はばたく花嫁 ⑪
「資料……お借りしても?」
若干の声の震えを自覚しながらも、ベイカーさんにそう尋ねる。彼女が頷いたのを見てから、まず左端に置かれた校長先生の資料から手に取る。
ざっと見たところ、校長先生は事件前、一人校長室にいたようだ。そして校内で騒ぎが起こった頃、教頭先生から報告を受けて校舎の見回りに向かい、西棟から東棟まで一通り巡ったのが五時半前。ナタリー先生の遺体が降ってきた時は東棟の二階にいたそうだ。
次にメイスン先生について。彼女は当時西棟一階の音楽室で、翌日の授業の準備をしていた最中だったようだ。その後、廊下がざわついているのに気付き、西棟にまだ生徒が残っていないか見回りに出た。それが大体五時前頃の事。そして誰も残っていない事を確認したのち、改めて事態をナタリー先生に報告するため職員室を訪れた。けれど職員室には誰もいなかったので、どこに行ったのか捜しに行こうとした時、外の騒ぎは起こった――そこで供述内容は終わっている。
最後にクラリネ先生について。彼女は誰よりも先に教頭先生から不審者の報告を受け、急いで部活動生に帰宅を呼びかけた。その姿は私達も目撃している。その後は校内をぐるっと回り、まだ残っていた生徒達に帰宅するよう促し、ほとんどが帰った事を確認すると、残りは他の先生に任せて大丈夫だろうと考え、一人で西棟二階の南端、理科室に戻ったそうだ。それが大体四時四十分頃の事。それからは事件が起きるまで、ずっと理科室で作業をしていたという。
そして、三人ともに共通している事。それは、誰とも会っていない、アリバイの全くない空白の時間があるという事だった。
「……ありがとうございました」
一通り書類を読み終えて、私は軽く天井を見上げ、小さく息を吐いた。
「三人とも、短くても三十分以上は誰とも会ってない時間があるね」
横からのぞき込む形で資料を見ていたポーラの呟きに、私も頷く。三十分以上の空白の時間……さらに言えば、この三人共に居たのは校舎の西棟側だ。あの惨状を作り上げ、ナタリー先生の遺体を屋上から突き落とした後、素知らぬ顔で日常に戻るまでに、さほど時間もかからないだろう。特に理科室は三階に向かう階段のすぐ隣にある。
「時間的に見れば、この三人の中の誰でも、十分に事件を起こす余裕はありそう。だけど……」
「決定的な証拠がない。三名共にアリバイもないが、犯行を裏付ける証拠もないんだ。魔法を使えば大体の証拠を隠す事はできるしな。もっとも、その魔法を使った痕跡、それ自体が証拠となる事も多いが。今回はな……」
「他に妙な点はありませんでしたか?」
資料をしまった後、ベイカーさんは手帳をめくりながら、しばらく沈黙する。そして、手帳を数ページめくった所で、彼女は手を止めた。
「ああ、そうだ。ナタリー氏の当日の行動についてなんだが」
「ナタリー先生の、ですか?」
「ああ。これは学院の生徒――ミーシャ・オーネス君という子だ――からの証言でな。騒ぎが始まる数分前に、生徒会がまとめた資料を、彼女は一人で職員室まで運びに行っていたそうでな。それでその時、たまたま彼女は見かけたそうなんだ。下の階へ一人降りて行くナタリー氏の後ろ姿を」
「騒ぎの前……つまり四時半頃まではまだ先生は生きていた、という事でしょうか」
「でもそれは別に妙な事でもないような?」
「そう、ポーラ君の言うように、最初は我々もそう思ったんだがな……その後が問題なんだ。というのも、その時間帯にナタリー氏の姿を一階で見た、という目撃者が誰一人いなかったんだ。まだ騒ぎが起こる前だから、たくさん生徒達がいただろうにも関わらず、だ」
「それは……確かにおかしいですね」
犯人が人目を憚って行動し、誰にも見られていないというのなら分かる。けれど、被害者側の人間が人目につく場所に向かって、それなのに誰からも見られていないというのは奇妙だ。それにもっと言うなら。
「ストーカーの証言を真に受けるなら、ナタリー先生はストーカーとの決着を望んでいたはずです。なのにどうして彼女は屋上ではなく、逆に一階の方へ降りていったのでしょうか?」
「そうだな。そこも矛盾している。もし誰かに助けを求めにいったとしたなら、なおの事人目につかないとおかしいしな」
行動の矛盾。状況の矛盾。そこには一体どういう理由があるのか。その裏に、何の関連があるのか――
「……まさか」
一つの可能性に思考が行き着いた、その時だった。
「ベイカー警部ッ! 休憩中申し訳ないが緊急事態です!」
血相を変えて喫茶店に駆け込んできたのはマイヤーさんだった。彼女は驚いている私達を一瞥し、軽く頭を下げる。
「ああすみませんお二人とも、ご一緒だったんですね。驚かせてしまったようで」
