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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

猿を殴りたくなる金曜日

作者: 村崎羯諦

 金曜の夜、仕事帰り。私は無性に猿をボコボコに殴りたいという欲求に襲われた。あの媚びへつらうような、それでいて傲慢さが宿る気色の悪い顔を思いっきり踏みつけてやりたい。身体の形が変わってしまうまで、何度も何度もぶん殴ってやりたい。最初は甲高い声でキーキーと叫び声をあげるだろう。しかし、殴られ続ける内にその気力も失せてくる。それから猿は、二つのくすんだ黄色い瞳をうるませながら私の方を見上げ、恐怖に支配されながらも、赦しを乞うように歯をむき出しにして情けなく口角をあげるだろう。しかし、私は殴るのをやめない。幼児ほどの大きさしかない身体に馬乗りになって、私は何度も何度もその身体に拳を振り下ろす。硬かった骨が少しづつ砕けていき、猿はその口から真っ赤な血を吐く。猿は赦しを乞うことすら諦め、痛みを受け入れるようにして目を閉じる。気を失ったのかもしれない。ただ時が流れ、理不尽な仕打ちがやむことをただじっと待っているだけなのかもしれない。それでも、私は殴るのをやめない。拳は猿の内臓を潰し、灰色のコンクリートの床には血とは別の黒い体液が染み出し始める。私は立ち上がり、動かなくなった猿の頭を足で踏みつける。足先にどんどん力が入っていき、猿の頭蓋骨がひび割れる音がかすかに聞こえてくる。呼吸は興奮で荒くなる。息を吐く音は床を、壁を反響する。猿の反応はない。ただ私の右手だけがじんじんと痛みでうずき、そして燃えるように、熱い。


 私は想像の世界からはっと我に返った。手には汗がにじみ、身体全体が火照っている。電車はちょうど新宿駅に到着し、大勢の人が車内に乗り込んでくるところだった。私は先程の想像を思い返す。恍惚感が背筋を這うように登っていき、興奮の余韻が深い溜め息を吐き出させる。


 正直、こんな気持ちに襲われたのは生まれて初めてだった。私は生まれてこの方、喧嘩はおろか、誰かを本気で怒ったことすら一度もなかった。会社の上司に理不尽に叱られても、妻から役立たずとヒステリックに罵られても、一人娘から蔑むような目で死ねと言われても、私は一度も激高したことも、反抗的な態度で言い返したこともなかった。ぐっと自らを戒め、歯を食いしばって我慢してきた。それなのになぜ、猿を殴りたいという突拍子もない感情が自分の内奥から湧き上がってくるのだろうか。


 私は携帯を取り出し、ここから一番近い動物園を検索してみる。こんな時間にまで開いている動物園などないだろうし、そもそも、無抵抗の動物を一方的に殴ることが法的に許されるわけがない。しかし、理性を押しのけるようにして私の指先は画面をスクロールしていき、そして、ここから一番近い動物園の場所を探し出す。私は顔を上げ、人混みの隙間からわずかに覗く電車の路線図を確認した。帰りが遅くなると、不審に思われるかもしれない。しかしすぐに、私の帰りを待ち望んでいる人がいるわけでもないことに気が付き、その不安は霧のように消えていく。そして今日は金曜日だ。明日、いつものように早い時間に起きて出勤しなければならないというわけでもない。私はかばんを握りしめる。そして、もう一度携帯を確認し、動物園までの乗換方法を確認した。



*****



 電車を乗り継いて到着した頃にはもう、動物園は閉園した後だった。夜は深くなり、電灯の淡いオレンジ色の光だけが虚しく鉄製のゲートを照らしている。虫の鳴き声が聞こえてくるような静けさの中で、私は封鎖されたゲートの前で立ち尽くすことしかできなかった。ここをよじ登って無理やり侵入してやろうか。ふとそう思い立ったが、そんなことをする度胸も勇気も私にはなかった。猿を殴りたいという暴力への欲求は今なお胸の中で空虚にくすぶり続けていたが、私の意気地のなさを抑え込むほどの勢威は残っていなかった。馬鹿な考えは捨てて、やはり家に帰ろう。そう考え、踵を返したちょうどその時だった。


