はばたく花嫁 ③
放課後。授業が終わり、ざわつき始めた廊下を、私はポーラと二人並んで歩いていた。
「あー走りたいー。短距離走の練習したいー」
夕日の差し込む窓から外を眺めて、ポーラは駄々をこねるような口ぶりでそう言った。
「テスト前一週間はどの部活だってお休みなんだから、ワガママ言わないの。そんな事言ってたら、これから毎日徹夜の勉強マラソンやらせるよ?」
「いやー、勉強やる気出てきたなぁー! 早く帰って頑張ろう!」
「全く……あれ?」
ポーラを軽くたしなめていたその時。ふと、階段のそばで何か言い争いをしているらしい人影が目についた。それは、ナタリー先生とクラリネ先生だった。
「……だから、こんな時期だからこそ余計に気をつけろって言ってるんだよ私は。もしもの事があったらお前、どうするんだ」
「そう言われたって、警察にはもう相談してるんだし。これ以上何もしようがないよ。そんな気にするなって、クラリネ」
「お前は気にしなさすぎなん……ああ、もういい、この話はやめだ」
私達に気付いてか、クラリネ先生はばつが悪そうな表情で話を終えると、ナタリー先生に軽く手を振ってから、さっさと西棟に向かっていった。残されたナタリー先生は、どこか困ったような、疲れたような顔をしていた。
「あの、何かあったんですか?」
「んあ? いやー、まあ、な。別にお前らが気にする事じゃないさ。それより、ポーラ。お前、ちゃんと勉強できてるんだろうな?」
私の問いかけに、けれどナタリー先生は話を逸らして答えなかった。あまり聞かれたくない事だったのだろう、私もそれ以上は尋ねなかった。
「大丈夫だって先生、見ててよ。なんたってボクにはノエルがついてるからね!」
「なんでお前がそう威張れるんだ。ノエルも何か言ってやんな」
「あはは……もう慣れました」
先生はやれやれと肩をすくめて笑う。その顔に、さっきまでの陰りはなかった。
「じゃ、二人とも早く帰って勉強頑張りな。特に最近は色々物騒だし……流行りの占い師とか気になるからって、変に寄り道とかするなよー」
「はーい」
ポーラの返事を聞くと、ナタリー先生は満足そうに頷いて、渡り廊下の方に向かおうとする。
「……あ、あの!」
気が付くと私は、先生を呼び止めていた。どうしてかは、分からない。分からないけれど、勝手に口が動いていた。
「どうした?」
「いえ、その……」
言葉に詰まる。そのせいで余計に焦る。何かを、言わなくては。そんな奇妙な予感に突き動かされて呼び止めたのに、その何かが分からない。
「あの……ご結婚、おめでとうございます」
絞り出せたのは、そんな唐突すぎる言葉。もちろん先生はきょとんとしていた。
「どうした急に」
「いえ、その。面と向かって、お祝いの言葉を言ってなかったなって」
返答ののち、しばらくの沈黙。それから先生は、ぷっと軽くふきだした。
「お前、律儀な性格してるなぁ。別にそんなの気にしなくていいのに。でも、ありがとうな」
それじゃ、と先生は笑いながら手を振り、立ち去った。その後ろ姿を、私は複雑な思いで見つめる。何か分からない、漠然としたしこりを抱えて。そんな私の顔を、ポーラが横からのぞき込んできた。
「ノーエル。早く帰ろうよ。先生が心配なのは分かるけどさ」
「あ、ごめん。ちょっと……ん?」
階段に足を向けたところで、ポーラの今の言葉に引っかかるものを感じた。
「先生が心配なのは分かるって、何か知ってるの?」
「あ」
しまった、というように彼女は短く舌を出す。それからしばらく視線をさまよわせたのち、彼女は歩きながらぽつぽつと話し始めた。
「先に言っちゃうと、先生――ストーカーにつけられてるらしいんだ」
「ストーカー?」
「うん。ボクもメイスン先生が話してたのをちらっと聞いただけだから、そこまで詳しくは知らないんだけどね。ナタリー先生、ここに赴任する前は共学の公立校に勤めてたそうでさ。その時の同僚の先生が、何を勘違いしたか、未だにしつこくつきまとってるんだって」
「それ、警察には届け出ているの?」
「届け出どころか。その人、一年くらい前にナタリー先生の家に忍び込んで、自分と先生の名前を勝手に書き込んだ婚姻届を置いてく、なんて奇行に出たらしくってさ。もちろん不法侵入でとっ捕まってる」
「おおう……な、なかなか思い切った事をしたのね」
