はばたく花嫁 ⑤
連続殺人鬼『バートリーⅡ世』。この国だけでなく大陸中にその名を知られ、恐れられている、若い婦女子ばかりを狙う殺人鬼。彼女(かどうかは憶測でしかないが)バートリーⅡ世などという名前で呼ばれるようになったのは、その殺人の手口とターゲットのためだ。古くは中世時代に実在したという、現代の吸血鬼伝説のモデルの一つになったとも言われる女性、エリザベス・バートリー。彼女は己の美しさと若さを保つため、うら若き乙女達を殺しては、その血液を浴びていたのだという。
そして現在……『バートリーⅡ世』の手にかかった女性達は皆、全身の血を全て抜き取られ。その亡骸は、自らの血液がなみなみと注がれたバスタブの中に沈んでいたのだそうだ。そんな現場のあり様を見たとある警部は、こう新聞記者に言葉を漏らした――「奴は現代に蘇ったバートリー嬢だ」と。その内容が報道されて以来、殺人鬼は『バートリーⅡ世』と呼ばれるようになった。
一番最初のものと思われる事件が起きてから、およそ二年。未だに世間は、この血腥い連続殺人鬼の魔の手から逃れられずにいる。
「ありえなくもないわね……」
「うちの学校はそれこそ奴好みのかわいい女の子がいっぱいいるもんねぇ。全く、本物の変態は怖いや」
口調こそ軽いけれど、ポーラの顔には嫌悪感が満ち溢れていた。それも当然の事か。私の方も、少なくとも良い表情はしていないだろう。
「どうする? ポーラ。今日はもう占い師さんは諦めて真っ直ぐ帰る?」
階段を降りながらそう尋ねる。窓からちらりとグラウンドの方が見えたが、既に人影一つ見当たらなかった。けれどポーラはいやと答えた。
「一人きりならともかく、二人で行けば大丈夫でしょ。それに、本当にそのやばい殺人鬼が出てきたら、しっぽ巻いて逃げればいいだけだしね」
「そんな簡単に済むことかなぁ……まあいいか」
少し早足で下校口へ向かう。しんと静まり返った空気はやけに冷たく。小さく身を震わせながら中庭に出た私達を包む。そんな中、ポーラが冷めた声でつぶやいた。
「こういう静かすぎるのって、苦手だな」
噴水と風と足音。それしか響く音のない、夕暮れに照らされた中庭。その中を歩いていると、ぽつんと取り残されてしまった気分になってしまう。人の営みから切り離された、静寂。日常から隔たれた、孤独。別にそんな事はないというのに。
それから私達はしばらく無言のまま歩いた。噴水の飛沫に斜陽が反射して、視界の左で踊っているようにきらめく。その眩さから逃げるように校舎の西棟の方に視線を逸らすと、二階の廊下を歩くメイスン先生の姿が見えた。どことなく忙しないように見える歩調。表情も険しい。先生はそのまま角の方の部屋――位置的に確か職員室だったと思う――に入っていった。先程のリルハさん達やクラリネ先生の様子といい、やはり何か良くない事が起きているのだろうか。私が気にしても仕方ない事だとは分かっているけれど、それでも気になってしまう。
ポーラはどう思っているのだろうか――そう考えた時、私は異変に気付いた。ついさっきまで後ろから聞こえていた足音が、ぴたりと止んでいる。
「……ポーラ?」
振り向くと、やはり彼女は噴水のそばで立ち止まっていた。だがその様子は明らかにおかしい。呆然とした表情で立ちすくんでいる彼女の目は、どこも捉えてはいない。目をただ開けているというだけで、何一つ景色を映していないようだった。
しまった、と後悔しながら、急いで動かなくなった彼女の元へ駆け寄る。いくら静かで人気もない空間とはいえ、学校の敷地内で発作が起こる事はないだろうと油断してしまっていた。いつどこで起こるか分からないから注意しておかなくてはいけないのだと、分かっていたはずなのに。自分の浅はかさを呪いながら、私は彼女の肩を軽くゆすった。
「ポーラ、ねえ、大丈夫?」
