はばたく花嫁 ⑧
――事件から二日経った土曜日。私はポーラと一緒に、ノースヤードのセンター街まで遊びに来ていた。このあたりの流行の発信地という事もあって、行き交う人の数も多い。
「さーて、今から流行がくる! っていう夏服も買ったし、お気に入りの帽子も新調したし。そろそろお昼にしようか? ノエル」
つい先ほど買った、地元のサッカーチームのロゴマークがついた帽子を被りながら、ポーラがうきうきした声でそう聞いてきた。ついでにお腹も鳴らしながら。
「朝、ご飯を三杯もおかわりしてたのに。もうお腹空いたの?」
「たった三杯じゃんか。それとハムエッグにコーンスープに昨日のロールキャベツの残り。たったのそれだけじゃお腹も空くよそりゃ」
「それだけ食べて、たったの、で片付けられるのはすごいと思う」
「えへへ、そんなに褒めないでよ」
「褒めた、のかな? まあいいか、それで何を食べたいの? ポーラは」
「ボクはなんでもいいよ。ノエルの好きなのに合わせる」
「そう、それじゃあ……」
レストランを探そうと、視線をさまよわせたその時。街頭に立っている深緑色の掲示板が目に入った。そこに貼られた、一枚の新聞記事。
――国立ノースヤード女学院教師殺害 容疑者の男は犯行否認
引き寄せられるように、その前に立っていた。読むまでもなく、その内容は知っているというのに。嫌でも目に入ってきてしまう。
全てをまざまざと見せつけられたあの日から、まだ二日しか経っていないのだから。
「……ノエル」
私の隣に立ち、そう呼びかけてきたポーラの声は、優しいものだった。
「気持ちは分かる。ボクにとっても、他人事じゃないから。けどさ……今くらいは、忘れて休もうよ。そのくらいじゃバチは当たんないから」
「……そう、ね」
それが正しい。きっと、ポーラの言う事が正しいのだろう。けれど私は、そういう事については不器用で。すぐに切り替えるという事が、なかなか出来ないでいた。
そして――だからこそ、なのだろう。その人影が、その悪意が近付いてきていた事に、まるで気付けなかったのは。
「――きゃあっ!?」
一瞬、何が起きたか分からなかった。視界が急に斜めに傾き、そして目線と地面がやけに近くなった後で、ようやく自分が転倒した事に気付く。
「ノエルっ!? 大丈夫っ!?」
屈みこみ、私を介抱してくれたポーラの視線は、けれど私の方ではなく、前の方に向いていた。前方をすさまじい勢いで走る自転車に乗った男――とても見慣れた鞄を片手に持った男の方に。
「ひったくりだッ! 誰か警察を呼べッ!」
私達がいる向かい側から、別の男の人が自転車を追いかけ始めた。けれどさすがに自転車相手では分が悪く、距離はどんどん離されていく。
「いたたた……しまった、わね」
擦りむいた膝の甲に触れながら、渋い顔でつぶやく。全く油断していた。別にあの鞄の中身は大したものではないから、そこはいいのだけれど。
「ごめんノエル、せめてボクが気付けていれば」
「そんな事……別にポーラのせいじゃないわ。それより、犯人は」
「くそっ、あいつ、もうあんなとこまで」
ひったくり犯の背中は既にかなり小さくなっていた。おそらくもうすぐでアーケード街から離れてしまうだろう。仕方がないか――そう私が諦めた、その時だった。
「ったく、大の大人が情けない真似してんねぇ」
凛と澄んだ、ハスキーな声。その声は、犯人のいるさらに向こう側から。それほど大きく張った声でもないはずなのに、辺りの喧騒を超えて、不思議とはっきり私の耳に届いた。
その直後――犯人の乗る自転車の前輪が燃えた。当然というべきか、犯人は素っ頓狂な声を上げて、半ば倒れこむようにして自転車から転げ落ちる。そこへ、周りにいた勇気ある人たちがとびかかり、犯人をあっという間に取り押さえてくれた。その様子を、私はただ呆然と眺めている事しかできなかった。
