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偶像の定理  作者: 御冬夏夜
36/43

ケルビムの炎 ⑮

「……リルハさん」


 二人の姿が見えなくなった後もじっと廊下を見つめるリルハさんに呼びかける。普段の凛とした佇まいの背中が、今はひどく小さく見えた。


「……君達は、『高EE家族』、という言葉を聞いた事はあるだろうか?」


 図書室に入った彼女は、きつく両手を握りしめ、そう話を切り出した。全く聞きなれない単語に、いいえ、と私は首を横に振る。リルハさんは小さく頷くと語り始めた。


「高EE家族というのは、表情や口調、態度などといった感情の表し方が非常に強い家庭の事を指す言葉でね。例えば子供に対して否定ばかりの強い詰問や、一方的に怒鳴り続ける行為、さらにエスカレートした場合には実際の暴力……そういった激しい感情が日常的に飛び交う家庭の事を言うんだ。ミーシャ君の家庭は、その典型例ともいえるものだった」


 そう言われ、ミーシャさんの発言を思い出す。いつも両親から否定され続けてきた、と。そしてつい先ほど見せられた、父親の尋常ではない態度。躾の為に殴って何が悪いのかと平気で言い放てる態度。全てが、リルハさんの説明と合っていた。


「もう、六年も前になる。私とミーシャ君が出会うきっかけになった事件が起きたのは」


 遠く、窓の向こうに沈む夕日を見つめて、リルハさんは話を続ける。


「それは母上がフィールドワークとして、民生委員の方々と共にスラム街の実態調査を行った、その帰り道での事だったそうだ。

 今後の支援方針について語らいながら住宅地を歩いていた時、ふと、怒鳴り声が――それも尋常ではない罵声交じりのものが――聞こえてきた。その声が聞こえた貴族の邸宅の方を見上げると、そこには……二階の一室で、十歳の娘に躊躇なく包丁を突きつけながら、なお怒鳴り続ける父親の姿があった。それこそがオーネス卿と、ミーシャ君だったんだ」

「ほ、包丁って……」

「幸い、慌ててその場に飛び込んだ母上達のおかげで大事に至ることはなかった。それだけは不幸中の幸いだったのだろうな」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 淡々と語られる異常な過去に、たまらず私は待ったをかけた。


「そんな、自分の子供に包丁を突きつけるなんて、犯罪じゃないですか!」

「その通りだ。もちろん母上は警察も呼んだ。それでも結果は……子爵殿への叱責止まりだった」

「叱責だけって、どうして……」


 そこまで言ったところで、ベイカーさんの言葉を思い出した。

――困った事に、彼は警察に広く顔が利く御仁でね。


「……そういう事なんだ」


 リルハさんの静かな首肯に、私はそれ以上何も言えなかった。


「卿は治安や防犯の問題に強い関心を持ち、実際に警察機構に多大な支援も行っている、社会的に見れば至極真っ当な人物だ。だが、社会に対して真っ当であっても、家族に対してもそうであるとは限らない……悲しい話だが、ね」

「だね……本当にそうだ」


 左腕をぎゅっと掴み、ポーラは抑揚のない声でそう呟く。顔に浮かぶ冷めた笑みは、誰に向けられたものなのか。私はそこから考えを逸らすため、リルハさんに別の疑問を尋ねた。


「どうして彼は、ミーシャさんに包丁を突きつける程に怒っていたんですか?」

「『勉強をしていなかったから』、だそうだ」

「えっ……」


 二度、言葉を失った。質問の内容とその答えが、あまりにも噛み合っていない。けれどリルハさんは顔色一つ変えずに話を続ける。


「勉強をちゃんとしておくように、そう言っておいたのに全く宿題に手を付けていなかった、だから叱っていたのだ……これが当時の、子爵殿の弁明した内容だ。ちなみに包丁は、夕食の用意をしていた途中だったから()()()()持っていただけだ、とも述べていたそうだよ。そんな偶然、あるはずがないのに。恒常的に包丁を突きつけていたり、それに近い虐待が行われていなければ、どう考えても包丁片手に子供を叱るなどという状況にはなるまい」

「でも……その弁明は、通ってしまったんですね」

「……ああ」


 掠れた声で頷き、彼女は目を伏せる。


「そんな異常な家庭の中で過ごしていれば、どんな子供だって壊れてしまうに決まっている。幼い子供にとって、親とはまさしく世界の全てなのだから。世界の全てから否定され続ければ、どうなるか」

「……ッ」


 その言葉に一段と大きく反応してしまった。胃の軋むような感覚が身を震わせる。


「すまない、つらい事を思い起こさせてしまったか?」

「……いえ、大丈夫です。それより、リルハさんご自身はいつミーシャさんと出会ったんですか?」


 半ば苦し紛れに話を変える。リルハさんも、それ以上は私の事について聞いてはこなかった。


「あの子と出会ったのはその事件の後だ。母上の計らいでね。恥ずかしながら当時の私は引っ込み思案な性格で、友人も少なかった。筆頭貴族の一人娘という立場もあって余計にね。そんな私に、同世代のお友達とも遊びなさい、そう紹介されたのがミーシャ君だったんだ。もっとも、彼女の過去、そして母上の本当の意図を知らされたのは、私がこの学院に入学してからだったが」

「ミーシャさんには安心して語らい合える友人の存在が――居場所が必要だと、伯爵夫人はそう考えていらっしゃったんですね」

「その通りだよ。さすがの洞察力だね……だが、私では居場所になれなかった」


 夕日を薄い雲が遮り、彼女の顔に影が差した。


「友を名乗っておきながら、あの子の本当の痛みに気付けていなかった。情けないな……結局私は、口先だけだったんだ。言葉だけで、あの子を支えているつもりになっていた。その結果がこれだ。君達もチェルシー君も、ミーシャ君をも傷つけるだけの結末になってしまった……これでよく友人だなどと名乗れたものだ」


