はばたく花嫁 ⑦
「ひぃいい! ち、違う! 俺、俺じゃない! 俺は何も知らないんだ、知らないんだよ!」
「やかましいッ! どのみち貴様は不法侵入やらかしとるんじゃ、言い訳やら懺悔やらは署でたっぷりするんだなッ!」
下から轟いてきた、怯えた若い声と、野太い怒号。それらはやがて、車のドアが閉まる音と共に止み。車が走り去った音の後には、ただ静寂だけが残った。
「……相変わらず課長は無理をしますね。年も年なんですから、もう少し我々若手勢にも体を張らせてほしいものです」
「まあ課長は熱い人だからな……ともかく。色々と仰々しい事はやらかしていった奴だったが、呆気なく捕まってくれたのは良かったよ」
「それって。先生を殺したのって、やっぱり……」
「ああ。ポーラちゃんも考えている通り、彼とみてほぼ間違いないだろう。動機に状況証拠、そして目撃証言。三拍子揃っている」
ベイカーさんの返答に、クラリネ先生の表情はより一層曇る。
「くそっ……あの時に、あの野郎が屋上から降りてきたのを見かけたあの時に、あたしが……」
呪詛のような嘆き。それに答えられる人は誰もいない。私はただ、惨劇の現場となっただろう血塗られた屋上を、きつく睨みつけていた。
「……マイヤー君、皆さんを下まで送ってやってくれ。こんな場所にいつまでも居させちゃ悪い」
「了解しました。それでは、お二人とも……」
ベイカーさんの指示を受け、マイヤーさんは未だ座り込んだまま俯いているメイスン先生を立たせ、怒りを呟くクラリネ先生を連れ、屋上を後にした。三人の足音はゆっくりと下の方へ遠ざかっていく。
「さてと、君らも手間を取らせてすまなかったな。家まで送るくらいはさせてくれ」
彼女は階段室のドアを開け、ポーラはその案内に従ってドアをくぐる。けれど、私はまだ、血塗れの屋上を眺め続けていた。何故かは自分でもよく分からない。ただ。奇妙なむず痒さが、私の身を苛む。
「違う……何かが」
「なに?」
私の呟きにまず反応したのはベイカーさんだった。私は少し躊躇した後、黙っていても仕方ないと考え、口を開いた。
「素人考えではあるんですけれど……普通、ただのストーカーが憎しみのあまり相手を殺したとして。ここまでの事をするものでしょうか?」
「ふーむ、確かにな。この状況はかなり異常ではある……憎悪だけでここまでする必要はないだろうからな」
「ええ。おそらくこれは、犯人にとってのカモフラージュ……証拠隠滅の目的があっての行為のように思います。例えば自分の足跡を消すなどといったような」
「ああ、それが妥当な推理だろうな。もっとも当の犯人がこうあっさり捕まったんじゃ、何の意味もないけどな」
軽く嘲笑を浮かべ、ベイカーさんは屋上の向こう、中庭の方角に視線を向ける。しかし私はその意見に待ったをかけた。
「意味がない……本当にそうでしょうか? これだけの状況を誰にも気づかれる事なく作り上げられるだけの犯人が、メイスン先生を始めとする人の目に付くような下手を打つとは、私には思えないんです。犯人像が噛み合わないというか」
「じゃあノエルは、あのストーカーが犯人じゃないって言いたいの?」
「少なくとも私には、そうは思えないの」
「だとしたら、ノエルちゃん。君は一体、どういう奴が犯人だと考えてるんだ?」
シンプルなベイカーさんの問い。鋭く冷静なその視線を、私は真っ向から受け止める。
「『バートリーⅡ世』の模倣犯。その可能性もあると思うんです」
ポーラの息を呑む音が聞こえた。ベイカーさんもさすがに目を丸くしている。けれど私には、その仮説を唱えなくては納得のできない、一つの違和感を抱いていたのだ。
「そうでもなければ、ナタリー先生の死体があんなに白かった事の意味を、説明できないんです」
「……白かった?」
「はい。一番最初に先生の死体に触れ、仰向けにひっくり返した時にまず目についたのが、その肌の白さでした。紙のように白い死体の肌……けれど、唇などは別としても、全身の肌がくまなく血色を失うまでは、それなりに時間がかかるはずです。先生が終礼を終えて教室を慌ただしく出ていかれたのが四時半頃……そして彼女が死体となって降ってきたのが五時半。どう見積もっても、その間には一時間もありません。まして今日は非常に冷え込んだ気候です。真夏の時期などであれば、死体の変色が早まるというのも頷けるけれど、たったの一時間で肌の色があそこまで白く変わるというのは考えにくい。とすれば――」
「――その血色を犯人が無理矢理抜き取った。そう捉えれば納得できますね」
唐突に私の言葉の後を継いだのは、階下から戻ってきたマイヤーさんだった。その表情はひどく暗い。
「先程軽い検死が終わったようなんですが、そこで死体の妙な状況について報告を監察医の方から受けましてね。それを警部にもお伝えしようと思って戻ってみましたら、大体の事をノエルさんが代弁してくれましたよ」
「なんだと……それじゃあ」
