はばたく花嫁 ⑬
その日の夕方。通り雨が去った頃を見計らって、私は一人、いつものお気に入りのレストランに向かうべく、緩やかな坂を上っていた。まだ夕陽も明るいためか、すれ違う人の数も多い。
目的は一つ、落ち着いて考えをまとめるためだ。本当は、昼間の一件もあり、家の自室で黙考しようと思っていたのだけれど。父さんが慣れない手料理に挑戦しようとして、あえなく大失敗。とても物事を考えられそうにない大騒ぎになってしまったのだ。そういう訳で、それらの片付けを手伝った後、夕食用の買い出しついでに一服しようと考えた訳である。ちなみにポーラは台所の掃除をしている。
「父さんったら、昔から何でもできるのに、料理になるとからっきしだからなぁ……」
さっきの台所の荒れ模様を思い出し、一人苦笑い。帰る頃には綺麗になっているだろうか。ポーラがいるから大丈夫だとは思うけれど。そう物思いにふけりつつ、ちゃんと前を向かずに歩いていた。
そして、それがいけなかった。
「――おっと」
「あっ! ご、ごめんなさいっ」
横道からこちらにやってきた人影に危うくぶつかりそうになり、慌てて立ち止まった。間一髪、ぶつかってしまう事はなかったけれど。
「なに、お互いけがもなかった訳だし、気にする事はないよ。ただ……」
彼女はそこで言葉を区切ると、いたずらっぽい笑みを仮面の下に浮かべた。
「あまり考え事ばかりしていると危ないぞ、君」
「……クチナシさん」
黒いチェスの駒を片手に持って、彼女は今日も、夜闇に紛れ込むような黒一色の出で立ちで、妖しげに佇んでいた。そして彼女は「ふむ、」と、私の顔をのぞき込む。
「ど、どうしたんですか?」
びっくりしてのけぞる私に構わず、なおもクチナシさんはしげしげと私の顔を見つめる。そして。
「ちょうどいい、これも何かの縁だ。少し君の事を占ってあげようか?」
「えっ?」
「なに、お代はいらないさ。以前に会った時も、君はかなり悩んでいたようだったから、個人的に気になっていてね。ちょっとしたお試しのようなものさ……どうかな? 君さえよければ」
「そういう事でしたか……それじゃあ」
正直、人気急上昇中の占い師、という話題には少なからず興味があった。それに、考え込みすぎな今の私には気分転換も必要だろう。私はクチナシの厚意をありがたく受け取る事にした。
「実は今、ある事件に巻き込まれていて――」
坂を上りながら、私は学校での事件について、具体的な名称などはぼかしつつ語った。クチナシさんはただ静かに、時折こちらに頷いてくれたりしながら話を聞いていた。そして、坂の終わりに着いたところで。
「なるほど……それは、悩まない訳にはいかないね」
チェスの駒の先で仮面を叩き、彼女は何か考えこんでいるようだった。それからすぐに、ふっと小さく笑みを見せる。
「とはいえ私はしがない占い師だからね。探偵のような推理はこれっぽっちもできないが……そうだね。でも、一つだけ君に言える事がある。
「一つだけ、ですか?」
「ああ。それは……」
クチナシさんの真剣な眼差し。黒水晶のように深く透き通った両の瞳が真っ直ぐこちらに向けられる。
「……下を向いて歩いてばかりじゃなく、たまには上を向いて歩いた方が危なくないよ、という事さ」
破顔一笑。彼女があまりにも気楽にそう言ったものだから、一気に肩の力が抜けてしまった。もっとも、さっき前を見ていなかったために危うくぶつかりかけた私には、何も言い返しようがないのだけれど。
「あはは……はい、以後気を付けます。さっきはごめんなさい」
「いやいや、別に怒っているとかそういう事じゃないんだ。ただ単に、視点を変えてみるのもいいんじゃないかな、という話さ。もちろん、上を向いて歩かないと危ないよ、という意味も含んでいるけどね」
「そうですよね……あれ?」
ふと、何かが引っかかった。記憶の中にある違和感。それを不意に思い出したのだ。