「ひょっとして……猿を殴りにいらした方ですか?」


 私の目の前に立っていたのは、穏やかな微笑みを浮かべた中年男性だった。顔は全体には丸みを帯びており、鼻は丸く、目尻には細かなシワが浮かんでいる。髪全体は薄いが、整髪剤で綺麗に整えられており、Yシャツの襟元にはブランドのロゴが縫い付けられているのがかすかに見える。品のいい、そして経済的に余裕のある人間だということがその容貌からだけでも伝わってくる。


「いえいえ、別に通報しようとしているわけではありませんよ。その逆です。あなたも私の同士かと思って声をかけさせていただいたんです」


 警戒心から反射的に身体を強張らせていた私に彼は人懐っこい笑顔を浮かべながらそう言った。同士。私はその言葉に反応する。それはつまり、あなたもこの動物園に猿を殴りにいらしたんですか。そんな馬鹿な話があるものか。私は半分冗談をいうつもりで、しかし、心の奥底にわずかなわずかな期待を抱きながら、恐る恐る尋ねてみる。男はもったいぶるかのように顎に手を置き、こくりと頷いてみせた。


「今日みたいな陰気な夜にはですね、あなたや私のように猿をボコボコに殴りたくなるような人間が多いんですよ。見たところ、あなたは初めてのようですね。猿を殴りたいと思って、ここまでいらっしゃったのは。その行動力と勇気は素晴らしいものです。さあ、私についてきてください。中への入り方をお教えしますよ」


 怪しいだとか、危険だとか、いつもの私ならそう思って警戒しただろう。しかし、男の言葉や仕草からは詐欺師特有の胡散臭さがまるで感じられなかった。それよりもむしろ、私は彼が発した『同士』という言葉に、ひどく心を揺さぶられていた。同士。誰かからそのように言われたのは一体いつぶりだろうか。年を取るたびに知人や友人が減っていくだけの、鉛のように重い孤独が身体を蝕んでいくだけの人生において、その言葉は抗いがたいほどの魅力を放っていた。猿を殴りたくなるのは私だけじゃない。この気持を理解してくれる人物が目の前にいる。その事実は私の背中に重くのしかかっていた背徳感を消し去り、そして胸の奥にはびこった孤独感を少しだけ和らげてくれるような気がした。


 私は二歩分だけ距離をおいたまま男についていく。男は園の外堀に沿って奥へ奥へと進んでいき、そして、半時間かけて園の外側を半周し、そこでようやく足を止めた。私達がたどり着いたのはプレハブ式の小さな事務所だった。男は何食わぬ顔でコンコンと事務所の窓をノックし、小さな声で何か言葉をつぶやく。そして、しばらくすると中から誰かが窓際へと近づいてくる足音が聞こえてきて、ゆっくりと事務所の窓が開かれる。中から顔を出したのは初老の警備員で、不機嫌そうな、蔑むような表情を浮かべて男の顔を睨んでいた。男は財布を取り出し、数万円を彼に手渡す。警備員はその場で万札の数を確認し、それが済むと複数の鍵が連なった鍵束を男に手渡した。男が鍵束を受け取ると、警備員は乱暴な所作で窓を締める。静かな周囲に錆びついたサッシの音が虚しく響き渡った。


