婆だって思われて……」

「間違ってないもの。それに、誰になんと思われようと平気よ、わたしは」

「ぼく、ぼくは……」

「ちょっと、フェイ?」

 レアルはフェイが泣きべそをかいているのに驚いた。泣き落としになぞ心を動かされるレアルではないのだが、また今回に限って、この少年の期待に沿ってやるのも悪くないという気になっていた。

「わかったわよ。でも今回だけよ、あんたのわがままを聞いてあげるのは」

「はいっ!」

 レアルは勿体ぶったように衣装の群れに向かい、フェイは満面の笑顔で素直に喜んだ。日頃、自分がどれだけわがままを通しているかは自覚がないらしい。

「あ、待ってください。ドレスだったら、これを。それから靴はこれで、アクセサリーはこれとこれとこれと──」

 フェイはレアルを追い越し、手早く必要なものを取り出してきた。主人がいつも脱ぎ散らかしたままの衣装の片付けや整理は彼の仕事だから、物の在り処は持ち主よりも熟知しているとはいえ、それはどう見ても以前から計画していないとできない手早い行動だった。

 そのことについては特に触れぬまま、レアルは着替えを済ませ、同じく礼服をまとったフェイの御する馬車で王城に向かった。

 不夜城のごとく灯火に照らされた王城にはすでに多くの貴族が集まり、各々に挨拶を交わしていた。しかしレアルが到着するやいなや、その視線がいっせいに彼女に吸い寄せられた。社交界の付き合いが嫌いなはずの意外な人物の登場に驚いただけでなく、フェイの狙いどおり、他の姫たちを圧倒するほどの美貌と気品に目を奪われていたのだ。

「ね、やっぱりレアルさまが一番きれいですよ」

「あ、そ、ありがと」

 もっとも喜んでいるのはフェイのほうで、レアルは相変わらずあの色の手掛かりを探していた。言葉をかけてくる相手には完璧な礼儀をもって応対するものの、基本的には探すか食べるかのどちらかである。ひととおり見回ったあと、多少なりとも疲れたレアルは、その足を休息用の小部屋に向けた。

「フェイ、ちょっと休んでくるわ。それからもうひと回りして帰るから」

「はい。じゃあ、ぼく、馬車を寄せておきます」

 ダンスが始まったのか、広間から聞こえる音楽に耳を傾けながら、レアルは部屋のソファに体を預けた。こんな疲労感は珍しかった。最後と思っていた探し場所でも目ぼしい物は見つからず、どっと力が抜けた気分だった。

「ま、いいか」

 レアルは、しかしあっさりと立ち直った。負け惜しみでなく、フェイはフェイだ、と思いながら、ふと室内に視線を巡らせたときだった。

 蒼天よりも青く、新緑よりも鮮やかな緑──

 一瞬にしてレアルの瞳を捉えたのは紛れもなくあの色だった。そして、その色が彩るもの、それは──

「まさか──」

 思わず呟いたそのとき、ノックもなく部屋に入ってくる者があった。突然の気配にとっさに身構えたが、そこにフェイの姿を見つけ、レアルは小さく息をついた。

「どうかなさいました? レアルさま」

「べ、別に」

「馬車の準備ができました。そろそろお帰りになりますか?」

「うん……」

 珍しく煮え切らないレアルに首をかしげながら、フェイは広間から聞こえる音楽に気付いた。

「レアルさま、踊りませんか。ぼく、ちゃんとステップ踏めるんですよ」

「何よ、急に」

「いいじゃないですか、ね」

 フェイがにっこり笑って手を差し出す。見慣れているはずの少年の笑顔にどこか抵抗できないものを感じ、レアルはゆっくりと腰を上げた。

 しばらくの間、小さな部屋でふたりだけのダンスが繰り広げられる。身長差は如何ともしがたいが、その動きには観衆がいれば感嘆の声を上げただろう。特にフェイの身のこなしにはレアルも少なからず驚かされた。平民の少年には不釣合いな、それは秀逸とも言えるものだったのだ。

