はばたく花嫁 ⑩
「まずは――被害者の遺体の状況についてだが。検死の結果、ノエルちゃんの推測通り、全身の血液が抜き取られていた。ほぼ一滴残らずな」
「いいっ!? ちょ、なんだいそりゃ、んな話どこも報道してなかったよ!?」
「そりゃそうだよルーラー姐。そんな悍ましい話、さすがに警察だって発表できないに決まってる。ついでにあの現場となった屋上の事も、ね」
「……話を続けよう。その前に、ルーラーさん。すまないがその水、頂いても?」
ルーラーさんは驚愕した表情のまま黙って頷く。ベイカーさんは短く感謝の言葉を述べ、コップの水を勢いよく呷った。
「……ふう。胸糞悪い話をしてると、どうにも口が乾いてな。それで、次は現在拘留中の被疑者についてだ。彼があの日学院内に不法侵入していたのは事実だ。本人も当然それは認めてる。だが、それ以外の全て……つまり殺人や屋上での奇妙な工作については全面的に否認している。そもそもあの日は被害者に会えてすらいない、とまで言い出してるんだ」
「会えてもいない、ですか?」
「ああ。いわく、待ち合わせの時間と約束された四時半頃に屋上に行ったが、誰もいなかったし、何もなかった、だそうでな。で、しばらくそこで待っていると、校内が騒がしくなってるのに気づいて、慌ててそこから逃げ出したらしい」
「四時半頃……」
当時の記憶を遡る。確か、クラリネ先生達が慌ただしく動いていたのもそのくらいの時間帯だったか。時系列的には被疑者の供述に矛盾はない。ただ、私にはそこよりも引っかかる点があった。
「ベイカーさん。待ち合わせの時間、とはどういう事なんですか?」
「そうなんだよノエルちゃん、そこが問題なんだ。被疑者は被害者から、そろそろお互いの関係をきっちり清算したい、そのために話し合いをしよう、という文面をもらったと供述してるんだ。自分はその約束を果たすためにあの日、危険も顧みずに学院に侵入したんだ、ともな」
「え、ええ? そんな事って普通ありえます?」
ポーラの疑問も当然だった。ストーカー側からの嫌がらせ目的ならともかく、被害を受けている側がストーカーにわざわざ手紙を出すというのは、あまり考えられない行動だ。警察など信頼できる第三者を挟んで、というならまだ分かるけれど。
「勿論我々も、そんな事ありえるのかと疑った。だが被疑者は絶対にある、なんならアパートの自室をひっくり返して調べてくれてもいい、とまで豪語してな。それで我々も徹底的に家宅捜索はしたんだ」
「結果はどうでしたか?」
「さっぱりさ」
ベイカーさんは大きくため息をついて、目頭を押さえる。
「被疑者がストーキングしていた証拠などはそれこそ山のように出てきたが、彼が言っていたような手紙はどこにも見当たらなかった」
「んじゃあやっぱり、その犯人が嘘ついてたって事じゃないのかい?」
「彼が異様なまでに必死に、手紙は絶対にあったんだ、とこちらに縋り付いてきたりしていなければ、その線で納得する事もできたのでしょうが……最終的に彼は、俺を犯人に仕立て上げてさっさと事件を片付けたいから証拠を隠滅してるんだろ、とまで言ってきましてね」
「あーらら、泥沼だねえ」
「全くですよ」
ルーラーさんが肩を竦める傍ら、ベイカーさんは疲れ切った表情を見せる。その後に話を続けたのはポーラだった。
「けど、だったらさ。もし犯人の言ってる手紙の存在が嘘じゃなくて。なのに手紙がどこにもないって状況になってる、としたら。それってつまり」
「……何者かがあえて手紙を隠した、と考えられるわね」
ポーラから目くばせされて、私は彼女が言わんとした言葉の続きを代弁した。ベイカーさんも深く頷く。
「勿論、被疑者による演技という可能性も十分ある。なにせ物的証拠がない訳だからな。だが、あり得ないという話でもない」