「さあ、猿を殴りに行きましょう」


 男は私の方を振り返り、顔元まで鍵束を持ち上げながらそう言った。オレンジ色の照明に照らされて、男が持つ鍵束が鈍い光沢を放った。



*****



「ほら、最近はどの動物園も経営難でしょう。だから、こういうビジネスを裏でやっているところが多いんです。なんでもすごく儲かるらしいですよ」


 歩きながら話す男に私はそういうものかと納得する。ですが、根っからの動物好きが働いているということもあってですね、いくらお金を落としていようとも、私達のことをよく思わない職員も多いんです。全く馬鹿げた話ですよね。私は男の言葉に同意しながら、初めて入る夜の動物園を見渡した。動物園の中は獣特有のまとわりつくような臭気があたりにただよっている。夜行性の動物のものだと思われる小さな二つの光の点が明滅するのが見え、威嚇にも似た低い唸り声がどこからともなく聞こえてくる。そばを通りかかった私達を驚かせようと、右隣りの檻に入れられていた猛禽類の鳥がけたたましい羽音を立てながら飛び立った。鳥は鉄製の檻に身体をぶつけながらも、何かに突き動かされるように私たちがいる方向へ襲いかかってこようとする。それは一見愚かな行為のようでいて、どこか自傷行為のような切迫感を感じさせた。


「時々はこうやって猿をボコボコにしないと、人生やってられませんよ」


 並んで歩きながら、男はぽつりとつぶやく。


「良い高校、大学を出て、みんなが知る有名企業に就職しました。私にとってはそれが人生で一番輝いていた時期でした。それからはもう頂上からゆっくりと降りていくだけの人生です。上司からは仕事ができないと罵られ、私が滑り止めで受けていたような大学出身の後輩の下で働かされ、家にも会社にも居場所なんてない。現実社会の中では、私は人間らしい生き方なんてしていない。それでも死ぬのは怖いですから、生きていかなくちゃいけない。だから、考えることをやめ、悲しいとか楽しいとか、そういうことを感じることをやめました。考えることと言えば、自分の至らなさとかそんなことばかりだし、嬉しいことよりも楽しいことよりも、辛いことの方が多いですから。そんな私にとって、この動物園で猿をボコボコにぶん殴っているときだけ、その時だけが、生きているってことを実感できるんです」


 俺は失礼を承知で男の勤務先を尋ねてみた。男が勤めていたのは誰もが知る某有名企業であり、難関国立出身の人間しか入れないような企業だった。


「猿をボコボコに殴り始める趣味を始めてから、表情に笑顔が戻りました。数は少ないですが、同じように、たまに猿をボコボコに殴りたくなるような人が他にもいて、彼らと友達になることができました。猿の醜さについて語り合い、猿の殴り方について教えあい、たまには仲間で集まって、遠出をしたり……。社会人になってから友達なんて減る一方で、出会いなんて何もなかった自分にとって、それがとてもうれしくて、楽しかったんです。あなたなら……わかってくれますよね?」


 男が俺の方を振り返る。動物園の奥にあるサル山が視界の隅に見える。猿をボコボコにしたいという衝動はまだ心の奥でくすぶっている。今にもあの場所へ駆け出したいという気持ちもある。しかし、それでも、私は歩くスピードを抑え、じっと男の話に耳を傾けた。私は彼ほどの輝かしい栄光を持っているわけでもないし、風が吹けば飛ばされてしまいそうな小さな会社で黙々と仕事をこなしているだけ。しかし、立場や地位や年齢が違えど、男の境遇は、今置かれた私の境遇と重なり合っているからだった。


「さっき、あなたの丸まった背中を見て、私は少し前までの自分を思い出してどきっとしたんです。やっていることがやっていることですから、普段なら絶対にそんなことしないのですが、気がつけばあなたに声を掛けていました。迷惑でしたら申し訳ありません」

「いえ……私もまた途方に暮れていたところでしたから……」


 私は何とか声を絞り出す。しかし、その声は自分でもわかるくらいにかすれ、そして震えていた。誰かからこれほど優しくされたことなどいつぶりだろうか。誰かから関心を持ってもらえたことなどいつぶりだろうか。妻からも、娘からも、会社の上司からも。私はいないものとして、存在しないものとして、そして時には邪魔者としてしか見られていない。そんな私を、一人の人間として、一人の仲間として目の前の男は私を認めてくれた。これ以上に、今の私を喜ばせるものが他にあるだろうか。


