ケルビムの炎 ⑧
――事件が起こった時より少し遡り――
「ああ、ポーラさん。良かった、探してたんですよ」
階段を降りて、ひとまずグラウンドの方にでも行こうかとした時、ちょうどリッツ先輩がボクの元へ駆け寄ってきた。
「あ、先輩。部活の話……とかって訳じゃなさそうですね」
「ええ、残念ながら」
切羽詰まった表情で短くそう答えて、先輩はそれとなく周囲を窺う。
「廊下だと人目につきますね……場所を変えましょう。ついてきてもらえますか」
ボクは勿論と頷き、先輩の後についていく。そして連れてこられたのは外、西棟の裏側だった。ぽつんと野ざらしにされたベンチと灰皿だけが置かれたそこは、全くといっていいほど人の気配がない。
「ここなら大丈夫そうだ。うちの学院には喫煙される先生もほとんどいませんし、まず人は来ない」
「それで先輩、ボクへの用事ってなんですか? なんとなく察してますけど」
わざわざこんな人気のない場所まできたのだから、当然人に聞かせたくない話だろう。そして今、ボクらの一番身近にある他人に聞かせられない話と言えば……一つくらいしか思い当たらない。
「お察しの通り、そういう事です」
先輩は苦々しい表情を隠さず出して、ポケットの中から一枚の紙切れを取り出した。
「これをミーシャさんが先刻見つけましてね……あなたの靴箱の隙間に挟まっていたそうです」
「……なるほど」
先輩から受け取った紙切れを開き、その文面を見つめる。数日振りの懐かしいその内容に、ボクはめまいさえ覚えそうになった。
「またcherubim……ってか。はぁ、この天使様も懲りないなぁ、ほんと」
犯人からの再びの、熱烈な手紙。確かにサプライズとしては、忘れられないという意味では大成功じゃあるけど。ボクは先輩の目も憚らず、深々とため息をついた。
「今はマイヤー警部補が学院に来られているんですが。なにやら立て込んでいたようだったので、まずはポーラさんに報告しようと思いまして」
「そういう事だったんですか……あ」
そこでボクは気付く。思いっきり証拠品であるこの紙切れを素手で持っている事に。けど、先輩は「大丈夫でしょう」、とこちらの考えを見通して首を横に振る。
「今の今まで徹底的に自身の痕跡を消してきた犯人です。この紙を素手で靴箱に入れるなんて初歩的なミスは、まずしていないでしょう」
「それもそっか……」
現に、今までの紙切れからも、ボクらや生徒会の人以外の指紋は出てこなかったとマイヤーさんが言っていた。とはいえ、これ以上素手で証拠品を持っているのも気が引けるので。
「先輩、なにか袋みたいなもの持ってないですか?」
「ああ、ちょっと待ってくださいね……こんなポーチで良ければ」
「十分ですよ。それで……チェルシー先輩達には、この件は?」
紙切れをしまいつつそう尋ねると、先輩は頷きを返した。
「既にチェルシーや先生方には相談し、今日は四限目までで生徒達を下校させるという手筈になっています。ただ、会長の意向もあり、他の生徒に余計な不安を与えないため、現時点では事実を伏せて下校させる事になっています」
「それでさっきボクを呼びに来た時、ミーシャさんは詳しい事を言わなかったんだ」
「ええ。口外しないよう、自分が頼んでおきましたから。ですのでポーラさんも、そういう事でお願いします」
「了解です」
下手に不安をあおるような事をいって、生徒の皆がパニックにでもなろうものなら、それこそ犯人の思う壺だろう、その隙に新たな事件が起きかねない。ボクは素直に先輩達の判断に従う事にした。
「それと、犯人の次のターゲットはいよいよあなたかもしれない。今日からしばらくは十分に気を付けて。まあ、今更君に言うような事でもないとは思いますが」
「あはは……」
曖昧に笑って返す。確かに修羅場をつい最近くぐり抜けたばかりではあるんだけど。
「っと、自分はそろそろ行かないと」
先輩は腕時計を見て、少し慌てたようにそう言った。
「マイヤー警部補から呼ばれてるんです。会長とチェルシーの警護について、色々相談があるそうで」
「大変ですね、先輩も」
「ノーランド家に仕える立場に生まれた身である以上、仕方のない事ですよ。それが自分の役目ですから……それでは」
最後に軽く頭を下げて、先輩は小走りで校舎の中に戻っていった。その後ろ姿が見えなくなってから、しばらくたって。
「……はあー。ほんとにまいったなぁ」
ため息と共にがっくりとうなだれる。正直、また犯人からケルビムの紙が寄越されるだなんて思っていなかった。一番の狙いは生徒会の人達だろうと考えていたからだ。ボクはあくまで生徒会に近付いたついでに、くらいのものだろうと思っていたけれど。どうも考えが甘かったらしい。
「ノエルにも相談しとかないとダメだね、これは」
