大陸暦1518年――04 負けず嫌い2
「セドナ、チェスできる?」
エルデーンが来て数日経ったある昼下がり。
我が家の書庫で本を物色しているエルデーンを眺めながら私がソファでくつろいでいると、彼女が唐突に訊いてきた。
「やったことないけど」
チェスは父と兄が遊んでるのを見たことがあるぐらいだった。
「それなら覚えてみない?」
エルデーンはそう言いながら、少し高い段の本を取ろうと手を伸ばしている。
大丈夫かなと心配しつつも、私は彼女の金の髪が気になって仕方がない。
エルデーンの金の髪は、去年が背中辺りの長さだったのに比べ、今年は腰の下辺りまで達していた。それだけでも私の意識を誘って仕方がないのに、さらに今年はサイドの髪を編み込んで髪飾りまでつけている。
その姿がますます絵本の中のお姫さまを彷彿とさせ、つい目で追ってしまっていた。
エルデーンはお目当ての本が取れなかったようで、手を下ろすとこちらに振り向いた。予想だにしなかった彼女の動きに私は一瞬どきっとすると、思わず視線をそらす。何もやましいことはないのだけれど、彼女の髪を見ていたことを本人に知られるのは、何だか恥ずかしい気がした。
けれど今のは流石にあからさますぎた。
私は視線をそらしたのが偶々だという風に辺りを見ると、なるべく自然な流れで話を続けた。
「チェス、好きなの?」
エルデーンはすぐに「うん」と答えた。こちらのことを気にしている様子はない。
私はうまくごまかせたのだと安心する。
「兄がよく遊んでるから覚えたの」エルデーンはそう言って近くにあった脚立を運んでいる。もう一度、本を取ろうと試みるようだ。「面白いからセドナとも遊べたらいいなって思って」
そう思ってくれることは嬉しい。すごく嬉しい。
けど父と兄が遊んでるのを見たかぎりでは、何だか難しそうで興味は持てなかった。
それでもエルデーンとすれば楽しいのかもしれないけれど、やりたいかと訊かれれば正直なところ気乗りはしない。
私はクッションを抱いて「んー」と唸りながらソファに横たわった。
難しいことは嫌いだけど、彼女の誘いを断るのはもっと嫌だな。
そんな二つの本音に板挟みになりながら天井を見つめていると、ふいに視界にエルデーンが現われ「駄目?」と訊いてきた。
私は驚きはしたが、それ以上に目前に垂れ下がってきた金の髪に気を取られ、そちらに意識が向いてしまう。
ふわふわの金髪を前にして、私は無性にその髪に触れたい衝動に駆られた。でも母からの戒めを思い出し、それをぐっとこらえる。
私が現実の金髪に興味を持ち始めたころ、欲望のままに誰彼かまわず金髪を触っていたことがあった。そのときは幼い子供のすることだからと、周りは微笑ましくそれを許してくれていたけど、母だけは違った。母は私の癖に難色を示し続け、あるときついに『家族ならまだしも、無闇に人の髪に触れるのは失礼です』と強く窘めてきたのだ。
おそらく母は、私が金髪のみに反応していたことには気づいていない。けどこのまま放っておけば、これが悪い癖になってしまうことだけは見抜いたのだろう。
それ以来、私は一途にその戒めを守っている。
他人だけではなく家族にも遠慮している。
それでも我慢できないときは、母に許可を貰って触ることにしていた。
でもエルデーンは家族ではないから触ることはできない。
それならどうすれば彼女の髪に触ることができるのだろう、と私は疑問に思った。
家族ではなくても、許可を取れば大丈夫なのだろうか。
それとも友達――そうだ彼女とは友達だ――ならいいのだろうか。
「そんなに悩むこと?」エルデーンがくすりと笑って顔を上げる。
彼女も、まさか私が違うことに頭を悩ませているとは思いもしないだろう。
エルデーンは寝転がる私の頭上に座ると、何気ない感じで私の前髪に触れてきた。
その瞬間、私の中に衝撃が走ると共に、頭は混乱した。
もしかして友達は触ってもいいの!? という疑問で私の頭はいっぱいになる。