上を向いて……上。そう、上から。噴水に遺体が落ちてくる一瞬前に。どうして、あの風は校舎の――
「……まさか」
埋まらなかったパズルのピースがひとりでに埋まっていくような感覚に、思わず足を止めていた。もしも今、私に浮かんだ推理が正しいなら、あの時の違和感の訳も理解できる。そして、真犯人が屋上にあれ程の狂気を演出してまで隠したかったものが何かも。それは、つまり。
「……大丈夫かい? ずいぶんと怖い顔をしているが」
相当に深刻な表情を浮かべていたらしく、クチナシさんが心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「ごめんなさい、今日はここで帰らせていただきますね」
「ん、そうかい? それじゃあ、帰り道も気を付けて」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
クチナシさんに深く礼をして、私は上ってきた坂を早足で降りた。一刻も早く、この事をベイカーさんに伝えないと――そう思うと、いてもたってもいられなかったのだ。
けれど、警察署に着いた時、そのはやる気持ちに水を差される事になる。ベイカーさんもマイヤーさんも、別の事件の現場に駆り出されていたからだ――偶然この日に発生した、『バートリーⅡ世』の事件現場に。
◇
「――で、代わりにボクって事だね」
翌日、休校明け初日の放課後。私はポーラと二人、校舎西棟の二階廊下を歩いていた。
「ごめんね、本当はこういう事こそベイカーさん達に任せるべきなんだけど……」
「まあ仕方ないよ。まさかこのタイミングで例の殺人鬼がやらかすなんて、さすがに予想できないもんね。やれやれ、空気の読めない奴」
ポーラは肩をすくめて苦笑い。私もため息をつかずにはいられなかった。
今日は私が辿り着いた推理が正しいかどうか確かめるべく、西棟のある場所に向かっていた。本当なら、プロであるベイカーさん達に任せるべきなのだけれど。なにせ殺人鬼が暴れたばかりだ。さすがにこちらまで来られる余裕はないだろう。そう考え、私とポーラで赴く事に決めたのだった。
そして、職員室の前まできたところで、私は立ち止まった。
「ごめん、ポーラ。ちょっと待っててもらえる?」
「あ、うん」
職員室の中に入ると、先生は三人しかいなかった。おそらくほとんどの先生は安全のため、下校する生徒の見送りに向かっているのだろう。メイスン先生とクラリネ先生の姿も見えなかった。もっとも、その方が私にとってはありがたかったのだけれど。
「おや? 誰か先生でも探しているのかい?」
「すみません、教頭先生。一つお伺いしたい事があるんですけれど……」
私は事件当日における、ある場所の管理者について尋ねた。そして教頭先生から返ってきた答えは、私の推理を裏付けるものだった。
「すみません、どうもありがとうございました」
先生に深く礼を述べた後、ポーラの待つ廊下に戻る。
「あれ、もういいの?」
「ええ。ごめんね、待たせてしまって」
「全然いいけど、一体何を聞いてたのさ?」
「これからの行先……つまり、時計台の事について、ちょっとね」
「時計台……か。でも、事件とは何の関係もない場所じゃないの? だってほら、ナタリー先生は屋上から落とされたんだし」
「そうね。屋上の柵には、ご丁寧にも先生が括り付けられていた縄の切れ端まで残されていたもの。普通はそう思うでしょうね」
三階へと向かう階段を上りながら、私はポーラの疑問に頷いてみせる、
そう、私達は誰も、考えさえもしなかった。屋上にまざまざと残された証拠に加え、あの異様さ極まる惨状。そちらの方に気を取られ、そこにばかり注目してしまうのも無理のない話だった。
そしてそれこそが――犯人の狙いだったのだ。
本当の犯行現場そのものを隠し通す事、それこそが。