大陸暦1527年――09 悪魔1
「反応がない、ねぇ?」
そう言ってラウネは執務机から顔を上げた。
目の前には部下であるマルル・ホルマル獄吏官が立っている。彼女は後ろ手を組み、心配そうな面持ちでこちらを見ていた。
「はい。全部ではないんですけど」
部下が報告してるのは担当捕虜のセドナ・バルゼアのことだ。
「体調はー?」
執務椅子に寄りかかりながらラウネはそう言うと、手を前に出して伸びた。長い机仕事で凝り固まった関節が、パキッ、といい音で鳴る。
若いものが関節を鳴らしてちゃ終わりだね、とラウネは心で呟くと、にししと笑った。
「目に見えて悪くはありません」マルルは上官の奇行を気にすることなく答えた。「ですが収監時から体重も落ちましたし、顔もやつれてきてて……」
ようは心配だということをマルルは言いたいらしい。
実に彼女らしい、とラウネは思った。
捕虜の心身の健康を保つことは大陸法で定められていることではある。
だがマルルは職務や法など関係なく、心の底から捕虜の心配をしていた。
それは彼女がただ人が良いからではない。主に彼女の性質がそうさせている。
彼女の性質は獄吏として役に立つものではあるが、その反面、担当に親身になりすぎて心配性になってしまうことがよくあった。
「以前から言葉数が少ないかたでしたが、最近はなんて言うんでしょう」なおもマルルは、心配そうに話を続けている。「目に光がないといいますか、生気がないといいますか、このままでは戦争が終わる前に死んでしまうのではないかと心配で。いえ戦争が終わってもこのままでは彼女は処刑されてしまうのですが、そもそも私には彼女が捕虜を殺害したとはどうしても――」
「マールル」
名を呼ばれ、マルルはびくりと身体を震わせた。
上官が部下をあだ名ではなく名前で呼ぶのは、窘めるときだと知っているからだ。
「報告はーなるべく客観的にお願いしまーす」
「……はい。申し訳ありません」
マルルは見るからに反省が見える顔で謝罪すると、窺うようにこちらを見た。
報告はすでに終わっていたらしい。
「んー食事はぁ?」
ラウネはそう言って、自分の手をまじまじ見た。そして黒い手袋の上から人差し指を触る。少しペンだこが出来ている。調書の書きすぎだ。過重労働だ。申請すれば戦時手当てとか出るのだろうか。いや別に金はいらないけど。
「食べてはいますが、量は多くありません」マルルが答える。
ラウネは両肘を机につくと、両手をぱっと広げて言った。
「ならもうちょい様子見ー」
それを聞いて、マルルは雨に濡れた子犬のような表情をすると「了解しましたぁ」と溌剌な彼女にしては珍しい歯切れの悪い返事をした。
マルルが階下へと降りる靴音を聞きながら、ラウネは考える。
――さて、どうするかな。
セドナ・バルゼアが反応しないのは、現実逃避をしているからだ。
本人にその気がなくとも、無意識に思い出の中で過ごしている。
処刑までの間、現実を見たくないがために。
別にほうっておけばいいのに、とラウネは思う。
尋問官は対象者から情報や事件の真相を聞き出すのが役目だなんて言うが、正直ラウネ自身は真相なんてものには全く興味がなかった。なぜなら自分がこの職を選んだのは、ただ単に己の欲求を満たすためだからだ。
人には誰もが知られたくないがために、心の奥底に仕舞いこんでいるものがある。
もしそれを掘り起こされれば、人は誰でも掘り起こした相手に不快感を感じる。それだけでなく憤り不安を覚えるものや、怒りを露わにするものもいるだろう。
ラウネはその掘り起こされた負の感情がなによりも好物だった。
しかも、それはただ見られればいいというものではない。
自身の言葉によって、相手から無理矢理に引き出された負の感情でなければ意味がない。そしてその負の感情にあたることこそが欲求を満たす手段であり、またラウネにとって無上の喜びを得る唯一の方法だった。
だからラウネは子供のころからよく悪魔と呼ばれた。
人の不幸を食らって楽しむ、悪魔だと。
まさに自分を表わす言葉にこれ以上のものはない――ラウネはその呼び名を気に入っていたし、学生時代には自分でもよく使っていた。
けれど友人はそのことが気に入らないようだった。
その友人は、人が言う悪魔的な言動をする自分を毎度のように窘めてきた。
人の嫌がることをするなと、さも当り前のことを口にして。
そのしつこさにある意味感心したラウネは、仕方なくそれをすることを控えた。
けれどそれでは自分の欲求はたまるばかりだ。その友人を弄って少しは発散していたが、そんなもので満足できるほどこれは根の浅いものではない。