「思い切ったっていうか、思いが振り切れすぎたというか。ともかくその時はストーカーに数十万の罰金刑が下されて、それからしばらくは大人しくなってたそうなんだけど、」
「――近頃またナタリーさんの周りに出没するようになってしまったんですよ」
一階に降りたところで、唐突に声が割り込んできた。そこにいたのはメイスン先生だった。心なしか、困ったような表情をしているように見える。
「校内であの話をしていた私達も悪いですけれど。だからって、あの話を大きな声で喋り回るというのも悪い事よ? ポーラさん」
「ご、ごめんなさい」
先生に丁寧な口調でたしなめられて、ポーラは慌てて頭を下げる。確かにこんな話を他人に知られては、ナタリー先生もいい気はしないだろう。そしてそれは、親友であるメイスン先生にとっても同じ事のはずだ。とはいえ、事情を知ってしまった以上、どうしても不安になる。
「あの、先生。そのストーカーの事は大丈夫なんですか?」
尋ねると、先生は顎に細い指をあて、しばらく黙考した。そして、表情を引き締めて答える。
「彼には前科がありますから、警察の方も結構しっかりと警戒してくださってはいます。ただ、どうも彼の方もしたたかになっているみたいで、決定的な現場をおさえられないように行動しているようなの」
「懲りはしたけど諦めてはない、って事か。迷惑極まりないなぁ、ほんと」
げんなりした表情の先生に、ポーラは同情するように深く息を吐く。
「ああ、でもきっと大丈夫ですよ」
と、私達の表情が暗くなったのを見てなのか、先生は慌てて明るくそう言った。
「いくらなんでも警察の監視が厳しい中で変な事はできないだろうし、それに……ナタリー先生、何か打つ手がある、ような事を言ってましたから」
「打つ手、ですか?」
「ええ。それが何かは私も聞いてないから、分かりませんけど。ほら、そんな心配そうな顔しないの」
なおも私の表情は曇っていたらしい。先生は困ったように笑うと、ぽん、と軽く私の頭に触れた。ほんのりと暖かな手で。
「ナタリー先生だって、そんな暗い顔より、素敵な笑顔でお祝いしてもらいたいと思っているはずよ。だから、ね? この話はもうおしまいにしましょう」
「……そうですね」
少し間を置いてから、私は深く頷いた。せっかくの晴れの日を前に、周りの人が暗い顔ばかりしていては台無しだ。
「あ、そうだ、先生」
場の空気をかえようと、私は少し強引に話を変えた。
「先生はもう見られたんですか? ナタリー先生のドレス姿とか」
「ええ、五日前にね。クラリネ先生と婚約者の方も一緒に、式場の下見に行った時見せてもらったわ。ありきたりな感想だけど、とっても綺麗でしたよ。まるでお人形さんみたいで、本当にもう……私、見ていてうっとりしましたもの」
「へえ、普段は結構男勝りな感じなのにな、ナタリー先生って」
「本当にね。まるっきり別人になってたから、隣でクラリネ先生は笑っていたわね。『まさしく馬子にも衣裳だな』って」
先生はその時の事を思い出してか口元に手を当て、くすくすと笑う。それから、ふと視線を上に逸らして。
「でも、クラリネ先生がそう言うのも分かるくらい、本当に綺麗だったのよ」
と、うっとりした表情でそう続けた。陶酔、という言葉がぴたりと当てはまるほどにうっとりと。
「あのー、先生?」
「あ、あら、結構時間が経ってしまっていたのね」
ポーラの一言で我に返った先生は、慌てて腕時計を確認する仕草を見せる。
「先生たちを待たせては悪いわね。それじゃあ二人とも、気をつけて」
「はい、先生。失礼します」
メイスン先生はゆったりした足取りで二階に上っていった。軽やかな足音は、やがて生徒達の雑踏の中に混ざり、聞こえなくなる。
「メイスン先生、不安もあるだろうけど。それ以上に嬉しそうだったなぁ」
「昔からの親友が幸せになるんだもの。それは嬉しいに決まってるんじゃない?」
「……親友、ねぇ」
ポーラは視線を階段の方から私に移すと、なぜか意味ありげな笑みを浮かべた。
「え、何かあるの、あの二人」
「いや、それほどもったいぶる話でもないんだけどさ」
ポーラは下校口――東棟と西棟のちょうど中間にある――の方に向かいながら話し始めた。私もその後についていく。
「高校までの話だそうなんだけど。あの二人、付き合ってたみたいだよ。つまり、恋人同士」
「……………へ」
予想外の内容。それを、ポーラがあまりにあっさりと言ってきたものだから、文字通り私はその場で固まってしまった。