「な、何が起きたの?」
唐突な出来事についていけず、まるで他人事のような言葉をもらす。けれど、ポーラの様子は違った。
「今の声って……もしかして!」
「えっ、ポーラ?」
私が止める間もなく、ポーラは一目散に向こうへ駆け出していった。置いてけぼりにされた私も、慌ててその後を追う。
そして、犯人が取り押さえられている現場についた時。その女性は、路面に落ちていた何かを拾い上げていた。
「高校生から金なんて取らないで、デカい仕事やって派手に稼ぐのが大人ってもんじゃないのかい?」
彼女は拾ったものを軽く手で拭うと、それをひょいと口に咥えた。それは細長い管の形をした物で、先端が上に向かって曲がっていた。異国の風俗を取り扱った本で見た事がある。あれは確か、煙管という物だったか。どうやら彼女は煙管を自転車の前に放ち、それを火種として炎の魔法を繰り出したらしい。
「あのっ、ありがとうございま……」
礼を言おうと彼女の顔を見た時、私はまた呆然と固まってしまった。その訳を察してか、彼女はふっと口角を歪める。
「ああ、この傷だろ? ま、お嬢ちゃんが見るにゃあ、ちょいと刺激が強いかもしれないねえ」
言いながら、彼女は右手で右の頬を――頬を大きく抉るような形でついた、大きな火傷痕を撫でた。顔だけではない。その頬を撫でる右手、左腕から肩にかけて、さらには両足にも。剥き出しの傷痕が大小さまざま、至る所に刻まれていたのだ。それなのに彼女はタンクトップに紺色の短パンというラフな出で立ちで、それらの傷痕を隠そうともしていない。彼女の態度から察するに、おそらくはわざとなのだろう。けれど、どうして。
「傷ってのはね、一種の勲章なんさね。戦場じゃあね」
聞くよりも先に、彼女はそうにこやかに語った。戦場……つまり軍人だという事なのだろうか。と、考えていたところでポーラが口を開いた。
「戦場っていったって、もう傭兵稼業はとっくに引退してるんでしょ? ルーラー姐」
まるで家族に対するような親しさで、ポーラは目の前の彼女の名前を呼んだ。すると彼女もにっこりと笑う。
「なーに言ってんのさポーラ。辞めたっつったって、まだ五年も経ってないんだよ」
「いやいや、十分昔だよそれ……あ、ごめんごめん、ノエル。この人はジョゼット・ルーラー。小さい頃、半年くらいかな? 孤児院に遊びに来てた、ボクにとってもう一人のお姉ちゃんみたいな人なんだ。今は傭兵を引退して……何やってるんだっけ?」
「平和活動家ってやつだよ」
「えっ」
真反対とも言える職業名が出てきて、私は勿論の事、ポーラも呆気にとられていた。それを見て、ルーラーさんは分かりやすく苦笑いした。
「まあ、そんな反応になっちまうだろうねえ。けど今は、あたしの身の上話よりも」
そこで言葉を区切り、彼女は取り押さえられているひったくり犯と、そこに駆けつけてきた警官の方達に目を向けた。
「まずはそこの不届きな盗人の兄ちゃんをどうにかせんといかんさね」
「あっ、そういえばそうでしたね」
「ノエル、当の被害者のキミが忘れちゃダメでしょ」
すっかりルーラーさんの事に気を取られ、その前に自分の身に降りかかった災難を忘れていた。私はなんともいえない表情を向けてくるポーラに、同じくなんともいえない表情を返し、それから改めてひったくり犯と、その人を拘束する警官の方の元へ向かう。
「んじゃ、あたしは近場の喫茶店にでもたむろしとくから。用が片付いてから、じっくり昔話でもしようじゃないさ」
「あっ、はい、分かりました」
そう返事して振り向いた時には、ルーラーさんは踵を返し、颯爽と歩きだしていた。その広い後ろ姿をしばらく見つめた後、私は警官の方に事情説明を始めたのだった。