そういえばエルデーンが私の髪に触れたのはこれが初めてではなかった。初めて会った日に頭を撫でられているし、いつか髪をくくってくれたこともある。でも頭を撫でたのは慰めてくれるためだし、髪をくくってくれたのは私が邪魔そうにしていたからだ。触りたいから触ったとかではない。
私は触りたいから触りたいのだ。それなら今のはどういうことなのだろうか。やっぱり友達は触っていいのだろうか。本人に訊いてみればそれは分かるだろうか。……いや、それは駄目だ。下手したら彼女に私が金の髪が好きだと知られてしまう。それはよくないと私は思った。それは恥ずかしいと。
それならどうすればいいんだろう。どうすれば彼女の髪に触れられる――。
私はチェスのことなど忘れ去り、自分にとっての難題を悶々と考えていた。
そんな私の悩みなど知らないエルデーンは「駄目かー残念だなー」と言った。
それは妙に芝居かかった棒読みだった。
だから私は気を引かれ、寝転がったまま頭上のエルデーンを見た。彼女は私が見ていることに気づくと、続けて言った。
「戦略を学べるチェスは騎士になる上で必要なのになー」と棒読みで。
騎士――その言葉に完全に正気に戻った私は、反射的に身体を起こすとエルデーンを見た。
彼女はしたり顔で微笑むと、手元の本を差し出す。
その本には【チェス入門書】と書かれていた。
まんまとエルデーンの策略にはまった私は、父や兄やエルデーンがチェスをするのを横で見ながら必死にルールを覚えた。
そしてチェスに誘われてから四日目の昼下がり。私はついにエルデーンとの初めての真剣勝負に挑んだ。
私はこのとき負けることなど微塵も考えてなかった。ルールさえ覚えれば誰にだって勝てる。だからエルデーンに勝って彼女に褒めてもらうんだ、とそれだけを考えていた。
「あ、まって!」
けど普通に考えて初心者が経験者にいきなり勝てるわけもなく、彼女は容赦なく私の王を追い詰めた。
「チェックメイト」
「あー待ってっていったのにー」
「勝負の世界に待っては通用しないわ」
エルデーンは容赦ない勝者の笑みを浮かべている。
それは私が初めて見る彼女の顔だった。そして気づく。彼女は意外と負けず嫌いかもしれないと。
そのときの私は、一年目では知れなかったエルデーンの一面を知ることができて、確かに嬉しさを感じていた。けれどそれ以上に勝負に負けた悔しさの感情が勝ってしまい、盛大に頬を膨らませてしまう。
「むくれないの」エルデーンは楽しそうに私の膨らんだ頬を突っついた。「セドナ才能あるよ。覚えたてでここまで出来るんだもの」
才能がある――その言葉に喜びそうになるも、先日の似通った展開が脳裏に浮かび、私は警戒を強める。
「……ほんとに?」
もうぬか喜びをしないために、私は期待せず半信半疑で確認した。
「ほんとうに」エルデーンはすぐに同意してくれる。
彼女の素直な反応に安心した私は、身を乗り出してさらに訊いた。
「がんばればエルに勝てる?」
私の問いに、エルデーンはまたもや意地悪そうな微笑みを浮かべると「それは難しいかも。私も頑張るから」と、幼い希望を完膚なきまでに叩き切った。
「そんなのずるいー!」
拳を振り上げて抗議する私を見て、エルデーンは楽しそうに笑った。
結局その年は、エルデーンに一度も勝つことは出来なかった。
負けず嫌いだった私は、エルデーンが帰ったあとも兄に付き合ってもらい特訓をした。そして次の年も、そのまた次の年も、彼女に勝負を挑み続けた。
年々の積み重ねが実を結びんだのか、私は少しずつエルデーンに勝てるようになった。けれど総合的に見れば私はいつも負け越しで、いつになってもエルデーンのほうが一枚上手だった。
私はいつか負け惜しみに『エルって負けず嫌いだよね』と言ったことがある。すると彼女は何気ない様子で『そんなことないよ』と言った。
その後、士官学校に入り、学友たちとチェスをするようになってから私は初めて、エルデーンが人並み以上に強かったことに気がついた。
才能もあったのかもしれないけれど、きっと彼女のことだ。
あのとき言った通り、頑張っていたのだろう。
やっぱり負けず嫌いじゃないか――私は改めて思った。




