大陸暦1517年――02 名誉の傷6
怪我をしている以上、抜け出したことを隠し通すのは無理だと思った私たちは、正門から家に戻った。
怪我をした私を見て、母は大層、驚いた。それはそうだろう。部屋で遊んでると思っていた娘が、怪我をして外から帰ってきたのだから。
私が簡単に経緯を説明すると、母は怒ることなく手当てをしてくれた。
それだけで私は理解した。父が帰って来ることを。
私が何かをしでかしたとき、父と母は一緒に叱ることはなかった。おそらく子供を叱るときは、必ずどちらか一人と決めていたのだろう。
予想通り、父は皇城から飛んで帰ってきた。兄も騒ぎを聞きつけてやってきた。
私は母の手当を受けていたので、説明はエルデーンがしてくれた。
彼女が説明している間、私はずっと下を向いていた。きっと父はものすごく怒っている、今日も叱られるんだ、とそればかり考えて。
説明が終わると、私は戦々恐々しながら父を見た。そして驚く。
父の顔は怒っているというよりは、どこか悲しそうだったからだ。
「ごめんなさい、叔父さま」エルデーンが言った。「私が外を見たいと言ったのです。セドナは悪くありません」
「そうなのかセドナ?」
父の問いに、私は首を振った。
元より嘘をつくつもりもないし、つけない。
それにエルデーンを守ると誓ったのだ。それは父の雷だって例外ではない。
私はいつも叱られるときのように俯きたい衝動に耐えながら、父の目を見て言った。
「私が連れ出したの。ごめんなさい」
父は少し驚いた表情をしたあと、優しく微笑んで私たちの頭を撫でた。私はなぜ怒られないのか不思議に思いながらも、父の大きな手に意識を委ねる。
父は頭から手を離すと片膝をつき、椅子に座っている私と目線を合わせた。
「セドナ、お前は何故、彼等が石を投げてしまったと思う?」
それは、私が抱いていた疑問を見透かすかのような問いだった。
「……分からない。でもでも、貴族をきらってるみたいだった。私もエルも何もしていないのに」
そう、何もしていないのに彼らは怒っていた。
それが私にはどうしても分からなかった。
「そうだな」父は頷いた。「お前達は何もしていない。だが悲しいことに、民の中には貴族を忌み嫌って――我々を嫌いな人が沢山いるんだ」
「どうして」
「セドナ、我々貴族にはね、生まれながらに特権が与えられているんだ。この不自由のない生活も、お前が勉強できるのも、貴族が平民より地位が高いのも、普通のように見えてこれは全て特権、特別なのだ。
しかしそれは決して力を、権力を振りかざすためではない。彼等を見下すためではない。特権が与えられているからこそ、我々は民の手本となり、民が困っていたら手を差し伸べ、民が迷っていたら導き、そして民以上に国と皇帝陛下に忠義を尽くさなければならない。それが貴族の本来の在り方であり、それは文官だろうと、騎士だろうと変わりはない。
だが今となっては与えられた特権により自らの地位に溺れ、傲慢な振る舞いをし、民から全てを奪い、奪い取ったもので豪奢を極める、そんな貴族が多いのもまた事実なのだ」
父が使う言葉は、私には難しかった。それでも、貴族が民に酷いことをしている、というのは子供心に理解できた。
「へーかは何もしないの? そんなやつらほうってるの?」
「皇帝陛下はこの現状を憂いて――悲しんでおられるし、どうにかしたいと思っておられる。まだまだ時間はかかるかもしれないが、必ずこの国をよい方向へとお導きになる」
父は私の両肩に手をのせる。
「セドナ、彼等は決して、こんなことをしたくてしているわけではない。そう行動してしまうように、貴族が彼等を追いつめてしまったのだ。だから決して彼等を憎むな。彼等を許し、そして彼等に認められるような、貴族が本来あるべき姿にお前はなれ」
「――はい!」
私の返事に、父は満足そうに頷いた。
一部の貴族が、民になぜ酷い仕打ちをしたのかはまだ分からない。
それでも少年たちの行動理由が分かり、私の心は軽くなった。
初めて他人から暴力を受けた心の傷は、私の中で消えることはないだろう。
でも私は彼らを許そうと思った。そして今度あの路地に行ったら、ほかの貴族がした仕打ちを同じ貴族として謝罪し、自分はそんなことをしないと彼らに伝え、友達になりたいと言おうと――。
「もうすぐ治療士が来る」父は私の傷を見る。「これぐらいなら跡に残ることはない。綺麗に治るよ」
それを聞いて、私は慌てた。
「治さなくていい!」
私の発言に父だけでなく、その場にいた全員が驚いた。
「何を言ってるんだ。傷が残ってしまうぞ」
「だから残っていいの!」
最後は結局エルデーンに守られる形となってしまったけれど、この傷は紛れもなく彼女を守った証なのだ。それを消すなんてとんでもない。
「セドナ、どうして残したいの?」母が困り顔で訊く。
エルデーンの名前を出すと、彼女に迷惑がかかるかもしれないと思った私は、根本的な理由を高らかに述べた。
「騎士には名誉の傷があったほうがいいからだよ!」
父と母はすかさず兄を見た。兄の入れ知恵だと思ったからだ。
注目を浴びた兄は首を傾げながら「そんなこと言ったかなぁ」と、とぼけている。その白々しい兄の顔を思い出すと、今でも口元が緩む。
その後、何度も説得――特に母に――されたが、私は逃げ回って頑として治そうとはしなかった。
――騎士の傷は、名誉の証。
そして守るべきものを背にしている騎士は、戦うべき敵を前にしている騎士は、背中に傷を負わないんだ――。
兄はそう教えてくれた。
私はその通りだと思った。
だって、私を助けてくれた騎士にも、顔に大きな傷跡があったのだから――。