「あっ、いえ、大丈夫ですよ。それよりも、何かあったんですか? よっぽどの事が……」
「ええ、一大事でしてね。それが……」
と、そこで彼女は言葉を区切る。その視線はベイカーさんの隣――所在なさげに窓から外を眺めるルーラーさんの方に向けられていた。その意図を察してか、ベイカーさんは大丈夫だ、と頷く。
「それで、どうした」
「単刀直入に。奴の『血のハート』が現れました」
直後、ベイカーさんは跳ね上がるようにして席から立った。
「また来たのか! 奴の、『バートリーⅡ世』の犯行予告が!」
「……ええ。全く忌々しい話ですが」
「くっ……冗談じゃないぞ」
ベイカーさんは店内である事も憚らず声を荒げ、そしてマイヤーさんは苦虫を嚙み潰したような表情で頷く。
血のハート……その存在は、私も話に聞いた事があった。殺人鬼『バートリーⅡ世』は犯行の四日前に、必ず印を近くに記すのだそうだ。それが『血のハート』。前の犠牲者の血を用いて、わざとらしいほど愛らしいハートのマークをどこか人目に付く所に書き記していく。それから四日後の惨劇を予告する印として。
「それで、今度はどこにあった。ここから近いのか?」
やや落ち着きの戻った声で、ベイカーさんがそう尋ねる。するとマイヤーさんはどこか困ったような顔をして答えた。
「近い、とも言えるんですかね……印自体がこちらに近寄ってきていた訳ですし」
「なに? 近寄る?」
「今回は奴も妙に趣向を凝らしてきましてね。センター街を歩いていた一般男性の背中に、『血のハート』が記されていたんですよ」
その言葉に、ベイカーさんよりも先にポーラが驚きの声を上げた。
「ええ!? いやいやだって、普通気付くでしょ? そんな事されたら」
「まあ、普通ならそのはずなんですがね。しかし、そんな悪戯を当人にも気付かせないからこそ、奴は今まで誰にも捕らわれる事なく犯行を重ね続けている、という訳でして……不甲斐ない限りですが」
「そうだな……全く、奴はこちらを休ませるつもりなどないらしい」
ベイカーさんはかぶりを振って、深い深いため息をついた。
「やれやれ、こんな時に限って……すまんノエルちゃん、できればもう少し色々と話せたら良かったんだが」
「そうですね。でも、例の殺人鬼が出てしまったのなら仕方ないですよね」
「そう言ってもらえると助かるよ。さてと……マイヤー君」
「ええ、彼の元に案内します。皆さんも、本日はお騒がせしました」
マイヤーさんの後に続いて、ベイカーさんも足早に喫茶店を後にした。その後ろ姿は気のせいか、小さく見えた。
「はー、やれやれ。戦場でもないってのに物騒なモンだねえ」
店のドアの閉まる音がしてからしばらくして、ルーラーさんは頬杖をつく。それに対し、ポーラも全くだよ、とうなだれていた。
「あんたも十分に気を付けるんだよ、ノエル。聞いた話じゃ、その例の殺人鬼、やたらと美人ばかり狙ってんだろう? ポーラはまあ、あたしが昔鍛えてやったから、まだ自分の身は守れるだろうけどねえ。くれぐれも、一人っきりでぼけっと出歩いたりするんじゃないよ」
「それはもう、身に染みて分かっています」
つい先ほど、ぼーっとしていたところをひったくりに遭ったばかりだ。用心を怠ればどうなるか、実体験で学んでしまった。口に含んだ水の味が妙に苦い。
「さて。それじゃあたしはそろそろお暇させてもらおうかねえ。変わり者の恋人にも、気を付けとくよう言っとかないといけないしねえ」
ルーラーさんはさらりとそう言って、街中の方に視線を向けた。
「お付き合いしている方がいらっしゃったんですね?」
「まあ、人並みにはね。といっても、こいつがまた変わり者なんだよ。可愛げはある子なんだけどさ。まあ年がら年中いっつも小難しい……なんだいポーラ、妙な顔して」
彼女の言う通り、ポーラは苦笑いするのに失敗した表情、とでもいうのだろうか、とにかくそんな変な顔をしていた。
「いや、だってさ、ルーラー姐……昔っから女の子にばっかり声かけてたじゃん。もしかしてだけどその恋人さんって」
「人の数だけ愛の数はあるんだよ」
どこか誇らしげに言い切るルーラーさん。その力強さは美しくさえあった。
「うん、まあその通りなんだろうけど。ルーラー姐って、やたら年下の子にばっか声かけてたし、まさか未成、」
「さーてそろそろお会計といこうかねえ。ま、そんなに大したもんは食っちゃいないけど」
あまりにも豪快にそっぽを向いて立ち上がる彼女に、私とポーラはただ不安げな視線を向ける事しかできない。当の彼女はそんな背中に刺さる視線の事など気にも留めず、すたすたとカウンターに歩いていく。
「……ポーラ、あまり深くは考えないようにしましょう」
自分にも言い聞かせるようにそう呟いて。私もルーラーさんの元へ向かったのだった。