ケルビムの炎 ④
昨日と違って空気の冷たい生徒会室。その中央にあるデスク――いつもならリルハさんがいるそこに、今はチェルシーさんが腰かけている。焦燥と怒りの混じった、普段の人懐っこさからはかけ離れた表情で。
「ぼちぼち、生徒達も登校してきたようですね。やはり場所を移して正解だった」
廊下側の窓を見つめ、リッターさんが低い声でそう言った。
リルハさんが何者かに襲撃された――その衝撃的な事実を告げられた後、私達はリッターさんの提案に従って、生徒会室へと移動していた。話を聞かれて騒ぎになるのは避けたかったのだろう。あるいは、全校集会では話せないような事があるのか。
「さて、と……まずはどこから話すべきかしら」
机の上で手を組み、チェルシーさんは深い息と共に呟く。私はまず、一番気になっていた事を尋ねた。
「あの、リルハさんの容体は。命に別条はなかったのでしょうか?」
「その点は全く心配ないですよ」
先程よりはいくらか明るい声でリッターさんがそう言い、チェルシーさんも頷く。
「会長は昨夜、一人で街道を歩いていた所を後ろから襲われたそうなのですけれど。その犯人は会長の背中を一度殴打した後、あるものを残してそのまま走り去っていったらしいんですの。その殴打もそれほど強い力はこもっていなかったようで、会長は歩道に転ばされこそしたものの、大した怪我はなかったそうですわ。大事をとって、今日はお休みしていますけれど」
「そうなんですね……良かった」
不幸中の幸いというべきか。私とポーラは揃って、大げさすぎるくらいに大きく安堵の息を吐く。勿論、まだ安心できる状況ではないのだけれど。
「あれ、それじゃあさ。会長さんは犯人の顔とか見れたんじゃないですか? ただ転ばされただけなら、そのくらいの余裕はありそうだけど」
ポーラの問いに、リッターさんは渋い顔で首を横に振る。
「犯人は随分と逃げ足の速い奴だったようで。会長が慌てて振り向いた時には、踵を返して逃げ出していたそうです。おまけに犯人は黒いフードを被っていたらしく。襲われた時間も時間でしたから、どのみち顔をはっきり見る事はできなかったでしょうね」
「なるほど……あ、じゃあ足跡とかはなかったのでしょうか?」
「そこも犯人は用意周到でして。そいつは器用にも、逃げながら土魔法で辺り一帯の足跡全てを消していったんです。おかげで警察も証拠探しに相当難儀しているようですよ」
「そうでしたか……」
顔を割られるわけにはいかないのだから、犯人が何かしら対策を取った上ですぐに逃げるのは当たり前か。とはいえ困った事になった。犯人が証拠らしきものを何も残していないとなると――そう考えた所で、ふと気づく。
「そういえば、チェルシーさん。先程、犯人は会長を襲った後、あるものを残して逃走した、とおっしゃっていましたよね?」
「……ええ」
彼女は重く頷くと、机の上に、透明な袋に入れられた一枚の紙切れを置いた。どうやらそれが、犯人が残していったもののようだ。
「これに関しては、説明するより直接見てもらった方が早いから、警察にお願いして貸し出してもらいましたわ」
「手に取ってみても?」
嫌な予感を覚えつつそう尋ねると、チェルシーさんは小さく頷いた。私は袋の端をつまみ上げ、紙切れを裏返す。はたしてそこには、ついさっき登下校口で見た言葉が、真っ赤な文字で記されていた。
「cherubim……」
呆然とした表情で、隣に立つポーラがその単語を読み上げる。私はしばらく、その血のように赤い文字を見つめた後、袋をそっと机に戻した。
「だからお二人は今朝、あんなに焦って私達の所に来たんですね」
「まさかと思いましたわよ。貴女達にも同じ紙切れが届いているだなんて……もっとも、その件がなくても、どのみち貴女達の事は呼ぶつもりだったのですけれどね」
チェルシーさんはそこで言葉を区切り、リッターさんに視線を向ける。すると彼女は制服のポケットに手を入れて。
「本当は、会長の元に残されたその紙と、この紙切れの共通点の意味について、ノエルさん達の意見を聞きたかったんですよ」
取り出されたのは、また別の紙切れ。そしてそこには、cherubimと青文字で記されていた。
「この紙は二日前、チェルシーの靴箱の中に入れられていたものです。この子はそれほど気にしてなかったんですが」
「二日前……」
登下校口での事を思い出す。チェルシーさん達がなにかただならない雰囲気で話していたのも、二日前の事だった。あれは、この紙が靴箱に入っていたからだったのか。あの時、リッターさんは傍から見れば過敏なくらいに警戒を強めていたようだった。
そして今。はたしてその危機感は、最悪の形で正しかったと証明されてしまったのだ。
「……ノエル。ポーラ」
しばらくの沈黙の後、チェルシーさんは目を閉じたまま私達に呼びかけてきた。
「この学院の七不思議については、聞いた事があるかしら?」
「はい。ポーラにさっき教えてもらいました」
「そう。でしたら説明は省けますわね」
開かれたチェルシーさんの両目は微かに揺れていた。机の上できつく結ばれた両手の上には、うっすらと汗が浮かんでいるようにも見えた。
「犯人は『天使様のお守り』の内容に沿って事件を起こしている……というのは、別に推理するまでもなく分かりますわね。そしてそれが……何を、意味しているのかも」