推理の助けになるかはともかく、情報は一つでも多くあった方がいいだろう。ボクは紙切れの入ったポーチをポケットにしまい、校舎に戻ろうとした――その時だった。
「……ん?」
視界の端――校舎東棟の裏手側にある雑木林の中に、妙な人影らしきものが映った。そっちに顔を向けると、灰色のローブらしいものを身に纏ったそいつは、少しの間を置いてから、ボクの居る場所とは反対側へ向かい始めた。確かその先には体育倉庫がはずだ。先生だろうか? いや、それにしてはあまりに服装が怪しすぎる。なによりわざわざ林の中にいる理由がない。
まさか、という考えが頭をよぎった時には、ボクの足は既に動いていた。
「…………………」
人影はわき目もふらず、黙って倉庫へと向かっていた。その歩みはゆっくりなものだ。そして時折、西棟の方を窺うように首を傾げている。何かの様子を見ているのだろうか。音を立てないよう、慎重に人影の後をつける。
やがてローブの人物は、開いたままだった扉から倉庫の中に入っていった。
「……近くには誰もいなさそう、か。よし」
一呼吸おいてから、倉庫入り口のそばまで近づく。中からは特に物音は聞こえてこない。慎重に中を覗いてみる。ローブ姿の人物はただ立っているだけで、特に何かを漁っているようでもなかった。
そこでボクは違和感を覚えた。どうしてこの人は微動だにしていないのか。呼吸などといった、微かな動きさえない。
「……あのー」
意を決して声をかけてみる。けど、全くの無反応。その理由を、ボクは今や確信していた。
「一体この世のどこに、体の無い人間なんかいるんだって話、だよね」
ローブをどけて中を覗いてみれば、そこには――真っ赤な風船が一つ浮かんでいるだけだった。おそらく誰かが風の魔法を器用に使って、ローブを被せた風船を漂わせて、さも人影がうろついているように見せかけていたのだろう。そしてその擬態に、ボクはまんまと引っかかってしまったという訳だ。
「……やれやれ」
ローブから手を放し、なんともいえない感情でふわふわ漂う布と風船を眺める。林の中にあったからよく見えなかったとはいえ、こんな単純なトリックに引っかかってしまうだなんて。
「にしても、一体何の為に、」
こんな事を。そう、独り言を続けようとした時だった。
突然――燃えた。
「わっ!?」
あまりにも急にローブから火の手が上がって、ボクは訳も分からず後ろに飛び退くだけで精一杯だった。その間にも火の手はあっという間に風船とローブを包み。それから数秒と経たない内に、灰も残さず燃え尽きてしまった。
「な……なんで、」
当たり前の疑問。だけど予想外の展開は、それすら許さない勢いで続く。
「――きゃあああああああッ!」
東棟の方から聞こえてきた甲高い悲鳴。反射的にボクはそっちに振り向く。そこでボクは、あからさまに辺りの様子がおかしい事に気が付いた。
足跡が、無い。東棟の裏を通ってきたボクの足跡が、跡形もなくなっている。そこに残っていたのは、グラウンドと同じ色をした窪みだけだ。土の魔法で地面ごと足跡を潰してあるようだ。
そこまで至って、ようやく理解した。たった今燃え尽きた偽の人影の意味が。今、ボクが置かれている状況が。
さっき東棟から聞こえてきた悲鳴は、間違いなく第二の事件の被害者のものだ。そして今、ボクは東棟の方から、あたかも逃げ出してきたかのような場所にいる……いや、見る人によっては隠れこんでいるように見えるかもしれない。おまけに、ボクは誰にも見つからずに倉庫まで来たのだ。アリバイを証明できる人もいない。もしそんな状況下で、今ここに、土魔法が得意なボクがいるところを誰かに見られでもしたなら。
「くそッ、マズい!」
完全にしてやられた。悪態を吐きながら、慌てて倉庫から飛び出す。辺りに人の気配はまだない。だけど余裕がある訳でもないだろう。すぐに東棟に人が集まってくる。ボクは校舎の壁に沿って、学校正面の登下校口に向かった。
ノエルかマイヤーさんか。とにかく話の分かる人に状況を説明しなくては。このままでは――ボクが犯人に仕立て上げられてしまう!
「頼むからまだ誰もこっちに来ないでよ――」
「――君! そこで何をしてるんだ!? 今の悲鳴は!?」
「……ッ!」
手遅れだった。学校の中庭に向かって角を曲がったその先には、こっちに駆けつけてきたらしい警備員さんの姿があった。
「ま、待って! ボクは……いや」
弁明しようとしたところで思い直す。ここで下手に否定すれば、かえって疑いが濃くなってしまうんじゃないだろうか。ここはむしろ、おとなしくついて行った方が怪しまれないで済むかもしれない。
「今日、警察の人が来てますよね? その人の所まで、案内してくれませんか……?」
「あ、ああ、分かった」
先行する警備員の方についていきながら、ボクは血のにじむほどの強さで唇を噛む。
昼休みも終わる頃だというのに、校内は冷たい静けさで満ちていた。




