大陸暦1527年――20 最後の言葉
「……出来ません」
自分の口から出たのは、酷くかすれた声だった。
「なんだと」小隊長が言った。
「大陸法に反することは、私には出来ません」私は小隊長に振り返る。
「それが何を意味するのか、分かっているだろうな」
「……はい」
小隊長は剣を抜きながら、こちらへと歩いてくる。
私はエルデーンから距離を取ると、剣を手放し両膝をついた。
そして頭を下げる。
これで彼女を助けたことにならないのはわかっている。
何も解決しないことは――。
でも私には、祖国を裏切る勇気はなかった。
目の前の上官を敵に回し、彼女を連れ出し、家族を反賊として危険に晒すことを選べなかった。
そんな臆病者の私に、最後に残されたのは大陸法に遵すること。
嘘をつけない私にはもう、それ以外に逃げ道はない。
小隊長は私を斬ったあと、エルデーンをも手にかけるだろう。
それでも、もしかしたら、このわずかに稼いだ時間で、彼女を助けに援軍が来るかも知れない。
そうしたら、エルデーンは助かるかもしれない。
瞼を閉じ、剣が振り下ろされるのを待つ。
――ごめん、ごめんね、エル。
――守るって誓ったのに。
――幼いころの約束でも、劇の中だとしても、確かに誓ったのに。
――君を、守ることが出来なくて――。
『その時、エルデーン・シャルテが、小隊長殿を突き飛ばした』
「なに――!」
小隊長が上げた驚愕の声に、私は瞼を開けた。
頭を上げ、横を見ると、エルデーンが私の前に立っている。
その姿はまるで、守るべきものを背にする、あの物語の中の騎士のようだった。
「貴様ぁ……!」
小隊長の剣が振り下ろされる。
「エ――」
『そして小隊長殿は、彼女を斬った』
小隊長の剣を、エルデーンは避けようともせず、真正面から受けとめた――。
後ろに倒れ込む彼女を、気づけば受け止めていた。
腕の中のエルデーンを見ると、彼女は苦しそうに呼吸を繰り返していた。その上半身は血液で赤く染まっており、その赤は今なおゆっくりと白地の服に広がり続けている。
どうしていいか分からず、私は彼女の顔を見る。
すると彼女の口が、私に何かを伝えるように、動いた。
「――」
声にはならなかったその言葉を受け取って、目の奥が熱くなる。
「っ――敵兵に庇われるとは、さては貴様、敵に通じていたなぁ!」
小隊長は激高すると、再度、剣を振りかぶった。
私はその剣身に目が行く。
赤く染まった剣身。
エルデーンの血――。
そう思った瞬間、血が湧き立つような怒りが全身を覆った。
私は無意識に地面に投げていた自分の剣を手に取ると、振り下ろされる剣を受け止めていた。
「っ……!」
小隊長は動揺しつつも、突きの構えへと切り替える。
突き出された剣を、私は右に身体を捻り避けた。
だけど距離が足らず、小隊長の剣は私の左腕をかする。
私は突きで体勢が前のめりになった小隊長の懐に入り、剣を左から右へと薙いだ。
「きさまぁ……!」
小隊長は後ろにのけぞったが倒れなかった。斬撃が浅いと分かっていた私はすかさず彼に飛びかかった。彼は私に押されて地面へと倒れ込む。
私は小隊長に馬乗りになると剣を逆手に持ち、黒檀の軽装鎧の隙間から心臓へと突き立てた。
「がぁっ……」
小隊長は何度か小さな呻きを上げていたが、次第に動かなくなった。
突き立てた剣の柄に寄りかかり呆然としていると、頭上から声がかけられた。
「バルゼア副小隊長殿」
顔を上げると、目の前に部下が立っていた。
物資に放たれて広がった炎を背に、二人はこちらを見ている。
「バルゼア副小隊長殿」部下は再度、自分を呼んだ。