「真犯人が別にいるとして、その立場に立って考えてみれば、他の人に罪をなすりつけたいと思うのはごく自然な事ですからね……」
「そりゃあそうかもしれないけどねえ。ちょいと考えすぎなんじゃないのかい?」
怪訝な顔をして疑問を呈したのはルーラーさんだった。
「ま、あたしゃ部外者だし、現場も何も見ちゃいないから迂闊な事は言えないけどさ。けど、訳分からん事やって事態を攪乱しようとする奴なんざ、ざらにいるだろう? 屋上の件といいその手紙の話といい、どうもそういう意味のない攪乱の一つのようにしか、あたしには感じられないけどねえ。考えるだけ意味ないんじゃないかい? そんな事」
「それは違うと思います」
考えるよりも先に言葉が出ていた。
「この世に意味のない事というのはないんですよ。どういう行為であれ――それがたとえ殺人という行為であっても――それをした本人からすれば、そこにはきちんとした理屈があり、意味があるんです。意味がないように見えるのは、本人が与えたその意味を見落としているからにすぎない……そうじゃないでしょうか?」
言い切ってから少しして、しまったと後悔した。何を偉そうな事を言ってしまったのだろう。私は慌てて言葉を撤回しようとした。
「あっ、ご、ごめんなさい。私ったら変な事を」
「いや、何も変な事じゃないさ。少し驚きはしたけどね」
ベイカーさんは言葉を反芻するように、小さく何度も頷いていた。
「意味がないのではなく、我々が意味に気付いていないだけ、か……全くその通りだな。だから現にこうして、恥ずかしい話ではあるが、被疑者の言葉に混乱させられている訳なんだから」
淡々とそう語った後、彼女は懐から一つ大きめの封筒を取り出した。そしてその中身を私の方に向けて広げる。
封筒の中身――それは今回の事件の捜査資料だった。
「ちょ、ちょいとあんた、いいのかい? こいつぁ捜査資料だろ? 一般人に見せていいもんじゃ、」
「ここには我々しかいない。でしょう? なら何の問題もない。ここの外に漏れさえしなければ、誰も見なかった事になる」
「……あんた、意外とちゃっかりしてんだね」
あっけらかんと笑うベイカーさんに、ルーラーさんは呆れと驚きの混じった声をかける。驚いていたのは私達も同じだった。以前、私達が屋上に入る事をよしとしたマイヤーさんをたしなめていた彼女が、こういう行動に出るとは思っていなかった。そんな考えを見透かしてか、ベイカーさんは軽く口角を上げる。
「私だって頭の固い女じゃない。助けを求めては、というマイヤー君の助言もあったが……こないだの屋上で見せてくれた、血の謎についての推理といい、今の言葉といい。その頭脳を見せつけられてしまったらな。君の知恵の一つ二つも借りたくなるよ。なんせ今、署は……とにかく猫の手も借りたいくらいの状況だからなぁ」
参ってしまうよ、とうんざりした表情でうなだれる彼女。終いには重々しく沈痛なため息まで吐いていた。
「……本当に、ご苦労様です」
「はは、まあその苦労の対価で給金をいただいてるんだ、文句は言えないさ……さて、話を戻そう」
ベイカーさんは取り出した四枚の資料に目を向ける。そこに記載されていたのは、当時学院内にいた四名のモノクロ写真と情報、そして当日の行動の記録だった。
「その四人が、事件当時にアリバイの無かった人物だ。まあ、その内の一人――正門にいた守衛の男性だ――は、除外して考えてよさそうだがな」
「……嘘、でしょ……これって」
その写真に写っている人物を見て、ポーラは愕然と呟く。一方で私は、平静でいるよう努めるのに必死だった。
そこに居たのは、守衛の人と校長先生、そして――メイスン先生とクラリネ先生だったのだ。