大陸暦1520年――06 泣き虫
ここに収監されてからというもの、昔の記憶ばかり見る。
彼女との思い出ばかりを――。
……だが、このまま進めば、何れ、思い出は終わる。
最後に行き着く前に、戦争が終わればいいと、近頃は、そればかり願っている。
*
エルデーンと出会って四年目の夏期の記憶――。
私は九歳。エルデーンが十歳の時のこと。
その日は昼食後に、エルデーンが私の部屋で本を読んでくれていた。
エルデーンはソファに座って、そして私は彼女の隣で、ソファにうつ伏せに寝転がる格好でそれを聞いている。
母に見られたら確実に叱られるであろう行儀の悪さ以外は、なんてことのない、いつもと変わらない日常風景。
ただ一つ違っていたのは、その日は帝国で何十年ぶりかの真夏日だったことだ。
日差しの強さがいつもと違うことは、朝の鍛錬の時点で私も気づいていた。
そのあと朝食のときに父に『今日は暑くなるようだから気をつけなさい』と言われて、やっぱりそうなんだと思った。
だからその日は午前中から部屋の中で過ごしていた。
それはもちろん、身体の弱いエルデーンを気づかってのことだけど、正直このときの私は、彼女の体調に関する心配は薄れかけていた。
幸いにもエルデーンは帝国に来ている間、一度も体調を崩すことはなかった。
それは帝国が涼しいからだというのは分かっていたけれど、星王国でもほとんど体調を崩すことがなくなったと聞いていた私は、彼女の身体はすっかり元気になったのだと思っていた。
それはきっと、彼女も同じだったのだろうと思う。
エルデーンは淀みなく、綺麗な声で本を読み続けている。
私はそれに聞き入りながら、少しばかり暑さを感じていた。
私たちがくつろいでいたソファは窓際にあった。窓から日が差し込み、部屋で一番温度が上がる場所。今まで暑い日は避けていた場所で、私たちは自然と過ごしてしまっていた。
私はそのことに気づかず、暑さを感じながらまどろみ始めていた。
真夏日は私にとっても生まれて初めての体験で、朝の暑い中での鍛錬に疲れていたのだろう。
すでにエルデーンの心地よい声は、私の子守歌と化していた。
彼女の声が眠りへと誘い、だんだんと声が遠のいていく。
そして、もう少しで眠りへと落ちようとした途中で、エルデーンの声がピタリと止まったことに私は気がついた。
物語はまだ途中だったはず。
覚醒しきれていない意識の中でそう思った私は、重たい瞼を開けてエルデーンを見る。
ぼんやりとした視界の中で見えたのは、苦しそうに胸を押さえるエルデーンの姿だった。
「エル……!」
私は一気に眠気が覚めると、飛び起きてエルデーンの側に寄った。
「エル! 大丈夫!?」
私の呼びかけに反応するようにエルデーンは口を開いたが、彼女の口からは不規則な呼吸音しか聞こえない。
私は動揺した。エルデーンがここで体調を崩すことは初めてなのだ。だからこういうとき、どうすればいいのか分からない――いや知らないはずはない。こういうときの対処法を父は教えてくれていたはずだ。
困惑する中で、私は必死に記憶を掘り返す。
――そうだ、侍女だ。
こういう時の対処法はエルデーンの侍女が知っている。
彼女の具合が悪くなったら、まずは侍女を呼びなさいと父は言っていた。
私はすぐさま部屋を飛び出した。
そして邸宅内を走り回って、エルデーンの侍女を連れて来た。
侍女はエルデーンが始めてここに来たときに連れていた若い女性で、あれから毎年、エルデーンに付き添って来ていた。エルデーンの話しによると、物心つく前から世話をしてくれているらしい。
なのでこういうときの対応には慣れているのだろう。侍女はエルデーンの呼吸を整えさせると、彼女を泊まっている部屋へと運んだ。そしてベッドに寝かせ、楽な服に着替えさせてから冷たいタオルを額に置いた。
私はその一部始終を、ただ黙って見守ることしか出来なかった。
その日はずっと、私はエルデーンの側にいた。
夕方になっても、オグとするはずの剣の稽古はしなかった。
稽古は自分で決めたことなので叱る人はいない。
けど私は自分の意思で、毎日欠かさず朝の鍛錬と午後の稽古を行っていた。
これは騎士になるための日々の目標であり、自分にとって夢を叶えるために何より大事なことだった。
でもその日は、エルデーンが心配でそれどころではなかった。
侍女が『安静にしていればすぐに良くなりますよ』とは言っていたので大丈夫なことは分かっていた。
でも苦しそうに呼吸をするエルデーンを見ていると、不安は雪のように次から次へと降り積もった。そして不安でいっぱいになった私の心は、もしこのまま彼女がいなくなったら――なんて縁起でも無いことまで考えはじめてしまう。
そんなことは、絶対にないのに。
絶対……? 本当に……?
大好きだった祖父だって、そう言われていたじゃないか。
貴方は絶対に長生きしますよ、って定期検診に来た治療士に言われていたじゃないか。
実際に祖父は先生の言うとおり元気な人だった。
引退が早すぎたのではないかと誰もが口を揃えて言うほど、生命力に溢れた人だったのだ。やんちゃな私ともよく遊んでくれた。
でもあるとき、風邪をこじらせてあっという間に死んでしまった。
私が三歳の時だった。
だから分かる。
世の中に絶対はないのだ。
エルデーンだって何か歯車がはき違えば、死んでしまうかもしれない。
……エルが死ぬ?
そう思った途端、涙が込み上げてきた。
転んでも怪我をしても泣いたことがない私が、祖父が死んだときや父に叱られたときぐらいにしか涙が出ない私が、そのとき初めて、失うかもしれないという不安で涙を流した。
目もとから零れだした涙を拭う。
けれど涙は次から次へと溢れてくる。
この涙は不安が具現化したものなのだ。だから止まらないんだ。
不安がなくならない限り、涙を止める術はないんだ。
それに気づいて、私は拭うのを諦めた。
涙は頬を伝わり、ベッドの端にぽたぽたと滴った。
氾濫するように溢れる涙は、だんだんと視界をも遮り始める。
溺れる視界に、私は思わず目をつむる。
すると頬に暖かさを感じて、すぐに目を開いた。
見ると、エルデーンが目を覚ましてこちらに手を伸ばしていた。
彼女は涙を指ですくうように頬に触れると、今まで聞いたこともない弱々しい声で言った。
「……死なないよ」
あぁ、見透かされている。
目からはさらに涙が溢れてくる。
「……初めて知ったな。セドナ……意外と泣き虫さんだ」
彼女はそう言って小さく笑った。
「ちがう……泣き虫じゃない……」
君のこと以外で、こんなにも心が弱くなることはない――。
続けてそう伝えたかったけど、それはまるで心を曝け出すようで、そのときの私にはその勇気がなくて、それを口にすることはできなかった。
私はあの時、やっと自覚したのだ。
エルデーンが、自分の中で大きな存在になっていたことを。




