ケルビムの炎 ③
「すみません。ですがチェルシー、現に今、こういう妙な嫌がらせが起きた訳ですから。自分としては、警戒しない訳にもいかない」
「だからって貴女、発想が少し飛躍しすぎではなくて? 確かに最近、わたくしの家の周辺にも怪しい影が増えたのは事実ですけれど。ここの生徒からの、他愛もない悪戯である可能性の方が、余程高いと思いますわよ」
「……自分は万が一を考えただけです。自分の、いや、チェスカ家の第一の役目は、自らの命を引き換えにしてもノーランド家の人々の命を、」
「リッツ。それ以上を言う事は許しませんわ。そのような、親友を肉の盾にするような振る舞いなど、このわたくしが赦しませんし、させません。この話はこれでおしまい……よろしくて?」
「……かしこまりました」
それからしばらくの沈黙の後。耳に痛いほどの静寂を、やや荒っぽい足音と静かな足音、二つの対照的な音が破って。足音はやがて、ドアの軋む音の向こうに消えていった。
「……………」
私とポーラは揃って、柱の影で呆然と立ち尽くしていた。盗み聞きをしようとした訳ではない。ただ、あまりに剣呑とした雰囲気に圧され、出るに出られなかったのだ。
「一体……何があったんだろ?」
絞り出すような声で、ポーラがそう呟く。私はただ首を横に振る事しかできない。ただ事ではなさそうだったけれど、それが一体何なのか、私には推測のしようもなかった。
「悪戯……か。とりあえず、私達も帰りましょう。ここで考え込んでいても仕方ないもの」
「……だね」
私達は少しぎこちない足取りで、自分達の靴箱の前に向かう。と、その時。
「んっ?」
ポーラがふと足を止め、東棟に向かう廊下の方に視線を向けた。
「どうしたの?」
「いや……今、誰かが走ってく音がしたような」
「そうなの? 私は何も聞こえなかったけれど」
「うーん、じゃあボクの気のせいかな。ごめんね急に」
彼女はそれ以上何も言わず。私もそれ以上は何も聞かず。互いに黙って、そそくさと校舎を出る。
まだら雲の夕空の下、橙色に染められた時計塔の姿は、どこか不気味に見えた。
◇
それから二日後。今度は私達が奇妙な状況に見舞われていた。
「……なんだこれ」
普段より少し早くに登校し、何の気なしに靴箱を開いた時、ポーラが気の抜けた声を出した。ちらりと見てみると、彼女は靴箱の中に入れられていたらしい、一枚のメモ紙らしきものを持っていた。ノートか何かから破り取ったものだろうか? 紙の端には雑な破れ目がついている。
「何か入ってたの?」
「いや、うーん……これ、なんだけどさ」
戸惑いを隠さないポーラからその紙を受け取る。そこには濃い赤色の文字で、たった一つの単語が大きく記されていた。
――cherubim
「……ええと、これは」
ポーラと同じように、私も困惑する羽目になった。ケルビム……そう読むこの単語は確か、聖書の中に登場する、聖域を護る為に遣わされた天の使いの名前だったと記憶している。けれど、その名前が記された紙がどうして、ポーラの靴箱の中に。
「悪戯? だとしても変よね。わざわざこんな、聖書を読んでないと意味も分からないだろう言葉を書くだなんて」
「うーん……ケルビム……あ、もしかして」
何か思い出したのか、ポーラはもう一度メモ紙をしげしげと眺める。そして「やっぱり」、と大きく頷いた。
「そうだそうだ。これ、たぶんうちの学校にある七不思議のネタだよ」
「七不思議? へえ、この学院にもあったのね、そういう話」
「あはは、ノエルはそういうの興味なさそうだね。でもうちのは結構面白いんだよ? 面白いっていうか、緩いっていうか……で、その中の一つにさ、『天使様のお守り』っていうのがあって」
ポーラによると、その『天使様のお守り』という七不思議の内容は、ある種の願掛けのようなものらしい。天使の名前である「cherubim」という単語を記した紙を、意中の相手の靴箱に入れておく。すると天使様の計らいで、その想いが叶う奇跡が一度だけ起こってくれる……のだそうだ。
「ただ、それには一つだけ、絶対に破っちゃいけない条件があってさ」
と、ポーラはそこでわざとらしく表情を暗くした。