しかしポーラから反応はない。視線は真っ直ぐこちらに向けられているけれど、おそらく私の事は見えていない。私は重たい息を吐いてから、彼女の手をとり、ゆっくりと噴水そばのベンチまで連れていった。
発作によって意識を失くしても、体はこちらの誘導に素直に従ってくれる。そこだけが幸いな点だった。
「…………………」
いつもの快活さが嘘のように、ポーラはちょこんと静かに座っている。その姿は傍から見れば、糸の切れたマリオネットのようにも見えて。私は、そんな彼女の背中を優しくさすりながら、その隣に腰かけた。
心的外傷後ストレス障害の一種だろう――彼女を診ていた精神科の先生からこの事を聞かされたのは、私がポーラと出会ってから二週間ほど経った頃。初めて彼女の発作を見た、その日の夜の事だった。
静かな夏の夜。常日頃から虐待を繰り返していた実の父親を、三つ年の離れた姉が猟銃で射殺し。姉自身も家に火を放って自殺した。その凄惨極まる現実を、目の前でまざまざと見せつけられてしまったが為に、当時九歳だったポーラの心はひび割れてしまった。だから時折、その情景を思い出すような、似通った場所に長くいると、彼女の心は眠ってしまうんだ……と。それが今、彼女に起きている発作の正体だと先生は言っていた。こうなってしまうと、ポーラは文字通り何も出来ない。その場から動く事さえできなくなってしまう。
だから私は普段から発作が起きないよう、常に気を配っていた。ポーラ自身も発作の事は知っていて、それを引き起こさないよう心掛けていた。けれど、どう気を配っても不測の事態は起きてしまう。今のように。
私はただ黙って、ポーラの背中をさすり続けた。発作が万が一起きてしまった時、私に出来る事はこれしかないからだ。ただ側に寄り添う事しか、できない。
他に誰もいない閉じた空間の中を、いやに息苦しい時間が流れていく。それでもじっと、ポーラの傍らに寄り添い続ける。
「……ん? あ、あれ、ノエル?」
唐突に、それまで沈黙していたポーラが、慌ただしく周囲を見回した。その瞳の中にはきちんと景色も、私の顔も映っていた。
「あー……ノエル。もしかしてボク、久々に止まってた?」
「そうね、こういう公共の場所だと約三か月振り、かしら」
「あちゃあ。ゴメン、ほんと。狭い場所とかじゃないから、多少静かでも平気だって思ってたのにな」
まいったな、とポーラは左頬をかく。私は背中からそっと手を放し、ベンチの上に置かれた彼女の右手に重ねた。
「でも今回は、今までのより短い時間だったわよ。きっと治りつつある前兆なのかも」
「そうなら良いんだけどさ。そんな単純には片付かない問題だよ、こういうのって」
「……ごめんなさい、軽率な事を言ってしまって」
「え? いやいや、別にノエルが謝るような事じゃないじゃん。ボクだっていつかは治ってほしいって思ってるし、努力もしてる。だからそんな風に俯かなくってもさ。いつかはなんとかなるよ」
「……そう、ね」
控えめにポーラの方に視線を向けると、彼女は眩しいほどの笑顔を浮かべていた。
「強いね、ポーラは」
「そりゃ勿論」
彼女は即答すると、急に私の頬を指でつっついてきた。そして。
「いつだって隣にキミが居てくれるからさ。強くなれるに決まってるだろ?」
真っ直ぐに、朗らかに。そんな、屈託のない言葉を私にくれた。
「あれ、どうしたのノエル、急にそっぽ向いちゃって」
「べ、別に。なんでも」
「そう? ならいいけどさ」
頬に触れる風がやけに熱い。そんな気がして、私はしばらくポーラの方を見る事ができなかった。熱い、けれど心地の良い風に、身をゆだねていたくて――
「……?」
ふと、違和感。不意に、何故かそれを感じて辺りを見回した。と、その時ちょうど、五時半を過ぎた事を知らせる、時計塔の鐘の音が厳かに鳴り響いた。
「ノエル、どうしたの?」
