はばたく花嫁 ⑥
それから、どれほど経っただろう。よくは覚えていない。ポーラが叫んだ後、その声を聞きつけたメイスン先生と教頭先生が西棟から飛び出してきて。ショックで動けなくなったクラリネ先生達をよそに、メイスン先生が急いで警察に連絡している間、私は奇妙なむず痒さを覚えながら、ポーラと一緒に噴水の側で立ち尽くしていた。
日が大分傾いた頃、警察の人達が車に乗ってやって来た。そして噴水の周りを調査し始めたため、私達は西棟の壁際に身を寄せた。リルハさんとミーシャさんはもういない。惨状を目の当たりにしたミーシャさんが気を失ってしまい、リルハさんが介抱するために彼女と共に家まで向かったからだ。
もっとも、昏倒してしまうのも無理はない。私達のよく知る先生が、あっけなく殺されていた、なんて。そんな光景なんて、誰だって見たくもないものだろう。
見たくもないもの……だからこそ。
「ポーラ、その、大丈夫?」
私は、さっきからずっと東の空を見上げている彼女に、控えめに声をかけた。しかし、ポーラの返事は意外と淡々としていた。
「今のところは大丈夫だよ。まあ、姉ちゃんが父ちゃんの頭を撃ち抜いてたあの光景に比べたら、さ。今日のは……平気じゃないけど、取り乱したりまではしないよ」
微かに声を震わせながらそう答えたポーラに、私は短く頷きを返す。それから、彼女の手をそっと握った。その手は、水に浸かっていた私の手よりも冷たく感じた。
「それよりノエルの方こそ。今から色々大変だよ」
ポーラは視線を噴水の方に戻す。見ると、そちらの方から二人の女性が向かってきていた。そのうちの一人――黒のトレンチコートに身を包んだ、白髪の女性と目が合って、私は咄嗟に会釈する。彼女は小さく笑って軽く頭を下げると、隣にいたもう一人――眼鏡をかけた目つきの若干鋭い、グレーのスーツを着た女性に何か指示を出し、西棟の方に向かわせた。白髪の女性はそのまま、私達の前までやってきた。
「すまないな、君らも辛いだろうに残らせてしまって」
「いえ、大丈夫です」
目の前に立って渋い表情を浮かべる彼女を、失礼にならないように、それとなく観察した。年は三十代手前くらいだろうか。背丈は私達より頭二つ分くらい高く、体格もがっしりしている。
「私はアルフレッド・ベイカー。この事件を担当することになった。よろしく頼むよ。ええと、君達は……」
「私はノエル・ホームズ・アッシュランドといいます。それで彼女がポーラ・ワトスン。二人とも……ナタリー先生のクラスの生徒です」
最後の言葉は、若干詰まり気味になった。先生が担任するクラスは、もうないのだから。ベイカーさんは短く黙とうすると、私に静かな眼差しを向けた。
「そうか……辛いだろうが、君達が見た状況について、分かる限りの事を教えてもらえないか? それが彼女の死に報いる事にもなる」
「……分かりました」
私は、ナタリー先生が落ちてきた時とその前後の時間の状況について、できうる限り正確に思い出しながら、ベイカーさんに説明した。ただ、一番最初に感じた奇妙な違和感については、警察の方達を不確かな情報で混乱させてはいけないだろうと考え、話さなかった。
「……というのが、その時の状況です」
「なるほど、彼女は五時半を過ぎた頃に、西棟の屋上から降ってきた、と……とするとやはり、西棟にいた――」
そうベイカーさんが手帳に記録していた、その時だった。
中庭に響き渡る甲高い悲鳴。それは私達の頭上、すなわち西棟の屋上から飛んできた。そしてその声は、私とポーラには聞き覚えのあるものだった。
「今のってメイスン先生じゃないの!?」
「ええ、間違いないわ!」
「まさか犯人がまだ校内に残っていやがったのか!? くそっ、マイヤー君!」
ベイカーさんは、おそらく先程分かれた女性のものだろう名前を呼ぶと、一目散に西棟の中へ駆け込んだ。私達もその後についていく。
「おい待て! なんで君らまでついて来てる!? 危険なんだぞ!」
「事件があった直後にあんな悲鳴ですよ! 放ってはおけないよ!」
「その正義感は尊いものだけどな、ポーラちゃん! だからって無茶していい訳じゃないぞ!」
