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Bar 1124  作者: 杏仁豆腐
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薫君と付き合う事になるまでのアレコレ

 世の中には付き合うべきでない男性の職業が3つあるらしい。

 3B。バーテンダー、美容師、バンドマン。この3つを表した言葉だ。


 飲み会の席なんかで冗談半分で話される様な内容だけど、あながち世間の皆様のその評価は間違ってないのかもしれない。


 ……開店前に来た行きつけのバーで常連と思しき女性客と濃厚なキスを交わしている目の前のマスターなんかを見る限り。







 「ねぇ、ちょっと何人目?いい加減お客さんに手を出すのやめなよ」

 「お見苦しい所を見せて申し訳ありません、ミドリさん。これ、サービスです」

 「……ありがとう」


 目の前の男はさっき私にあんな濃厚なキスシーンを見られていたというのに、恥ずかしがる様子を微塵も見せずにニコニコとハイボールを差し出した。


 九重薫。24歳。私の家の隣にあるバー「1124」のマスター。店名の由来はただ11月24日に開店したから。


 1124は繁華街に店を構えていないにも関わらず、多くの客で賑わっている。それもこれも理由は一つ。マスターの九重薫だ。


 綺麗に整った顔に艶のある黒髪。一見顔が整いすぎて冷たい印象を持たれがちだけど、物腰が柔らかくて笑うと小さなエクボが出来る。


 お客さんとの距離の取り方も絶妙で、ニコニコと親し気でありながら一歩引いてお客さんを気持ちよくさせる話術を持っている。だから客、特に女性はハマるのだ。


 私がここに通い出して1年、覚えている限り8回は今日みたいに現場に鉢合わせた事がある。しかも全て違う女性。私が知らない人間関係を含めるともっとだろう。


 私は人生28年間生きて来て、こんなにも「モテる」人間を知らない。



 「それにさ、開店前に来て良いって言ったの薫君の方だよね?一応そういう時はメッセージ送ってるんだからちょっと気を遣ってくれても良くない?」

 「ごめんなさい、ミドリさん。人払いがうまくいかなくて……」

 「人払いって貴方……」


 彼女だよね?と言おうとして口をつぐむ。

 初めて現場に遭遇した時、彼に聞いた事がある。なぜ客に手を出すのかと。その時に返ってきた答えはあっけらかんとしたものだった。「求められたから」だと。


 九重薫という男は来るもの拒まず、去るもの追わず、これを地で行く男なのだ。



 「まぁいいけど。薫君の人生だし、私がとやかく言うことでも無いよね」

 「……」


 薫君はニコニコ笑ってアイスを削っている。


 実は私も薫君に惚れていた事があった。

 私はここが開店した当時から、家が隣なのもあって通って来た。それはもちろんお酒が好きだからなのもあるし、薫君がいたからなのもある。


 薫君は若いのに映画が好きで、バーでも常に白い壁に何かしらの映画が流れている。その映画の趣味が非常に合うのだ。


 家で小さな画面で映画を一人で観るくらいなら、美味しいお酒を飲みながら大画面で観た方が良いに決まっている。


 そうして薫君と主に映画とお酒の話で盛り上がるうちに、薫君が「映画をゆっくり観たいなら開店前に来ても良いですよ」と言ってくれたのだ。


 この言葉を聞いて浮かれなかった訳がない。趣味の合うイケメンの年下男子。しかも開店前に来て良いなんて、自分だけ特別扱いされていると思っても不思議じゃない。


 そうして意気揚々と開店前にやって来て、私が見たのは薫君と女性が濃厚なキスを交わしておっ始める直前の光景だった。


 この時の衝撃ったら無い。私の人生で起きた驚愕事件ベスト3には入る。

 入り口で固まる私と女性の肩越しに、しっかりと目が合った薫君は、慌てる様子も無く立ち上がり私を迎え入れようとしたのだ。


 慌てたのは私と、薫君と熱烈なキスを交わしていた女性だ。彼女は急いで衣服を直すと、私をキッと睨んで出て行った。