「ねぇ、フェイ」

 あるとき、踊りながらレアルが話しかける。しかし、その目はずっと彼の顔から逸らされたままだ。

「なんですか、レアルさま」

「あんたの、あの色……あの爪の色のことだけど」

「あぁ、あれですか。どうです、見つかりました?」

「うん……あれって、もしかして……あの壁の……」

 レアルが視線を壁に向ける。そこには一枚の肖像画が掛けられていた。

「あの絵の、王子の瞳の色──」

「………」

 不意にフェイの動きが止まった。慌てたのはレアルである。

「フェ、フェイ? 何よ、ただの冗談よ、じょうだん……」

「レアルさま……」

 フェイが微笑んだ瞬間だった。少年の全身がまばゆい光に包まれた。思わず後退さったレアルが、その光が消えたあとに見たものはひとりの青年の姿だった。

 レアルを上回る長身に、肩にかかる金色の髪と、穏和で秀麗な容貌に輝く右目は淡青、そして左目は──言葉を失うレアルに微笑みかけたのは、紛れもない、肖像画の人物だった。

「やっと見付けてくれましたね」

「………」

「ぼくはフェスティール、この国の王子です。あなたは元婚約者には終始、興味を示してくださらなかったから、顔は覚えておられなかった。それがぼくには好都合だったのだけれど」

「………」

「レアルさま、ぼくは……」

 フェイ──フェスティールがレアルに近付き、「射程内」に入った瞬間だった。

 ボカッ!

 鈍い音とともに、一国の王子は壁まで殴り飛ばされていた。

「ふざけんじゃないわよっ!」

 憤怒の化身となったレアルは振り返ることもなく部屋をあとにし、みずから馬車を跳ばして屋敷に帰ったのだった。

 かたや、ひとり残されたフェスティールには音もなく近付くものがあった。その気配と押し殺したような笑い声には覚えがあった。顔を向けることなく、ため息をつく。

「ばあやだろう、レアルさまが街道で遇ったというのは」

 衣装こそ違えど、そこに立っていたのは、確かにレアルに不可解な示唆をした人物だった。王城の厨房係の母を持つ庶子として生まれた王子に、父王が守り役として付けた国随一の術士である。

「そろそろお約束の一年が経とうとしておりますのでねぇ。陛下とて、いつまでも殿下のご不在をごまかされるのは骨が折れているご様子。それにしても、どうやら噂に違わぬ姫君らしいですな」

 その楽しそうな様子を横目に、フェスティールはようやく腰を上げた。

「して、どうなさるおつもりですか?」

「決まっている」

 訊くまでもない──そんな意思が読み取れるような不敵な笑みが、青年の端正な表情を横切った。

 その頃、レアルは屋敷に着くやいなや衣装を脱ぎ散らかし、寝台に直行していた。怒りの熱は収まらないままだったが、満腹と疲労はいつしか彼女を深い眠りの中へといざなっていた。

 そして翌朝、正確には昼近くになってレアルは目を覚ました。空腹よりもやたらに喉が渇き、寝覚めはけっして良いとは言えなかった。

「も~、起こしてくれればいいのに」

 ぶつぶつ言いながら体を起こし、着替えをしようとしたとき、昨夜の記憶が蘇った。もう起こしてくれる人間も文句を言う相手もいないのだ。虚脱感を引きずりながら階段を下りていたとき、厨房のほうから漂う匂いに気付いた。辿るように足を運んだ先の食堂には、いつものように整えられた食卓と、そしてフェイの姿があった。

「あ、レアルさま」

 入り口で呆然と立ち尽くしているレアルに気付き、フェイがいつものように笑顔で寄ってくる。

「遅かったですね、ぼく、もうお腹ぺこぺこですよ」

「──あんた、どこまで馬鹿にすれば気が済むの!」

 レアルの手が振り上げられる。しかし、フェイは避けなかった。足を踏ん張り、その平手を正面から受けたのだ。その態度にレアルのほうが驚きを隠せない。

「フェイ、あんた……」

「あなたがお怒りになるのも当然です」

 頬を腫らしたまま、フェイが寂しそうな苦笑を浮かべる。

「でも、どうかお願いです。ぼくの話を聞いてください。ぼくは、けっしてあなたをからかったり、まして侮辱するためにここに来たのではありません」

「なによ、今さら……」

「確かに、最初は興味半分でした。あなたの噂は聞いていたけれど、まさか婚約まで破棄するなんて何を考えているんだろうって。それで父に頼み、しばらく暇をもらったんです。物好きな父ですが、あれでもあなたが宮廷、ひいてはこの国に新しい風を吹かせてくれることを期待していましたから、何か学ぶものがあるだろうと思って許してくれたのです」