「ええ。死体に血液はほぼ残されていないと思って間違いないかと。また、右手首と右足首に、肉の半分以上まで深く食い込む切り傷がありました。ドレスの下、包帯に包まれていましたが」
「……むごい」
ポーラが悲痛な声でそう呟いた。私も同じように嘆きたかった。そうまでして、死者をなお酷く傷つけてまで、犯人は一体何を隠したかったのか。
「……あれ、でもさ、ノエル。ちょっと待ってよ」
何か引っかかったのか、ポーラは声の調子を変えて尋ねてきた。
「犯人が血液を全部抜き取ったとしてさ。その取った血は、一体どこに隠したっていうのさ? いくら魔法を使っても、その大量の血を持ち運んでどこかに隠すのは難しくないかな」
なるほど、もっともな疑問だった。人体における血液の割合は、授業で聞いた話だと、女性では体重のおよそ7パーセント。細身で体格の良かったナタリー先生の体重を仮に60キログラム程と仮定しても、その量はおよそ5リットル。まして血液には強烈な臭いがある。これがただの水ならともかく、その量の血液を誰にも見つけられずに、短時間で処分するというのは魔法でも難しい事だろう。
だからこそ。
「難しいからこそ、犯人は運ぶのも隠すのもやめたのよ。その代わりに犯人は、見せつける事にした」
そう、見せつける。犯人はその意思を鮮やかに示し、その狂気でもって人の目を欺こうとしたのだ。
「カラスの血と混ぜて、血液のインクにしてしまえば。それを用いて、さも意味ありげな血文字を描いてしまえば。その中に人間の血が混じっているかどうかなんて、気にする人はまずいないでしょう?」
「……あっ!?」
ポーラはすぐさま血文字のそばに駆け寄る。一方、ベイカーさんはマイヤーさんを引き連れ、フェンスに括り付けられたカラスの死骸の前に歩み寄っていた。
「なるほど、な……このカラス自体が囮。人一人の血液を丸ごと隠すための囮だったという訳か」
「最初にこの血文字を見た時に、妙に血の量が多いように感じたんです。十何羽も殺されているとはいえ、ただカラスの血だけで大きな血文字を描けるだろうかと。かといって、水などで薄めたにしては血の生臭さが濃ゆかったですし……けれど、カラスの血だけではないのなら、別に血が混ざっているのなら」
「それは不可能ではなくなる訳だ。理には適っているな」
「確かにこの異様な状況下でしたら、人の血が混じっている事なんて気付きようもないでしょうし、そもそも大半の人はそんな事を気にもしないでしょうね。狂気の面の方が嫌でも目に付きますので。ただ……」
カラスの死骸の下にだらんと垂れ下がる、まだら模様に血に汚れたロープを手に取りながら、マイヤーさんは鋭い視線を屋上全体に向ける。
「どうにもね、解せないんですよ。犯人がここまで大規模な細工を仕掛けてまでも、ナタリー氏の血液を抜き取った理由が分からない。現在巷を騒がせる『バートリーⅡ世』の模倣が目的、という線もあり得るでしょうが……それならもっと奴の犯行に似せていなくては意味がない。こんなに犯行状況が似て非なるものでは、模倣とも言いにくいでしょう。とすれば、犯人には何か他に、あの殺人鬼を真似る事以上の目的があって、ナタリー氏の血液を抜いたと見做すほかない訳です」
そこで言葉を区切り、彼女は深々と息を吐いてから、私に切れ長の目を向けた。それに合わせて、ベイカーさんも私を見る。
「ノエルちゃん、君はどう思う? 血を奪った犯人の、本当の目的……何か、勘づいていたりするのかい?」
冷静さと、若干の期待が入り混じった表情を浮かべ、ベイカーさんは私にそう答えを促す。けれど私は、ただ顔をしかめる事しかできなかった。
「そこがどうしても分からないんです。何か引っかかるものはあるんですけれど……犯人が隠したかったものが何か、見当もつかなくて」
「そうか……まあ、足跡みたいな小さな証拠ではない、って事だけは確かなんだろうが」
「ごめんなさい、期待に応えられなくて」
「いやいや、気にする事はない。今までの君の話だけでも十分以上の良いヒントになったよ」
ベイカーさんは真摯な表情で頷いていた。少し、肩が軽くなったような気がした。もちろん、何か解決したという訳ではないけれど。
「……それにしても、大したものです」
階段室の方に戻ってきながら、ふとマイヤーさんがそう呟いた。それに対してポーラが返事する。
「ですね、ホント。確かに頭がいいのは、ボクは知ってたけど。まさかノエルがこんな名探偵さんだったなんてびっくりだよ」
「いえいえ、私が言っているのはお二人ともの事ですよ。こんな、我々でも眉をひそめるような現場にあって、そこまで平静を保っていられるというのは、普通はできないものですから」
「ああ……」
そういう事か。私はポーラの方にちらりと視線を流す。そこに浮かぶ表情は――きっと私と同じ表情だった。
「慣れてるんですよ、ボクらは。こういう事に」
冷ややかな風が頬を撫でる。私は何も言わず、沈みゆく夕陽の残り火をただ見つめる。夜に押されて消えてゆくその姿はどこか儚く。そこに私は、奇妙な親近感を抱いていた――