大陸暦1517年――01 出会い6
手合わせを終えたあと、兄に勇姿っぷりを褒めてもらって満足した私は、約束通り部屋に戻ろうとした。
「おーい、セドナ」
丁度そのときだった。私を呼ぶ声がしたのは。
声がした庭の戸口を見ると、そこには手招きをしている父の姿。
「お父さまだ」私は意外そうに言った。
普通なら、父はまだ皇城で仕事をしている時間だったからだ。
「あれ今日だったっけ?」
兄が母を見て言った。母は「予定より早くなったそうよ」と返す。
二人のやりとりは私には意味が分からないものだった。だから訝しげに首を傾げて二人を見上げた。
私の様子を見て、母と兄は顔を見合わせて笑うと、
「お父様が待っているわよ」
「ほらいかないと」
と二人して促してきた。
二人の様子が変だ、と私は感じながらも手に持っていた枝を置くと、父の元へと走った。
「お父さま、お帰りなさい!」
私はそう言いながら、駆けた勢いのまま父に抱きつく。
父は驚きながらも、兄ぐらいなら押し倒すぐらいの私の猛進を難なく受け止めた。
「ただいま。今日も元気がいいなお前は」
大きな手で頭を撫でてくれる父を、私は見上げる。父の顔を見るには、兄よりも、オグより、母よりも、この邸宅にいる誰よりも、首を後ろに傾けなければならない。
父は文官に似合わず、体格が大きく背も高かった。亡くなった祖父も大きかったことから、バルゼア家の男子はどうもそういう家系らしい。
私はそんな二人に抱っこされて見る景色が好きだった。物心つく前からいつも二人には抱っこをねだっていた。でもこのころの私は、もう流石に抱っこされるほどの歳でもなかった。
それでも甘えて手を伸ばす私を、父は困り顔を浮かべながらも抱きかかえた。
「もう大きいのに、まったくお前は」
そう言いつつも、父は満更でもない様子で微笑んでいる。
一人っ子である父は、兄弟姉妹に憧れを抱いて育ったのだと母が言っていた。
だから自分の子供は最低でも二人欲しいと考えていたそうだ。そして、できれば男の子と女の子、一人ずつが望ましいと。
だから私が生まれたとき、父は尋常じゃないぐらいに喜んだそうだ。それはもう、出産直後で疲れている母が笑い転げるぐらいの狂喜乱舞っぷりだったらしく、母はことあるごとに顔を綻ばせながらその話をしてくれた。
そんな経緯から父は、私を目に入れても痛くないほどに愛してくれた。
とは言っても手放しに甘やかされたというわけではなく、父は駄目なものは駄目だとはっきり言うし、叱るときはとことん叱ってくる。最後には子供に甘くなってしまう母とはここが違う。
でも母と兄いわく、父は私を叱ったあといつも言い過ぎたことを後悔して落ち込んでいるらしかった。子供のときにそれを聞いたときは嘘だと思っていたけれど、今思い返すと確かに叱ったあとの父はいつも以上に優しかったし、記念日でもないのに贈り物をしてくれることもあった。
そのことを踏まえると、結局は父も子供に甘いのかもしれない。
私は父の口元に蓄えられた髭をいじった。抱きかかえられたときの、赤ん坊のころからの手癖だ。
父は「こらこら」とこそばゆそうに言うと、私を下ろした。
すぐに下ろされたことに不満顔を浮かべる私に、父は苦笑して言った。
「お客さんを待たしているんだ」
「お客さん?」
「あぁ、セドナのお客さんだ」
私はきょとんとした。当然の反応だった。今まで自分に客など一度も来たことがないし、あまり外に出ることがなかった当時の私には、自分を訪ねて来るような親しい人間もいなかったからだ。
心当たりがなかった私は「誰?」と父に問おうとした。でも父はその問いを遮るかのように私の頭を一撫ですると「行くぞ」と言って歩き出した。
私は父の背を見ながら、何かおかしい、と思った。
いつもなら私が疑問を浮かべていたら、必ず気にかけてくれるか答えをくれるのに、今日の父にはそれがない。
おかしいのは父だけではなかった。先ほどの母と兄の様子も明らかに変だった。何だか含みがあるような、隠しごとをしているような。何かを家族は知っているのに、自分だけが知らない雰囲気を感じる。
私はいつもとは違う家族の態度にもやもやしながらも、とりあえず父のあとを追った。
目的地である玄関ホールに着いて、まず目に入ったのは我が家の使用人だった。
使用人は開け放たれた玄関の外に止めてある馬車から、トランクを下ろして運んでいる。
何であんなに荷物があるんだろう、と不思議に思いながら見ていると、見慣れた使用人の中に見知らぬ女性がいることに気がついた。
女性はこちらに背を向けているので顔は見えなかった。でもここで働く人間の姿を全て覚えていた私には、後ろ姿だけでも彼女が部外者だということは分かった。
私たちは荷物を運ぶ使用人の邪魔にならないように、玄関に近づく。
「待たせたね」
父が声をかけたのは、その見知らぬ女性だった。
彼女はこちらへと向き直ると、小さく「いえ」と言って丁重に礼をした。
女性は若かった。年齢はオグとそう変わらない、おそらく十代後半ではないかと私は思った。
この人が私のお客さん……?