そんな事を言い合いながら階段を駆け上がっている内に、私達は屋上の入り口まで来ていた。開け放たれた扉の前では、メイスン先生が腰を抜かしてへたり込み、その傍らに立っているクラリネ先生も唖然とした表情で固まっていた。そして、もう一人。
「……ああ、ベイカー警部。少々、いえ、かなり厄介な事態になっていましてね」
一歩屋上に足を踏み入れていたスーツ姿の女性が、私達の足音に気付いて、ゆっくりこちらに向き直った。心なしかその顔は青ざめているようにも見える。
「一体どうした、マイヤー君。犯人と鉢合わせでもしたのか」
「正直申し上げますと、その方がまだ精神衛生上よろしかったでしょうね……こいつを見せつけられるよりは」
彼女、マイヤーと呼ばれた女性はそう言うと、左横に一歩動いた。その向こうに隠れていた光景。それは、目よりも鼻につく悍ましいものだった。
「……なんだ、この有様は」
呆然と呟きながら、ベイカーさんは文字通り血生臭い屋上に足を踏み入れる。私も唾を飲み込み、その後に続く。
朱。一面の朱。一言でその光景を表すとするなら、そうとしか言いようがなかった。屋上のタイルにぶちまけられた、真っ赤な液体。赤色のペンキか何かだろう……という希望的な憶測は、そこから漂う鉄臭い臭いと、その奥のフェンスに括り付けられた、首元を割かれたカラスの死骸の存在が、徹底的に否定してくれていた。フェンスのポールに何羽も、いや、おそらくは何十羽も、等間隔に括り付けられている。
「平たく言って、いかれてますよ。こいつはね」
絶句している私達に代わって、マイヤーさんがこの光景に対する感想を代弁した。実際、そうとしか言い様がない程、屋上を包む空気は異常なものだった。濃縮された血の臭い、むせ返るような獣の臭い。この行いをしでかした人間の狂気をこれでもかと見せつけ、突きつけてくる。
けれど、私には。どうもそれだけではないように思えてならなかった。
「なんだろう……何かが、おかしい」
「え?」
私の呟きを聞いて、ポーラは改めてじっと屋上を見つめる。
「おかしいっていうか、異常なのは間違いないけどさ。それ以外に何かあるって、ノエルは思ってるの?」
「ええ。勘に近いものだけれど……何か、引っかかるの」
「ふーん。オッケー、分かった」
言うやいなや、ポーラはベイカーさん達の間をすり抜け、階段室の上に登っていった。
「って、こら! また勝手な事をしたら駄目だろう!」
「まあまあ、警部。現場を手ひどく荒らそうという訳でもないんですから。このくらいは大目に見てあげてもよろしいのでは?」
「はあ……そういうちょっとした特例を気軽に作ってしまうのは感心できんな、パーティス・マイヤー警部補」
「勿論分別くらいはつけますよ……それで。どうです、あなた。何か気にかかる物は見えましたか?」
マイヤーさんの問いかけに、けれどポーラは返事をしない。朱い屋上を、嫌悪感を露わにした表情で睨みつけるばかりだった。
「ポーラ? どうしたの?」
「……ほんと、悪趣味にも程があるよ。JUNE BLIDE、だってさ。でかでかとそう書いてあるんだ」
吐き捨てるようにそう言って、彼女は軽やかに私の隣へ飛び降りた。
「なるほどな、被害者の花嫁姿に絡めた皮肉って訳か……胸糞悪い」
ベイカーさんはかぶりを振ってそう吐き捨てる。マイヤーさんも言葉にこそ出さないものの、苦々しい表情で血文字を見下ろしていた。
「……の、野郎が……」
唐突な、唸るような低い声。それを発したクラリネ先生は、怒りをむき出しにした表情で言葉を続けた。
「あの野郎がやったんだよ。全部あいつが……あのクソったれのストーカー野郎の仕業なんだろ!」
先生の怒号に、私はハッと思い出した。数日前にポーラから帰化された、ナタリー先生を悩ませるストーカーの存在。そして今日、事件が起こる前の、やけに慌ただしかったクラリネ先生やリルハさん達の様子。
「まさか、居たんですか? その、例のストーカーという人が、学院内に」
そう私がベイカーさんに尋ねた時だった。中庭の方から、二人の男性の言い争うような声が聞こえてきたのは。