「あ、ううん。なんでもないわ。それより――きゃっ!」
「うわっぷ!」
ベンチから立ち上がろうとした時、強風が顔に吹き付けてきた。私とポーラはたまらず手で顔をかばう。風はその直後にぴたりと止んだ。
「ふう、急に来たなぁ」
「早く帰りなさいって校舎が注意してるのかもね」
私は再び奇妙な違和感を覚えつつも、それを表情には出さなかった。それから、なにかむず痒い気味の悪さに駆り立てられるように、校門の方へ歩き出す。
「もう時間も時間だし、早く行きましょう。あまり遅くなりすぎると、父さんに心配かけてしまうから」
「……………」
「……ポーラ?」
返事はない。まさかまた発作が? そう思い、慌てて彼女の方を見る。けれど、どうやらそうではないらしい。彼女は怪訝な表情を浮かべ、西棟の上の方を見ていた。つられて、私もそちらを見上げる。
――花嫁。
一人の花嫁が、寒風吹きすさぶ空から、こちらに落ちてくる。
夕空をたゆたう雲のように、美しく、優雅に――
「――ッ!?」
声にならない悲鳴を上げて飛び上がったのは、私達の背後にある噴水に、その花嫁姿の人が水飛沫と音を立てて落ちた、その後の事だった。
「な、何だよ一体!? 一体急に何が落ち、て……」
私より先に振り返ったポーラが、再び言葉を失った。その反応だけで容易に浮かぶ、最悪の光景。私はある種の確信を抱きながら、噴水の方にゆっくりと振り向く。
「駄目だ、ノエル、キミは見ちゃいけない……ッ」
ポーラの乾いた声が聞こえた時には、私は既にそれを見ていた。
噴水の中に浮かぶ――一般的な姿とは少し違う――花嫁の姿を。
水面に揺れる、純白の花嫁。その真っ白な図の中に一点だけ混じる、禍々しいほどの朱。それは、花嫁の背中に。そしてその位置は……私の記憶にある、生物の儒教の記憶が正しければ、おそらくあの位置は。
心臓だ。人間の、心臓。そこからじわりと、漏れたインクが滲み出るように、血腥い朱色が純白を侵食している。
「ノ、ノエル? 何を……ねえ、一体何をしてるのさ……?」
噴水の中に片足を入れた私の背に、ポーラが気の抜けた声をかけてきた。けれど私は答えなかった。今の私を急かすモノが何か、自分でも分からなかったから。
「おーい! 二人ともどうしたんだ? 今の音は?」
リルハさんとミーシャさんが慌てた様子で登下校口から飛び出してきたのが視界の端に映り。さらにその奥からクラリネ先生もやって来たのが見えた時。私の手は、包帯にくるまれた花嫁の右手首に触れていた。慎重に、その体を仰向けにする。そして見えた、紙のように白いその顔は。
その人は、ある意味では今のこの衣装に、最も相応しい人だった。相応しい、けれど。だけれど、こんな形でこのドレスを着たいだなんて、彼女は思ってもいなかったはずだ。なのに、どうして。
「どうして……こんな」
呆然と尋ねてみても、彼女は――ナタリー・キャステルは、硝子玉のように黒い双眸を虚ろに宙に向け、ゆらゆらと水面をたゆたうだけだった。
「え……えっ? あ、あれって、先生、ですか?」
「お、おい? ノエル君? 一体、何が……」
こちらに近付いてきた二人の声色に、明らかな動揺が混じる。けれど私に、それに応える余裕はなかった。今更ながらに襲ってきた震えを抑えるのに必死だったから。
時計塔からは、未だに沈みがちな鐘の音色が響いてきて。そこに唸る風の音と狂乱したカラスの鳴き声とがない交ぜになって、頭の中をかき混ぜてくるかのようで。震えが、止まらない。息を荒げるので精一杯で、身じろぎする事さえできない。
「だ、誰か早く……早くッ、警察を呼ぶんだあああああッ!」
私に代わって、絶叫にも似た声でポーラがそう呼びかける。その声のおかげか、ようやく私を捕らえていた金縛りは解けて。へたりこむように噴水の縁に座り込んだ私の目には、赤々とした夕暮れの空だけが映っていた――