「ノエル、そんな面白い顔して立ってると、他の子に迷惑じゃないかな」
「えっ、あっ、そうね」
慌てて先を行っていたポーラの元に駆け寄る。とはいえまだ頭の中は大分パニックになっているけれど。
「その話、一体どこから出てきた話なの? 確かにあの二人は相当仲が良いけれど」
「メイスン先生本人が言ってた、らしいよ」
「ええ……」
「ま、ボクもその話があったっていう状況を詳しく知ってる訳じゃないけどね」
ポーラは自分の出席番号が貼られた靴箱を開ける。そして、開けた体勢のままで固まった。
「どうしたの?」
「うん……ま、ほら、ここってこういう感じの学校じゃん?」
彼女が靴箱から取り出してみせたのは、一通の、かわいらしくラッピングされた手紙だった。その見た目から察するに、内容はおそらく恋文か。
「なるほど。つまりメイスン先生がそういう恋愛相談に乗ってた時に」
「ぽろっと漏らしちゃった、んだろうねぇ。そこからどんどん話は広まって、今じゃこの学院で知らない子はほとんどいない噂になっていったんじゃないかな」
「そうだったのね……それで、当の先生達は何と言っているの?」
「ノーコメント、って感じかな。直接聞いたある勇気ある先輩曰く、否定も肯定もされずにはぐらかされたって言ってたから。真実は本人同士しか分からないんだ」
白いスニーカーを履きながら、ポーラはそう噂話を締めくくった。それから、靴箱に入っていた手紙を改めて見つめる。私はそんな彼女の大きな肩越しにそれを覗き込む。
「その手紙は、どうするつもり? いっそメイスン先生にでも相談してみる?」
「それもいいアイデアかもね、ついでに噂の事も聞けるしさ。けど」
彼女は丁寧な手つきで封を開け――私はすっと身を引き、中身までは見ないようにした――ややあって、小さく息を吐いた。
「やっぱこういうのは、ボク自身が直接答えないとダメだと思うんだ。ケジメっていうかさ。たとえその答えが、ノーだとしても」
「そうね……って、断るのね」
「そりゃ勿論。だってボクにはノエルがいるからね!」
急にこちらに振り向かれ、はちきれんばかりの屈託ない笑顔を見せられて、私は面食らった。
「こらこら、そういう誤解されそうな事は言わない、こんな所で。確かに私達は、家族ではあるけれど」
「えー、でも顔はまんざらでも、」
「そんな事ありません、全くありません」
「……ノエル、もちょっと隠すの上手くならない?」
顔が何故か熱くなった。周りの空気は梅雨の季節とは思えないほどに冷たいはずなのに。そんな私をよそに、ポーラは「正直が一番だよ」と一言残して、おそらく手紙の相手に返事しに行くのだろう、登下校口を飛び出していった。ぽつんと残されてしまった私は、先に帰ってもいいものかどうか、しばらく悩む羽目になったのだった。
「――ひゃっ、冷たっ」
中庭のちょうど中央にある、大きな丸型の噴水。その左隣を横切った時、不意に背中を強い風が吹き抜けていった。もうじき初夏に差し掛かろうという頃なのに、その風はひどく冷たかった。乱れた髪をすきながら、厄介な風が吹いてきた北の方角に振り返る。その時また強風が、校舎の西棟と東棟の間を吹き抜けていった。私は思わず目をつぶる。
この強風は学院の校舎の構造的な欠点だ。気候的に、元々この辺りは強風にさらされやすい場所であり、また校舎の構造も相まって、北風がもろに中庭へと吹き降ろしてくる。冬場にもなればもはや凶器といってもいいくらいのものになる。もっとも私のように風魔法を得意としている人なら、多少は魔法で風を緩和できるけれど。それでもあくまで多少程度だ。
「うあああ、寒いよ、寒すぎる」
「夏着でくるの早かったかなぁ」
私の傍らを通り過ぎながら、他のクラスの生徒が身を震わせていた。カイロの一つでも持ってこようかな。そんな事を考えつつ、正門の方に向かおうとしたその時。ちらりと視線の端に人影が写った。
二つの棟を結ぶ二階渡り廊下。そこに集って語らい合う三人。
朗らかに大きく笑うナタリー先生に対し、クラリネ先生は子供っぽくふくれっ面を見せていた。その間に立つメイスン先生は、まあまあ、とクラリネ先生をなだめているようだった。私は目を細めてしばらく見つめた後、軽い足取りで帰路についた。
……だから。
その光景を見たからこそ。思っても、いなかった。
あの光景の向こうで、あんな悲劇が待ち受けていただなんて、考えられもしなかったのだ――