 薫君は追いかける様子も無くニコニコと、何事もなかったかの様に映画のセッティングを始めた。

 そうして私は気付いたのだ。この男は非常に危ない男だと。


 かくして私の淡い恋心はガラガラと音を立てて崩れ落ちたのだった。




 「ミドリさん、今日はどんな映画を観たいですか?」

 「そうだな……ア、アクションとか?」

 「珍しいですね」

 「う、うん……」


 本当は恋愛映画を観たかった。けど薫君のラブシーンを生で見せられた後はいつも気まずくて、それと対極の様なアクション映画を選んでしまう。


 「ミドリさん、あれから進展ありました?」

 「え、何のこと?」


 映画のセッティングを終えた薫君がおつまみの生ハムとチーズを出しながら聞いてくる。私はぼーっと映画が始まる前のクレジットを観ながら話半分に聞き返した。


 「ほら、この前言ってたセックスの話」

 「ぶっ!……あ、あぁそれね!」


 思わず吹き出しそうになって慌てて飲みかけていたハイボールを置く。



 なんで自分がこんな話を薫君にしたのかは分からない。ただあの時は酔ってたから、としか言いようが無い。


 私は漫画を描いている。少女漫画家だ。なかがわミドリというペンネームで描いている。本名、長野翠。

 高校生の時、趣味で描いていた漫画を応募したらそれが当選してデビューする事になった。


 当時は高校生でのデビューが珍しくて話題になったし、それも手伝ってデビュー作が映画化される程売れた。それからもとんとんと何作か映画化やアニメ化されるくらいのヒット作を飛ばした。

 一時期はピュアな高校生の恋愛といえば、なかがわミドリと言わしめるくらいだった。


 けれどそれから11年。恋愛漫画の金字塔とまで呼ばれる漫画を描いた漫画家、なかがわミドリには男性経験が一度もない。


 高校生の時はオタクだった。リアルな恋愛よりも少女漫画が好きだった。そもそもオタクだから漫画家になったのだ。


 早くにデビューし、高校を卒業する頃には漫画家として生きていくと決心するくらいには売れていた。

 だから大学にも行かなかった。そうして部屋に篭って漫画ばかり描き続けて早11年。男性と特に出会う事も無くここまで来てしまった。


 そしてつい先日、担当編集者から言われたのだ。



 『最近先生の漫画、反応良くないんですよね〜』

 『はぁ……』

 『で、考えてみたんですけど、先生の漫画リアルじゃ無いというか』

 『……』

 『最近の少女漫画って10年前と違ってピュアなやつばっかりじゃ無いじゃないですか?キスだって、濃厚でリアルな描写が多いし。なんならベッドシーンだって描くし。

先生の漫画は良くも悪くもピュア過ぎるというか。デビューして10年経っている訳ですし、次のステップに言っても良いんじゃないですか?』

 『……』



 そんなリアルなの描けるわけない、だって処女なんだもの!



 この心の叫びをその場で言えたらどんなに良かった事か。

 けれど言う勇気の無かった私はいつもの様に1124に来ると酔っ払いながら、その事を薫君に愚痴ったのだ。


 それがちょうど一週間前。





 「ミドリさん、仕事の為にバージン捨てたいって言ってましたよね?どうなったんですか?」

 「あ、あははは。あれね…」


 私そんな事話してたの!?

 て事は私が処女だって事、4つも年下の薫君にバレてるのね……。軽く死ねる……。


 けれどあの日、酔っ払い過ぎて何をどこからどこまで話したか覚えてないのが正直なところなのだ。



 「そもそもバージン捨てなきゃいけないミドリさんの仕事って、何ですか?」

 「いや〜それは…」


 良かった。私が少女漫画家だというのは言ってないのか。

 バレても良いけど、知り合いにはあまり作品を読まれたくない。特に薫君には。

 薫君が私の漫画を読んだら、あまりの現実の恋愛との違いに笑ってしまうかもしれない。


 「ま、まぁとにかくえっと、男性とお付き合い?しようにも中々機会がなくて。どうしようかな」


 あははははーと乾いた笑いを漏らす。


 「ミドリさん、出張ホストに頼もうかなって言ってましたよね」

 「え!?」


 そんな事言ってたの!?