全く知らない人だった。これまで会ったことも見たこともない。
子供のころから人の顔は覚えられるほうだった。だから会ったことがあるけれど私が忘れている、ということはまずない自信はあった。
それでもと私は女性をまじまじと観察した。自分との接点を探そうとした。すると女性が視線をこちらへと向けてきた。私はどう反応していいのか分からず、とっさに父の後ろに隠れる。そして父の背中から、なおも女性を覗き見た。
そんな私を見て、女性は控えめに微笑むと、後ろを振り返り「お嬢様。おいでになりましたよ」と言った。
私はそこでやっと、女性の後ろに誰かいることに気がついた。
女性の背後から、小さな人影が現われた。
私と同じぐらいの背丈の、おそらく同世代の少女――。
「――――」
その少女を一目見て、私は思わず目を見開いた。
「お父様のな、留学時代の友人の娘さんだ。夏期の間ここに滞在する。仲良くするんだぞ」
父はそう言うと、背後に隠れている娘を優しく押し出した。
私は状況が読み込めないまま、少女の前へと立たされる。
いや、状況は理解しているはずだった。父の一言で、今までの疑問は全て解消されていた。家族の様子が変だったのは私を驚かすためだったとか、私の客が誰なのかとか。
でもこのときの私には、それを受け止められる意識の余白などなかった。
私の中は、目の前の少女の姿で埋め尽くされていた。
日に焼けた自分とは正反対の、帝国に降る雪のように白い肌。
透きとおるような薄緑の瞳。
そしてふんわりとした髪質の、薄い金色の長く美しい髪。
少女の容姿は、私の大好きな絵本に描かれているお姫様と瓜二つだった。
そんなことって――。
突然のお姫様の登場に、私は困惑した。
無理もない。つい先ほどまで、いつも通りの日常だったのだ。
勉強を抜け出し、母に叱られ、兄に助けられ、なんの変哲もない平凡で幸せな日だったのだ。
そんな当り前の日々に、絵本からお姫様が飛び出して自分の前に現われるなんて、いったい誰が想像できるだろうか。
私の背を、誰かが軽く触れる。
それが父だということも、挨拶をするよう促していることも分かった。
そうだ挨拶だ。挨拶をしなきゃ。
私は挨拶をしようと口を開いた。けれど口からは肝心の声が出なかった。頭では思っているのに、私は緊張で声の出しかたすら忘れていた。
そんなの当り前だ、と私は開き直る。
だって生まれて初めて、同じ年代の女の子に会ったのだ。
しかもその子は、絵本の中のお姫様にそっくりなのだ。
絵本のお姫様が――私が恋したお姫様が、現実に、目の前にいるのだ。
緊張しないほうがおかしい。
私が何も言えずに視線を泳がしていると、ふいに少女の瞳が私の視線を捕えた。
金縛りにあったかのように視線を動かせないでいる私を、薄緑の瞳が見ている。
少女はそのまま微笑むように瞳を細めると、口を開いた。
「はじめまして」
控えめで耳触りのいい声――朝の小鳥のさえずりみたいだ、と私は思った。
「星王国貴族、シャルテ家が三子、エルデーン・シャルテと申します」
少女は右足を軽く後ろに下げると、右腕をお腹の前に、左手でスカートをつまみ、貴族の礼をした。
そのときの私は、父に声をかけられるまで、名乗り返すことが出来なかった。
それが私と彼女の、初めての出会い。
私が六歳、エルデーンが七歳の時だった。




