第九話 ゆるやかに流れる日常
隠れ里で生活をし始めてから3か月が経った。
しみじみと思うのは、昔夏休みのたびに田舎の祖父と祖母のところへ遊びに行っていたのがこんなに役に立つ日が来るなんて思ってもみなかったなーということ。土をいじるのも洗濯機がなくて洗濯板を使って洗濯をするのも別に苦ではない。むしろ楽しい。ブラック企業勤めの頃を思えば、全然つらくない。
朝日が昇ると起き出して井戸から水を汲む。日本と違ってこの世界、というよりこの国は比較的温暖な季節がずっと続くらしい。おかげで水が冷たくないので助かる。ほどよい冷たさ、とでもいうのか。
屋敷の水がめまでそれを運んで、終わったら今度は洗い物をまとめてある部屋に洗濯物を預かりにいく。洗濯物は専用の洗い場が外にあって、そこで浅めの広い大きな樽みたいなのの中にメイドさんたちといっしょに入って足で踏んで洗っていく。ばしゃばしゃと水音がして、ちょっと水遊びをしてるみたいで楽しい。
「おはよう、みゆ姉」
宗一郎は朝から大体森に行っている。大抵私が洗濯をしていると戻ってきて洗い場に立ち寄っていく。メイドさんたちはきゃーきゃーすることもなくすすすっと洗い終わった洗濯物をかごに入れて撤収していく。これが教育されたメイドってやつか、と毎回感心してしまう。
そうそう。宗一郎の呼び方が少し変わった。美雪という名前がそのまま呼ばれると異世界から来たってのがバレてしまう可能性が高い。というわけで一先ずこの里のひとたちには《ミーユ》という偽名を名乗ることになった。でもなんとなーくいつもの癖で呼んでしまう宗一郎のために、まだ小さい頃に呼んでいた呼び方で名前を呼んでもらうことにしたのだ。
「おはよ、ソウ」
私も宗一郎のことはソウと呼ぶように変えた。何があるか分からないから、というのがひとつ。もう一つの理由は、特別な呼び方で呼ぶのって恋人同士っぽくていいよね!という宗一郎からのごり押しからである。ついつい言うこと聞いちゃうのは何か別の力が働いてるのか、それとも昔からの甘やかしたくなる気分が抜けていないせいなのか。
「今日もメイドさんたちのお手伝い?」
「レアータさんが起きてくるまで暇だもの。体を動かしていると気もまぎれるからね」
「無理はしないでね?」
「あら、それはソウも一緒よ。無理はしないでね?」
おうむ返しのようにそう言うと宗一郎は笑いながら私の頭をぽんぽんとする。もう。そういうことをするのは私の役目だったのになー。男の子もあっという間に大人になっていくんだなー。もうこっちに来てから何度思ったかわかんないや。
お試しで付き合い始めてから三か月。
何かあったというわけでもない。たまに里の誰かの畑を手伝うとかでいっしょに出かける時に手をつないで歩くくらいだ。
屋敷の私たちにあてがわれた部屋から出る時は獣耳のヘアバンドを付けてなんちゃって獣人風になっている。強く勧められて猫型だ。猫型の獣人は体格が小柄なのでその方が違和感がないだろうから、なんてのが強く勧めてきた理由らしい。本当にそれだけなのかなー? 宗一郎は自前の狼みたいな獣耳を頭の上に乗っけている。人間たちに迫害されたことがある者が多いというこの隠れ里の獣人たちに対するささやかな配慮というやつだ。
「今日は森に近い場所の畑に行くつもりなんだ。ごはんを食べた後、朝の勉強の前に行く?」
「畑! いいなぁ。レアータさんに相談してみるよ」
ここ二日ほどは出かけてないなーなんて心の内をさくっと見破ったかのように、ごくごく自然に誘われて私はもちろん一緒に行きたいと思った。
いっしょにいると不安にならない。
これってすごくすごーく大事なことだと思う。私はきっと里の人たちには宗一郎の後ろをくっついて歩くひな鳥みたいに思われているんだろうなぁ。
スタロンニクさんとレアータさんといっしょにごはんを食べて、それからいつもは朝の勉強がある。
この世界のことを何もしらない私のために、基礎的なところをレアータさんが教えてくれるのだ。例えば貨幣のこと、国のこと、獣人たちの立場。いろいろ教えてもらってやっぱり、ここは異世界なんだなぁ、と思う。
「今日はソウと畑に行ってもいいですか?」
恐る恐るレアータさんに聞くと、にっこりと微笑んでうなずかれた。
「ソウ様から聞いております。何やら畑の具合が悪いのだと里の者に言われたとか」
先手を打たれていた。というか宗一郎からのお願いであれば、レアータさんは断ることはない。
「宿題、出しておきましょうか?」
不安そうな顔をしていたのが顔に出ていたのか、そう続けられて一も二もなく頷いた。勉強しなくちゃいけないのは分かってるけど、宗一郎と出かけるという誘惑には抗いがたい。かと言って勉強しなくちゃいけないものをそのままにしておけないのは、なんというか私が生真面目なのかなぁ。
「お願いします!」
「じゃあ、いくつか調べて本を読めるように選んでおきますね」
レアータさんはにこにこしている。私が宗一郎といっしょにいると何やら嬉しそうだ。何か宗一郎が言ったのかなぁ。とりあえず出かけるための身支度を整えるために、私は一度自室へと戻ったのだった。
「おや? ミーユちゃん、今日はソウさんとお出かけかい?」
顔見知りの熊獣人のおじさんに話しかけられて、私はちょっとだけ宗一郎の影に隠れながらこくこくと頭を縦に振る。
「人見知りだなぁ」
がはは、とおじさんは笑って、私にリンゴをひとつくれた。
「ありがとう」
「森の近くの畑に行くんだろ? 気をつけてな」
「はい!」
はっと気づくと何やらほほえましいものを見ているような顔をしていた宗一郎と目があった。何なの、その顔は。
「何て顔してるのよ」
ぷいっとそっぽを向いて宗一郎の前を歩いていくと、くすくすと笑う声が上から降ってきた。
「いや、今日もみゆ姉はかわいいなーと思って」
思わず足を止めるととすんと背中に宗一郎がぶつかる。ずるい。なんだそれ。耳まで熱くなるのが分かる。お試しで付き合おうと言ってからずっと、宗一郎は何かタイミングがあるたび私をほめる。甘やかす。
耐性がないものだから、私はいつもついつい過剰に反応する。
「ソウはずるいっ」
罵る言葉も全然出てこない。ほんとにずるい。
笑った気配のまま、横に回った宗一郎が私の手を取って歩き出す。楽しそうにしているその気配に、怒っていた私の気持ちはなし崩しにゆるんでしまった。
恋をするってむずかしい。
森から出てすぐ近くの畑の一角。
他の畑に比べると、なんとなくだが作物たちが元気がないのが分かる感じになっていた。
「ソウ」
「みゆ姉の出番だよ」
なるほど、だから私を連れてきたのか、と納得した。私の歌がおかしな効果を発揮するのは、主に宗一郎が傍にいる時だった。そのおかしな効果を試すべく、宗一郎はここに私を連れてきたのかな。
お仕事があるというのはいいことだ。私にしかそれが出来ないというのなら猶更。
そして私は肺いっぱいに息を吸い込んで、歌を歌い始めた。
次回はまた美雪がヘンテコな歌を歌います。
宗一郎視点のお話も書きたいので考え中。