そう口にした部下の表情が、哀れんでるように見えたのは私の、気のせいだろう。
私はいま上官を殺した。
無意識だとしても、明確な殺意を持って殺したのだ。
上官殺しは反逆罪と同じく重罪だ。発覚次第、その場で処刑だ。
本来なら現場を目撃した二人が私を処するべきだろう。でも私は彼らにそれを背負わせるのは申し訳ないと思った。私の所為で、彼らの手を汚させるのは――。
それに恐らく星王国の援軍は来る。私に構っていては彼らが逃げ遅れてしまうし、この現場を見られたら最悪、彼らまで殺されてしまうかもしれない。それは、させるわけにはいかない。
私は立ち上がり、小隊長の胸に刺さった剣を引き抜いた。
「行って。報告は、好きなようにしてくれていい」
「小隊長殿は、一緒に来られないのですか」
私はエルデーンを一瞥する。
「彼女はまだ生きている。放って置くわけにはいかない」
「ですが」
彼らは迷う素振りを見せた。そんな彼らに私は強く言う。
「早く!」
二人は顔を見合わせると、準備していた馬に乗り走り出した。
私はそれを見送りながら、彼らが置いていった剣を手に取る。部下が彼女を連れて来たときに持っていた剣、エルデーンの剣だ。
私はそれを鞘から抜く。剣身には血痕がついている。剣をエルデーンの側に置くと、彼女の前で膝を折った。
そして自分の剣を置いてから、彼女の上体を抱えた。
彼女の傷は、小隊長の剣を咄嗟に受け止めようとしたのだろう右腕と、それを押し切り右肩から胸の中央、心臓まで達していた。
この傷では助からない――それは彼女をとっさに受け止めた時にはもう、気づいていたことだった。
両手首には未だに縄が縛り付けてある。それをほどいてやれないことを申し訳なく思いながら、彼女の顔を見た。
彼女の顔からは感情が抜け落ちていた。桃色の肌は青白く変化し、優しさを湛えていた薄緑の瞳は虚をだけを宿している。そして小鳥のさえずりのような声を出していた口から聞こえるのは、今や微かな呼吸音のみ。
「……エル」
私は彼女の名前を呼んだ。
けれど彼女は答えなかった。
名前を呼んだら必ず返してくれていたのに。
微笑んで私の名前を呼んでくれていたのに。
今はもう、何も言うことも、笑うこともできない。
昔に感じた不安が、腕の中で現実のものとなる。
考えすぎだと思っていた不安が、いま目の前で形となっている。
嘘だと思いたくても、溢れ出す涙がそれを許してはくれない。
私は彼女を失う――本当に失うのだ。
彼女を受け止めたとき、私に伝えようとした言葉が脳裏に浮かぶ。
――また会える。
魂は巡るから、また会えると、彼女は最後に私に伝えた。
……そうだとしても、意味がないんだよ、エル。
たとえ来世で会えようとも、それは私のお姫様じゃない。
私のお姫様は、君だけなんだ。
私には、今ここにいる君こそが全てなんだ。
溢れ出る涙が、彼女の頬へと落ちる。
私はそれを拭うように、彼女の頬に触れた。
手の平にはまだ彼女の温もりを感じる。
けれど、これもいずれ失われる。
私は彼女に顔を近づけ、額を合わせた。
もう声は届かないかもしれない。
それでもこれまで抱いてた想いを、
伝えるつもりはなかったこの感情を、
私は伝えずにはいられなかった。
「好きだよ……エル……」
君の小鳥のさえずりのような声が、
君のお姫様のような金の髪が、
君の優しさを湛えた薄緑の瞳が、
君が楽しそうに笑うその顔が、
君の全てが、好きだった。
何よりも大切だった。
だというのに一番守りたかった命が、この腕からすり抜けていく。
手が届かなかったわけじゃない。
私は選択することを放棄し、
運命に身を委ね、
そして自ら、彼女を、失ったのだ――――。