「……はい」
犯人は、この学院にいる誰か――その可能性が一番高いだろう。あるいはこの学院のOGの可能性もなくはない。けれど、そういった外部犯だったら、わざわざ七不思議を使って犯罪工作をしたりするというのは考えにくい。工作の手段なら他にいくらでもある。足のつきにくい手段を選ぶだろう。
そしてこの推理に、チェルシーさん達は昨日の時点で辿り着いていたのだろう。その心中は……察するに余りあるものがある。彼女達の今の表情が、それを物語っている。
「本当に、ね。人の悪意というのは、どこに転がってるか分からないものです」
リッターさんは廊下側の窓の向こう、中庭の方角に鋭く視線を向ける。
「問題はこれから、ですわ」
机の上の袋に手を触れ、いくらか険しさの増した声でチェルシーさんはそう言った。
「目的は今のところ分かりませんけれど、ポーラの元にもこのケルビムの紙が届いた、という事はつまり、犯人はまだ不幸を振りまくつもりでいる。ノエル、貴女もそう思うかしら?」
「ほぼ間違いなく再犯は起こると思います。そして次のターゲットは」
「うん。たぶんボクだね」
「……随分あっさりしていますのね、貴女」
けろっと頷くポーラに、チェルシーさんは多少なり驚いたようだった。けれどポーラは「まあ、」と後ろ髪をかく。
「ついこないだ、文字通り殺されかけましたし。こんな脅迫紛いの事くらいじゃ、あんまり何も感じないっていうか」
「それもそうですわね。だとしても冷静すぎるようにも思えますけど……今はそのタフさがありがたいですわね」
ほう、と息を吐いて。チェルシーさんは改めて、私達を交互に見つめた。
「ノエル。ポーラ。二人の洞察力と行動力を見込んで、お願いがあります。今回の事件の真実を、どうか暴き出してはいただけませんかしら?」
「はい。出来うる限りの事は」
迷う事はなかった。なにせポーラが狙われている可能性も高いのだ。それに、これ以上この学院で事件が起きるだなんて、見て見ぬふりはできない。
「ごめんなさいね、本当に」
安堵と罪悪感が入り混じったようなはにかみを浮かべ、チェルシーさんは頭を下げる。
「ついこの間、あんな事件に巻き込まれてしまったばかりですのに。立て続けにこんな事態に巻き込んでしまって」
「そんな、別にチェルシーさんが謝るような事じゃないですよ」
「うん。単にボクらの運が悪い……どころか最悪ってだけだもんね」
「そ、そうですの? そう言ってもらえると、こちらも少しは気も休まりますけれど」
「なんというか、お二人はこういう事態に慣れっこ、という感じですね」
リッターさんの言葉と視線を、私は曖昧に笑ってごまかす。
「それはそうと、警察の方はもう動いているんでしょうか?」
話を変えるべく、もう一つ気になっていた事を尋ねた。チェルシーさんは「ええ、」と頷く。
「もっとも警察の方々は、テロ、あるいはその警告の可能性も考えて、外部の捜査に注力していますわ」
「そうなんですね」
それは私達にとってもありがたい事だった。外部犯の可能性は低い、とはいえ全く無いという訳ではない。かといって、一学生に過ぎない私達が外部犯の存在まで調べるというのは危険すぎるし、無理がある。警察の方がそっちを重点的に捜査してくれているのなら、私達は校内の調査に専念できるというものだ。
「他に何か、気にかかる事はあるかしら?」
「うーん、そうですね……」
そう考えていた時だった。
「失礼します。副会長――あっ」
ふいに生徒会室のドアが開かれ、ミーシャさんがそそくさと入ってきた。そして私達を見るなり深々と頭を下げる。
「あらミーシャ、おはよう。もうそんな時間になっていましたのね」
チェルシーさんは特に慌てた様子もなく、ミーシャさんに穏やかに声をかける。もしかして、と思い、私はチェルシーさんに尋ねた。
「事件の話は、ミーシャさんにも?」
「ええ。会長の事は全て伝えていますわ。この子も生徒会の一員ですもの、万一犯人の気まぐれで狙われないとも限りませんでしょうし」
私達の会話を聞いてか、ミーシャさんはびくりと大きく身震いした。顔もわずかに青ざめたように見える。無理もない。私の記憶にある限り、リルハさんと一番一緒にいるのが多かったのは彼女だ。それだけ慕っていたのだろう……ショックも相当大きいに違いなかった。そんな彼女の様子を見て、チェルシーさんは「ごめんなさい」と謝る。
「貴女を怖がらせるつもりはありませんでしたのよ」
「あっ……い、いえ、私は大丈夫ですから」
彼女はそう言ったけれど、その顔色の悪さは目に見えて明らかだった。けれど、ここで気を使いすぎるのはかえって逆効果だと考えたのだろう。チェルシーさんはやや間をおいて立ち上がる。
「さて、そろそろ体育館の方に向かいましょうか。全校集会に遅れる訳にはいきませんものね」
「そうですね……それじゃあ、私達はこれで」
「ええ。ノエルさん、ポーラさん。改めてどうかよろしくお願いいたします」
リッターさんの低い声を背に、私達は先に生徒会室を出た。そして一足先に体育館の方へと向かう。
廊下の窓から見える空は綺麗に晴れ渡っていた。清々しいほどに青く、ひたすらに青く広がる空。その青い色は爽やかなもののはずなのに。けれど私にはどこか重く、圧し掛かってくるもののように感じた。