 「そ、そうだね。いざとなったらそうしようかな〜」


 一週間前の自分の痴態に頭を抱える。


 早くこの話題を終わらせたくて、冒頭から敵とどんぱちやっているゴリマッチョの主人公が活躍するアクション映画を眺めた。


 「それで俺考えたんですけど、出張ホストに頼むくらいなら俺でどうですか?」

 「……うん?」


 あ、敵が全滅した。主人公強すぎ。


 「だからミドリさん、俺が相手しますよ」

 「……え?」


 生返事をしていた私を呼び戻す様に、薫君がカウンター越しに私の手を握った。

 意識が強制的に薫君に持ってかれる。


 「薫君、どうしたの?」

 「バージン、捨てたいんですよね?俺なら後腐れないですよ。出張ホストで知らない男に抱かれるくらいなら俺の方が安全ですよ」


 薫君はいつものニコニコとした笑顔を引っ込めて、真剣な眼差しでこちらを見つめて来た。


 薫君は女の子を口説く時、いつもこんな真剣な顔をするんだろうか。確かにこのギャップはクる、かも。



 「……何言ってるの、薫君」

 「俺ミドリさんに感謝してるんです。開店し始めの頃、お客さんが全然来なくて落ち込んでた時でも、ずっと通ってくれて」

 「……」


 それは貴方の顔が目当てだったからです、なんて言えない。


 「だからお礼させてください。それに俺だったらお金払わなくて良いし、お得ですよ?」

 「……薫君、手離して」


 薫君は素直に手を離した。

 こういう時、少女漫画だったらどうなるだろう。ヒーローはきっと好きな女性の手を素直に離したりはしないんだろうな。


 「私がここに通ってるのは1124っていうバーと薫君が好きだからだし、だから私にお礼する必要はないよ」

 「……」

 「さっき薫君の人生だって言ったけど、やっぱり言わせてもらう。薫君、もっと自分を大事にしなよ。こんな風に自分を軽く見せるのは良くないと思う」

 「ミドリさん?」


 薫君は私の言葉にキョトンとした表情を浮かべた。


 前から思っていた。

 薫君は求められたら誰でも受け入れる。それに誰に対しても平等に優しい。


 人間誰しも好き嫌いがある。けれど薫君にはそれがない。誰にも優しい薫君はきっと、誰にも優しくない。そしてそれは自分の事も大事にしてないのと同じな気がするのだ。



 「私は薫君の事好きだし、ただの常連にこんな事言われても鬱陶しいかもしれないけど、将来本当に大切な人が出来た時に後悔するよ」

 「……ミドリさん、真剣ですね」

 「そうだよ、真剣だよ」


 そう言って薫君から視線を離さずに見上げると、薫君はふっと笑みを浮かべた。


 「ありがとうございます」


 私が伝えたい事が薫君に伝わったかは分からないけれど、とにかく薫君が私の相手をするというトンデモ作戦は回避されたようだった。


 「ミドリさんが俺と1124の事、そんなに大切に思ってくれていたなんて知りませんでした」

 「まぁ、ね」


 なんか今更ながら自分の言葉が恥ずかしくなって来た……。


 「でも俺、ずっとこうやって生きて来たから自分を大事にするってどうすれば良いのか分かりません」

 「そうなの?」

 「はい。ミドリさん、どうすれば良いですか?」

 「うーん、そうだなぁ。例えば好きな物に囲まれて過ごす、とか。あとはほら、自分のしたい事を気兼ねなくする、とか」

 「自分のしたい事、ですか?」

 「うん。もちろん犯罪なんかはダメだよ。例えば週末にゆっくり映画観るとか、ホテルで高級ランチ食べる、とか」

 「……俺、一つしたい事出来ました。ミドリさん、応援してくれますか?」

 「もちろんだよ!」


 話題が変わった事ですっかりリラックスしていた私は油断していた。


 「俺、ミドリさんがバージンを捨てるお手伝いがしたいです」

 「……」


 どうやら、私の真剣なお説教は薫君に全く響いてなかったらしい。




 あれから私は何度も薫君の提案を断った。けれどその度に


 「ミドリさんは俺の事大切に思ってくれてるんですよね?それで俺のしたい事応援してくれるんですよね?」と笑顔で凄まれ、時には


 「もしかしてミドリさん、俺に嘘つくんですか?自分の言葉に責任持てないんですか?」と脅され、更には


 「やっぱりミドリさんは俺のことなんてどうでも良いんですね。だから俺のしたい事応援してくれないんですね」

としょんぼりされ……。


 まさか薫君がこんなにもしつこいとは思わなかった!