「あなたは私や、他の友だちの同士です。嫌でないのであれば、ぜひ私の友達もご紹介しましょう。彼らはみな良い人ですし、あなたの気持をよく理解してくれるはずですよ。詳しい事情はわかりませんが、お辛い境遇にいるのであれば、ぜひとも覚えておいてもらいたい。あなたは一人ではないことを」


 私は頬を一筋の雫が伝っていくのを感じた。顔をうつむかせながら「ありがとうございます」と私は震える声で返事をした。男は何も言わず、私の肩にぽんと手を置く。その手は大きく、暖かかった。私たちはそのままサル山の裏に設置された小屋へと近づいていく。事務所で受け取った鍵を使い、中に入る。長い間放置された生ゴミのような臭いが充満した小屋の中は、いくつもの小さな檻で区分けされており、それぞれの檻の中には一匹から数匹のニホンザルが入れられていた。大多数の猿は藁でできた寝床に臥せており、少しだけ目を開けている猿は、私たちの姿を確認してもすぐに騒ぎ立てることなく、すぐに目を閉じるだけだった。


「動物園で飼いならされた、惨めな動物たちですね。見てください、あの皺だらけで気色の悪い顔を。本当にみっともなくて、それでいて殴りがいがある」


 男は檻の中を一つづつじっくりと見ていきながら、嬉しそうに私に語りかける。そして、一つの檻の前で立ち止まると、私を手招きし、最初ならばあの小柄な猿なんかおすすめですよと教えてくれた。私は男に手伝ってもらいながら、檻を静かに開け、檻の中へと入っていく。藁が敷かれた床を歩くたびに、私の心臓が鼓動の速度を加速させていく。この檻にたった一匹だけ入れられている猿のもとまで近づき、私はその小さな身体を見下ろした。栗色の毛は濡れているかのように肌に張り付き、紅色の顔は暗い照明の下でくすんで見える。猿はまだ目を開けない。


「そういえばこの後、お時間はありますか?」


 檻の外から男が私に尋ねてくる。


「ぜひお酒でも飲みに行きましょう。初めて猿をボコボコにした感想を聞かせてくださいね」


 男はまた外で逢いましょうと言って、他の猿を探しに立ち去っていった。狭い部屋の中にいるのは、このみすぼらしい猿と私だけ。猿はそこでようやく目を開け、眠気眼で私を見上げてきた。しかし、面長で気持ちの悪い顔をまじまじと観察しても、数時間前まで感じていた抑えきれない衝動が湧いてくることはなかった。そこでようやく私は、あの暴力性が、加虐心が、私自身の中で積もりに積もった孤独感と怒り、そして決して満たされることのなかった承認欲求によって生まれたものだったということを理解した。同士と呼ばれ、優しい言葉を投げかけられた今となっては、猿への憎しみも、抑えがたい嫌悪感も、すっかり消えてなくなっていた。しかし、それとは別の理由から、この猿をボコボコに殴りたい、殴らなければならないという感情が芽生えていた。私はこの後の居酒屋で、私がどのようにこの猿を滅茶苦茶にしてやったのかを語り、それを嬉しそうに男が耳を傾ける姿を想像した。背中を這い上がる恍惚感は後ろめたさを感じない分、それを押さえつけようとする反発がない分、どこか心地よくもあり、私の気持ちを震わせた。


 まずは顔を踏みつけてやろうか。眼球を突いてやろうか。手首を反対方向に折ってやろうか。私の頭の中に、次から次にイメージが浮かび上がっていく。私は意を決し、猿の頭を足で踏みつけた。そこで初めて身の危険を察した猿が叫び声をあげる。耳鳴りのように突き刺さる叫び声に頬を緩ませながら、私は猿に馬乗りになる。さあ、どうやってこいつを痛めつけてやろうか。私は拳を固く固く握りしめる。そして、私は拳を勢いよく振り上げ、それを猿の顔面へと、躊躇なく振り下ろした。

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