大陸暦1517年――02 名誉の傷4
「私は体が弱いから、難しいかな」
「……あ、そっか」
私は昨日、父から言われたことを、叱られたせいですっかり忘れていた。
エルデーンは生まれつき身体が弱かった。
風邪もよく引くらしく、季節の変わり目や気温が上がると、すぐに体調を崩すらしい。
それで夏期の間だけ、寒冷地で夏でも涼しい帝国に療養に来ることにしたのだ。
続けて私は、父に『彼女とは、なるべく涼しい場所で遊ぶんだよ』と言われたことも思い出す。
空を見上げる。今日はまさに快晴と言える、雲一つない天気だ。まだ早朝なので日差しは強くないけれど、そこそこに温かくはある。
いけない。
私はエルデーンの手を取った。
「どうしたの?」彼女が不思議そうにこちらを見る。
「日かげ行こう」私はそれだけ言って手を引く。
察してくれたのか、彼女は素直に付いてきてくれた。
庭で涼しい場所と言えば、一番大きなあの木の下しかない。
エルデーンを連れて木陰に入ると、彼女はふわりと微笑んで言った。
「ありがとう」
まるでお花が咲いたような可憐な微笑みだった。
そんな彼女を見ていると、褒められた恥ずかしさとは違う、よく分からない恥ずかしさが込み上げてきた。私はそれに耐えられなくなって、顔ごと視線をそらす。
本当は見ていたいのに、見ていられない、不思議な感覚。
誰かの顔を見ていて、こんな気持ちになったのは初めてだった。
それはきっとエルデーンが、私の好きなお姫様にそっくりだからだと思った。
絵本の中のお姫様は、私を見たりはしないから。
こんな風に、私に笑いかけてはくれなかったから。
でもこんなことで恥ずかしがっていたら、これから先、まともにエルデーンの顔を見ることができない。それだと彼女に変だと思われてしまうし、最悪、不審がられたり不快な思いをさせてしまうかもしれない。それはよくない。慣れないと。
私は小さな決意を胸に、横にそらしていた顔を正面に戻そうとした。が、その途中、視界に入ったあるものに意識を奪われ、途中で顔を止めてしまった。
目下には昨日までの愛剣、木の枝が大木に立てかけられるように置いてあった。
途端、叱られた記憶が蘇り、私は思わず顔を歪める。
おそらく先ほどから忙しく百面相しているだろう私の顔を見て、エルデーンはくすりと笑った。
「セドナはこれが桜だって、知らなかったのでしょ?」
「……うん。だって、お花が咲いたところ、見たことないもん」
ただの木だと思っていたそれは、帝国には稀な桜という花を咲かす木で、私はそのことを昨日、叱られて初めて知った。そして父が、この木を大切に思っていたことも。
確かに父は、仕事に行く前に必ず、この木を見上げてから出かけていた。木を傷つけてはいけないよ、と口を酸っぱくして言われてもいた。……そこまでの要素が揃っているのに、自分の剣を得るという欲望のために折るとは、子どもの猪突猛進の行動力は恐ろしいものだと思う。
「本来は寒いところで咲く花ではないから」
エルデーンが木を見上げて言った。つられて私も木を見上げる。
木の枝には緑の葉っぱが付いていても、花は一つも咲いていない。
「どんな色の花が咲くんだろう」素朴な疑問を口にする。
「桃色の花だよ」
答えが返ってくると思っていなかった私は、エルデーンを見た。
「この緑の葉っぱが全部、桃色になるのよ」
「……すごい! エルは見たことあるの?」
「本物は見たことないよ。本で見たことがあるだけ。本来は大陸の南東に自生してて、桃色の花弁が散る光景がもの凄く綺麗なんだって」
「へーいつか見てみたいね」
「そうだね」
そのあと私は、自分が騎士を目指すきっかけになったあの出来事を話した。
対してエルデーンは彼女が住んでいる星都のことや、普段はあまり外に出られないのでここまでの旅路が楽しかったこと、あとは本が好きなことや、双子の兄がいることなど、他にもいろいろなことを話してくれた。
彼女が一つ年上だと知ったのもこのときだった。
「お嬢様がたー朝食のお時間です」
木の下に座って話し込んでいた私たちの元に、オグの呼ぶ声が届いた。
私たちは「はーい」と返事をする。
我が家の朝食時間は七時三十分と決まっていた。今日は六時過ぎには庭にいたので、気づけば一時間以上も話に花を咲かせていたことになる。
「こんなにお話したのは久しぶりかも」エルデーンが言った。
つい先ほど聞いた話によると、家では二人の兄が本当によく喋るらしく、彼女とご両親はもっぱら聞き役に徹するらしい。
「ごめんね。私ばかり喋って」
言われて思い返してみると、確かに七割がた、エルデーンが喋っていたように思えた。
私も本来は聞くよりも喋るほうが好きだった。長い話を聞くのは苦手だし、両親も兄もどちらかというと聞き上手なほうではある。
でもエルデーンの話を聞くのは楽しかった。
それは初めて聞く外のことが面白かったり、同じ年代の子と話せる嬉しさもあったけれど、それ以上に、私は彼女の声が好きだった。
初めて聞いたときから、私は彼女の小鳥のさえずりのような声の虜になっていた。
でもそのときの私は、そのことに気づいてはいなかった。
それに気づくのはもう少し先で、今はただ楽しく感じるから楽しいと思っているだけだった。
「エルのお話聞くの楽しいよ!」だから私は素直にそう口にした。
エルデーンは少し驚いた表情を見せると、すぐに嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、私まで嬉しさが込み上げてくる。
先ほどの彼女に対する恥ずかしさは、いろいろ会話している間に、どこかに行ってしまっていた。その代わりに私の心は、彼女の色んな表情を見ることに嬉しさを感じるようになっていた。
「セドナは朝食のあと、何をするの?」
庭を歩きながら、エルデーンが訊いてきた。
「んー特にきめてないよ。今日はお勉強もないし」
「それなら一緒に遊べる?」
「もちろん! 何する? お庭で遊ぶ? あ、でも、エルはお外では遊べないよね」
エルデーンは考えるように視線を上げると、「帝国は涼しいから、走らなければ大丈夫だと思う」と言った。
「ほんとに? じゃあ街に行こうよ!」
「え、街に出ていいの?」
「私はときどき抜け出して遊びに行ってるよ」
「抜け出して」私の言葉を反復し、エルデーンが苦笑する。「また叱られるよ?」
「ばれなきゃいいんだって。大丈夫! 何があっても、エルは私が守るから!」
守る――場の勢いで口にした言葉で、私は大事なことに気がついた。
そういえばお姫様を守るのも騎士の役目だ、と。
そのことは自分の持っている絵本には描かれていなかったけれど、どの国でも王族には直属の騎士が付いていることは、幼い私でも知っていた。それを誰かに聞いた覚えはないけれど、もしかしたら兄が教えてくれたのを忘れているだけかもしれない。
エルデーンは迷う素振りを見せたが、最後には微笑んで頷いてくれた。
了承が得られて、私の心は躍る。
だって今日、私はお姫様を守る騎士になれるのだ。
エルデーン姫を守る騎士になるのだから――。