 薫君の粘り強さに折れた私は、それでも薫君が私の相手をするのは流石に受け入れられず、妥協案として私が恋愛経験を積む為にセックスなしで(ここ重要!)付き合う事となったのだ。


 そうしてその話の流れで私が少女漫画家で、リアルな恋愛を描く為に処女を捨てたがっていた、という事もバレてしまった。


 なんだろう。癒される為にバーに来たはずなのに、とんでもなく体力消耗してしまった……。



 「ミドリさん、俺嬉しいです。ミドリさんと付き合う事が出来て。それに漫画家だったんですね」

 「う、うん…」

 「ねぇミドリさん、付き合うって何するんですか?」

 「へ?」

 「俺、恥ずかしながら誰かと付き合った事ないんです。だからそれはミドリさんと一緒です」

 「え、じゃあ今までの女性って……」

 「あ、彼女達はただの友だ……」

 「いや待って!皆まで言うな。なんとなく分かったから」


 予想はしてたけど、薫君の恋愛事情ヤバすぎ……。


 「と、とりあえず今日は帰る、ね。あの、また連絡する」

 「え、もう帰るんですか?」

 「うん……」


 今日の事は一旦持ち帰らないと受け入れられない。

 そうしてしばらく通わなければきっと薫君も今日の事は忘れる、はず。そしたらまたここに来よう。


 私はすっかり薫君と別れる事を前提で考えていた。


 「ね、ミドリさん」

 「何?」

 「髪に糸くずついてますよ。取ってあげます」


 立ち上がって荷物を整える私の返事を待たずに、カウンター越しに薫君が手を伸ばして来た。


 「ちょっ…っ!」


 そしてそのまま後頭部に手を伸ばして強引に口付けられる。始めから激しいキスに、私は思わずフリーズしてしまった。


 「……ミドリさん、本当にキスも初めてなんですね」

 「……ちょ、薫君どういう事!?」

 「どういう事って、恋人同士なんだからキスするのなんて当たり前ですよね?」

 「……」


 ニコニコと微笑まれてはぐうの音も出ない。

 そもそも私は薫君の顔に弱いのだ。


 「あとミドリさん、これ預かりました」

 「え?」


 そう言って薫君が見せてくれたのは私がしていたイヤリングだった。初めての給料で買ったお気に入りのイヤリング。

 慌てて耳を触ると左耳だけイヤリングが無い。きっとキスの合間に取ったのだ。


 「なんでそんな事……返して」

 「だってこうでもしなきゃミドリさん、しばらくここに来なくて俺達のこと有耶無耶にしますよね?」


 考えていた事がバレてる……。


 「明日も来てくださいね。その時イヤリングはお返しします。今日出来なかった事、たくさんしましょう?」

 「……帰る!」


 イヤリングを手に微笑む薫君はいつものふんわりとした雰囲気とはかけ離れて意地悪な笑みを浮かべていた。


 半地下となっているバーの階段を駆け上がりながら、私はさっきの薫君の笑顔を思い出して、まずい事になったと焦っていた。




♢♢♢



 翌日、結局私は1124の前にいた。

 けれど今回は開店前じゃ無い。バーも盛況の23時。この時間に来れば薫君も忙しくてすんなりとイヤリングを返してもらえるかもしれないと踏んだからだ。


 正直しばらくここに来ない事も考えた。けれど、私が1124の隣に住んでいる事もバレているし、薫君がイヤリングを取ったという事は、昨日の話を有耶無耶にする気なんか無いという事だ。


