初遭遇
入社二年目となり、俺は疲れてへとへとになりながら仕事をしていた。
家賃が安いだけが取り柄の6畳一間。
床は食べ終わった総菜のパッケージが転がり、空になった酒の缶と、飲み残しのペットボトルが白く濁ったままの内容物もそのままに机の上に並んでいる。
家に帰ったらお風呂を浴びるのが普通だが、鉛のように重くなった体は吸い込まれるようにしてベッドに沈んだ。
そんな日常が続くのだと思っていた。
あの日、異変が起こるまでは。
眠い目を擦ってベッドの上で寝返りを打つ。角部屋で道路が近いために、目覚まし時計の時間よりも早く車のエンジン音で叩き起こされた。
最悪の目覚め。こんな世界なんて終わればいいのだ。
二度寝しようと瞼を閉じた時、懐かしい匂いがした。
それは炊き立てのご飯と、味噌汁の匂い。
まるで、親が朝ご飯を作っているような、そんな匂いに包まれながら意識を手放した。
ジリリリリンと目覚ましが鳴ってベッドから飛び起きると、目の前の机の上に、誰かが食べ散らかしたような茶わんと味噌汁椀が二つ並んで置いてあった。
変だ。
これが1人暮らし男性の部屋であることを考えても、食器が置いてあるのはおかしい。
そもそも、料理する時間があれば他のことに時間を割く。だから弁当を買う方が多い。
まして、自分は最低でも使い終わった食器をシンクまで持って行く。
誰かがいるのだ。
最初に疑ったのは自分の母親だった。
枕元のスマホを確認したが連絡は入っていない。
この社員寮は鍵を管理者と自分しか持っておらず、親は入れない。まして、昨日の帰宅時間からして深夜にわざわざやってくることなど考えにくい。
背中をスーッと冷たい物が走った。
社員寮は6畳の部屋と、風呂とトイレとシンクしかないのである。
そのどこかに誰かがいる。
家にゴキブリが、いや、巨大な蜘蛛が住み着いているような、嫌な感じがする。その上、相手が頭のオカシイ人間だった場合は、刃物を持っているかもしれない。
死ぬかも。
朝起きたばかりだというのに、俺の心臓は早鐘のように脈打った。
ベニヤ板をはり合わせただけのような薄い引き戸を引いてシンクに顔を出す。
ここからは玄関が見えるが、こじ開けられた形跡は無し。
ならば、侵入口は窓か。
この社員寮は歴史が古く、防犯性に著しい欠陥を抱えた蛇腹窓を出窓に使っている。鉄格子も無く、その状態で今もあるはずだ。
シンク下の観音開きから、音を立てないように細心の注意を払って包丁を抜いた。
しばらく使っていなかったために、錆の浮いた包丁は頼りなく、とっさに鍋蓋も掴んで盾にする。
人一人隠れられる場所は、そういくつも無かった。
まず、トイレ。
引き戸と同じ材質で作られたドアを勢い良く開けて中を見たが、ここにもいない。
残るはお風呂場。
まだいるとするならば、ここだけだ。
アルミの冷たいドアノブを触る手に嫌な汗をかく。
中から音はしない。
いや、ピチャンと口の緩い蛇口から水が滴って床に落ちる音がした。それに加えて、誰かがそこで息をひそめているような、嫌な空気を感じた。
ハアハアと走った後のように緊張で息が上がって、相手の息使いなのか自分の息使いなのか分からない。
ゆっくりとお風呂場に足を踏み出すと、靴下に冷たい感触があった。
床が濡れていた。
それだけだった。
バスタブの中にも誰もいない。
長らく洗っていないせいで埃が底の方に溜まっていたがそれだけだった。
ふうと息を吐いて鏡を見ると、嫌にやつれた男の顔があった。
朝からこれはこたえる。
大方、酒に酔って忘れただけで、自分が飲み食いした物をそのままに眠ってしまったのだろう。
そう思って握りしめて感覚の無くなった右手から包丁をゆっくりと手放した。
一瞬。
鏡の右下の方に、白く長い物が見えた。
それはカツラの毛のようでもあったし、なにか小動物の尻尾のようでもある。それがスルスルと床を擦って6畳の方へと消えて行くところだった。
おどろいて振り返るが、そこには何もいないのである。
もう一度鏡を見たが、その白い何かをもう一度見ることはなかった。