「単語を記す時、その文字は黒色でないといけないんだ。違う色の文字で書いた紙を入れてしまうと……その送った相手に不幸が訪れる」
「文字の色が違うだけで? どうして」
「なんか天使様が怒っちゃうんだってさ。で、なんやかんやあって天罰が下るんだ」
「……そんな雑な感じでいいの? 七不思議って」
なんというか、思っていたのと違う方向で緩い七不思議の内容に、思わずつっこんでしまった。なんやかんやで天罰を落とす天使というのもどうなのか。そんな私の困惑を見透かしてか、ポーラはあっけらかんと笑う。
「だから言ったじゃんか、うちの七不思議は緩いんだって」
「緩いにもほどがあるような……というか、そんなあやふやな設定だと、文字の色の事を気にする人なんてそんなにいないんじゃない?」
「うん、そうだよ。そもそも色の指定の部分までは知らないって子も多いみたいだし。だから赤色だったり青色だったり、新聞部のある先輩なんて、七色の文字でケルビムって書かれた紙を受け取った事もあったそうだし」
「つまり文字の色の設定は全く気にしなくて良いという事ね……」
なるほど確かにポーラの言う通り、ここの七不思議は緩いもののようだ。とはいえ、それはそれで可愛らしい話ではあるけれど。
「ま、それはそうとして。問題は、一体誰がこれを入れたのか、だよねぇ。ちょっと気になるな」
ポーラはメモ紙を顔の前に掲げ、目を細めてケルビムの単語を見つめた。
「でも、紙一枚だけじゃ調べようがないわよ?」
「まあねー。というか、もしかしてノエルのしわざだったりしない?」
意味ありげに視線をこちらに向けて、ポーラはにやりと口角を上げた。まさか、と私は首を横に振る。
「七不思議の話は本当に今日初めて聞いたのよ。それに、こんな事をしなくても、あなたとはずっと一緒にいるわよ」
「……………う、うん、だね」
私の返事に、今度は急に顔を赤くして、彼女はこちらから目を逸らした。何か変な事でも言っただろうか。
「ノエルって、不意打ちでそういう事さらっと言ってくるよね……」
「え?」
「あー、うん、なんでもないよ、なんでもない。そ、それよりさ、これの送り主の子だよ。やっぱり気になるじゃん」
「うーん……そうは言っても」
再びメモ紙を受け取り、ためつすがめつ眺めてみる。けれど、当然だけれどどこにも送り主に繋がる情報なんてない。これ自体はただのメモ紙なのだから。ヒントらしいヒントといえば、ケルビムという単語の筆跡くらいだけれど。そこまで調べるような事でもないだろう。
「別にこのくらいの事なら、黙って胸の内にしまっておいてあげたら? その方がこれを入れた子も喜ぶんじゃない?」
「そうかなぁ……」
と、その時だった。
「――ノエルッ!」
静寂を破る、焦った声。私達が振り向くより先に、その声の主は――チェルシーさんはこちらに駆け寄ってきていた。その傍らには、異常なほどに周囲の様子を窺うもいる。
「何か、あったんですか?」
ただならぬ二人の様子に、私とポーラも緊張した面持ちになる。チェルシーさんは上がった息を整えた後、何故か私が持つメモ紙を睨みつけてきた。
「その、ケルビムと書かれた紙。どうしてそれを貴女方が持っているのかしら」
「えっ? どうしてって……今朝、ボクの靴箱の中に入ってたんですよ」
「そう……リッツ。周りには他に誰も?」
「ええ、気配一つありません」
「とはいえ油断はできませんわよ。どこに賊が潜んでいるか分かりませんもの」
私達を置いて、二人はどんどん話を先に進めていく。それも、おそらくは物騒な方向に。私は思わず待ったをかけた。
「あ、あの、リッターさん、一体何の話なんですか?」
「それは……チェルシー、話しても?」
「構いませんわ。どのみち今朝の臨時全校集会で知らされる事ですし。それに、この紙を突きつけられている以上、彼女達ももう部外者ではありませんもの」
「そうですね……では」
リッターさんは軽く息を吐き、私とポーラを交互に見つめた。
そして、彼女が次に語った内容は、予想以上の一大事だった。
「まずは結論から言わせてもらいますが――昨夜、リルハ会長が暴漢に襲撃されました」