 薫君は一体何を考えているんだろう……。私の処女を捨てる手伝いが彼のしたい事って……。

 でもそれが薫君が私の事を好きでしたいのかと言われたら絶対違うと断言できる。

 きっと彼は、何かをされる度にその見返りとしてお返しをしないといけない、と思って生きてきたのだろう。そしてそれが自分の身体を他人に預けることだった……。


 私の場合、初期から通っている常連だからそのお礼をしないと、と思ってるのかもしれない。


 けれどそんな事をする必要は全く無いのだ。私だけに限らず、彼を取り巻く全ての人間関係において。

 自分を大事に出来ない薫君を私は可哀想にも思っていた。



 「薫君、こんばんは」

 「ミドリさん、待ってました。もう来てくれないんじゃないかと……」

 「うん……」


 うるうると瞳を潤ませて喜ぶ薫君の顔を直視できない。


 店は案の定賑わっていて、薫君目当てと思しき女性客達がカウンターに群がっていた。そうして、薫君と親しげに話す私を胡乱な眼差しで睨んでくる。


 ……うう、居た堪れない。


 定位置の、映画から1番近い右端の席に腰を下ろすと、彼女達から目を逸らす様に映画を見つめた。


 今日の映画は私が一番お気に入りのフランスの恋愛映画だった。

 思わず薫君を見やるとにっこりと笑って、ハイボールを出してくれる。


 あぁ、やっぱり惜しい。この幸せの場所を手放してしまうのは。だから、薫君に言わなくちゃ。昨日の事はどうにか無かったことに……


 「あの、薫く……」


 「ねぇ、薫、今日終わったらホテル行かない?」


 私の言葉に被さって薫君に話しかけたのは私の隣に座っていた女性だった。

 見れば、昨日まさに開店前に薫君とキスしていた女性だ。艶々のロングの金髪に真っ赤なルージュ。私が漫画で女豹を登場させるなら、まさにこんな人をモデルにする。


 「申し訳ありません。出来ません」


 グラスを拭きながら、キッパリと薫君が断った。


 「……なんでよ?」


 薫君に断られると思ってなかったのか、隣の女性の声がワントーン下がった。


 「俺、そういうのやめたんです」

 「はぁ?どういう事?今まで一回も断らなかったじゃない」

 「申し訳ありません。もうそういう事はしません」

 「理由を教えなさいって言ってるの」


 女性の声が少しずつ大きくなった。


 周りの他の客達も薫君がどう答えるのか、気にしないふりをしながら聞き耳を立てている。バー全体を緊張感が支配していく。


 なんか、すごく、まずい雰囲気な、気が、する……。


 「あ、あの、マスター……新しいハイボール欲しいなぁ〜」


 そろそろと手を挙げて薫君を呼ぶ。


 とにかく、今は薫君に仕事させて女性と引き離さないと。


 薫君を女性から引き離した事で、隣の女性の空気が氷点下まで下がった。


 ひぃ!もう、こうなったら左隣、見ない!見ない!


 「ミドリさん、お待たせしました」


 何気ない薫くんの言葉だけれど、いつもと違う。いつもの笑顔とは違って、優しさに溢れてる様な……。そしてハイボールを渡す時そっと私の手に触れた。


 その笑顔と一動作だけで薫君が私の事を特別に思って接しているのが分かってしまった。不覚にもキュンとしてしまう。


 バシャッ


 だから、隣の女性の反応に遅れたのだ。


 「え……」

 「ミドリさん!?」


 左隣の女性が水をかけてきた。あまりの事に声が出ない。薫君は慌てた様にタオルを集めてカウンターから出てこちらへやって来る。


 「あら、ごめんなさい。手が滑っちゃって」


 ……どう滑ったら頭から水被る事になるんですかね〜?


 「お客様……!」

 「待って、薫君」


 いきり立って女性に詰め寄ろうとする薫君を制す。

 いくら目の前の女性が悪いとしても、ここは薫君のお店で、そして彼女は客だ。女性が薫君に害をなしたのならともかく、水を被ったのが客の私であるこの状況で、店主と客が喧嘩したらどちらの立場が弱いかは明白だ。


 「手が滑ったのなら仕方がないです」

 「ふん。……あんた、薫とヤッたんでしょ?」

 「……なんの話ですか?」


 女の勘っていうのは非科学的な程当たるもんだ。私と薫君の一瞬のやり取りで、私たち2人の間に何かあったと勘付いたのだ。いや、ヤッてはないんだけどね!?(ここ重要!)


 「だーかーら、薫とヤッたんでしょ?薫って言ったらなんでもしてくれるもんね。気持ち良かったでしょ?」

 「……」


 聞きたくない。こんな、人前で薫君が貶められる様な言葉。


 「いっつもニコニコしててつまんないけど、薫、アッチだけは上手だもんねぇ〜。良かったね、あんたみたいなのでも相手してもらえて」


 ここで私の中で何かが切れた。


 「薫君は別につまんなくないです」

 「は?」

 「だから、薫君はつまんなくないって言ってるんです」

 「あんた何言ってんの?」

 「薫君の話は面白いし、作るお酒もサイコーだし、つまんなくないって言ってるんです。

 薫君に振られたからってそんな事言うの、恥ずかしいですよ」

 「あんた、何なの、喧嘩売ってんの?」

 「失礼ですけど、先に喧嘩売ってきたのそっちですよね?それに、私薫君と付き合ってるんです。貴女、自分が客だからって薫君に強く出てますけど、私と貴女は同じ立場だって分かってます?