「………」

「この一年、楽しかった。正直言って、ずっとこのまま『フェイ』でいられればとさえ思ったこともあります。ぼくは……そう、あなたを本当に愛してしまったから」

 あまりに突然の、それも少年の姿で告白され、レアルは当惑のあまり呼吸が止まるのさえ感じた。今は表情を変えないだけで精一杯だった。

「でも、ぼくは王子ゆえに『フェスティール』に戻らなければならない。だから、最後のお願いです。三日後の夜、王城のあの部屋でお待ちしています。もし来ていただけないときは、二度とあなたの前には現れません。それで、あなたを騙していたことをどうか赦してください」

 フェイは最後に微笑むと、背を向け、ゆっくりとその場を離れた。しかしレアルは動けぬまま、ただ遠ざかる足音を聞いていることしかできなかった。

 その日のうちに宮廷から発布がなされた。一年間「留学」していたフェスティール王子が帰国、三日後にそれを祝っての夜会を開くというのだ。国中の貴族、特に若い娘を持つ親や本人は当然のごとく発奮した。

 しかし、レアルは当日になってもまだ過去から動けなかった。夕闇の中、煌びやかな馬車が王城へと列を成すのを屋敷のバルコニーから眺めていても、その脳裏にはフェイと過ごした日々ばかりが浮かんでは消えていた。この一年、楽しかったのはレアルとて同じである。だが、もう戻れない。どんなときも、父が死んだときでさえも未来だけ見ていたはずなのに、今の彼女は過去の呪縛から抜け出せずにいた。

 ふと、フェイの爪の色、正確には王子の瞳の色を探していたころが思い出された。どこか刹那的に生きていた自分にとって、あんなに夢中になったのは久しぶりだったかもしれない。そんなときに不思議な老婆に遇い、本当に大切なものは近くにあると言われた。そして、探すのを諦めたとき思った。フェイはフェイだ、と。

 その瞬間、レアルの瞳が輝きを取り戻した。フェイだろうとフェスティールだろうと、少年だろうと王子だろうと、自分にとって大切なもの、必要なものにやっと気付いたのだ。それは、もう手の中にあったのだから。

 一方、フェスティールもまたあの部屋で待ちながら、フェイとして過ごした日々のことを思い起こしていた。だが、近付いてきたのは別の人間だった。

「殿下、陛下もお待ちです。そろそろ──」

「わかったよ、ばあや」

 寂しそうに笑い、フェスティールが部屋を出て、足を向けたときだった。

「あらあら、ずいぶん寂しそうな背中だこと」

 背後から聞こえる力強いその声に、フェスティールは聞き覚えがあった。

「まるで飼い主にはぐれた子犬じゃない。そうね、わたしが新しい主人になってあげてもいいけれど……」

「レアルさま!」

「まったく、相変わらず抜けているわね。王子が臣下相手に敬語を使うなんて」

 ドレスを身に着けていても、ふてぶてしいほどに自信に満ちた態度は変わらない。そして、それこそがフェスティールの待ち望んだものだった。

「来てくださったんですね」

「そうよ、あなたにはふたつも貸しがあるもの」

「え?」

「夜会のためにドレスを着てあげたこと、それから次の朝に最後まで話を聞いてあげたでしょ。その貸しをきっちり返してもらうまでは離れないわよ」

「はい、ぼくの生涯をかけてお返しします。それまで、絶対にあなたを放しません」

 差し出されたフェスティールの手にレアルの手が重ねられる。大広間で王子の登場を今や遅しと待っていた貴族たちが見たものは、初々しい恋人たちの姿であった。その日の夜会は急遽、婚約発表とその祝賀になり、今まさに幸福の絶頂にある二人とは裏腹に、多くの客人たちが希望から絶望へと突き落とされることになった。

 

 ほどなく結婚したふたりは、その後、イーディア国の最盛期を現出した仲睦まじい国王夫妻として、また、身分にかかわらず広く教育や登用を推し進めた侯爵位を持つ王妃と、最愛の妻を公私にわたり支えるだけでなく、やたら料理の上手な王として歴史に名を残すことになったという。

 そして、ふたりの馴れ初めは、子供たちの大好きなおとぎ話として永く語り継がれたのである。

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[良い点]  父の残した爵位を巡る親族の動向を楽しんだりするくらいに人の悪いところがありつつも、世話役のフェイに対して弱いレアル、終始レアルに押されているようにみえつつも、やんわりと受け流しリードして…
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