 悲痛な言葉に、何も言えなかった。私もポーラも、沈黙を返す事しかできない。

 けれど――ポーラの沈黙の意味は、どうやら私とは違うらしかった。


「……ポーラ君?」


 彼女はリルハさんの方ではなく、図書室のドアの向こう、中庭の方角を見ていた。いや、正確に言えば、きっと彼女の事を見ているのだろう。そして。


「言葉だけじゃ足りないっていうんならさ。それ以外のものでも支えればいいんだよ」


 言うやいなや、彼女は図書室を飛び出していった。


「ポーラ君!? 急に一体どこへ」

「追いかけましょう。今のあの子の行先は一つしかありません」


 私達も急いで後を追いかけ、中庭へ向かう。そして登下校口から飛び出すと、そこではちょうどミーシャさんがベイカーさんに連れられ、中央の噴水そばに停められた車に乗ろうとしていた。


「待ってーっ!」


 先に駆けつけていたポーラに呼び止められ、前を行く二人は揃って足を止めた。


「ん? どうしたんだ、ポーラちゃん」

「はあ、はあ……いや、そんな大した事じゃないんですけど」

「……………」


 ミーシャさんはポーラの方に振り向きこそしたけれど、俯いたまま何も語らない。小柄な体をさらに縮こませて、ここから消え去りたいかのようだった。

 そんな彼女の事を、ポーラは――そっと抱きしめた。


「え……? あ、あの……」

「待ってるから。いつでも、いつまでも。ボクらは、キミの事を待っているから」


 包み込むように優しく、そして力強く。


「だからさ、ミーシャさん。いつでも、帰っておいで」

「……っ! う、あ、うう……ッ」


 ポーラの言葉の後――ミーシャさんの心からの叫びが、夕空に響き渡った。それは、今までずっと胸の奥に秘められていた悲痛な激情が、ようやく外へ解き放たれた瞬間だった。炎のように激しく、迸る激情。ポーラは何も言わず、ただそれを抱きとめ続けていた。


「なんだ……たったのそれだけで、良かったんじゃないか……」


 私の隣に立っていたリルハさんが呻くように呟く。その両目から溢れる想いを止める事もしないで。


「ただ、抱きとめてあげればよかったんだ。ただの、それだけで……ははっ、私はとんだ、大馬鹿者だな……っ」

「リルハさん……」

「……よし!」


 ふいに彼女は両頬を叩いた。その目はもう揺れる事なく、凛々しく前を見据えていた。


「覚悟を決めないとな、私も」

「覚悟、ですか?」

「ああ、君達のおかげで踏ん切りがついたよ。愛する友人を守る為にね」


 屈託ない笑みを浮かべて頷くリルハさん。

 その言葉の意味が分かったのは、事件が収束してからしばらく後の事――重い虐待を受け続けてきたミーシャさんの親権について、オーギュスト家がオーネス家を訴えるという、国中を揺るがす大ニュースが流れてからの事だった。


 ◇


「――あ、ノエル。ここにいたんだ」


 リルハさんも同伴のもと、ミーシャさんが警察署へ連れられた後。校舎の屋上で一人夕空を眺めていた私の元へ、ポーラが駆け寄ってきた。


「さっきの様子なら、ミーシャさんもきっと大丈夫だね」

「リルハさんにチェルシーさんにリッターさん……頼れる家族のような友人がいるものね」

「ボクらも……だろ?」

「ふふっ、そうね」

「はー、でも良かった良かった」


 屋上の手すりに背中を預け、彼女はうんと背伸びをした。


「無事に事件も解決して。問題も全部……じゃないけど、大体は丸く収まったし。あとはあの厄介なお父さんさえどうにかなればなぁ」

「そこはたぶんリルハさんが解決してくれると思うわ。今のあの人なら、今度こそ守り切れると思う」

「……うん、そうだよね。あの会長さんだもん、きっとどうにかしてくれるよね。あとは、ミーシャさんが帰ってくるのを待つだけかな。穏やかに過ごせる『家』にさ」

「そう、ね……」


 ポーラの口から出た、家という言葉。その単語に、私の返事は軽く詰まってしまった。

 彼女が誰より早くミーシャさんを抱きしめに向かった理由……それは、彼女もミーシャさんと()()だったからなのだろう。いや、結末だけで言えば、彼女の方が悲惨かもしれない。その傷を抱えているからこそ、彼女はミーシャさんの痛みも抱えられたのだ。

 同じ、痛み。ならば、望み、求めるものもまた。


「……ノエル?」


 彼女にもまた、『家』というべき居場所がなかったはずだ。求めてもいたはずだ。

 では、今は。

 真剣な眼差しをそっと彼女に向ける。

 私は……ポーラの『家』に、なれているのだろうか。


「ねえ、ポーラ」


 と、話しかけたところで。唐突に、ポーラの指が私の頬を突っついた。


「にゃ、なにするの」

「んー? ノエルが小難しい顔してたから、ついね。笑ってほしくってさ」


 そう言って、彼女はただ穏やかに笑う。夕日に照らされたその表情は、ひたすらに眩しくて。私は目を細める事しかできなかった。


「……明日も、晴れるかしら?」

「うん。きっとね」


 二人並んで、ただ静かに暮れ行く夕空を眺める。白いカモメの群れがどこまでも遠くへ、力強く羽ばたいてゆく空を――

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