 大事な人を侮辱されて、挙げ句の果てには水かけられて暴言吐かれたって警察に言ったらどっちが悪いか明白だと思いますけど。幸い周りには沢山の証人の方が居るみたいですし」


 最後に捲し立てる様に女性に凄む。


 彼女はハッとした様に周囲を見渡した。そこでようやく自分が衆目を集めていた事に気付いた様だった。

 女性は「あんた覚えときなさいよ!」と悪役もびっくりの決まり文句を捨ててカツカツとヒールを鳴らしてバーを後にした。


 そんな彼女の背中を見送りながら心の中で中指を立てておく。

 

 そこで周囲からワッと拍手が上がった。


 「え、え?」


 「凄い、お姉さん。あんなヤバい人に冷静に立ち向かうなんて!」

 「ヨッ!お姉ちゃんよくやった!」


 「あ、ありがとうございます……」


 店中のお客さんが緊張から解けたように私に労いの言葉をかけてくれた。


 「ミドリさん……ありがとうございます」

 「ちょ、薫君。そんな悲しそうな顔しないで」


 薫君は顔を伏せて水で濡れてしまった私の服や髪を拭いてくれる。私よりだいぶ背が高い彼は、俯いていても顔をくしゃくしゃにして悲しんでいるのが見えてしまう。


 「はぁ〜、悔しいけどお二人のこと、応援します!」

 「ねぇ、仕方ないね〜」

 「……え?」


 カウンター席に座っていた薫君ファンの女の子達がうっとりと私と薫君を見つめていた。

 ……祝福するって何を?


 「ほら、薫君とお姉さんの事です。薫君、ずっと特定の人作ってなかったからあわよくばって思ってましたけど、お姉さんみたいな人と付き合うんだったら潔く諦めます!」

 「え、ちょっと待って?」


 そ、そういえばさっき、売り言葉に買い言葉みたいな感じで薫君と付き合ってるって言っちゃった……!


 「あのそれは……」

 「ミドリさん、俺嬉しいです」


 振り返ると、さっきまで俯いて悲しそうにしていた筈の薫君がニッコリと笑って私の両手を握っていた。


 ……なんかこの笑顔、見覚えがある。そう、つい昨日見たような……。


 呆気に取られている間に薫君は仰々しく跪いた。

 私の手の甲に薫君の唇が落とされる。艶々でリップも引いてないのにピンク色に染まった形の良い彼の唇が、慈しむように手の甲をなぞっていく。


 「ミドリさん。俺、必ずミドリさんを幸せにします。だから結婚してください」


 その瞬間、店内中がシーンとして、まるで時が止まったかの様になった。


 待て待て待て!こんな展開聞いてないんだけど!?!?

 さっきまで私に拍手を送ってくれていた店中の人達のキラキラと期待した視線が痛すぎる!!


 断らなきゃ、断らなきゃ、いくらプレッシャーが凄いといってもここで頷いては……


 「ミドリさん、愛してます」

 「……はい」


 「ヒューーーーッ!」

 「おめでとうーーーー!」


 いや、こんな雰囲気の中断れないよっ!!!


 店中の人々が拍手をして祝福してくれる。なんなら酔っ払った者同士が肩を組んで乾杯し合っている。



 なんだか、非常ーーーにまずい事になってる気がするんだけど。


 「ね、ミドリさん」

 「……何?てか薫君分かってるよね?これはこの場を凌ぐために仕方なく……」

 「ミドリさんはこんな大事な事で嘘つくんですか?酷いですね」

 「いや、あの嘘というかその、なんというか……」

 「良かったです。嘘じゃなくて」


 薫君の顔が近づいてくる。私は思わずギュッと目を瞑ってしまった。


 薫君がフッと笑った様な気配がして、チュッと左耳に唇の感触がする。それは奇しくも昨日イヤリングを奪われた方の耳で……。


 「“幸い周りには沢山の証人の方が居るみたいですし”ね」

 「……」


 そうして後に続いた言葉に、私はとんでもない男に捕まってしまった事を悟ったのだった。




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